伏黒の父は生前、警視庁公安部に所属する警察官だった。
 生まれて間もなく母親が死に、父は津美紀の母親と再婚したが、彼と共に暮らした記憶はない。伏黒が覚えているのは津美紀の母の使う化粧品の匂いと、ほとんど帰ってこない彼女に代わって家事をする津美紀のおぼつかない手つきだ。
 やがてその二人も離婚し、伏黒の親権は津美紀の母親へと移った。十五年前、伏黒がまだ小学生の頃だ。ほどなく親権を取ったはずの母親は蒸発、父親との音信も完全に途絶え、次にその名前を聞いたのは高校二年の春、二月のことだった。
「禪院甚二。五条悟が初めて逮捕し損ねたという男だな」
 カウンターの内側から、静かな声がそう返す。伏黒は渭水座り、包丁を握る彼の手つきを見るともなしに見ていた。無駄のない動きだ。流れるような所作で魚を捌き、薄く削いだ刺身を皿の上へ並べていく。
「……そうだ。逮捕の直前、五条さんに重傷を負わせたあと、返り討ちにあって殺された」
 発砲と被疑者殺害には正当防衛が認められたものの、当時警視だった五条の怪我は深く、復帰には一年を要した。彼の身体にはいまも、伏黒の父がつけた傷が生々しく残っている。その後彼は警視正となり、現在の役職は管理官だ。
「事件のこと、知ってるんだな」
「おおよそは。……だが、息子の名前を聞いたのは最近だ」
 初めて宿儺の店を訪れた際、ろくな自己紹介もしなかったのに、彼は「伏黒恵」とフルネームで自分を呼んだ。五条からあらかじめ事情を聞いていたせいだろう。
 津美紀の母と伏黒の父との離婚時、禪院本家からの依頼で子供二人の様子を見に来たのが五条だ。彼は伏黒と津美紀の現状を確認すると、二人で暮らしていけるだけの援助を約束してくれた。
 しかしその金の出どころは、ひょっとすると父親だったのかもしれない。言えば、宿儺は首を傾げて伏黒を見た。
「ほう? なぜそう思う」
「……禪院家と五条家はむかしから、警察官僚を多く輩出する家同士としてのつき合いがあった。五条さんと親父も、顔見知りだったらしいから」
「そうか」
 納得したというように片方の眉を上げた宿儺が、伏黒の前に皿を置く。
 先の濡れた箸でつまむのは昆布締めの鯛、初めてこの店へ連れて来られたときに食べて、印象に残っていたものだ。白身魚の淡白な味わいを最大限に引き立てる昆布の旨味が、噛むたび滲む。
 それまで鯛が高級魚であることを知ってはいても、取り立てて「美味しい」とも「食べたい」とも思ったことがなかった伏黒は、ようやくその理由を理解したのだ。
「どうだ」
「……美味い」
「ふん、いい顔をする」
 満足げに微笑んだ宿儺は鈍い銀色をした錫の片口を一つと、同じ素材でできた盃を二つカウンターに乗せた。冷酒だ。
「おまえも飲むのか」
「悪いか?」
「……いや」
 伏黒は自分から冷えた片口を取って互いの盃へ酒を注いだ。
 素面では話しづらいこともある。特にいま自分が取り扱っているような、誰が誰を殺した、あるいは殺すかもしれないといった内容は。
**
 宿儺を恐ろしいと感じたのは事実だが、その一週間後、伏黒はまたこの店の門前に立っていた。
 店というにはあまりにも存在感がなく、小ぶりな松が覆いかぶさる質素な木造の門は個人宅の入り口と見分けがつかない。
 しかしいざ入ろうとすると、どうしても足が竦む。本当にこの先へ進んでもいいものかどうかという迷いが生じるのだ。
 ──一人で来るのは禁止。必ず僕を誘うように。判った?
 ──元、殺人のプロ。百人以上殺してる。
「…………」
 五条の声が脳裏をよぎる。
 嘘かまことか判別のつかない冗談をよく言う人だが、あれは本気の発言だった。間違いなく悪人だが役には立つというその言葉通り、これまでなんども捜査に協力させているのだ。服務規程ぎりぎりアウトの暴挙ではあるが、殺人のことは殺人者に聞くのが早いなどという超合理的な判断は、いかにも五条らしい。
「入らんのか」
「……っ!」
 突如背後から声をかけられ、伏黒はびくりと身体を強張らせた。高すぎず低すぎずなめらか、しかし腹の底に響くような声音を聞き間違うはずもない。
 振り向けば、そこには買い物帰りらしい、古風な籠を持った宿儺が立っていた。
「あ……いや、俺は」
「今日あたり来るだろうと思っていたところだ」
「え……?」
 彼はそう言って薄く微笑み、伏黒の脇を通り抜けてすたすたと店の中へ入っていく。
「来るだろうって、俺のことか」
「他に誰がいる」
「なんで……」
「さあな」
 俺にも判らん、むかしからそういう勘が鋭いもんでな、と彼は振り向きもせず言った。なんとなく周囲を見回したが、誰かに監視されているような気配はない。半人前だとしても一応は刑事だ、そういう気配や痕跡を見逃すはずはないと思うのだが。
 結局、伏黒は宿儺のあとを追って足を踏み出した。
「なにが食べたい」
 聞かれて真っ先に浮かんだのが、先週食べた鯛だ。そう伝えると、宿儺は「いい舌をしている」と目を細め、食事の支度を始めた。
「犯人は逮捕されたようだな。ニュースを見た」
「……ああ」
 先週ここへ五条が持ち込んだ事件については先日、無事に被疑者確保の運びとなった。勤務後のホステスを狙った連続殺人事件で、遺体は無残に切り刻まれて発見された。
 最初の三件については彼女らがかつて登録していた派遣会社の元社員の犯行、あとの二件はそれぞれ別の人間による模倣犯。宿儺が指摘していた通りの結果だった。
「素人だったろう」
「素人だった。……初犯、前科前歴すらない」
 それも宿儺の言う通りだ。しかしあまりに脈絡がない。
 こうした事件の場合、大抵は犯行に及ぶ人間に暴力性を匂わせるような前科、ないしは前歴がある。取り調べはまだ続いているが、どの被疑者に関してもその動機には疑問点が多かった。
「必要に駆られてやった、らしい。なんのかは判らない。精神鑑定の結果待ちだけど、見たところ正気だ」
「なるほど?」
 一合ほどの片口が空かないうちに鯛がなくなり、宿儺は伏黒の腹具合を見定めてもう何品か出してくれた。先日に比べれば、ずっと気安くざっくばらんな献立だ。
 ふきとたらこと飛龍頭の炊き合わせ、皮目も香ばしく焼かれた鰆の西京漬、残り物を工夫したという串揚げ。中身は子持ち昆布や新生姜、かにのほぐし身を鱚の身で巻いたものに雲丹のソースといった変わり種から、ウィンナーやチーズ、うずらの卵、れんこんにアスパラといった定番の、ややジャンク寄りな種まで次々に出され、あっという間に満腹になった。
 締めはあっさりとした甘みの豆ご飯、赤出汁、興味があって取り寄せたという燻したたくあん、にんじん。
「それで、なにを聞きたい?」
 熱いお茶で一息ついたところへそう尋ねられ、伏黒はゆっくりと言葉を探した。
「俺の親父は、公安部に所属しながら、ある宗教団体の教祖と内通していた。正確な期間は判らない。五条さんが言うにはそう長くはなくて、二、三年ってとこだろうって」
 内通の理由も、伏黒には知らされていない。
 宿儺はなにも答えず黙っていた。もしかしたら、既知の情報だったのかもしれない。構わず、訥々と続けた。
「教団は、元は数ある新興宗教団体の一つでしかなかった。でも、夏油という男が教祖になってから、危険な行動が目立つようになって……」
 やがて彼らは独自の基準で選定した信者を「星漿体」と称して大量に殺害し、解体する事件を起こした。別人同士のパーツを組み合わせ、汚れのない完璧な肉体を新たに作り上げることが目的だったという。犠牲者の中には潜入捜査を行っていた公安の刑事、つまり伏黒の父の同僚も含まれていた。
「教団が強制捜査を受けて解散したけど、教祖である夏油には結局、逃げられた。幹部数人も各地に散って、いまだに指名手配中だ。今回の事件の犯人が、もし……」
「関係があるのなら、か?」
 おそらく五条悟もそれを危惧していただろうな、と宿儺は呟く。
「ああ」
「夏油と五条悟は旧知の仲だったな」
「……そうだ」
 本当になんでも知っている。伏黒は眉間に皺を寄せた。彼らは同じ高校を出ている。五条は夏油についてほとんど語ろうとしないが、その名前を呼ぶときの雰囲気から、貴重な友人だったのだろう、ということは伏黒にもなんとなく察せられた。
 当時かなりセンセーショナルに報道されたこともあり、事件の模倣者はあとを絶たない。単にその狂気にあてられたもの、潜在的な願望を揺り起こされてしまったものなど事情はそれぞれだが、警察内部で暗に「盤星教案件」と呼ばれる、かつて教団の説いていた教義への信仰や忠誠心、いまだ確保されていない幹部たちとの接触によって行動を起こすものも少なからずいる。
「なぜ、五条悟に直接相談しない」
「…………」
 必ず訊かれるだろうと判っていて、言い訳を用意していなかった理由は、伏黒自身にも判然としない。沈黙したこちらに対し、宿儺はやや声音をやわらげた。
「頼りたくないか」
「そう……いう、わけじゃ、ない」
「別に構わんぞ、あの男に人望がないことは承知の上だ」
 調理台を片付けた彼は、片口に注ぎ足した酒を手酌で飲んでいる。顔色はまったく変わらず、酩酊している様子はなかった。
「おまえも、五条さんに……借金とか、してるのか」
「借金? なんだそれは」
 笑われて口ごもる。
「……だって」
 でなければ、彼に協力する理由が判らない。宿儺にとってのメリットがない。かつての人殺しは国外、それも合法だったというし、口調からして彼に心酔しているわけでもなさそうだ。そう説明すると、彼は「そんなことか」と薄く笑い、ふたたび酒を口へ運んだ。
「殺すか殺さないかの判断基準に飽きたあと、俺は食わすか食わさないかで人間を選別することにした。料理は趣味だが、退屈な相手には食わすだけ無駄だからな」
「五条さんは、じゃあ、退屈じゃなかったってことか」
「人を殺したことがある人間。あるいは、今後殺す可能性のある人間。それがこの店の客の条件だ」
「…………!」
 見透かされている、と感じた。
 こちらへじっと向けられる宿儺の目の虹彩は、ダウンライトの入射角のせいかやけに赤く見える。血の色だ。瞬きもできずにいる伏黒に、彼はじわりと目元を歪ませて笑いかけた。間違いなく悪人の顔だった。知っていたはずなのに、ぞくりと背筋が震える。
「いまそこに座っているおまえも、俺にとっては上客ということになるな」
「……どうして……」
 絞り出すような声は、それだけで彼の言葉を肯定してしまっていた。
「それは俺の台詞だ、伏黒恵」
 どうして五条悟を殺したい? と宿儺は低く、また場違いに甘い声で囁く。
「いや……少し違うな。殺さなくてはならないかもしれない、と思っている顔か、それは」
 伏黒は舌を動かせずにいた。心のどこかでは、話の流れがこうなることは判っていた。店に入るのが、彼と対面するのが恐ろしかったのはそのせいだ。彼は人を殺したことがある。五条と同じく。そして自分にもまた、その可能性がある。
 血の匂いか、もしくはもっと観念的ななにか、殺人を犯したり望んだりするある種一線を超えてしまった人間同士の「共振」は、たしかに存在するのだ。
 食材を扱う彼の鮮やかな手つきで、普段誰にも打ち明けず、見て見ぬふりをしているそれらの事実を捌かれ、皿の上へ乗せられてしまうのが怖かった。
 沈黙した伏黒を見て、宿儺は声のトーンを元へ戻した。
「すぐでなくても構わん。話したくなったときに話せ。おまえのためなら、いつでも店を開けてやる」
「まだ……殺す、と、決めたわけじゃない」
「だろうなあ」
 おまえのそういう、案外素直でないところはじつに好みだ、と宿儺はとんでもないことを言った。思わず身体を固くした伏黒を見遣り、楽しげに喉を鳴らす。
「そう身構えるな、まだ口説いてもいないだろうが」
「くど……」
 そんなつもりがあったのか。今度こそ絶句した伏黒をよそに、宿儺はさっさと車を呼んだ。用が済んだら帰れということらしい。
 店の外まで見送りに出てきた彼は「今回のホシが例の教団絡みかどうかはまだ判らん」と言った。
「だがそう遠くないうちに答えが出るだろう」
「……それもおまえの勘か?」
「まあそうだ」
 狭い路地に入り込んできたタクシーの、後部座席へ乗り込む。横を向けば、門の内側からこちらを見ている宿儺と視線が合った。逸らせないまま、運転手へ官舎の住所を告げる。
 自動で閉まるドア、ゆっくりとした発進の速度が、謎の名残惜しさを断ち切ってくれるようで、ほんの少し安堵した。
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みどり
ざっくりした時系列を決めたので10時から書き始めます!
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みどり
これの続きです
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わーいハートありがとうございます!
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79:46
ななし@e231d2
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79:51
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終わりましたー!画像にしてきますね。
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みどり
遅刻だ
88:46
みどり
配信を終わりたいと思います。見てくださってありがとうございました!
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向き
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宿伏ワンドロ・ワンライ第14回目
初公開日: 2021年03月27日
最終更新日: 2021年03月27日
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コメント
22時から、前回に引き続き料理人×警察官パロ。共振・借金・素直じゃない のお題で書きます。
山の神、鹿の子
御形様フェスに参加したい。山の神様な御形様とディアケンタウルスな恵という自分の性癖詰めました。
あぼだ