『仔にゃんが風柱の乳を吸う話』(仮)
血鬼術について詳しく調べて資料としてまとめたことのある人間がいるのかどうか、義勇は知らない。
これまでひとりもいなかったかもしれないし、いたとしてもその貴重な資料は現存していない。義勇自身、鱗滝から聞いた話と自分が目の当たりにしたもの、蝶屋敷で治療を受けついでに小耳に挟んだものがいくつかある程度で、特に詳しいわけでもない。……と思っている。
知っている範囲でざっくりと分けてみれば、直接的な攻撃として作用するもの。五感を狂わせたり、幻覚を見せたりするもの。空間に作用するもの。使用している鬼の五感を拡張するもの。
それから、血鬼術をかけられた者が、体を変化させられてしまうもの、といったところか。
そして、視認できない霧状の血を浴びれば、凪を編み出した水柱の義勇でもそれを斬って無効化することはできないのだ。
打ち潮で刎ね斬った頚がゆるく回りながら落ち、木の根に当たってぼごんと弾かれる。晩秋の山の中ともなれば、日々舞い落ちて積み重なる落ち葉で土の色は覆い隠されていて、鬼の頸が転がるがさがさした音が耳についた。遅れて聞こえたのは、体のほうが倒れた音だ。体格は義勇より小さかったが、それでもそれなりに重い音がした。
無表情で立つ義勇を、顔の上半分を占める巨大な単眼で睨みあげながら鬼が唸る。頚と胴がわかれてしまえば、肺から空気を吐き出せないので言葉を発することもできないはずだが、鬼は声帯さえ残っていれば平気で死に際にも言葉を遺す。
「かかったな? かかっただろう? どんな姿になるのか、見たかったぜえ……」
ぼそぼそと急速に灰になり、呆気なく吹き散らされていくのを見届けると、義勇は日輪刀を鞘に納めて走り出した。今日の哨戒はいつもより範囲が広い。恋柱と霞柱が負傷して蝶屋敷で養生しているので、他の柱たちでふたりの担当範囲も手分けして見回っているからである。
一瞬鉄錆混じりの変な匂いを嗅いだし、おそらくそれが今の鬼の血だったことも、何らかの血鬼術だったらしいことも認識していたが、基本的に血鬼術の大半はかけた鬼が死ねば解ける。解けずに効き目が残る場合もあるが、それも陽光を浴びれば消える。動けるうちは職務を全うするべきだ、と考えるのが冨岡義勇なので、鬼の気配がしないか、どこかから悲鳴が洩れ聞こえたりはしないかと感覚を研ぎ澄ませながら疾走していた。
特に不調を感じることもなく結構な距離を駆け抜けたので、鬼が死んだから発動しなかった可能性が高いな、と思った時だった。
次の一歩で体が浮いた。
いちいち意識していないが、このくらいの力加減で踏みこめば逆の足で踏むのはあのあたりになる、と体感的にわかっている場所を飛び越えてしまったことに驚き、勢い余ってくるっと宙で一回転して感じたのは、服が脱げた、という感触だった。
咄嗟に受け身を取って振り返れば、金釦の隊服に片身羽織を重ね、師と同じ脚絆で膝から下を締めた衣服が誰かに着られたままの形で落ちて来て、獣道にばさっと投げ出されるのが見えた。おそらく、内側のシャツも褌も身につけた形のまま隊服の内側にあるはずだ。
いきなり全裸になってしまったのにはもちろん驚いたが、服が脱げる血鬼術など聞いたことがない。とりあえず着直さなくては、と立ち上がって、目線の低さに困惑する。
顔の高さから地面まで、二寸くらいしかない。
四つん這いになっているからだ、と気づいた。それにしても近すぎないか、とも思った。義勇の体格なら、両腕をついた体勢なら寸ではなく尺の単位で地面から顔が離れるはずだ。
周囲の音がさっきよりもよく聞こえる。もともと夜の山の中で灯りも持たずに走れる程度には夜目が利くほうだが、いつもより格段にものがよく見えた。
確認しろ、と心の中で呟く。
己の体を、確認しろ。今すぐにだ。
確認した結果、夜の静寂に「なあああああん?!」という高い声が響き渡った。
誰が聞いても仔猫だと言い当てられる鳴き声だった。
朝日が昇れば哨戒も終了だ。
時透の担当区域で一体、自分の担当区域で一体、一晩に鬼を二体狩って「たったの二体かよ」と不満顔になろうとも、陽光が差す間は鬼は出て来ない。犠牲者がいなかっただけでも喜ぶべきなのだろう。
風柱邸に戻る途中で、犬が激しく吠えているのが聞こえて来た。こんな早朝に犬の散歩に出るのは朝が早い老人くらいのものだ。飼い主が倒れでもしたのかと思って吠え声を頼りに向かってみると、見事な巨体の土佐犬が木の上を見上げてしきりに尻尾を振りながらばうばうと吠え続けている。
「よォ、わん公、どうした?」
そう声をかけながら近づき、目線を辿って上を見れば、かなり高いところの枝に真っ黒い仔猫がいた。相当怯えているようで、限界まで身を縮めて耳もイカ耳になっている。
人間から見ても、土佐犬は獰猛な上にかなりの巨体で結構怖いものだが、不死川の片手に乗るくらいの仔猫にしてみれば、こんな猛獣に追いかけられたら怖いどころの話では済まないだろう。幸い、犬のほうは怒っている様子はなく、遊びたくてそわそわしているだけだ。
下から掬うようにして犬の顎に触り、頬、頚、とわしわし撫でてやりながら、
「あんまちっこいのいじめてやるなァ。おまえは遊びたいだけだろうが、体格が違い過ぎてあっちはおまえが死ぬほど怖ぇんだよ。いい子だからおうち帰んな」
と言ってやる。どちらかといえば、不死川は犬派だ。この土佐犬も、デカくてもこりゃまだ年齢的には成犬じゃねェな、と見当がつく。むしろ、成犬だったらこうも簡単に寄らせたり、触らせたりはしないはずだ。この犬種はおおらかな気質だが、主人以外には闘犬らしい獰猛さを剥き出しにして警戒するからである。
仔猫から不死川に視線が移り、好奇心でふんふんと手の匂いを嗅いでくる犬に対して、彼は怒鳴って追い払うのではなく、よしよしと宥めつつ飼い主のところへ戻るよう促した。
はっふはっふと息を弾ませ、尻尾を振りまくって不死川の足の間をぐるぐるぐるぐると何周か回ってから、犬がのしのしと去っていく。物わかりのいい犬で助かった。飼い主の人柄と躾が途轍もなくいいのだろう。
「おう、犬はもう帰ったぜェ。おまえも早く母ちゃんのとこ帰りな」
木の上の仔猫にもそう声をかけてみたが、こちらはまだまだ怯えきっていて動きそうにない。不死川の声には反応していて、丸まりながらもこっちをじっと見おろして来る。もの言いたげな眼ェしやがるなァ、と思ってから、ふと気がついた。
「……おまえ、高いとこ登りすぎて降りられねェのかよ?!」
成猫でもたまにあることだ。仔猫ならば尚更よくあることだろう。
溜息をつき、後頭部を軽く掻いた不死川は、仕方ねェなァと二歩下がってからどん、と踏み切って跳躍した。柱ならば人家の屋根まで飛び上がるくらいお茶の子さいさいなので、ひとっ跳びで仔猫が乗っている枝のひとつ下、反対側へと伸びている枝の根元に手をかけてぶらさがっていた。
「……このちっささでここまで登ったのか。すげェな」
猫には詳しくないものの、おそらくまだ完全には乳離れしていない稚さだ、とわかる。なかなか将来有望な猫だな、などと思いながら、下ろしてやるから来い、とぶらさがるのに使っているのとは逆の手を伸ばしてやると、これまた意外と素直にてのひらにちんまりと乗ってきた。
「よーしよし、賢いじゃねェか。ちっとばかしどすんと来るからなァ。懐に入っとけ」
常に開けっ放しの隊服の前から仔猫を入れて、枝から手を離すと同時に幹を軽く蹴る。なるべく柔らかく、と心掛けたがそれでも成人男性ひとりぶんの重さが木の上から降ってくれば着地はそれなりに重い衝撃を伴うもので、仔猫が飛び出さないように片手で庇いつつ地面に降りた不死川がまずしたのは、今の自分の行為を誰も見ていないかどうかを確認することだった。
よし、誰もいねェな、と安堵して、懐を覗きこむ。
小さな真っ黒い仔猫はおとなしく、丸くなったまま不死川の顔を見上げて来たが、鳴き声は発さなかった。
「で……親ァ、どこだ?」
この小ささなら母猫が近くにいるはずだが、犬に追われてそれなりの距離を走って離れてしまった可能性もある。
野良か飼い猫かもわからねェしなァ……としばらく考えこんでから、不死川が出した結論は、
「しばらくうちで預かるかァ……母ちゃん探してもらいつつ、見つからねェようなら里親探さなきゃならねェし、そのへんは適当に隠の誰かに頼んどくしかねェな」
だった。
柱は多忙なのだ。とはいえ、無責任なこともできない。ならば隠に伝えておいて代わりに母猫なり里親なりを探してもらいつつ、風柱邸を維持するために通いで来ている女中には不死川から話を通して仔猫の世話を任せるしかないだろう。
そして、その余計な手間のぶんは不死川が隠にも女中にも報酬を支払うのが道理というものだ。
「爽籟!」
正式に鬼殺隊の剣士になった時につけられた鎹鴉を呼ぶと、常に近くにいる雄の鴉が滑空しながら降りて来て不死川の肩にとまった。
「悪いが、ざっと上から見て一番近くにいる隠を呼んでくれや」
承知、と明瞭に言葉を発すると、爽籟は手入れの行き届いた艶やかな羽を広げてあっという間に上空まで昇り、二、三度円を描いて飛んでから目当てのものを見つけたようで、一直線にそちらへ飛んで行った。
鎹鴉にとってのひとっ飛びは、一般人に近い身体能力の隠にとってはそれなりに時間のかかる距離になる。不死川は悠然と歩いて風柱邸に帰り、風呂と食事の支度をしに来てくれていた女中に仔猫を見せて「しばらく預かるかもしれねェから、心得ておいてくれ」と頼むと、まずは食事を済ませることにした。
隠が頑張って走ってやって来たのは、ちょうど食後の茶を啜っている時だった。
風柱のお呼びだと鴉に告げられて、うっわよりにもよってこんな時にかよと困った後藤だったが、一緒にいた新米の隠に持っていたものを預けながら「こっちの報告はおまえが行け。風柱さまんとこにはおれが行くわ」と言って、そこで別行動になった。
柱は怖い。
それはもう、滅茶苦茶に怖い。
柱合会議の時に本部に詰める当番になったことのある隠は、九人揃った柱の凄まじい圧をよく知っている。単体でも迫力がありすぎて怖いのに、九人全員が一堂に会している様子はある意味別世界であまりにも怖すぎる。
特に、無口で不愛想な水柱と、些細な失敗でもねちねちと詰めて来る蛇柱と、見た目からしてどこの悪鬼羅刹さまですかと言いたくなる凶暴さを剥き出しにしている風柱が本当に怖い。
(特に風柱が怖いんだよ! もう立ってるだけで暴力の匂いがしてて怖ぇのよ! 目が合おうもんならうっかり洩らしそうになるくらい怖ぇんだよ不死川さまはァ!!)
そんなおっそろしい男のところに、新米の隠をひとりで行かせるのはさすがに人としてどうかと思う。ので、死ぬほど怖かったが後藤がこちらを受け持つことにしたのだ。
お待たせしすぎれば機嫌を損ねる、とビビりあがり、必死で走って風柱邸に駆けこんだら、
「わざわざ悪ィな」
と、目の前で客用らしき湯呑にじゃばじゃばと柱手ずからお茶が注がれてお出しされる、という想定外の展開になり、ありがとうございますと湯呑を取ったものの、冗談抜きに手が震えてお茶がたっぷんたっぷん波立った。
(の、飲まなきゃ殺される……!)
オレのいれた茶が飲めねェってのか、と凄まれる未来を予想していっぱいいっぱいになっていた後藤は、面布の上から湯呑に口をつけてちょっと零す、という失敗をした。
「……それ、隠はよくやるよなァ」
不死川的にはよく見かける光景であるらしく、別に怒りもせずにそう言って、布巾を渡してくれた。賭けてもいい、風柱邸でお茶を出された隠は全員、今の後藤と同じ心境で同じ失敗をして同じように死にたくなっている。絶対に。
「し、失礼いたしました……っ! それであの、御用は何でしょうか」
「あー、雑用っつか、本来の職務じゃねェことを頼んじまうが、こいつの母親を探してくれねェか」
ぐいと開いて見せた懐に、小さな黒猫が入っていた。ねこ……と固まっている後藤に不死川が説明したのは、この仔猫がいた場所と状況で、おそらくあの近辺に親と兄弟たちがいるはずだ、という話だった。
「それでよォ、もし見つからなかったら、里親を探して渡してやってもらいてェんだ。さすがにオレが飼うのは無理だ。しばらく預かるにしても、オレァ昼間は寝てるか鍛錬してるかで、夜は任務か哨戒でいねェ。長期任務が入りゃ留守にしちまうから、女中に猫の為だけに通ってくれたァ言いにくいしよ」
まともに構ってやれないし世話もしてやれないから飼えない、という判断はわかる。猫大好き岩柱ですら、自分で飼おうとは絶対にしないのだ。不死川が自分で里親を探すのも、無理だ。柱が忙しいのは後藤もよくよく知っている。
かと言って、犬から助けて木から降ろしてやったんだから、あとはテメェで生き延びて親のとこまで帰れ、とその場で仔猫を放り出して来るのも無責任極まりない。関わってしまったからには、相応の責任が生じるのだ。
確かに、仔猫の親探しも里親探しも隠の職務ではないが、この場合は協力してもいいだろう、と思った。畏まりましたと引き受け、腰の物入から帳面と筆を取り出してささっと仔猫の絵姿を描き、特徴を文字でも書き入れる。
「よく見ると、眼が蒼い子なんですねえ……」
「こいつのは、もともとの色だろうなァ。生まれたばっかのやつはもっと青いこともあるが、育てば色が変わってくるしよ」
このくらいまで育っていてこの色なら、成猫になってもこの色のままだろう、というのが不死川の見立てで、後藤もそうですねえ、と頷いた。
「おい」
「はっ、はい?!」
不死川の声音が変わり、一瞬和やかに会話をしてしまって気を抜いていたぶん、びくっと背筋を伸ばして居住まいを正した後藤に、
「他に隠としての仕事があんなら、そっちを優先しろォ。こいつはオレが個人的に頼んじまったもんだ。順番は後回せ」
と釘が刺された。
はい! と返事をしてから、一応言っておいたほうがいいのでは、と思い出して、後藤はおそるおそる鎹鴉に呼ばれる直前までのことを不死川に報告した。
「実は、その……水柱さまのお召し物が見つかりまして」
「ああ?」
ひっ、と喉が鳴りそうになるのをどうにか堪える。不死川が水柱の冨岡義勇に対して「あいつ、いけ好かねェ」と思っているのは鬼殺隊の剣士も隠も皆知っていることで、名前を耳にしただけでも機嫌を損ねることは想定済みだった。
「そ、それで、ご本人がまだ見つかっていないんです。血痕やら戦闘の痕跡やらは全然なくて、山の中の獣道にお召し物が、なんというか……お召しになっていた形のまま、中身だけしゅっと消えたーみたいな有様で落ちているのを、冨岡さまの鴉に案内されて見つけたのが半刻ほど前でして。あっ、その件については、別の隠がお館様へ報告に行っています! 行ってますんで!」
ぎらっと光って血走り始めた不死川の目に、全身の汗腺から冷たい汗を噴きながら慌てて付け加えると、驚かせんじゃねェと唸られた。
「捜索するとしても、お館様の采配で隠に命令があればそちらを優先することになりますので、ご承知おきください」
「ああ。当然だァ。……そうだなァ、冨岡探しが優先だが、こいつの母親を探すのは今日を含めて三日、それを過ぎたら里親探しに切り替えてくれ。頼んだぜェ」
「はっ!」
びしー! っと正座からの深々としたお辞儀をキメて、それでは失礼いたします! とその姿勢のままざざざざーっと後ろに下がって部屋を出る。襖を閉め、立ち上がり、走らないようにでもできるだけ速足の摺り足ですささささっと玄関に向かうと、後藤は最速で草鞋の紐を結んで風柱邸を飛び出した。
「うおおおお怖かったー! 怖かったあああ!! 柱怖ぇえええ!!!」
小声で叫ぶという器用なことをしながら、隠が常駐している詰め所まで走って戻る。
結論から言うと、後藤は仔猫の里親探しまではしないで済んだ。
その代わり、とんでもない話を耳にして度肝を抜かれることになるのだが、それは数日後のことである。