わたし、インドではもう勝てないから日本にきたよ。
 たい焼きを齧りながらヴィハーンさんはなんでもないことのようにさらりと言った。瞬間、フードコートのざわめきも、聞き飽きたヒットチャートの流行歌も、繰り返される迷子放送も、僕とヴィハーンさんの座っているテーブルからざあっと遠ざかって、静寂が満ちる。呼び出しブザーと引き換えてきたばかりの、紙袋が香るくらい温かいたい焼きの袋を持っているのに、指先が冷えた。心臓が痛いほど脈打って、酸素が薄い、いきわたってない、と思った。失敗した。失敗した。失敗した。それだけが遅すぎる警告音のように脳内で反響する。僕の焦りとは裏腹に、ヴィハーンさんは軽く鼻歌を歌いながらたい焼きを堪能している。傷ついた様子も、動揺した素振りも、なかった。つい十分ほど前、「ねええトウイ、白玉入りの小倉あんとカスタードと焼き芋あんとベーコンエッグとチーズカレーと、どうしてもぜんぶおいしそうだよ! ひとつに決められないよ! どうしてこんなにいっぱいおいしそうなのがあるの」と唸りながらメニューを睨みつけていたときのほうが、よほど真剣に悩んでいる声をしていた。つまりヴィハーンさんにとって、日本に来た理由はとっくに過去のトピックでしかないのだろう。それでも僕はどう答えればいいかわからずに、紙袋の中のたい焼きへ視線を落とした。どれもおなじ型で焼かれた四匹のたい焼きはどれが何味だか見ただけではわからなくて、気持ちが落ち着かない。わからない、という状態は、ひどく不安になる。全部割ってしまいたい衝動にかられつつ、しかしそれをやると中身がどろどろとこぼれてめちゃくちゃになるのは自明だから、とりあえず適当な一匹を半分にちぎった。どの味も諦めきれないヴィハーンさんを見かねて、五匹それぞれを半分ずつに割ってシェアしましょうと提案したのは自分なのに、ちぎった腹から濃い色の餡がずるりとはみ出したのが妙にグロテスクで、嫌な気分になった。小豆の皮がまだらについた白玉が餡を透かしてかすかに覗くのも、内臓めいていて不吉だった。栄養のバランスなんか考えないで全部食べたらいいじゃないですか、と勧めてしまえばよかった。僕は何も選びたくなかった。こういう日の選択はなにもかも裏目に出る。そもそも味なんて僕はどうでもよかった。朝の占いの結果が酷くてまったく冴えない土曜日、部活の後でせめて厄落としにとラッキーアイテムのたい焼きを食べようと思った、それだけのことだった。わたしも食べてみたい、と興味津々で手を挙げたヴィハーンさんに、ひとりで行くと断ればよかった。好きなひとと、部活と関係ないところへふたりで行けるチャンスだ、などと、欲を出すべきでは、なかった。
「頭としっぽ、どっちがいいですか」
「トウイが好きなほうとっていいよ。げんかつぎ、するでしょ、トウイは」
「いや……特にないので、ヴィハーンさんの好きなほうをどうぞ」
「ほんと? じゃあしっぽのほう残しておいて!」
「はい」
 カスタードあまくておいしい、と、はみ出したクリームでくちびるの端を汚してにこにこするヴィハーンさんにティッシュを差し出す。ついてますよ、と示すと、親指でぐいっと拭ってから舐めて「おいしい」とまた笑った。どの味を食べようかはあんなに迷っていたのに、紙袋から無造作に掴み出したたい焼きの中身がなんなのかは確認もせず頭から齧ったヴィハーンさんを、僕とは根本的に違う人間だ、と思う。トウイ、わたしね、たい焼き食べたのはじめてだよ。そうなんですか。さかなの絵が旗にかいてあるでしょ、だからなにか、さかなの串焼きとか、そういう料理なんだと思ってた。ああ、なるほど。ホットスナックだなんて知らなかったよ、連れてきてくれてありがと。お礼を言われるほどのことでは。トウイ、甘いの好きなの。いえ、きょうのラッキーアイテムだったので。買い食いを満喫しているヴィハーンさんはあまりにも幸せそうで、元の話題に戻っていいものかどうか迷う。けれど自分から振ったくせに何も触れず流すのもそれはそれで失礼な気がして、結局「インドでは、もう勝てない、っていうのは」と訊いた。たい焼きの頭側を齧ると、薄い皮の内側ぎちぎちに詰まっている熱い小倉あんが口のなかへ溢れて、舌に軽く痛みが走った。言うべきでないことを言った天罰のようだった。
「ああ、わたし、身長伸びなかったからね。中学までで止まっちゃった」
 奥武にヴィハーンさんがやってきたときのことを思い出す。自分と同じ代の世界MVPを獲った強い選手だと部長に紹介され、僕らは歓迎と戸惑いが入り混じった状態でよろしくお願いしますと声を揃えて挨拶した。本場のエースが来る、という事前情報から想像していたむくつけき大男のイメージを裏切り、ヴィハーンさんはそれなりに筋肉質ではあるもののスポーツマンとしてはむしろ小柄なほうだった。顔いっぱいではつらつと笑いながら「みんなよろしくね!」と手を振ったのを見て、隣に並んでいた誰かが、アイドルかよ、とあまり面白くなさそうな調子で呟いたのを覚えている。いまの奥武のメンバーだけでは星海や英峰に勝てない、と判断した部長と、留学先を探していたヴィハーンさんとが、カバディ協会経由で交渉したとあとで聞いた(勿論実際には顧問や向こうのコーチや様々な大人がやり取りをしたのだろうけれど、ヴィハーンさんが浮いた駒になっているなら是非呼ぼうと主張したのは部長だそうだ)。日本一を目指す以上できることはなんでもやるべきだと言う者も、助っ人を入れるほどいまの部員は力不足だと思われているのがショックだと不満を燻らせる者もいた。僕は何でも構わなかった。宗教や習慣の違う国の人がチームに入ることへの緊張や不安は勿論あったけれど、強い選手の獲得はどこのチームだってやっていることで、それが誰であろうが関係なかった。インドのトップクラスのプレーヤーがなぜ競技人口の少ない日本にわざわざ留学先を決めたのかもさして興味がなく、だから、たい焼きができるまでの待ち時間を潰すための雑談として、本当に、なんの気なしに、どうして日本に来たんですかと訊いてしまったのだった。知識の空白を埋めようとするのは、知らない、という状態に対しての不安を解消したがる、ほとんど生存本能のような行動で、でも、それは、口にすべきではない質問だった。僕の後悔をよそに、たい焼きがおいしいと言ったのと同じトーンで、ヴィハーンさんはさらさらと話を続ける。
「プレースタイル的に身長はそんな要らないけど、それでも、背の高さは脚の長さだから、やっぱりちょっとたいへん。プロはみんな強いから、ちょっとたいへんの、ちょっとが命とりになるよ」
「……、プロ……ですか」
「あ。言ってなかったっけ、わたし、中学出たあとはインドのプロリーグにいたよ」
「すみません……調べればわかったことを……」
「んーん。調べてもきっとわからない。わたしの名前、日本語でかんたんに検索して出てくるようなとこにはのってないよ、たぶん」
 その一言で、ヴィハーンさんが中学を卒業してから奥武に来るまでの二年間がわかってしまった。
 ヴィハーンさんの加入にネガティヴな感情を持っていた部員も、一週間もしないうちにその有無を言わさぬ強さにねじ伏せられて文句を言わなくなった。やや小柄な体格の不利などものともしない圧倒的なレイダーとしての能力を見せつけられ、誰もがヴィハーンさんに好意を抱いていた。スポーツマンは強い相手に敬意を払う。実力の向こうに見える練習量、費やされた時間、思考、情熱、執念。勝利のためにありとあらゆるものを積み上げていく困難、それがどれほどの価値をもつか理解できるからこそ、同じフィールドに立つ者として尊敬せずにはいられない。カバディ強豪校のひとつに名を連ねる奥武で全員を黙らせるほどの実力者であるヴィハーンさんが、プロリーグで何者にもなれず日本に来たなど、想像もできなかった。けれどそうだ、思い返せば、部長が「俺のカバディは高校までだ」とそれまでの言を翻して僕らに発破をかけたのは、ヴィハーンさんの来日少し前じゃなかったろうか。もうこの先おまえたちと一緒のチームで闘うことはない、青春の餞に最高の試合をした実感と最高の結果が欲しい、と言ったのは、それくらいの気概で大会に臨めという檄だとばかり思っていたから、進路がカバディ部のない大学だと知ったときには動揺した。どれだけカバディを愛しているかもどんなにプロになる気だったかも見ていたから、どうしたって、部長がカバディから離れるイメージが無かった。でも、ようやく合点がいく。ヴィハーンさんですら挫折する現実はあまりにも重い。
「……すみません」
「なんで?」
「いえ、あの……軽々しく、訊くべきことではありませんでした。申し訳ないです」
 最初に惹かれたのは攻撃だった。一瞬姿が消えたかのように錯覚するほど筋の読めない体捌きと、音量もテンポも安定した呼吸のようにナチュラルなキャント。日本代表として渡航しインドチームと対戦したときでさえ、これほど異質なレイダーはいなかった。試合でこのひとを迎え撃てる相手校が羨ましくなるくらい、あまりにもうつくしい攻撃だった。奥武に来なければこのひとと戦えたのか、という気持ちが、無いでもなかった。
 紅白戦で同じチームになった、あれはいつだっただろうか、確かヴィハーンさんが入部してまだ日の浅い春のことだった。アンティの鎖を軽々と振り切って自陣に戻ってくるときの、星を閉じ込めたような目のきらめきが眩しくて、ぐ、っと息をのんだ。勝負への真剣さをもったまま、カバディが楽しくてたまらない、と全身で叫んでいるようなヴィハーンさんを、好きだと思った。優秀なレイダー、という意味での好意なのだと、そのときは勘違いしていたけれど。
 太陽に愛されて輝く肌、ことあるごとに抱きついてくる人懐っこいスキンシップ、すこしだけ舌ったらずに発音されるおどろくほど流暢な日本語。いいな、と思う部分が増えるたび、それがカバディと関係がないことに戸惑った。休憩中にくだらない雑談をしながら、「トウイはまじめだね」と僕の肩を抱いて笑った拍子に、髪がさらりと耳を撫でていった。やわらかくうねる豊かな黒髪に、触れたい、と指先がもとめたとき、ようやく僕はヴィハーンさんに抱いている感情の名前を知った。知りたくなどなかった。彼の国は同性愛に対して寛容ではない。彼の国の神様が生まず殖えぬ恋を祝福してくれる存在であるはずもない。
 ヴィハーンさんは何度か瞬きをして僕をじっと見つめた。いまの質問で、わたしがきずついたと思ったの。はい。トウイはまじめだね、まじめでやさしい。ふふ、と微笑んで、ヴィハーンさんは俺の頬に触れた。
「わたし、日本にきてよかったよ」
「……どう、して、ですか」
 挫折したのに、と言葉にしなかったのは、慮ったがゆえではなく、その指す意味が変わってしまったからだ。カバディのプレーヤーとして順風満帆の人生なら、ヴィハーンさんの歩む道は僕と交わらなかった。
「日本にきたから、トウイに会えたよ。奥武に入ってよかった」
 す、とスライドした親指が僕のくちびるをおさえる。あ、さっき舐めてた指、と意識した途端、不埒な血流がばくばくと鼓動を乱す。喋ろうにも迂闊に口をひらけば指を食んでしまいかねない状況では固まっているしかなく、どうしてですか、と、僅かな首の傾きと視線で問いを繰り返した。
「トウイのことが好きだから。キスしてもいい?」
「キッ……」
 思わず声をあげると、舌先に当たった指の腹からカスタードの甘さがふわりと気配のように広がった。うわ、すみ、すみません、としどろもどろになると、「かわいい」とヴィハーンさんは笑って、頬から顎を包み込むようにするりと撫でた。びっくりしすぎじゃない、キスしたことないの、トウイ。いや、インドはどうだかわかんないですけど、日本ではちょっと親しいからってキスとかしないんですよ。親しい、じゃなくて、好き、って言ったよ、わたし。だから、日本では、その、なんていうか、恋人の好きじゃないとキスしないんです。わたし、そのつもりで言ってるよ、トウイはわたしのこと、おなじ好きじゃないの。そうです、とも、ちがいます、とも答えかねて、視線を逸らした。本当のことを告げるのも、嘘をつくのも、嫌だった。ヴィハーンさんに会えてよかった、などと、言うわけにはいかない。僕の恋がはじまったのは、ヴィハーンさんの夢が終わったからだった。
「キスがいや? それともわたしがいや?」
「嫌、というか、……怖い、です」
「こわいの? なにがこわい?」
 ぐ、と一段と身を乗り出し、ヴィハーンさんが僕の目を覗き込む。いつか惹かれた星の瞳は、至近距離で見ると宇宙のようにくろぐろと輝いていた。何千何億と銀河系を抱えたエネルギーの圧縮点がこの双眸なのだと思った。深くて、果てしなくて、すべてなど知りようもない、無限の拡がりがそこにあった。
「……わからないものは、全部怖いです」
 レイダーとしてのヴィハーンさんなら徐々にわかってきたから、チームメイトでいることは怖くない。でも、ヴィハーンさんがどうして僕を好きだと言ったのか、僕がおなじように好いていることをなぜ知っているのか、そもそもそれがどのくらい「おなじ」であるのか、キスとはどの程度のものを指すのか、くちびるをかさねたとき僕がどう感じるのか、そうした場合これからの関係がどんなふうに変わるのか、信じる神に背く恋をすることをヴィハーンさんがどう思っているのか、なにもわからない。未知を既知に変えてゆくことは、いままでなら、安心するための手順だった。知らず神域に足を踏み入れて怒りにふれたり、誤った手続きによって呪いを呼び寄せたりするようなことが怖くて、オカルトマニアと馬鹿にされつつも本を読み漁った。それは登山家が熊が出る森にそうと知らずに足を踏み入れたりしないように生息域を調べたり、あるいは遭遇してしまったとき生死を分ける知識を学んだりするような危機管理と同一のものだ。知識は武器で、身を守る鎧で、けれど、この恋は違うのだった。知ろうとすればさらにわからないことが増えていくだけの、上下左右さえ曖昧な、真暗い場所へ放り出されたような心持ちがした。恋がこんなにおそろしいものだなどと知りたくはなかった。好きなひとの傷を喜ぶような醜い自分のことも知りたくはなかった。いっそなにも知らなければよかった。このひとに恋なんてしたくなかった。
 はい、と、唐突にたい焼きが差し出された。わたしはんぶん食べたから、これはトウイのぶんだよ。訳もわからず受け取って、思考停止したままヴィハーンさんの歯のかたちでふちどられた断面をひとくち噛むと、野暮ったいくらい濃厚なクリームがぬるりと口のなかを満たした。わたしはそれ、甘くておいしいと思ったけど、トウイはどう。僕にはちょっと甘すぎる気もしますが、おいしい、の範疇です。
「いま、わたしの口のなか、その味がしてるよ」
「…………」
「わからなくてこわいなら、わたしのこと知ったら、こわくなくなるでしょ。ちょっとずつわかったらいいよ。わたしのことたくさん知って、こわくなくなったら、返事きかせてね」
「……、ヴィハーンさんは、僕のことを知らなくても怖くないんですか」
「こわくないよ。トウイがずっとわたしのこと見てたの知ってる、それだけでじゅうぶん。でも、もっと知るのはうれしいから、トウイのこともおしえてね」
 ヴィハーンさんは目を細め、自分の親指へそっとくちづけた。こういうの日本だと、間接キス、っていうんでしょ、わたし、知ってるよ。手を伸ばして紙袋のなかからちぎった白玉入り小倉を取り出し、ひとくち食べて笑った。さっきまでのトウイの口のなか、こういう味だったんだね。甘くて、熱くて、わたし、これ、好きだよ。
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【灼/ヴィ冬】瀬をはやみ
初公開日: 2021年05月21日
最終更新日: 2021年03月20日
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ヴィハーンと冬居がたい焼きを食べる話です。奥武戦が始まってすぐくらいの頃(3月上旬)に書いたもののため、それ以降の展開や情報と矛盾や齟齬があります。