円果が俺の家に出入りするようになって、三ヶ月ほどになる。初めのうちは、あんな事があったというのに未だ俺に対してファン目線の抜けない彼へのファンサービス……言ってしまえばご機嫌取りのような思惑があったことは否めない。でもまあ、役者復帰の道を示してくれた彼に少しでも良い思いをさせてやりたいと行動するのは不自然な話でもないだろう。それに、あの可愛らしく大人しい印象の外面からは想像も付かない、強かで強い芯を持つ彼に、俺自身少なからず救われ、そして惹かれているのもまた事実である。
俺たちは映画の撮影が始まった頃には互いの家を行き来するようになった。借りてきた猫のように恐縮した様子で華奢な身体を縮めて、大人二人がゆったりと座れる幅のソファをこれでもかと余らせていた円果も、最近は俺の部屋でもすっかり寛いだ姿を見せてくれるようになった。
……と思っていたのだが。
どうにも、人と人との距離というのはそう易々と縮められるものではないらしい。
この日もいつもの如く俺の家のリビングで、ソファに掛けてテレビに食い入る円果。一人暮らしにしては大きめの画面に映し出されるのは、俺が六、七年前に出演したドラマのBlu-rayである。全12話のうち、物語が佳境に差し掛かる第9話らしい。
円果は俺の家に来る度、こうして俺の出演作の上映会を行うのが常だ。お邪魔しますと玄関を跨ぎ、そそくさとテレビの前に陣取るのが当たり前の光景になっていた。その間俺は、彼の邪魔をしないように台所なり寝室なりに逃げ込むのである(一番の理由が恥ずかしいからなのは言うまでも無い)。この鑑賞会の発端は、俺の家に来たいとは言うもののあまりにソワソワと落ち着かない素振りの彼に俺がこう提案したからだ。
『円果の好きに過ごしてよ。テレビ使ったり、スマホ弄ったり、お風呂はあっちにあるしキッチンの右の方に電気ケトルも置いてるからね。俺のお喋りに合わせる必要ないよ』
すると彼はテレビ台に仕舞い込んでいたBlu-rayを見付けたらしくいそいそとテレビを付けて、ああやって鑑賞し始めたのである。一度見始めると三十分は微動だにしない。好きに過ごせと言ったし、彼が俺のファンであることも知っている手前「やめて」とも言えず、毎度こうして軽い羞恥を受けているのだった。
この鑑賞会が終われば、後は知った間柄が適当に時間を潰すような、ごく普通の時間が始まる。
回数を重ねるごとに、俺は彼の鑑賞会に慣れ、彼もこの空間に慣れて、円果の態度からは俺に対する緊張や遠慮が抜けてきたように思う。表情もすっかり柔らかくなったなと、……つい先日までは感じていた。
この日の上映会中は寝室に逃げていた俺は、見終わる頃合いを見計らってリビングに戻った。足音に気付いたらしい円果が、スタッフロールから視線を外して顔を上げる。その口元には、とても柔らかいとは言い難いぎこちなく取り繕ったような微笑が浮かんでいた。
「テレビ、ありがとう。その……いつも借りちゃってごめんね」
気にしないでと首を横に振る。そのまま歩み寄り、座ったままの彼を上から覗き込むと、淡い青の双眸はふいと逸れ、何も無いフローリングの上を彷徨い始めた。
「コーヒーとか飲む?」
「あっ、うん」
彼はちょっぴり困ったように眉を下げ、視線が合わないまま頷いた。
――また、か。
思わず胸の内で零す。
だいぶ慣れてきたかな。円果ともっと仲良くなれるかな。俺たち上手くやっていけるかな。そう期待を抱き始めた矢先、彼はこうして俺を避けるような素振りを見せ始めたのだ。とにかく視線が合わないし、会話をしていても、時折まるでオーディション会場で初めて会った頃のようにおどおどと言葉を詰まらせる。そんな素振りを見る度、いよいよ嫌われたのかな、愛想を尽かされたかな、と考えてはグサグサと心に棘が突き刺さるのだ。
俺自身はどちらかと言えばノリの軽い方で、ある程度知った相手なら構わず食事や遊びにも誘えてしまう質だ。対する円果は、そういう事を躊躇うタイプだろう。今日だって俺が円果に声を掛けたのである。二つ返事で「行きたい」と答えた彼だったが、本心では迷惑に思っていたのだろうか。芸能界の先輩に誘われて立場上断れなかっただけだとしたら、これはパワハラとかそういう名前の付く行為だろう。
キッチンに向かい、ケトルのスイッチを入れる。赤いランプをぼんやりと眺めながら、彼とどう接していけばいいのかと小さく溜め息を吐いた。
マグカップを二つ手に持って円果の元へと戻る。ソファの上で体育座りのように膝を抱えていた彼の前、小さなローテーブルにカップを置くと、色白な両手が包み込むようにそれを取った。隣に自分も腰を下ろす。心なしか、俺と少しでも距離を取るようにと円果がソファの肘掛けに身体を寄せた気がしたが、見なかった振りをして会話の糸口を探した。ふと目に留まったのは、先程まで彼が見ていたドラマのパッケージだ。
「ずいぶん懐かしいの見てたね」
大手女性誌に連載していた、大学生の青年と社会人三年目のOLの恋を描いた純愛漫画。連載四周年でドラマ化されたその作品で、俺は主人公が務める会社の先輩社員を演じた。ヒロインに淡い恋心を抱き、時には大学生と火花を散らしながらも、最後には彼女の幸せを願って背中を押すという役だ。
「このドラマ、円盤は普通じゃもう手に入らなくて、僕が住んでいた所だと放送もなくてさ」
「そんなに見たかったなら貸そうか?自分の家で見た方が集中できるんじゃない?」
円果の自室で存在感を放っているビーズクッションがある。あれに寝転んで見るテレビは、気まずい相手の部屋で眺める液晶画面とは比べものにならない心地よさだろう。しかし彼はぶんぶんと長い髪を揺らして拒否した。
「そんなのダメだよ!そ、それに、他にもいっぱい、見たいのあるし」
じゃあ全部貸してあげる、と言い掛けてやめた。どうやら、意図は汲めないが、彼にとってはこの居心地悪いだろう部屋で鑑賞することに意味があるらしい。
やがてはにかみながら好きなシーンを語り始めた円果に、適当に相槌を打ちつつコーヒーに口を付ける。円果の口に合わせて入れたミルクが多めのコーヒーは、俺の舌にはやや甘かった。
彼の感想もとい批評は聞いているとなかなか面白い。俺の演技に対しては基本的にベタ褒めだが、悪いところは容赦なくダメ出しをする。脚本や演出に対しても、こうした方がいいとか演技が映えてないだとか、思ったことを淡々と指摘していく様はある種痛快だ。そんな風に語る最中も、円果が俺に視線を向けることはなかった。Blu-rayのジャケットを熱心に見詰めることはあっても、もう消された黒いテレビ画面を見詰めて別次元の俺に思いを馳せても、現実の俺が彼の双眸に映ることは無い。ほんの少し前までは、キラキラとした眼差しが俺自身を追いかけていたのに。
円果が好きなのは「タレントの緒力友喜」であって、俺本人ではないのだろう。役者の俺と生身の俺を同一視していたからこその、あの眼差しだったのだ。そしてその事実を、きっと最近になって、円果自身が自覚してしまった。
このことに思い至り、鼻の奥が痛くなる。そもそも、あんな出来事に巻き込まれてなおファンを続けている方がおかしいのだ。円果が役者の俺にすら興味を失う日も近いのかもしれない。
「と、友喜くん……?」
気付けば俺は、相槌すら蔑ろにして黙りこくっていたらしい。どうしたの、具合悪いの……そんなことを言いながら、彼はこちらの膝頭あたりにオロオロと視線を彷徨わせた。
「ああ、ごめん。少しぼーっとしてた」
「僕、今日はもう帰ろうか?疲れてるならゆっくり休んだ方が……」
「ううん。俺が誘ったんだし、晩御飯もまだでしょ?嫌じゃ無ければ食べてってよ」
ぐっと奥歯に力を込めて表情を引き締める。できる限りの注意を払って穏やかな顔を取り繕い、円果に笑いかけた。控えめに彼が頷く。
「本当に嫌じゃない?」
「全然。ほんとだよ」
思わず念を押して問うと、なんでそんなことを聞くのかという口振りが返ってきた。声音が変わらないよう注意を払いながら、俺は言葉を継いだ。
「いつも無理に誘ってないか心配になって。円果、断ったりしないからさ」
「僕、友喜くんに声を掛けてもらうとすごく嬉しい」
決して彼を疑いたい訳ではないけれど、この言葉は本心だろうかと訝しんでしまう自分がいる。そしてその答えは、嬉しいと口にしながらも交わることのない眼差しが物語っている気がした。
「でもさ、最近なんか、えーっと……そんなつもりはないかもしれないし、俺の勘違いって気もするんだけど――」
この違和感にも近い思いをどう訪ねればいいのだろう。嫌なら嫌だと言って欲しいし無理をさせたくない、この気持ちをどう伝えたらいいのだろう。上手い言い回しを探すも、何も思いつきやしなかった。
「――円果、よそよそしいよね。俺と居るのが嫌になったんじゃない?」
まるで彼を責めるような物言いになってしまい、言葉を発してすぐ後悔の念が沸く。しかし一度出た声を引っ込めるなど出来やしないのだ。
円果が小さく息を飲む音が聞こえた。
「円果は優しいからさ。俺に気を遣って一緒にいてくれるのかな……なんて」
言い訳がましくなんのフォローにもならない台詞を付け足して、彼の様子を窺う。彼は何かを言おうと、喉仏を震わせた。たぶん「ちがう」とか「そうじゃないよ」とか、そんな言葉なのだろうけれど、はっきりとした声になることはなかった。
「ごめん、疑うようなこと言って。ご飯にしよっか」
すっかり重苦しくなってしまった空気を振り払うように、軽く太股を叩く。ぱんっ、と小さく軽い音が静まり返った空間に妙に響いて聞こえた。単純な話、俺が今後円果と距離を置けば良いだけの話なのだ。彼を悩ませる必要などどこにもない。
台所に向かおうと、ソファから腰を持ち上げる。
が、半ばまで浮かせたところでぐいと手首を引っ張られ、この身体は再びクッションに沈んだ。俯いた彼が俺の手を存外強い力で握っている。表情は覗えず、くりると右に巻いた旋毛がよく見えた。
「……だって、」
掴まれた部分がぼんやりと熱を持ち始めた頃、円果が小さな声を発した。
「テレビで見てた友喜くんと今ここにいる友喜くん、全然違うんだもん」
――ああ、やっぱり。
思い描いていた通りの言葉も、実際に彼の口から聞くのは堪えるものがある。これが彼にとって勇気の要る告白だったことは、震える言葉尻からも想像に難くなかった。
意気消沈する自分を追いやり、円果の勇気を労う気持ちを込めて紺青の髪を撫でる。細く真っ直ぐで指通りの良い髪は、なんというか、如何にも彼らしいなという印象を受けた。
思えば、日常の俺はどれほど彼をがっかりさせたことだろう。プライベートということもありラフなシャツ一枚で過ごすことも多いし、無精髭がそのままの日もあったかもしれない。ある程度身なりに気を遣っているつもりだけれど、日常でメイクをしてる訳でもない。「カッコいい友喜くん」が好きな彼が、飾らない俺を知れば知るほど幻滅するのも当然のことである。
「……円果。この部屋に来るの、今日で最後にしようか」
「え?」
彼が顔を上げる。久々に透けるような瞳に映し出される生身の俺の姿は、涙の膜で歪にひしゃげて見えた。泣きたいのは俺の方なのに、なんで君が泣くんだよ。
「テレビの俺とここにいる俺、全然違うでしょ」
つい先ほどの彼の言葉を繰り返す。細い首が、戸惑いを隠さず縦に揺れた。
「違うって気付いても、円果は優しいからさ。……俺のこと一人に出来なかったんだね」
「どういう……こと?」
「ドラマを見るため、なんて無理に理由を付けてまで気に掛けてくれた。その気持ちだけで十分嬉しいよ」
「気に掛ける?僕はただ――」
優しい否定の言葉を聞きたくなくて顔を逸らし、態とらしくパーカーの右ポケットからスマートフォンを取り出した。丁度そのタイミングで、無機質で軽快な電子メロディが部屋に鳴り響く。着信を告げるその音と同時に画面の真ん中に『御園圭』の名前が表示された。
円果と距離を置く口実とばかりに、俺は迷わずその通話を取った。
『あ、友喜。今時間ある?』
普段と変わらない、後輩とは思えぬ軽い口調だ。
「ん。どうしたの?」
『大した事じゃ無いんだけどさ』
「仕事?」
『違う違う。今度乃万が――』
俺がはっきり聞き取れたのはここまでだ。というのも、不意に圭の声が遠くなったのである。横から伸びてきた円果の手がするりとスマートフォンを奪い去ったのだと気付くのに数秒を要した。
「ちょっ、円果!?」
まさか彼がこんな行動を取るなんて、想像しておけと言う方が無茶である。呆気なく円果の手に渡ったスマートフォンの向こうから、状況が分からず困惑した圭の声が不明瞭に聞こえてきた。
円果から奪い返そうと腕を伸ばすが、小振りの体躯は軽々と俺の腕を躱し、小走りに部屋の対角線上に逃げてしまった。
「えー……」
思わず口から間抜けな音が漏れた。ドタバタと追いかけ回すのも躊躇っているうちに、圭といくらか言葉を交わしたらしい円果が、「とにかく!」と少し興奮した様子で声のボリュームを上げた。
「友喜くんに分からせないといけないから切るね!」
ピロン、と響いたのは終話を告げる音だろう。スマートフォンを握りしめた円果が、俺に視線を戻す。その双眸は据わり、焦点が微塵もぶれることはない。
蛇に睨まれた蛙の気持ちが今なら分かりそうな気がする。
「友喜くんのバカ!」
その剣幕に似合わぬ可愛らしい罵声は、俺を硬直させるには十分すぎた。
***
『で、大丈夫だったのか……?』
恐る恐るという圭の声音に、俺は小さく吹き出した。確かにあんな険相の円果なんてこれまで見たこともなかったし、圭には余程の大喧嘩をしていた様に聞こえただろう。
「普通に掛け直せるくらいには大丈夫だよ。少し眠いけど」
『あー……朝っぱらに連絡してごめん。別に後でよかったのに』
ただいまの時刻、日付が変わった早朝五時半。圭が俺に宛てて「どうなった?」と簡素なメッセージを送ってきたのが五時で、ふと目が覚めてそのメッセージに気付き、寝室からリビングへと移って電話を掛けたのである。日課のランニングに行く前、どうしても気になって連絡を入れたというのだから、昨晩はかなり心配させてしまったらしい。
『円果がエロ漫画の鬼畜攻めみたいな台詞吐いてたからさ』
「分からせるってやつ?」
思わず吹き出すと、心配して損した気分だと不満の声が聞こえてきた。
事の顛末を説明しよう。
あの後、俺はソファに掛けて居住まいを正し、円果はその真正面に椅子を持ってきて向かい合った。腹を括ったような真っ直ぐな視線が痛い。気まずさに目を泳がせる俺に、彼がぴしゃりと言い放つ。
「お話があります」
お説教か別れ話の時くらいしか聞かないだろう台詞だ。今回の場合は案の定前者だった。円果は静かな声で語り始めた。
「友喜くんはまず推しの概念を理解した方がいいと思う」
推しとは何か、その存在が如何に生命の糧であるか、それに対するファンの在り方とは、等々。今までの遣り取りがこの説教とどう結びつくのかがさっぱり分からないまま、彼の滔々とした話は続く。順序立てて具体的に、論文でも書けそうなほど整然と語られる”推し”。それでいて熱く訴えかけ、時に分からず屋への怒りすら籠もった弁論は、ここに観衆がいれば拍手喝采だっただろう。初めのうちは彼が何を伝えたいのか掴めずに右から左へと言葉が通り抜けていた俺の耳も、やがてその意味を理解し始めた。理解できた部分を掻い摘まむと、円果は「友喜くんが人生の推しである」「推しは興奮と安らぎを同時にもたらす存在である」「推しと接するのは緊張する」「最初の頃は夢のように実感が無かったから緊張も薄く、ただ興奮状態だった」「でも現実だと認識した最近になって、緊張が強くなった」「出演作を見返すのは緊張を解し心の準備をするため」云々かんぬん。そんな内容を小一時間も聞かされ続けた俺の心境はと言えば、嬉しいやら恥ずかしいやら申し訳ないやら居たたまれないやら、とにかく顔も首も熱くなって、終いには両手で顔を覆い隠し「分かったからもう勘弁してください」と羞恥の涙まじりに縋る羽目になったのだった。
『あー……まじで心配して損だったわ』
「ごめんってば。今度なにか奢るよ」
『で、円果はもう帰ったのか?』
「あの状態で夜道を帰すのも心配だったから泊まらせた。今は俺のベッドで寝てるよ」
『……それ、生きてる?』
「ふふっ、なんの心配?確かに遠慮はしてたけど、俺が隣に潜り込んでみたらすぐぐっすり眠ってたよ。やっぱり疲れちゃってたんだね」
『気絶ではなく?』
圭は何をそんなに心配しているのだろう。おかしなことを言うなあ、と聞き流すと、気のせいか溜め息が聞こえた気がした。そろそろランニングに出るからまた連絡すると言う圭にまたねと告げて通話を終える。
さて、結局昨晩はろくに夕飯も食べられなかったから円果もお腹を空かせているだろう。なんとなく鼻歌交じりに、俺はキッチンへと向かった。