<ほぼプロットだよ>
・アヤから見たルリの話
アヤはルリに声をかけたのを、この二週間後に後悔することになる。
四月下旬の夜半、和孝の容態が急変した。ちょうどその日は入職して二回目の当直だった。慣れない業務の中で、アヤは先輩看護師について回るのでやっとだった。震える指でカルテの電話番号をなぞり、ルリと彼女の長男に連絡をしたが、何を話したか覚えていない。
和孝をICUに移送したあとの病室で、アヤはルリの背中に何も言うことができなかった。
回復が見込めない患者の家族に、元気になるなんて簡単に言ってはいけない。そう看護学校で教わったはずなのに、初日でそれを破ってしまった。それの報いのようにいまルリは肩を落としている。一生懸命言葉を探した。だが沈黙は容赦なくアヤを責めた。
アヤにとって会田夫妻は入職日に最初に挨拶をした患者とその家族だ。静かだが仲睦まじそうにしている二人は微笑ましかった。ナースステーションでカルテや情報書の見方を教わっている時に、和孝の詳しい病状を知った。あんなに穏やかな二人がこんな運命を背負うなんて、きっと思ってもいなかっただろう。カルテには家族の歴史も詰まっている。もちろんルリの名前も書いてあった。
なんとなく覚えていたのだ。患者を贔屓してはいけないとわかってたが、簡単な名前だったし、どうしても脳裏に焼き付いてしまったのだ。
……ICUから出てきた担当医がルリと長男の達夫に状況の説明をしている。先輩看護師に連れられてアヤはナースステーションに戻った。珍しくナースコールも鳴らず、目の前の病室のいつも騒いでしまう患者も寝入っているようだった。まるで何かを察しているようだ。
「当直二度目で急変は早い方ですよ」
小柄でくりくりした目の先輩看護師・清水知紗はそう言って労うようにアヤにコーヒーを渡した。彼女はアヤより年下だが、看護師歴十年以上の大先輩だ。確かこの病院ができた時に新卒で入ったと言っていた。可愛らしい見た目とは裏腹に陰では鬼軍曹と呼ばれているらしいが、まだアヤはその所以を知らない。
「でも牧原さんが早めに経験できてよかったです。こういうのって、実習とは全然違いますから」
「そうですね……」
なんとなくぼうっとしてしまう。いかんいかん、そう思って頭をふるっていると、知紗は笑って立ち上がる。
「私、巡視に行ってきます。後でこういう時の記録の書き方を教えますから、まあ休んでてください」
「……はい……」
普段なら、自分が巡視をすると言うのだろう。でも、立ち上がれなかった。知紗がナースステーションから出ていくのを見送って、アヤは視線を床に落とす。
なんだか、思ってた世界と同じような違うような、そんな気がする。
誰かの役に立ちたいと思い切って飛び出すように会社を辞めて、看護学校に入って、就職活動をして、気が付いたらここにいる。あっという間だった。確かに自分の意思で選び取ったはずの人生だ。順風満帆とは言わないかもしれないがこうして先輩や患者に恵まれている。充実した日々だろう。傍から見れば。だがその実感がない。というか、それがわかるまでに達していないと思う。
はあ、とため息をついた。
ただがむしゃらに頑張れば、報われると思っていた。
もちろんそんな甘い世界ではないと頭ではわかっていたが、心のどこかで期待していたのかもしれない。そのがむしゃらさがなければ、この年になって全く畑違いの仕事をするために看護学校に入りなおすこともなかったのだ。否定はしたくない。患者に寄り添い、看護を通して彼ら彼女らの人生を見てきた。入職してまだ一か月もたっていないが、まるで人生を何度もやり直したような気分だ。
会社員時代の新人とはまた違う世界観の違いに眩暈がしそうになる。
「あの……」
聞き覚えのある小さな声がして、アヤははっと顔を上げる。
「あ、会田さん」
「お仕事中ごめんなさい、主人も少し落ち着いたみたいなのですが……長男は明日も仕事だから帰したんですけど、私はちょっと心配なのでここにいてもいいでしょうか」
「ええ、もちろんです……そういえば、談話室にそういうときのための……」
そこでアヤは言い淀んでしまった。ルリの肩が震えている。きっと不安で押しつぶされそうなのだろう。あの若い息子は帰ってしまったと言うし、こういうときに彼女を一人にしていいものだろうか。誰か一人を特別扱いしてはならないと教わってはいる。でもこの場面は……。
「牧原さん?」
「いえ、ここにいましょう。椅子ありますからこっちへどうぞ」
「え、でも……」
「大丈夫です。だって、談話室だと一人になっちゃうじゃないですか。私でよければお話聞きます」
ナースステーションで話すこと
「主人とはお見合いで……あまり互いのことを知らないで結婚したんです。ああ、でも今もそうかもしれないわ……私、あの人のこと何も知らない……」
そしてルリはこう言い始めた。
「そのせいか……悲しくないんです……私って、非情なんでしょうか」
そんなこと、ないですよ。そう言うつもりだった。
知紗
「あれ、会田さん?……牧原さん、これはどういうことです?」
「え、いや、その……談話室だと会田さん一人になっちゃうし……」
「どんな理由があっても、個人情報があるんですから患者さんの家族とはいえ入れてはだめですよ」
「……はい」
「……でも今回は特別です。むしろよく引き止めてくれました」
「」
その時、内線が入った。
それからルリはなずな総合病院に行っていない。いや、行ってはいるのだが、アヤに会っていない。
和孝の通夜・告別式は折しも雨の中だったということは覚えている。斎場の葉桜が濡れていた。
喪主はルリがつとめたが、達夫がルリを気遣って相当頑張ってくれた。告別式の後にお礼の品をもって、達夫と二人でなずな総合病院に行った。心づけは受け取れないと最初は断られたが、達夫がどうしてもと頭を下げて、やっと受け取ってくれたと後で聞いた。その場にいたはずなのだがよく覚えていない。
はっと気が付いたら、家に一人だった。誰もいない2階建て4LDKの戸建ては、ルリにはあまりにも広かった。そうか、一人なのか。そう思ってリビングの窓を開ける。
外は雨上がりの空が広がり、新緑の匂いがした。