何故この世で一番気にくわない人間を、わざわざ空港まで見送りにいかねばならないのだ。そんな気持ちで降谷は、国際線のあるフロアに立っていた。機嫌の悪さを押し隠そうともせず。ここへ来ることは、自分で選択したというのに。
「嫌なら来なければよかったのに……」
「うるさい」
サングラスの奥から、赤井が呆れた視線を向けてきた。降谷だってできることなら来たくなかった。けれど、新一が見送りに行くと言うのだ。彼が行くというのなら、何故だか放っておけない気がした。別れを惜しみ抱擁を交わすのではと想像したら、なおさらだ。
「まあ君にも話したいことがあったから、ちょうどよかったが」
「……なんだ」
赤井が視線を軽く、辺りに配る。飲み物を買いに行った新一は、まだ戻ってきそうにない。
「二葉君が来日した理由だ。教団の調査だけではない」
彼は周囲を警戒するように声を窄めた。そこには揶揄するような空気は一切ない。
「うちのボスには伏せておくように言われたのだが――」
最近、目が覚めるような青空には嫌な思い出しかない気がする。晴れ晴れとした空の下、都内でも有数のホテルの玄関へ、降谷は降り立った。スリーピースのスーツだなんて、任務以外で初めて着た。
いつものスーツよりは渋い灰色のスーツ。堅苦しくも感じるそれをストライプのシャツと紺色のネクタイで、カジュアルな雰囲気に仕上げた。いつもは整髪料などはつけずにそのままの髪を、ワックスで右側だけ流す。ただでさえ人目を惹く降谷の用紙が洗練された。しかし当の本人は空を見上げ、憂鬱そうな溜息を吐く。
「……はぁ」
堪えきれなかった陰鬱な気持ちが零れる。今日は土曜日。数日前の予定では、新一の喫茶店に赴いているはずだった。
絢爛な玄関を抜けて、ロビーへと入る。すると降谷の予定を潰した張本人である上司が、それはもう嬉しそうに待ち受けていた。
「やあ、降谷君。さすが、早いね。嬉しいよ」
「おはようございます……」
良く逃げないで来てくれた、と暗に言っている。逃げ道を塞いだのはそちらのくせに。
「相手の方は」
「もう暫くかかるそうだ。君はそこのソファにでも座って、待っていてくれ」
わかりました、と小さく会釈してロビーの左側にあるソファへと移動する。嫌味の一つに溜息でも吐こうと思ったが、そういうのが通用する相手ではない。この昼行燈な狸爺に見合いの席を仕組まれたのは、三日前の昼のことだった。
「降谷君、今週の土曜日、見合いに行ってくれ」
「は?」
開口一番に、有無を言わさず要件を告げられた。まだ片足一歩だけ部屋に入った状態だった降谷は一瞬間の抜けた顔をしてから、すぐさま我に返って扉を閉めた。
「藪から棒に何ですか」
会議室の中を見渡す。黒田は来ていないようだ。いたとしてもフォローしてはくれないが、このどこか弛んだ空気を引き締めてくれる。
「言ったとおりだよ。君の今度の任務は、都内有数のホテルで見合いをすることだ」
「……ご冗談では?」
わかりきった答えではあったが、一応尋ねた。
「いいや。冗談ではない。とびっきり男前な格好で来てくれ」
頭を抱えたくなった。目の前にいる人物は降谷の上司ではあるが、どうにもやりにくい人物だ。時折こうして、冗談臭い任務を本気で与えてくる。腐った古狸たちに比べたらずっと信頼できる人物ではあるが、その分頭の痛い相手だ。
「お言葉ですが課長。私はまだ、表立って活動できる立場ではありません。そんな立場で見合いの席など……」
「もしかして恋人がいたかい?」
「いません」
反論しようとしてもこうして揶揄われて、結局はお茶を濁されるのだ。まったくもって困った人だ。やりにくい。隠しもせず溜息を吐く降谷に、少し小柄な壮年の男が笑った。
「最近の降谷君はとても生き生きしていたからね。もしかしたら、とも思っていたんだが……」
「誤解です」
「そうか。じゃあ見合いも問題ないね」
問題大有りだが。しかしこれ以上意見をあげても無駄だろう。そもそもこの人がこう、と決めたことは、建設的な理由でもなければ翻されることはない。諦めたように、降谷はもう一度息を吐いた。だが、何も道楽で見合いの席を設けたわけではないだろう。降谷は居住まいを正すと、まっすぐに男を見た。
「仕事で、ですね?」
「そうだ。……仕事じゃなくてもいいけど」
へらりと笑った顔に思わず眉間に皴が寄るが、ぐっと堪えた。仕事だ、と言ったことには間違いない。
課長にあたるこの男はこの風通しの悪い縦社会な組織の中にあって、少し風変わりな人物であった。結婚はしていないが、選択して子供を儲けていない。既定の概念に捕らわれない、柔軟な人。そのためか無駄なおせっかいを焼いてくることもなく、考えが読めないこと以外はやりやすい相手である。
その彼が勧めてくる見合いだ。見合い相手の親か、その親族か関係者か。犯罪の芽に繋がるなにかかあるのだろう。――降谷に断る選択などはなかった。
それにしても、あまりにも急だった。おかげで下調べをする時間がなかったのだ。
都内有数のホテルであったため構造を頭に入れてはあるが、下見くらいはしたかった。約束の時間よりも随分と早めに来たのはその為だが、それも結局上司に邪魔されてしまった。やや不貞腐れた様子で、上司が手配した紅茶を口にする。視線はさりげなく、ホテルのロビーを見渡した。
エレベーターに非常口。従業員出入り口、ロビーと順番に確認していた。受付をしている宿泊客を何気なく眺めてから次いで玄関を見る。――と、見慣れた顔がホテルに入ってきた。
「……は?」
口に含んだ紅茶が零れそうになった。慌てて拭いながら、今やってきた青年、新一を見つめる。
茶色のチェスターコートに、Vネックの黒いセーター。細身だが実は逞しい太ももは、黒いジーンズで覆われていた。綺麗な顔を隠そうとしたのか黒いスクエア型の眼鏡をかけているが、余計に際立たせている。というか、あれで変装できていると思っているのだろうか?
ホテルにやってきた新一はキョロリと見渡すと、熱視線を送る降谷にすぐ気が付いた。姿を認めた彼はギョッと肩を跳ねさせると、顔を隠すように俯きながらカフェスペースに向かった。勿論その姿を降谷は追う。
新一は降谷を素通りすると、二席ほど前に座った。特徴的なくせ毛が僅かに揺れている。背中から緊張している様子が伝わってきた。
品のいい格好の新一は若輩ながらにもこのホテルの雰囲気にとても馴染んでいた。降谷の視線を気にしながらも、取り出した文庫本はホームズ。本当に正体を隠す気があるのかと、若干呆れた顔になった。
新一の他には少し年の離れた男女のカップルが、新一の一つ前の席に座っている。なるほど、と納得した降谷は、少し冷めた紅茶を飲んだ。
しかし、新一までこのホテルへやってくるだなんて。彼の事件吸引体質を思い出して、口の中が苦くなる。平穏に過ぎ去ればいいのだが。
だが、そんな降谷の杞憂は当たった。彼ら二人が揃って、事態が穏やかに進むわけがなく――
「……っ!?」
突然鳴り響く火災報知機の音に、降谷と新一が立ち上がった。真っ先に避難経路を確認しながら、駆け出す。すぐ隣に並んだ影にこの緊迫した空気の中、心地良さを感じる。
「オレが誘導するので安室さんは従業員の方に指示を!」
「わかった!」
牽引されるまでもないことではあるが、不思議と嫌ではない。懐かしい高揚感を感じながら、降谷はカウンターへと駆け出した。
もうあと数分で日付が変わろうという頃、喫茶221Bに明かりが灯った。重い足取りで店に入った男たちは、いつものカウンターではなくテーブル席へとまっすぐ向かい、雪崩れ込むように座り込む。漸く人心地着いたのか、疲労の籠った溜息が零れた。
「疲れた~」
全力で同意する呟きだった。降谷は仰向けでぐったりする新一を見ると、伏せていた顔をあげた。
「……家じゃなくてよかったのかい?」
「へ?」
事情聴取が終わった後、送ると申し出た降谷に店を指示したのは新一だ。当たり前のように米花町の屋敷へと向かう気だった降谷は、内心驚いたものだ。
「あー、なんだろ……」
コポコポと音を立てながら、コーヒーが気圧の変化で下へと落ちる。サイフォンを眺めながら、彼は頬を掻いた。
「安室さんとは家っていうよりも、ここで過ごすのが当たり前だからさ」
ついここを指示しちまった、と笑った。
「……気が付けば君と再会してもう半年以上になるね」
「え!? もうそんなに経ってたか?」
「そうだよ」
大学生の冬休みは短い。そんな年の瀬を迎えるより先に、彼と過ごして半年ほどが経っていた。今はもうすぐ春休みだから、正確に数えるならば再会から八か月が経つ
濃密な日々を過ごしているため既に懐かしい景色になるが、濃密な梅雨の気配が訪れる少し前、導かれるようにこの喫茶店へと訪れたのだ。すっかり飲みなれたコーヒーの味に、感慨深さを得る。申し訳程度に使われていた敬語も、すっかり取れてしまった。
「安室さんはさぁ、最近仕事の方はどうなの?」
「……順調だよ」
見え透いた嘘ではあったが、新一は何も言わなかった。そうか、と頷くと、自分用に淹れたコーヒーを飲む。彼も察している通り、残党の調査は暗礁に乗り上げていた。
日の短さを実感するようになった頃だろうか。それまでは悪足掻きのように小さな事件を起こしては捉えられていた残党たちの動きがピタリと止んだ。
日本だけならばまだ拠点を国外に移動させたのかもしれない、と思えた。しかし各国同時にだったのだ。当然、彼らが次の動きを始めたのだと思った。――しかしそれから三か月。残党の動きどころか怪しい事件なども起こっていない。
「ま、安室さんがそう言うなら、そういうことにしといてやるよ」
訳知り顔の嫌な笑みを浮かべて、新一が肩を竦めた。情報源は十中八九、あの男だろう。いくら協力者とはいえ、彼に甘すぎるのではないだろうか。協力者である前に保護対象なんだぞ。相変わらずの結びつきに内心毒づきながら、コーヒーを飲み干す。いつもより苦く感じたのはきっと気のせいだ。
「さ、もう遅い。今度こそ君の家に送るよ」
「わっ、待ってよ」
立ち上がる降谷に合わせて新一が慌ててコーヒーを飲んだ。店を出れば、冷たい空気がピリピリと肌を凍らせる。春の訪れの遠さを感じながら、降谷は車の鍵を取り出した。
「やっと抜け出せました」
「苦労を掛けるな」
労うと、背後の男はたいしたことではありません、と小さく笑った。
表参道の小さな路地に入ったところにあるコーヒースタンドは意外とサラリーマンが多く訪れ、草臥れたスーツ姿の風見も違和感なく溶け込んでいた。一方降谷は紺のダウンコートの下にVネックの白いニットにジーパンという、カジュアルなスタイル。もう三十路を過ぎたというのに、そのまま待ちゆく若者に紛れ込めそうな見た目だ。
店の奥にある二つのテーブルに背中合わせで立つ二人が同僚だとは、傍目にはわからないだろう。スーツの男――風見は、それでも周囲への注意を怠らず、スマートフォンに耳を当てる。周りを警戒する際眉間に力が入る癖のせいで、まるで難しい商談でもしているようだ。
一方降谷はイヤホンを取り出すと耳にはめて、口を隠すように頬杖を突いた。どこか遠い眼差しで街路を眺める姿はどこか絵画的だ。
「どうだった。この間の話は」
「彼の言う通りですね。降谷さんが工藤君の監視と護衛にあてられたのも、組織の件から体よく遠ざけるためだったかと」
「……なるほど」
直属の上司の、人も殺せなさそうな人のよさそうな顔を思い浮かべる。あの狸爺、と心の中で毒づいた。
「上層部というよりも、外事情報部が手を回しているみたいですね」
思わず小さく舌打ちをした。外事情報部とは警備企画課や公安課と同じく、警備局に属する部署だ。警備局直属の企画課等とは異なり、外事情報部の下には外事課と国際テロ対策課がある。
「組織の壊滅作戦の時、人員は割けないと宣いながら終われば手柄を横取りしたと文句をつけてきたな」
「そうですね……」
降谷は望んで警察という組織の中にいるが、こういうしがらみを感じるときは心底、新一が羨ましく感じる。だからこそ余計に、彼が眩しく見えるのかもしれない。
「なんとか外事課の者に接触し、聞くことができました」
腕を組みかえ、小さく身じろぐ。風見が続けた。
「最初はアメリカ。そこから中東に渡りフランスからロシア、中国経由で日本に渡ったそうです。さすが情報屋と謡われただけのすり抜けっぷりだと言ってましたよ――バーボン」
「その時期僕は国内の残党狩りに勤しんでいたと、立派なアリバイがあるだろう……」
日本を経つ際、赤井が降谷にもたらした情報。それは「バーボン」が今、組織の残党たちを裏で手引きしているというものだった。
『うちのボスには伏せておくように言われたのだが……』
そう勿体ぶるように告げられた話に、降谷は大層憤慨した。自分にいつ、国外に出る暇があるのかと。赤井に言っても仕方がないのだが、言われた本人はそんなことわかっていると軽く肩を竦めるので、余計に苛立ってしまう。
『こちらもわりと縦社会的なところがあるからわかるがな……敵はなにも組織ばかりではない、とこちらでは見ている。手柄欲しさに余計なことを企む連中にも気を付けるんだな』
そんな、降谷にしてみれば捨て台詞とも取れるものを残して、あのFBIは去っていった。腹立たしいことこの上ないが、あの男の言うことも正しい。裏切者であるのか、それとも利権に眩んだ小者であるか。まずはそこから見分けなくては。
「ネームドのバーボンならアリバイ作りも容易だろう、と……」
「ふざけるなよ……」
残党狩りの為に国内に缶詰だったのは明らかだったというのに。組織に居た降谷ならばその頃の伝を使って、秘密裏に国外に行くこともできるのでは、と暴論を展開しているらしい。同じ警察官であるが、頭が痛くなる話だ。
「現状、外事情報部はこちらの邪魔をしたいだけのように見えますね。引き続きあちらの動きを監視はしますが、降谷さんはどうされますか?」
「……とりあえずは、あちらの思惑通りに動いてみよう。情報を引き出す為にも、その方がいいだろう」
突然、上司が見合い話だなんて持ち込んだ訳もなんとなく理解できた。外事情報部がなにを企んでいるのか全容はまだ把握できないが、一朝一夕で動き出しはしない。降谷が捜査で動けない今のうちに、上との繋がりを作らせておこうという魂胆だろう。上手くいけば外事情報部を大人しくできるし、今後の捜査でも有用となる。降谷の為でもあるが、自分たちが動きやすくするためでもあった。そういう人だよな、と小さくため息を吐く。
「今日も今から、工藤君のところですか?」
「ああ。なにやら新しい依頼を受けたらしいからね」
新一は無精なところがあるのでなるべく毎日連絡を取るようにしているが、最近はこうして依頼を受けたなどの報告を返してくれるようになった。目覚ましい成長である。降谷としては日々、嬉しいものだった。
「また厄介な事件じゃないといいですね」
「なに言っているんだ風見。彼の下に来る依頼だぞ。厄介な難事件以外にあり得ないさ」
そう言うとまるでショッピングにでも行くかのような軽い足取りで、降谷は店を後にした。
「そういやこないだの見合いってどうなったんですか?」
いつものルーティーンでコーヒーなんか頼まず、さっさと依頼について聞いておけばよかった。いつもよりも苦みを感じるコーヒーに、この豆湿気ってなかった? と思わず失礼なことを聞きそうになる。
「……断ったよ」
「ええ! やっぱこないだの騒動のせいで振られた!?」
「断ったって言ったよね?」
鼻から聞く気がないのだろうか。彼の中では降谷が振られる前提なのが、腹立たしい。これでもそれなりに女性受けする顔だという自信があるのだが。
じっとりとした眼差しで新一を見ると、反省した様子もなく肩を竦められた。
「だって降谷さん、全然乗り気じゃなかっただろ?」
否定はできなかった。結局ホテルの騒動で有耶無耶になった見合いは、そのままお互い縁がなかった、ということでお蔵入りとなったのだ。降谷にとっては願ったりかなったり。上司には胡乱な眼差しを向けられたが。
「まぁ、無理やり押し付けられた見合いだったからね。僕はまだ、結婚とか興味ないし」
「まだってことは、いつかは、って考えてるんだ」
そう指摘されて、はて、と首を傾げる。いつかはと、無意識下で思っているのだろうか。だが自分の口から滑り出したそれは定型句のように色がなく、シャボン玉のように空虚だ。
「……考えたこと、なかったな」
ぽつりと零れた言葉は穏やかな空気に静かに溶けていった。
「ぷふっ」
「ちょっと」
「いや、ごめっ……だってあんまりにも頼りない声出すから」
それなりにシリアスな空気だったというのに。この子供の前ではいつだってこうだ。けれど自分でも、ちょっと頼りなさ過ぎたかな、と思い、コーヒーを口にする。
「べつに興味がないなら、無理に考えることもないだろ。規範に当てはまるような人間じゃないんだし、アンタ」
「どういう意味だい……第一別に、興味がないわけじゃないよ」
「そうなの?」
「そういう未来を想像する相手が居なかっただけさ」
初恋は人妻であったし、その後も人並みに経験はしたものの将来を見据えるような年齢でもなく――当時の降谷なりに誠実に交際していたが――警察学校を卒業して程なく組織に潜入したため、その後はそんな余裕もなくなった。幼い頃から一途に思い人がいた新一とは、全く真逆だ。
「君は色々と想像してそうだよね」
「なっ」
思わぬ反撃を食らった新一が頬を染める。すぐにぶすっと口を尖らせると、悪いかよ、と拗ねてしまった。
「いや、そんなことないよ。微笑ましいなぁと思って」
十代のうちから凄惨な事件や苦しい体験をしてきたのにもかかわらず、新一は健全な精神を持っている。擦れた大人にはそれが少し羨ましく、また眩しかった。その健やかさをできれば守りたいとも思う。
「相手がいなくたって、想像くらいはできるだろ」
「へ?」
降谷の余裕に益々不満そうだった青年は、コーヒーを降谷の隣に置いた。そしてキッチンから出ると入り口のプレートをひっくり返し、左隣の椅子に座る。
「理想の将来像から入るのもいいんじゃないかって話。安室さんこの国の未来ばかり見据えて、案外自分のことはおざなりだったみたいだし。この機会に考えてみたら?」
ニヤリと笑った顔には、揶揄うネタが欲しいとあからさまに書かれていた。愛らしくも生意気な顔の真ん中にある、小さな鼻を摘まんでやる。無様な悲鳴が上がるのを聞きながらも、少しだけ自分の未来を想像してみた。
――そもそも未来像だなんて感嘆には言ったが、何年先を想像すればいいのか。十年くらいだろうか。その頃には自分はもう、四十路を超えている。正直あまり想像したくなかった。それじゃあもっと身近で、五年後くらいだろうか。
仕事は――続けているだろうなぁ。五年後だと下手したらまだ、組織関連で動いている可能性がある。いや、そんな悲観的でどうするんだ。五年、いや三年以内には片をつける。それくらいの強い気持ちで奴らに立ち向かおう。――決意表明になってしまった。
――生活の方はどうだろうか。三年以内に残党も壊滅させられたら、さすがに昇進しているだろう。降谷自身は階級や身分に興味はないが、功績をあげた者はしっかりと評価されるべきだとは思う。しかし昇進したとなると生活には余裕が出るが、その分現場に出ることもなくなるかもしれない。それはあまり嬉しくないなぁ。
「あむりょさん……おい、あむろさんっ」
「あ、ごめんごめん」
つい考えに耽って、新一の鼻を摘まみっぱなしだった。すぐに離してやると、彼の顎を掬って鼻を見る。
「大丈夫? お母さん譲りの小さくてかわいい鼻に、申し訳ないことをしたね」
「全然申し訳なく思ってねーだろ!」
振り払われた手を特に気にすることもなく、軽く笑った。それが余計に気にくわなかったらしく、新一がそっぽを向く。
――五年後、彼はどうしているだろうか。院に行かないのなら、卒業して事務所を構えているだろう。看板を立てたり、広告を打ったりはしない方がいいだろうな。彼なら今の知名度や伝で、十分客は来る。事務所を起こす際は絶対にアドバイスしよう。
鼻を擦る新一の横顔を見つめる。今はまだ母親の面影が強い顔立ちも、数年経てばもっと精悍になるのだろうか。それはそれで楽しみなような、勿体ないような。突然大人びられたらきっと驚いてしまうから、できればこのまま、その変化を見守っていきたい。
――そうだなぁ。そう、だから。降谷の未来には、彼の姿があると嬉しい。五年も経てば今よりも更に、くだけた仲になっているだろう。それこそ降谷が昇進していたらもう少し気兼ねなく私生活を見せることができるから、お互いの家を行き来しているかもしれない。働き盛りの彼はきっと自分のことがおざなりになっているだろうから、自分がマメに食事に誘ってやった方がいいかもなぁ。ここ数年買うこともなかった客用の食器なんかを揃えて、新一の為に栄養バランスの整った食事を用意する。勿論コーヒーはこの店と同じ、サイフォン式で。そうなるとキッチンも広い方がいい。本格的なセットを置くには今の家は手狭だから、もう少し広い家に引っ越した方がいいかも。新一が泊まれるように客用の部屋も設けたほうがいいだろうか。いや、それはやり過ぎか? 新一は細身だから、大きなベッドであれば男二人で寝ても問題ない気がする。コナンのようなまろやかさはないが、彼が隣で寝ている光景はひどく安心できる気がした。新一は朝に弱いだから朝食も降谷が作ることになりそうだけど、コーヒーだけは今のように淹れてもらおうか。文句を言いそうだが身内には甘いから、ねだるように起こせばしぶしぶ起きて、コーヒーくらいは用意してくれるはず。二人並んでキッチンに立って、じゃれあうように時を共に過ごして。――それはいつかのように、なんて甘い夢なのだろうか。
「――っ」
「安室さん?」
息を詰めた降谷に、新一が心配そうに呼び掛ける。恐る恐る隣の顔を見れば、そこには丸みのある幼い顔でもなく、精悍な大人の顔でもなく、大人になりかけの未成熟な青年の顔があった。ホッと息を吐いて、頭を抱える。
「お、おい!? どうしたんだよ」
「……大丈夫」
なんて馬鹿な想像をしたのだろう。いや、もっと質が悪い。あの悪夢を思い出すならまだしも、今の彼との先に、甘い夢を見るだなんて。――自分は彼のことを、なんて思っているんだ。
薄らとその答えは見える気がしたが、降谷は軽く頭を振ることで振り払った。
「そういえば、今日の目的を忘れかけていたよ。どんな依頼を受けたんだい?」
気を取り直すように作った笑顔に新一が少し眉を顰めたが、それ以上は踏み込んでこなかった。彼は立ち上がると、喫茶店の奥、応接間へと降谷を誘導した。喫茶店と内装は一緒だというのに、扉一つくぐるだけで意識が変わる。
「依頼に来たのは御茶ノ水にある大学に通う大学生と、その後見人の方」
「後見人?」
「ご両親は幼い時に事故で亡くなられたらしいんだ。依頼は唯一無二の家族である姉の捜索」
――どこかで聞いたことのある話だな、と皴の寄った眉間を揉みこむ。心配そうに覗き込む新一に微笑んで、続きを促した。
「依頼人の名前は佐久良琥珀。姉の方は瑠璃さん。瑠璃さんは高校を卒業してからは進学せず、銀座のキャバクラでずっと働いていたんだ」
「家計は苦しかったのかい?」
「ご両親がある程度遺産は残していたし後見人も支援してくれたけど、妹の為にできるだけ残したかったらしい。仕事の方は順調で、今年で勤続五年。琥珀さんも順調にいけば再来年には卒業、就職ということで夢だった臨床検査技師になるために、短大を調べているところでの行方不明だ。因みに、琥珀さんは後見人の夫婦と同居していて、瑠璃さんは一人暮らしだったらしい」
一番の懸念であった妹も独り立ちが近づき、自身の夢の為に一歩を踏み出そうという段階。自発的な行方不明とは確かに、考えづらい。
「警察にはもう、行っているんだよね?」
「うん。弁護士を伴って届け出を出したからわりと親身に対応してもらったらしいんだけど、その後の進展は思わしくないらしい、そこで俺に依頼してきたわけだ」
そこで探偵である新一を頼ってきたらしい。
「行方不明になってからもうすぐ一か月経つ。誘拐だったら捜索を急いだほうがいい」
アメリカの統計で失踪後四十八時間が経過するとほぼ生きていないという。これが近親者による誘拐の場合はもっと早い段階で殺害されている可能性があるが、今回その線はないだろう。
一か月もの間連絡がないことから、身代金目的の誘拐の線もない。怨恨による殺人か、誘拐であれば金銭以外の目的があるはず。後者であれば生きている可能性もまだあるだろう。
「なにから調べるかい?」
「とりあえず瑠璃さんの身辺調査からだ。職場と友人関係。あと警察がどこまで調べたかも知りたいんだけど~……」
ちらりと甘えるように、上目づかいで見上げてくる。愛嬌のある顔に昔の彼の姿を重ねながら、わかったよと肩を竦めた。
「明日の午後でいい?」
「そんなすぐわかんの?」
「まぁ、捜査状況を調べるだけならね」
「さっすが安室さん!」
調子のいい青年の額を小突く。なんだかんだ良いように使われているなぁ、と自嘲するしかなかった。
次の日が日曜日だったため、警視庁に行った後そのまま工藤邸へと向かった。喫茶でもよかったが、不定休を掲げている喫茶店に常連客が紛れ込んでくるのを避けたかった。
何度か新一を家まで送ったが、再会してから今まで中まで入ったことはない。最後に訪れたのは、壊滅作戦の決行前日だろうか。少しの緊張を抱えながら、インターホンを押した。
「え、早かったな?」
「そうかい?約束通りの昼過ぎだよ」
インターホン越しに驚嘆の声が聞こえる。これはまた時間を忘れて熱中していたな、と小さく苦笑した。
「その様子だとお昼はまだみたいだね。材料買ってきたから、まずはお昼にしよう」
「……はい」
自分の家だというのに、借りてきた猫のようにしょんぼりと出てきた。そんな彼に笑いながら家に上がると、リビングを抜けてキッチンへと向かう。大きなソファがテレビに向かうように置かれたリビングは予想通り、資料と思わしき紙が広がっている。
「簡単な物を作るから、その間に食べるスペースくらいは作っておいて」
「……はい」
大人しく指示に従う青年に思わず吹き出しそうになりながら、キッチンに入った。どうやら店以外では相変わらずの様子である彼のキッチンは、綺麗に清掃されているというよりは使用感がほとんどない。試しにごみ箱を除いてみれば、よくコンビニで見かけるパッケージを見つけた。これは大人として指導が必要かもしれないな。
「新一君、掃除してる~?」
「し、してるしてる!」
袋から材料を取り出しながら声をかける。すぐに別の事へ熱中してしまう彼にはこまめな声掛けが必要そうだ。
日頃から栄養が偏っていそうな彼には野菜たっぷり残った料理を出してやりたいが、さすがにそこまで買いこんで来てはいない。パンとチーズとハム、それから牛乳を袋から出すと、賞味期限が切れた牛乳を冷蔵庫から処分して小鍋をコンロに準備した。まずはホワイトソース作りだ。少量であれば、ホワイトソースは案外すぐにできる。必要な分量だけ作れるので無駄もない。
ホワイトソースができたらパンに塗って、その上にハムとチーズをのせる。ハムは少し奮発して、いいモノを買ってきた。その上にさらにパンを重ねて、これまたたっぷりとチーズをのせる。それをトースターに乗せてチーズが程よくとろけるまで熱すれば完成だ。
焼いている間に作った簡単なコンソメスープと共にトレーに乗せて、リビングへと運ぶ。すると床へと書類を移動させたソファに、すらりとした足を延ばして新一が転がっていた。手にはクリップで纏められた書類。その姿は初めて目にするというのに、この家にとても馴染んでいた。それも当然だ。彼はこの家の主であり、工藤新一なのだから。
「思ったよりちゃんと片づけたね」
声をかけるとムッと口を尖らせて、新一が体を起こす。
「誰かさんがず~っと話しかけてくるから」
ん? と小首を傾げながら、書類が消えたテーブルを水拭きをすれば、彼は口の端を引くつかせた。しかし次の瞬間には、目の前の料理に視線を奪われる。
「わ~! すごい豪華じゃん! これなに?」
「クロックムッシュって料理だよ」
「こんなの簡単に作れるって、さすが安室さんだよな……」
「クリームさえ作っちゃえば簡単なものだよ」
とろけ落ちそうなチーズの香りに新一が目を輝かせる。幼さを感じるその表情に若干満たされながら、皿を置いた。
「いただきます!――うめ~!」
「よかった」
満面の笑みを横目に降谷もナイフとフォークを手に取る。軽めといったくせにちょっと重たくなってしまったかな、と心配してたが、口いっぱいに頬張っている様子からも杞憂だったようだ。まぁおそらく朝食も食べていないから、ちょうどよかったのだろう。
「こんなに資料を広げてどうしたんだい? もう行方が見つかったとか?」
「行方はつかめていないけど、瑠璃さんの面白いことになっててさ……あ、でもその前に捜査状況!」
「の、前にご飯を食べなさい」
気を抜いているとすぐ、新一の意識が調査の方へと向いてしまう。身を乗り出しかけた青年の額を抑えて、着席させた。
「ふぅ~、ごちそうさま」
「お粗末さまです」
食器を下げて、キッチンの下の引き出しに並んだ食洗器に入れる。確か前来たときはまだここは、普通の引き出しだったはずだが。ズボラな息子の為に導入したのかもしれない。食洗器用の洗剤の減り具合からも、こちらはちゃんと使っているみたいだ。
文明の利器に頼ってしまえば、後片付けは簡単だ。首を長くして待つ子供の為に食後のコーヒーを淹れてからリビングへと戻る。静かだと思ったら片づけたノートパソコンをまたテーブルに広げて、調べ物を再開しているようだった。
「……安室さんのコーヒーだ」
大好きなコーヒーの香りにつられただけだとわかっていても、モニターの光を移していた瞳が柔らかい色にゆるみながらこちらへと向くと心臓が僅かに跳ねる。誤魔化すように彼の頭をクシャリと撫でて、ソファに腰掛けた。
「おい! 安室さん、偶にオレが大学生だって忘れてるだろ!」
「そんなことはありませんよ、先生」
小学生の君のままだったらもっと――続く言葉は飲み込んで、咳払いをした。そろそろ本題に入りたい。
「捜査状況のほうだけど、まったく進展はなかったよ。とういうか、ほとんど捜査していないといったほうがいい」
佐久良琥珀の捜査は警視庁の管轄だった。警察庁所属の降谷には当然捜査資料にアクセスする権限はないのだが、公安のつてを使って入手した。
行方不明者の捜索は状況にもよるが、まず関係者へ事情聴取から始まる。今回は失踪現場がわからないためその手順を踏んでいた。しかしその段階、友人数人に事情聴取を行って、捜査は打ち切られていた。
「事件性がないって判断された?」
「そうだとしてもまだ見つかっていないのにポスターやビラの作成すらしていないし、行方不明者情報提供サイトに掲載もしていない。完全に打ち切られているんだ」
さすがに不審に思い、警視庁職員のふりをして聞きこんでみた。なんでも警察庁の管轄になったといわれて、権限を奪われたらしい。
「一般の女性の捜査を?」
「ちなみに警察庁のデータベースに、彼女の捜査調書はなかった」
「は~なるほど……」
しかも外事課が捜査権限を持って行ったというのだ。いったいどんな繋がりなんだ。自分への横槍といい、かの部署に対して苛立ちが募る。はぁ、と小さくため息をつくと、新一が同情するように苦笑した。
「組織っていうのは大変ですね」
「……全くだよ」
子供に気を使われては世話ない。降谷は肩を竦めると「そういうわけで、たいした情報はなかったんだ」と締めた。
「そんなことはないさ。だいぶきな臭いものが感じられるし」
「そうだね」
外事情報部に関しては一度、組織の件とは別に洗い出したほうがいいと思っている。身内の不祥事に繋がりそうな気配だ。できればどこかに嗅ぎつけられる前に、内々に片づけておきたい。
「なんとな~く、そんな気はしてたけど」
含みのある言い方に首を傾げて、そういえば新一の方も何か掴んでいたのだったか、と思い出す。
「君の方は?」
「とりあえず瑠璃さんについて調べたんだ。そしたら彼女の恋人も行方知れずになっていたんだ」
恋人の名前は橋本卓。瑠璃とは高校の同級生で、現在は薬学専攻の大学院生だ。その彼のほうは瑠璃が消える二週間ほど前に姿を消したという。
「なるほど……そちらの捜索願も調べてみよう。瑠璃さんと同じ状況なら、恋人の事件に巻き込まれた可能性が高い」
「オレも卓さんの周辺を洗ってみるよ。瑠璃さんの職場の方も調べてみてるけど、こっちは白っぽいんだよな」
「そうなのかい?」
「うん。まだこれから詳しく調べるところだけど、登記とか見ても所謂やくざとかその辺の繋がりはなさそう」
完全に白と判断するには時期尚早だが、今のところ怪しいのは恋人の方だ。
「君、まだ明日は学校だよね?」
「ああ。でももう単位は取ってるから……」
「ん?」
「あ、いや、なんでもないです」
これは今日このまま泊って行って、明日大学まで送った方がいいのでは。そう考える降谷に、絶対行くから! と強く宣言した。
先の予想したように橋本も捜索願が出されていたが、初期捜査の段階で打ち切られていた。瑠璃と同じく外事情報部に管轄が移ったが、その後進展は一切なかった。
橋本と外事情報部にどんな繋がりがあるのか。橋本が研究をしていたのは天然物化学の分野だ。天然物とは生物が生産する物質のことだ。コレステロールなどは聞いたことがあるだろうが、これが天然物に分類されている。現在修士課程にいる橋本は、修士論文を書くために研究を進めている最中だった。
それなりに裕福な家庭ではあるが、修士課程には大学生のうちにアルバイトで貯めた費用で進学した。現在も研究の傍らそのアルバイト――家庭教師を続けていたらしい。真面目で優しい好青年だと、よく聞く文句のような評判を友人知人から聞いた。瑠璃との仲は両親の知るところで、彼女の行方も含めてとても心配している。
「二人の仲も、周囲との関係も良好。橋本さんのアルバイトや交友関係にも不審な繋がりはなく……研究室はどうだった?」
本日は喫茶221Bで、それぞれの調査結果について報告会を行っていた。降谷は橋本の捜索状況を調べると、そのまま彼の周辺を洗った。新一は瑠璃の職場関係を調べたらしいが、そちらも特に気にかかる点はなかったらしい。
「教授はこの研究でもそれなりの権威の人だが、汚職などの噂はなかったよ。気になると人物といえば助教授の方かな。出張などでもないのに、頻繁に県外へと出入りしている。それに高橋さんと口論していたとの目撃情報もあった」
「ふ~ん、口論かぁ……詳しくお話が聞きたいですね」
ランランと目を輝かせる新一の頭を資料で軽くはたく。
「そっちは僕が調べるから」
「え~!? なんでだよ! ずるいぞ!」
なにがずるいというんだというようにため息をつくが、こちら側の事情であるため新一の文句も否定はできない。この助教授は数年前まではある研究施設に居たのだが、ここが黒ずくめの組織と縁のある研究所だったからだ。しかしそんなことを素直に話せばこの子供は余計に、梃子でも引かなくなるだろう。
「ずるくはない。適材適所だ。僕は助教授の方から今回の行方不明事件への繋がりを調べるから、君は橋本さんの足取りから行方を捜してほしい」
「いつもは先生だなんて敬っておいて、こんな時ばかり……まぁでも、安室さんがそう言うってことは助教授に近づく算段はついてるってことだな?」
「……橋本さんの方、頼んだよ?」
笑顔ですごむ降谷に、おざなりな返事が返ってくる。議員の汚職や組織が関わっているのであれば、一介の探偵に抱えきれる問題ではない。いや、新一ならばきっと全て一気に解決してみせるのだろうが――だからこそ困る。もし外事情報部と議員が繋がっているのであれば、警察内部の不祥事にも繋がるのだ。なるべく公にはしたくない。
「都合のいい時ばっか助手名乗ってさ。結局安室さんは『そっち側』なんだよな」
「いやな言い方しないでくれよ」
そんな言い方をされてはまるで降谷の方が不誠実な男のようだ。こちらはこちらのできる範囲で協力はしているし、譲歩もしているのに。確かに新一の助手と名乗るには少々、彼に対する忠誠心が足りないかもしれないが。
「拗ねないでよ。ちゃんと報告はするからさ」
「全部終わってから、だろ? 赤井さんならもっとマメに報告くれるのに」
「ん? 奴が何だって?」
「ナンデモナイデス……」
「君、赤井を引き合いに出して僕を釣ろうって魂胆、毎度逆効果になっているってそろそろ学習した方がいいよ」
そもそもFBIがいくら自由を象徴する国の組織だからといって、規律がないわけではない。いくら信頼を寄せている青年相手だからといってそうホイホイ情報共有するわけが――あの男ならあり得る。実に腹立たしい。
だから別に降谷の融通が利かないわけではなく、赤井が自由奔放すぎるのだ。組織に属する以上、規則は守らなければ。探偵である上に自由奔放な大人たちを見ていた新一からすれば、降谷はしがらみが多く見えるのだろうが。
「別に新一君に対して意地悪をしたいわけではないんだ。君は探偵を名乗っているものの一般人で、僕は警察。互いの領分っていうやつがあるんだよ」
諭すような言葉に新一は少し考えるように視線を下げ、そうだよな、と肩を竦める。
「降谷さんには降谷さんの、オレにはオレのやり方がある。そこはどうしても相いれないよな」
「まぁ……そうだね」
自分で言っておいて、そうあっさり納得されると寂しいものを感じた。
「探偵は探偵のやり方で、真実を暴くよ」
不貞腐れた様子から一変、やる気に満ち溢れた表情を見せる。結局、説得に失敗したような気がするのだが。一抹の不安を感じながらも、どう言ったって彼が止まらないことは知っていた。
「君はどこまでも探偵だよね……」
「当たり前だろ」
自信に満ちた笑顔は、そう遠くもない面影を揺さぶった。こんなところで、新一がコナンであったことを不意に思い出させる。
「いやでも安室さんだって、警察としてはかなり自由にやってんじゃん」
「そうだよ。自覚ねぇの?」
風見さん可哀そう、と今頃庁舎に缶詰めになっているであろう男を憐れむ表情を浮かべる。どういう意味だ。まるで自分のせいで、風見が苦労をしているみたいな。
「オレ最初はかなり不思議だったもん。安室さんみたいな人がどうして警察官になったのかって」
「そんなに僕には向いてないかい?」
「いや。今はむしろ、アンタには警察しかないって思っている」
何故だろうか。新一にそう言われると、少し誇らしい気がした。
「安室さんはどうして警察官目指したの?」
――ここで初恋の人を探すためだと答えたら、彼はどんな反応をするだろうか。冗談だと笑われるか、躱したと拗ねるか。本当の事なんだけれど、すぐには信じてもらえない気がする。
随分と遠いところまで来たな、と唐突に感じた。彼がこんな質問をするから、初心を思い出してしまったせいかもしれない。ただ純粋に初恋の女性とその家族の助けに、そして親友と同じ道を歩んでいきたいと願ったあの頃とは、遠くかけ離れたことを実感させられた。
あの頃に戻りたいとは思わないけれど、失った故郷を思うような寂しさは時折津波のように押し寄せてくる。組織を壊滅してからは特に。どうやってみんな折り合いをつけているのだろうか。潜入中はそれこそ、無理やりにでも振り切ってきたのに。
「降谷さん? 答えにくいなら、そう言ってくれて大丈夫だから」
心配そうに覗き込む青色に、表情を和らげる。夢を追っていた自分は気が付けば、夢を守る側になっていた。
「初恋の人を探すためだよ」
「え……? 本当かよ~?」
やっぱり信じない。思った通りという意味を込めて肩を竦めれば、誤魔化されたと青年は顔を顰める。けれどすぐに思い直したかのように、からりと笑った。
「でも本当にそれが理由なら、カッコいいじゃん」
「え?」
コーヒーカップを持ち上げていた手が止まる。目を丸くする降谷に、新一は快活な笑顔を向けた。
「だって大切な人を守るために、その人だけじゃなくて国丸ごと守ることにしたんだろ? 男らしくて、カッコいいよ」
浮かびそうになった苦笑を、カップの底に隠した。実際は彼が想像するようなカッコいいものではない。大きな枠を守って、結局その中にあったはずの大切なものは取りこぼして。――カッコいいと賞賛するなら、彼の方だ。
子供という圧倒的に不利な立場であったはずなのに、いつの間にか多くの人々の中心に立っていた彼。大切な人たちを守るためにこの国どころか世界規模で巻き込んで、何一つ取りこぼさずに救い上げた少年。幼い頃の自分が思い描いたヒーローそのものを体現した姿。降谷の憧れと羨望を全て攫っていった江戸川コナン。だからどうしようもなく眩しくて、焦がれたのかもしれない。安室透という偽りの姿でなら、その理想に少しでも触れられるのかも、だなんて。そんなどうしようもない夢が、あの悪夢だったのではないだろうか。
「……君が思う程、カッコよくはないよ」
大人になれば漠然と、もっとできることが増えて、カッコいい人間になるのだと思っていた。でも実際は器用になるに比例して、しがらみも増えるばかり。それを感じさせない自由な鳥のような新一を守りたいようで、けれど傍にいて欲しいような。そんな矛盾する気持ちを最近は抱いていることに、そっと目を瞑った。
瑠璃と橋本がまだ生きているなら、どこかに監禁されているはずだ。助教授――山本宏が関連していそうな不動産などに目をつけてみたが、動いた形跡はない。人間を二人も監禁するのは非常に難しいことだ。もしマンションの一室などで監禁しているのならばそれぞれ離れた場所で監視するだろうし、それなりの人数が動く必要がある。まとめて監視するならば人目には付かず、けれどそれなりの大きさのある場所。コンテナなどはお誂え向きの場所だが一般人である助教授が借りれるわけもなく、それほど広大な土地も所有していない。一見山本の線は消えたかのように思われた。
しかしちょうどひと月と少し前から、日本国内にとあるクルーズ船が停泊している。表向きは次の運航までの設備点検として留まっていたこの船は、イタリアのとある会社が所有していた。この会社は降谷が組織に所属していた頃に何度か接触したが、実はマフィアと繋がりのある会社だ。
このマフィアはイタリアでも歴史のあるファミリーではあったが代替わりの際に身内同士で抗争が起き、随分と弱体化してしまった。せっかく構想も落ち着いたが、かつてほどの権威は無くなってしまった。
抗争を生き残り新たにトップに立ったのは、狡賢いがあまり出来のいい男ではなかった。親族たちが争いあい次々と共倒れしていくのを静かに待っていただけの人物。当然ファミリーを牽引していくようなカリスマも策もなく。ただ幸い、大学に通っていた彼には薬の知識があった。そしてその時に得た繋がりが。それが山本だ。
山本が数年前に所属していたのは組織の息がかかった研究所だけあって、非合法な薬の研究などが秘密裏に行われていた。本来ならば外部の組織が利用することはできないが、男は助教授を通して売り上げの何割かを組織に渡すことで話をつけ、安価で精製が簡単な麻薬の開発を依頼したのだ。この研究により裏社会のマーケットを牛耳ろうとしたマフィアではあったが、新規の参入にいい顔をされなかったらしい。それも相手が小者ときたら、他のファミリーから舐められるということだ。だから麻薬の開発自体は上手くいったが市場に参入することすら難しく、結局は組織の後ろ盾をつけて漸く参入したはず。そのせいで黒ずくめの組織の下っ端のような存在になってしまったのだ。
いざとなれば組織のスケープゴートにする為の、トカゲの尻尾のような存在。組織壊滅の際は幸い上手く難を逃れたらしいが。名前だけは歴史のあるファミリーなので、イタリア当局としてはあまり手を出したくなかったようだ。だが後ろ盾を失った弱小組織に未来はない。そもそも開発も製造も黒ずくめの組織が担っていたため、マフィア側では精々粗悪品しか作れなかったはず。それでも組織が作った麻薬の在庫と粗悪品で何とか食いつないできたが、年々市場での覇権は小さくなっていた。
だがマフィア組織は表向きの顔として、観光業を営んでいた。そちらの方は盛況であった為、組織規模を縮小せずに済んではいたが――大方山本に「協力すれば麻薬のレシピを教えてやろう」と唆されて協力しているのだろう。
山本の男の動機についても、手掛かりとなる情報が手に入った。橋本が自分の研究レポートを全て消していたという。紙資料は勿論パソコンも物理的に破棄されていて、彼がどんな研究をしていたのかさえもわからない状態だった。山本にはよっぽど渡したくない情報だったのだろう。そして橋本を強請る為に、瑠璃が狙われたのだ。
よくあるような展開だと橋本の研究を横取りするために二人を攫った、という動機だ。山本は上昇志向の高い男であり、ゆくゆくは教授の地位に立つだろうと言われている。しかし幾ら教授になるためとはいえ、人間を二人も誘拐するだろうか。誘拐した先で殺していたとしても、あまりにもリスクが高すぎる。山本を組織の残党として検挙できなかったのは、彼は組織の運営する研究所に所属していただけで組織の研究にかかわっていた証拠がなかったからだ。尻尾を掴ませないような慎重さがある人物が、他人の研究欲しさにこんな大事にするだろうか。そうだとしたら、橋本の研究が彼にとってはよほど有益なものだったことになる。
それに新一から報告のあった橋本の行動も気になった。彼は自分の研究を全て処分していたのだ。それも物理的にハードを破壊するという、徹底ぶりだ。よほど他人の手には渡したくなかったらしい。いったい彼はどんな研究をしていたのか。組織も絡んでいることもあり、嫌な予感がする。
新一への報告は組織への繋がりは伏せて行っていたが、彼も権威欲からの犯行ではないと睨んでいるようだった。山本の経歴に関しては新一に掴まれないようにと風見に指示してある。それでも新一ならば真実に辿り着くだろうが、きっとその頃にはこの誘拐事件は片が付いているはずだ。いや、解決してみせる。その為に降谷は今、例のクルーズ船に潜入しているのだから。
「安室君、このドリンクを補充してきて」
「はい、わかりました」
マフィア所有のクルーズ船は表向きは観光用だ。勿論今回も観光客を乗せて周遊が決まっている。行先は日本からイタリア。東京を出発した後は南下して南シナ海を通り、インド大西洋を経由してイタリアまで行く予定だ。その為イタリアで彼らを検挙するのでは遅い。下手したら南シナ海に面するベトナムに立ち寄った際に、瑠璃と橋本は何者かに引き渡されるか処分されるであろうから。クルーズ船が日本に滞在するのは三日間。二日目までは東京、三日目の朝に長崎に到着して観光してから、上海に行く予定だ。この三日間で二人の居場所を見つけなければならない。降谷は裏から手を回して乗組員に欠員を出すと、クルーとして潜入をした。研修の為新一とは橋本の件について報告をしたきり、直接会ってはいない。
研修といっても都内のケータリングサービス業者の事務所でマナー講習を受けただけだ。船内に入ったのは乗客たちの乗船時間に三時間前。配膳スタッフである降谷の乗車時間は、乗組員の中では一番遅かった。
カクテルグラスに注がれた華やかな色のノンアルコールカクテル片手にパーティー会場へと向かう。初日の夜はメインダイニングで乗客たちを招いた会食が催されていた。事情がない限りはみな参加しているため、廊下は人気がない状態である。この辺りのフロアについてはもう調査が済んでいるため、特に念入りに観察することもなく足早に通り過ぎた。
この船は世界周遊なども可能であるため、大型の客船となる。階層は六つ。地下二階に、地上が四階建てだ。クルーたちの部屋は地下一階に設けられており、地下二階は整備士や操縦士しか立ち入りが許されていない。乗客が乗り込むまでの数時間で他の改装を調べた降谷は、この地下二階が怪しいと睨んでいる。降谷は地下二階に立ち入れる立場ではないが、そこには備品や食料の貯蔵がある。なんとか機会を伺って探れないかと思っていた。
「ごめんなさい、お飲み物頂けるかしら?」
「はい、どうぞ」
会場は賑わいに満ちていた。と言っても品のいい乗客ばかりだから、会場の雰囲気も和やかだ。船長たちの挨拶は終わり、各々好きに歓談をしている。ドリンクの補充をしながら、降谷はひっそりと会場を見渡した。円形に作られた会場の中、降谷から見て左寄りの場所で、彼は外国人客と歓談している。顔立ちなどからラテン系だろうか。できれば会話を聞きたい。空になったグラスを回収するふりをして彼らに近づく。山本と会話をしているのは二人。それなりに体躯の良い男二人は、マフィアの構成員だろうか。
降谷の他にこの船には部下が二人潜伏している。証拠を掴み次第すぐ検挙できるように周辺にも配備しているが、下手すればクルーズ船の乗客全てが人質だ。なるべく穏便に事を運びたい。
トレーを持っていない方の手に盗聴器を準備した。彼らは会話に夢中。これで敵の規模だけでも知れたら。
「こんにちは。あなたが山本さんですか?」
山本に盗聴器を仕掛けようとしたその瞬間、とても聞き覚えのある快活な声が聞こえた。驚いてそちらに顔を向けると、まだ大人になりきれていない青年の顔が。黒いスーツに蝶ネクタイが愛嬌を掻き立てるが、右側だけワックスで撫でつけられている黒髪が引き締めるように、咲き掛けの花のような独特の甘さを生み出していた。
「君は……?」
降谷の声が零れたのかと思った。山本に質問に青年はニコリと上品な笑顔を浮かべる。
「工藤新一と申します。突然すみません。高田教授からあなたのお話を伺っていたものだから、一度お会いしてみたくて……」
「工藤新一……!」
唖然としてしまいそうになった。そんな堂々と本名を名乗るものがあるか。いや、新一の知名度だと下手に誤魔化すのも難しいのでわかるのだが。案の定山本は少し動揺した様子を見せている。
「探偵のあなたが、高田教授とお知り合いでありましたか」
「はい。と言っても、父の繋がりで、ですが。最近は天然物理学の分野にも興味がありまして、高田教授から貴方の論文のお話を伺いました。大層褒めていらして――」
自分の研究を褒められて気をよくしたのか、山本は警戒心を緩めて新一と話を始める。何故ここに居る、と問い詰めたい気持ちを抑えて空のグラスを回収した。盗聴器はいったん保留する。この様子だと、新一が何かしら仕掛けているはずだ。それこそ降谷の物よりもずっと性能が良くて薄型の盗聴器とか。
「それにしても、探偵として名高いあなたがこの船に乗っているとは。何か調査ですか?」
「いえ、仕事は仕事でも別の仕事ですね」
「別の?」
「ええ。これでも探偵である前に、しがない学生であるので……アルバイトですよ」
冗談だと思ったのだろうか。笑い声が巻き起こる。降谷は苛立ちを感じながらも、その笑い声を背後に会場を去った。
「……風見! 聞こえるか!?」
「は、はい、降谷さん! 緊急事態ですか!?」
「新一君が船に乗っていた!」
「ええ!?」
会場を抜けてすぐリネン室に飛び込んだ。この時間ならばここへ訪れる人はいない。真っ先に連絡を受けた風見は動揺をあらわにしたが、すぐに状況を調べます、と返事をして切った。まったく、どうやって潜り込んだのか。
「アルバイトだって言ってたな……」
一度厨房に戻った降谷は次に運ぶ料理を手に、再び会場へと戻る。しかし新一の姿はなく、山本も別の招待客と話をしていた。
――いったいどこへ。若干焦りを滲ませながら探していると、会場の照明が落とされていく。中央にあるステージへ視線を集めるようにスポットライトがつくと、そこにはピアノにチェロ、トランペットにヴィオラ。そしてヴァイオリンを手に持った人々――合奏団だ。弦楽器を中心とした編成。その中でも一段と目を引く、甘く清涼な顔立ちの青年。
「今夜は東京から、合奏団をお呼びしました。皆さん、拍手をお願いいたします」
会場に満ちる拍手の音が遠い。彼が言っていたアルバイトとはこれだったのだ。
綺麗に腰を曲げる演者に合わせて、彼も観客へ向かって頭を下げる。目立つような立ち位置でもないのに、新一が際立って見えるのは何故だろうか。
「一曲目は――」
彼の小さな顔が顎当てに乗る。長いまつげが作る影が艶めかしい。長い指が弦を引くと、曲が流れだした。
一曲目は聞いている人が多いからか、どこかで聞いたことのあるメロディーが流れ出す。確か最近、大手化粧品メーカーのCMに起用されていた曲だ。そのCMでも、主旋律はヴァイオリンだった。
「すみません……」
「あ、申し訳ありません。いかがなさいましたか?」
声をかけられて漸く、我に返った。振り切るように視線を客へと向ける。けれど意識はずっと、舞台上の美しい青年へ向けられていた。
長いまつげが白皙の肌に影を落とす。あまねく闇を見通す美しい瞳が、流れる五線譜を見つめている。降谷にとって馴染み深いサイフォンの器具を操る細長い指は今、弦の上を踊っている。
何度も読みこんだ、彼の調査資料を思い出す。組織壊滅前から組織壊滅後まで、二十年に満たない彼の人生を端的に纏めた資料だというのに、やたら分厚い紙の束。確かにそこに、彼が幼少の頃ヴァイオリンを嗜んでいたとの記述があった。なのにどうしてか、失念していたようだ。
三つの季節を通して漸く降谷の中に消化したはずの新一の像が、一気に遠のいた気がした。いや、違う。やっと重ね合わせることができた「コナン」と「新一」の像が。だって降谷の知るコナンは、ヴァイオリンを弾いたことなんてないから。
「改めて思い出すと、あまりにも杜撰な夢だったな」
降谷の記憶を基に作りだした夢なのだから、当たり前だ。
人々は寒暖を一時中断して、音色に耳を澄ましている。四人のヴァイオリン奏者が音色に厚みを与えた。降谷にクラシックへの造詣はそこまで深くない。誰が引いている音色なのか、聞き分けるような耳の良さも。けれど瞼を閉じれば、彼がつま弾く音だけが鮮明に届くような気がした。
クルーの部屋は基本、何人かでの相部屋だ。降谷に与えられたのは二段ベッドの置いてある、狭い部屋だ。相部屋の男は二十代前半で、クルーズ船で働くのは初めてではないという。そのせいか仕事終わりだというのに、色々な話を聞かせてくれた。
「アランは詳しいな」
前田アランは米国人の父と、日本人の母を持つ青年だ。ファーストネームが日本名なのは、父がとある武将のファンである影響らしい。なかなか愉快な両親のもとで育った大らかな青年だ。小麦色に焼けた健康的な肌が、彼が活動的な男であることを象徴している。
「トールだって博識じゃないか」
「僕のは結局、知識だけだよ」
「それでもこんなに知っているのがすごいんだって」
屈託なく笑う顔は、善良に生きてきた人間だけが持ち得るものだ。ギリシャまでこのクルーズ船に乗ると言っていたが、下手したら日本すら出発できないかもしれない。彼が気のいい青年だからこそ、少しだけ申し訳なく思った。
「そろそろ寝ようか。さすがに初日は疲れたし」
「そうだな。楽しい旅路はまだまだ始まったばかりだから」
明日は夜にナンパでも行こうぜ、と笑うアランに苦笑を返して、二段ベッドの下段に身体を滑り込ませる。上背のある降谷には少々窮屈だった。
「なぁ、トールって兄弟とかいる?」
梯子に足をかけたアランが、ピタリと止まって下を覗き込んだ。上半身を起こして、彼の質問に首を傾げる。
「実はトールにとってもそっくりな乗客を見かけてさ。もしかして兄弟かなって……」
「……兄弟だったら僕はクルーではなく、客として乗っているだろ」
「あはは! 確かにそうだ!」
変なこと言ったな、おやすみ。そう言って彼は今度こそ、上段へと昇って行った。降谷の目の前のいたが、少し軋む。おやすみ、と返すと、明かりが消えた。暫くすれば青年の健やかな寝息が聞こえてくる。慣れているだけあって、寝つきはとてもいいらしい。
――自分に似た乗客か。暗闇を見つめながら、降谷はアランの言葉を反芻した。自分で言うのもなんだが、珍しい容姿をしている自負はある。金色の髪に褐色の肌。異国の血が混じっているにしても、早々見ない容姿である。そんな己と似た容姿の男が居るというのだ。
しかし、と頭を軽く振った。今は肌の色も髪も、お金と技術があればいくらでも変えることができる。そうしてもっとも特徴的な部分が二つでも重なれば、似ている、などと認識される。――噂のバーボンを名乗る男も、そうやって成りすましているのだろう。
「……夢じゃあるまいし、同じ顔の人間なんてそうそういない」
呟くと、視線を動かす。もうすっかり夜目に慣れた瞳は、暗い部屋の扉を映し出す。上の寝息の穏やかさに変化がないことを確認して、降谷は粗末なベッドから音も立てずに起き上がった。
消灯時間の過ぎた船内は、最低限の明かりだけに絞られている。人通りもまったく、という程ないが、よく耳を澄ませばあたりに人の気配を見つけることができる。どうやら早速恋人同士か、気の合った一夜の恋人たちが部屋を抜け出して逢瀬を堪能しているようだ。
盗み見るような無粋なことはせず、廊下を抜けていく。パーティーのあったホール横の通路を通って、奥へと進む。通路の奥、行き当たりには空調室があるが、その手前に喫煙室がある。さすがにこの時間に利用する者はいないはずが、人影が一つ、薄暗い灯の下に浮かんでいた。
「これはこれは工藤新一様……先ほどのパーティーでの演奏、とても素晴らしかったです」
白々しく皮肉たっぷりに声をかければ、軽く椅子に腰かけていた彼は目を眇め、呆れたような表情を作った。
「報告がなかったのはお互い様だろ? 拗ねるなよ」
「……別に、拗ねてはいないよ」
彼の言う通り、お互い様ではある。しかし彼は自分の立場を忘れていないだろうか?
「君は自分が保護の対象であることを忘れてしまったのかな……?」
「え、い、いや~……」
気まずそうに目を逸らす新一に小さく息を吐く。最近はマメに報告をしてくれているから、油断していたこちらにも落ち度がある。そもそも安全圏に無理やり押し込めたところで、大人しくしているような男ではない。
「……どうやって合奏団に潜り込んだんだい?」
「室内合奏団の派遣会社があるんだよ。今日の合奏団の規模は室内合奏よりもう少し大きいけど、その会社が手配したんだ」
その派遣会社へは友人の紹介で入ったらしい。通常クルーズ船へ派遣されるような演奏者はそれなりに腕も経験もある人になるらしい。
「君、今も良くヴァイオリンを弾くのかい?」
「日本に戻ってきてからはあまり……だからヴァイオリニストとして潜入することが決まったときは必死で練習したぜ」
ちょうど安室さんも忙しくて店に来なかったから助かったよ、とカラカラ笑う新一にこめかみを抑える。風見か誰かを見張りにあてるべきだった。
「まぁアメリカに居たときも暇で、よくヴァイオリン弾いていたし」
――アメリカでは薬の経過観察と療養のため、あまり外出は許可されていなかったと聞いた。部屋の中ではできることも限られるから、ヴァイオリンに精を出していたのも納得だ。その腕前に加え、彼の容姿とネームバリューからパーティーが盛り上がるとみて、派遣されたのだろう。世の中、案外都合よく動くものだ。
「パーティーを盛り上げて、更に情報も手に入れたわけか……さすが探偵だな」
「皮肉かよ」
ムッと顔を顰める新一ににっこりと笑みを返す。おそらく彼は、期待していたほど収穫はない。今日あったばかりの青年に、早々情報を漏らすほど山本は迂闊な人間ではない。
「船内、行けるところ一通り調べたけど、人が監禁されていそうな場所はなかったよ。残っているのは地下二階だけだな……」
「僕は君がどこまで把握しているのかが気になるよ……」
「この船を所有している会社は実はイタリアの歴史だけはそれなりにあるマフィアで、かつて黒ずくめの組織と繋がりがあって、山本さんがそこの研究員だったってことくらいまでかな」
「……あいつだな」
地の這うような声が出た。しまった、もっと柔らかい声で問い詰めるつもりだったのに。降谷の声に新一は猫のようにビクンと肩を跳ねさせると、ブンブンと勢いよく首を横に振った。
「ち、違う! いや、ちょっとヒントはもらったけど……違うから!」
「チッ! あのクソFBI……そうやって自分ばかり、いい大人のフリをしやがって」
「アンタほんと、赤井さんには口悪いよな……」
ハァ、と呆れたように溜息を吐いて、新一が肩を竦める。さすがに大人げなかったかと思い、居住まいを正した。
「……安室さんがオレに隠し事するときって、基本組織が絡んでいるときだよな」
「え……?」
気の抜けた声を零す降谷に、新一が困ったような笑みを向ける。初めて見る表情に、内心動揺した。
「それ以外の事件ではわりと放任じゃん、前の宗教団体の時とか」
「それは……」
今となっては、あの事件にも関わらせるべきではないと後悔している。だがそれも彼の指摘通り、組織が裏でかかわっている可能性があるからだ。
「過保護だよな、『オレ』は……そんなに頼りなく見える?」
誰と比べて――だなんて、愚問だ。
「新一君……」
「……ま、今はそんなことを詮索している場合じゃないよな」
ぐっと腕を伸ばす瞬間顔を俯けた彼は、次に上げたときにはもう表情が切り替わっていた。ホッとしたような、寂しいような不思議な感慨を抱いてしまう。
「地下二階へ行く方法があればな……」
「それだね……」
結局はそこに行きつく。降谷も新一も、地下二階に行ける権限を持っていない。そこへ行くには整備士か操縦士に取り入るか、潜入するかだ。
「安室さん、家に侵入したときみたいに、チャチャっと潜入してくんないですか」
「あの件については反省しているから……というか、毛利先生も君のお家も、知名度のわりにセキュリティーが甘いからね……」
整備士や操縦士への接触は既に試みている。地下への入り口は六桁の暗証番号式になっていて、その番号は次の停泊場に着いた時、つまり従業員の入れ替わりがあるときに合わせて変更される。
今の暗証番号は降谷が配属される前に整備士と操縦士たちに連絡されており、その方法は従業員専用のスマートフォンへと送られるそうだ。従業員専用のスマートフォンは部屋にある金庫で管理するように規則で決まっているため、就業中は携帯していない。その為降谷も整備士とは交流を持てたが、パスワードを割り出すまではいっていなかった。
「意外としっかりしているんだな……」
「当然じゃないかな……しかも地下二階に入れたとしても、その奥にまだ同じように進入禁止のフロアがあるかもしれない」
地下二階にはマフィアとは関係のない整備士たちも出入りしている。誰かを監禁しているのならば、整備士や操縦士が出入りできるフロアとは分けているだろう。
「下手にクルーとかじゃなく、マフィアの構成員に接触できたらいいんだけどね」
「構成員か……」
思案顔で指に顎を当てる姿に、不安を覚える。
「なにかいい案が?」
「山本さんと話をした時、海外からの乗客と知り合ったんだよ。英語を話していたけど、ラテン系の訛りがあった」
「ラテン系か……」
イタリアとスペインは同じラテン系ということもあり、言語がよく似ている。最終到着地点がイタリアということもあり、乗客にはヨーロッパからきている乗客も多い。イタリア人がいても不思議ではない。
「山本とはどんな関係だったのかい?」
「この船で知り合ったって言ってたな。怪しいから一応発信機を仕掛けたんだけど、まだ動いていない」
「君ね……」
頭が痛くなりそうだ。いや、助かるのだが、先走らないでほしい。
「あの発信機、盗聴機能もあったよね? 今、聞いてみようよ」
「いいよ。安室さん来る前にも聞いてたんだけど、生活音しかしなくてさ……」
「そっか……」
新一がポケットから懐かしい黒ぶち眼鏡を取り出す。一瞬心臓が飛び跳ねた。
「安室さん、悪いけど顔くっつけて」
「えっ」
グイ、っと腕を引かれる。眼鏡をかけた新一と、こめかみをくっつけた。眼鏡のちょうどスピーカー部分だ。相変わらず、彼の博士が作る発明品は成功で、興味深い。しかしそれよりも間近に迫った美しい横顔に目を見張ってしまう。
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降新喫茶探偵パロ進捗ゆるゆる配信
初公開日: 2021年05月23日
最終更新日: 2021年05月23日
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pixivで連載中のシリーズの続きの進捗配信。
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実況見たり調べ物しながらなのでゆるゆる進捗な配信予定。
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リチャードさんはリンデンバウムの葉が茂るころ、かつての母校で動物になってしまいたかった話をしてくださ…
瀬をはやみ