彼の人の背中が好きだ。
決して逞しくもまろやかでもない、どころか猫背気味で、
実年齢を聞けば疑ってしまうような稚い背中。
ひょこひょこ、表現するならこの擬音がぴったりな歩き方がまた一層幼げで可愛らしい。
――そう、可愛らしいのだ。
例えば自然生物の動画で異国の珍しい小動物を見た時のような、
例えば路傍に咲く小さな一輪の蒲公英を見た時のような、
将又、隣家で飼われている白黒茶の仔猫が目の前を横切った時のような、
何とも言えぬ心臓のさんざめく心地がする。
「乱歩さん」
呼びかけに可愛らしい背中が反転し、見慣れた顔が現れた。
「何?」
声に含まれる些かの棘は、恐らくずっと背後から送られていた視線に対する疑念だろう。
探偵社を出てから十数分、太宰はそれこそ彼の背中を喰らうほど見つめ続けていた。
狐みたいに疑り深い彼は、意図の分からぬ視線をとりわけ厭う。
「いえ、何でもありません」
わざとらしい。
ともすれば口の端が上がってしまいそうになるのを堪えつつ答えた。
そうしている間も、彼は路傍の石を蹴飛ばしたり
排水溝に溜まった薄紅の花弁を眺めたり、
赤い郵便ポストと背比べしたり、性分なのだろうか。少しもじっとしていない。
「あのさ、太宰」
うんざりとした口調で彼が呟く。
呼んでおいて何でもないと言われたことに腹を立てている、訳ではないらしい。
「さっきから、うるさい」
「はい?」
もしかしたら無意識で声に出ていたかしら。
首を傾げる太宰に、ぴんと眉を跳ね上げ乱歩が言葉を継ぐ。
「視線が」
「……視線が」
ようするにじろじろ見るなということだ。
軽く肩を竦め、
「申し訳ありません。気をつけます」
笑み含めて謝罪する。
麗らかな春の陽気に、つい浮かれてしまった。
目の前には大好きな人の大好きな背中があり、
後ろを歩く僥倖を許されている。
満更でもないのか、彼もそれきり追求するでも追い返すでもなく、
太宰の従行を咎めることはなかった。
仄白く輝く土瀝青を二人、前後に離れて歩く。
微かに草っぱらの匂いが鼻先を擽り、見上げればどこのお屋敷のものだろうか、
立派な桜の大木が頭上に茂っていた。
見上げて、嘆息する。
間近で見れば霞むほど淡い紅が多数集まり重なり合うことによって
色を増し、それはまさに桜というに相応しい艶やかさだった。
足音が不意に止まる。
陽の高い時刻、彼の足元に影は溜まり、間を風が柔らかく吹き抜けていく。
「太宰」
少し舌っ足らずな甘い声。
帽子のつばをついと指で持ち上げ、彼が嗤う。
「知っているかい? 桜の語源は色々あってね。
さ、つまり農業の神の座(くら)でさくら、
その咲く様から「咲く、麗(ら)」、でもどれもいまいち。
これらの花の一片しか見ていない。
だから僕は、彼の花のいっぺんにぱあっと散ってしまう様子からとった
「裂く麗(ら)」という説を推す」
彼の言葉は滔々と、耳から入り太宰の心中を心地よい澱で満たした。
春の終わりを告げる強い風が大木を揺らし、
薄紅の花弁を吹きあげまるで花吹雪のように散らした後、
土瀝青の上に流路の上に、ひそりと降り積む。
神の居場所も麗らかに咲くも確かにこの花の美しさか弱さを表しているが、
苛烈なその散り際を描くのは矢張り、裂く若しくは割くという言葉だろう。
本当にある説なのかは知らない。
もしかしたら彼のいつもの戯言かもしれない。
それでも、
「では、私もそれに一票」
太宰はそう答えた。
満足げににんまりと笑った後、乱歩は二重廻しの裾を翻し、踵を返す。
清廉な白い足が薄紅の花弁を小さく踏みつけながら、軽やかに歩き始める。
嗚呼、彼の背中は矢張り美しい。
太宰の嘆息に散った花弁が名探偵の肩に一片、音も無く降りた。
了