鼻腔をくすぐる甘い香り。
 街でもこのESビルの中でもここ数日よく嗅ぐ匂い。
 チョコレートの匂い。
 正確にはココアとバターと小麦粉と砂糖が合わさって、焼かれて行く時の甘く幸せな香り。
 それに重なるようにして、美味しそうなにおいがプラスされる。
(……これマヨちゃんが作ってるっすか?)
 匂い誘われるように、ニキが寮内の調理室を覗くと予想通り、そこにはマヨイがいた。
 そして、先客も一人。
「マヨさん、何作ってるの〜?」
「ガトーショコラですよぉ。
 バレンタインの特集で至る所でお菓子のレシピを見ますので、私も皆さんに何か作りたくなってしまきまして」
「そうなんだァ、ラブ〜いね♪」
「藍良さんにも差し上げますので
食べてくださいねぇ」
 キッチンの中で楽しそうに会話をしていたのは、マヨイと藍良の二人だった。
 話から察するに藍良もつい先ほどこの部屋を覗きに来たらしい。
「それにしてもマヨさんって器用だよねェ。
 いま作ってるのユニットのロゴマークのアイシングクッキーでしょ?
 そんな細かい模様、よく書けるねェ?」
「ふふふっ、ケーキの上に飾ろうかと思いまして。
 細かい作業はもともと好きなので♪」
(マヨちゃんの手作りケーキとか、絶対美味しいっすね。
 いいっすねぇ。
 僕も今から何か作るっていうのもいいっすね)
 本当なら声をかけようと思ったはずなのに、タイミングを逃してしまった。
 そして、立ち去るタイミングも逃してしまい、ニキはなんとなく聞き耳を立てて、様子を伺ってしまった。
 マヨイはアイシングの絞り袋を片手に集中しており、その隣で藍良がしゃがみ込むようにしてオーブンを覗き込んだ。
「あ…っ、大きいのと小さいのがあるゥ。
 マヨさん二段にするのォ?」
「小さい方は椎名さんに渡そうと思ってるんです。
 なにかと差し入れを頂けたり、お世話になっていますのでぇ」
(僕っすか!?)
 マヨイの口から自分の名前が出てきた瞬間、心臓が跳ねた。
 確かに何かにつけてマヨイを構ってしまった自覚はあったが、好意的に捉えられているとは思っていなかった。
(……僕が勝手にマヨちゃん、マヨちゃんって懐いてるつもりだったっす)
 好意に対して好意を向けられている事実を噛み締めて、胸の中に広がる温かい気持ちを噛み締めているうちに、いよいよ中に入れなくなってしまった。
 サプライズも知ってしまった今もう気付かれることなく去るしかない。
 踵を返してニキは来た道を戻ろうとしたところだった。
「なんだァ、一人だけ特別とか本命チョコなのかと思ったよォ。
 すっごいラブいじゃんって思ったのにィ」
「あ、藍良さんッ!!
 そ、そんなんじゃありませぇん!
 変なこと言わないでくださぁい!」
「そんなこと言って、マヨさん顔真っ赤だよォ〜?」
 揶揄うようにくすくす笑う藍良の声とそれに抗議するマヨイの声を聞いて、思わずニキの脚が止まる。
(……うわぁっ!?
 うわっ……そ、そんなんじゃないって分かってるっすけど!?
 そんなんじゃないって分かってるっすけど!!
 明日、どんな顔して貰ったらいいんすか!?)
 急に身体の中の血が、みんな熱をもって早く流れ出した。
 目の奥が潤んで、熱い頬を腕で隠して、とりあえず中の二人に目撃されたら死活問題のため、ニキは足早にその場から離れた。
(……これは友チョコ。
 それ以上でも、それ以下でもないっす。
 落ち着け、自分)
 マヨイから渡したいものがあるからとメッセージが届いて、向かう道中、今日一日何度も反芻した言葉を再度唱えた。
 昨日、その瞬間まで考えたこともなかったはずなのに、本当に本命チョコだったらどうするか?と自分の中で問いかけた時に、悪くないっすねという結論まで出てしまった。
 おまけに落ち着かない気持ちを紛らわすために、自分もマヨイへのチョコレートを作り、見栄え良くラッピングまでしてしまった。
(いや、本当、何やってるんすか、僕は……。
 なんでマヨちゃんにだけわざわざ作って……いや、これも僕からの友チョコなんで……それ以上の意味は、な……)
 待ち合わせに向かう曲がり角を曲がって、その先にマヨイがいるのを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
 考えていたことが飛んで、自分を見て少し嬉しそうにするマヨイを見たら、もうどうしたかったか分からなくなってしまった。
「……椎名さん……あの…突然すみません。
 これ……日頃からお世話になっているのでぇ」
 白い手提げが手渡され、中を覗くと透明なフィルムでラッピングされたガトーショコラが見えた。
 上品に粉砂糖を纏っている。
「……本命…」
「……えっ?」
「いや、な、なんでもないっす。
 なはは〜!いいんすか!?
 めちゃくちゃ美味しそうっす」
 慌ててそう誤魔化すとニキは入れ替わりに自分の手持ちの袋を手渡した。
「僕からもマヨちゃんに。
 どうぞっす!」
「……えっ、いいんですか?
 そんなぁ……私なんかがいただいても、いいんでしょうかぁ?」
「マヨちゃんにしか作ってないんで、受け取って貰えないと困るっすよぉ」
 言った後にそこまでバラさなくても良かったと気づき、慌てて言葉を重ねようとした。
 マヨイの顔を覗き込んで、その瞬間、ニキの中で何か言おうとしていたはずの言葉は消えてしまった。
(……あっ…嘘……っ、顔、真っ赤……)
 予想よりもずっと赤い顔で、じっと手元にある袋を見ているマヨイを見ていたら、もう何も言えなくなってしまった。
(……あっ……ダメっす。
 可愛いすぎ……)
 急に全部自分の気持ちを理解してしまって、言い訳や葛藤がチョコのように甘く溶けて消えた。
 もうこうなったら、白旗を上げるしかないとニキは覚悟を決めた。
「……本命チョコっす」
「……わ、私もですぅ」
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