「文人悪食」(嵐山光三郎著)を読んで、好きなところを引用してまとめとく読書メモ
簡単に言えば、37人の文豪たちの食事ぶりを本人や周囲の人が残した記録などから推測し、彼らの精神面に絡めて語っていく本。
巻末のあとがきと参考文献の多さに圧倒される。めちゃくちゃ調べたんだなぁ。
名著「読みたいことを、書けばいい。」(田中泰延)にもあったけど、何かを書く時って調べるの大事。
調べることは、愛することだ。自分の感動を探り、根拠を明らかにし、感動に根を張り、枝を生やすために、調べる。
 
正岡子規
「病牀六尺」「仰臥漫録」読んでみたいな。
頁64 (拒食症っぽい症状が出て)私は、「食べる力」もまた精神力であることを知った。
 
そう!食べるのにも気力が要るんだ。
私の場合は、胃炎になってみて初めてそれがわかった。食欲が湧くということはありがたい。
与謝野晶子
 頁131 多情な鉄幹は、昔の恋人であった登美子を思い出している。やけぼっくいに火がついた。「常世物はなたちばなを嗅ぐごとし暫し絶えたる恋かへり来ぬ」とも歌っている。しばらく絶えていた恋が、たちばなの花の香りのように来る、と歌われたのでは、晶子は動揺する。
 
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」
この箇所を読んで、私はこのうたを思い出した。一番好きな恋の和歌。
頁136   長男光の妻迪子(みちこ)夫人の回想に、ほうれんそうのごまあえの話が出てくる。晶子は、迪子夫人が作ったほうれんそうのごまあえを箸ではさんで、「おー、気持の悪いこと、まるで青がえるのはらわたのようですね。切り方が長すぎるのです」と言った。
 
与謝野晶子にはパワフルかつおおらかで優雅なイメージがあったので、この章は全体を通して意外だった。私なら、姑さんにこんなディスられ方したら2日くらい泣いちゃうかもな…はらわたって…
斎藤茂吉
 頁154 自分では、「食物について、自分は取りたてて云ふほどのことはない」と書いている。それは、「食通、即ち食物の通人が書いた書物などを見ると、実に微に入り細に亘(わた)り、非常に愉快に感ずるけれども、自分はさういふ場合に逢著(いあわ)すればそれで感謝するし、逢著せなくてもそれで我慢のできぬといふことはない」。(中略)粗食でもいっこう気にとめない。
 
好感が持てる。私もあまりこだわりがない方だけど、この人はそれが嫌味になってないところがいいな。
頁160 それは、茂吉の歌づくりが「生きている意味を自分に言いきかせる」作業の結実だからだ。(中略)ひたすら生への骨太の愛惜にみちている。 
 
この文を引用したかった。素直で清潔な態度を感じ取って、しっかり言い切る著者もすごい。いい本だと思った。
種田山頭火
頁183  十月二日の日記に「犬から貰う——この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくわえて居った、犬から餅の御馳走になった。/ワン公よ有難う」とあり、(中略)十月五日の日記には「帰庵すると御飯を野良猫に食べられていた」とある。十月六日の日記には「けさは猫の食べのこしを食べた、先夜の犬のことをもあわせて雑文一篇に書こうと思う。いくらでも稿料が貰えたら、ワン公にもニャン子にも奢ってやろう、むろん私も飲むよ!」と。
 
ワン公とニャン子。かわいい。いやー、貯金とか未来とか考えず、今の楽しさに全振りしてる感じいいよなぁ。
この章は、山頭火は人生を楽しんだのだと、快楽主義者だと言い切るところが爽快でいいね。
志賀直哉
「剃刀」読んでみたいな。
 頁196 直哉は小説の構想がまとまることを「かたくりがかえる」と言った。脳の中で白く濁っていたかたくりの水分に、熱が入ると、しだいに固くなり透明になる。それをさして言ったのだから、直哉にとって、小説は観念の料理という意識があったはずである。
 
「かたくりがかえる」これ、わかる気がする。固まって透明に澄んでいく感覚。
高村光太郎
頁207〜208  畑でとれたさやえん豆を「私は口笛を吹きながらその筋をとる」という。「もぎたての近在ものが笊に盛られた溌剌さは、まるで地引網で引き上げた雑魚のやうにはね返りさうだ」と。
 
「筋さへ取れば洗ふのは至極簡単。此を稍塩を強く利かした塩うでにして、さつとあげて卓上でオリーヴ油と、モルトヴェニガァと、胡椒とで食ふ味はまつたく初夏の最上の贈りものだ。油は甘みを出し、酢は味を引きしめる。さやえん豆は醤油なんかで煮てはいけない。此のサフアイヤ色の灯のともつたのに限る。」
 
森茉莉が男になったような文章だと思った。人はこれくらい晴れやかに生活を楽しめるのだ。
谷崎潤一郎
頁257  三島由紀夫の言葉を借りれば「谷崎文学は見かけほど官能性の全的是認と解放の文学ではなく、谷崎氏の無意識の深所では、なほ古いストイツクな心情が生きのびて」いるところがあり「女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は微妙に侮蔑と結びついてゐる」ことは見逃せない。
 
三島由紀夫はどこにこれを書いたのだろう?高校生の時にこの文をどこかで読んで、しらみつぶしに探してもどの谷崎の本にも書いてなかった。夢の中で見たのか疑うくらいおぼろげな記憶だった。それ以来この文が頭に残っていたから、ぜひ詳しく読みたい。中央公論の全集とかかな?
菊池寛
頁285 (『私の日常道徳』より )「総じて私は人が物を呉れるとき遠慮はしない。お互いに、人に物をやったり快く貰ったりすることは人生を明るくするからだ。」
 
確かにな!ほがらかとはこのことだ。せっかくくれるんだし、受け取るなら卑屈に遠慮しながらじゃなくてカラッと嬉しく受け取りたいよね。あげる側でも、遠慮されるより喜んでもらえた方が嬉しいし。
岡本かの子
頁299〜300 一平の回想によると(中略)「棘を愛し、与へられた苦しみには価値転換をもつて復讎する本能を持つ女史は、このときとはつきりいえまいが、大体このへんの作品(『家霊』のこと)を思ひついたのだらう」と言う。
 
与えられた苦しみに価値転換をもって復讎する、とは谷崎潤一郎の方法である。谷崎は「醜女で趣味が悪い」と、かの子を嫌った。かの子は谷崎を慕っていた。(中略)「醜女で趣味が悪い」という苦しみを価値転換すれば、「美人で趣味がいい」ことになる。現実の生活で、かの子はその転換を実行した。いくら世間から嘲笑されようと、かの子にとって、自分は「美人で趣味がいい」女なのであり、かの子に奉仕した一平ほか若い恋人たちも、その価値転換のなかに、自虐を超越した快楽の地平を夢みていたのではないだろうか。このねじれた薄桃色の嘘も文芸の魔道なのである。
 
文芸の魔道というより、1人の人間が自分の苦しみを喜びにしてみせた凄みだと私は思う。魔とか妖しさよりも、たくましい清らかさを感じる。
宮沢賢治
頁356 (『雨ニモマケズ』について)「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされている行は、手帳には、はっきりと「ヒドリ**」と書いてある。「ヒドリ」は「日取り」で、「日雇い」の意味ではないか。あるいは、なにかの予定の「日取り」で「葬式の日取り」なのかもしれない。賢治はこのメモでも、間違った部分は七カ所を自ら訂正している。誤字は多いが博識の人である。賢治が自ら「ヒドリ」と書いたのだから、「ヒドリ」とはなにかを調べようとするのが後世の人の礼儀というものだ。それをせずに勝手に「ヒデリ」と決めてしまうのは、賢治という詩人に対する崇拝と蔑視があったからではないだろうか。人は詩人を尊敬しつつ、片方の目で低く見る。
 
小学生の頃の記憶だからあやふやだけど、「永訣の朝」の「あめゆじゆとてちてけんぢや」に「雨や雪を取ってきてください、賢治や。」という訳註がついていたのを教科書で読んで、違うだろうと思ったのを覚えている。あれは「あめゆじゆとてちてけんぢや」と読む以外にないのだ。口に出してみればわかる。
川端康成
頁369 晩年、六十二歳のときの小説『古都』は、睡眠薬を飲みながら書いた、とあとがきで告白している。「眠り薬に酔つて、うつつないありさまで書いた。眠り薬が書かせたやうなものであつただらうか」として、小説『古都』を「私の異常な所産」としている。 
 
「古都」を読んで、ちりめんみたいにぎっしり詰まった感じを覚えたからなんか意外だなぁ。
梶井基次郎
頁382~383  梶井は、「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!」と喝破した。「屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のような液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸ってゐる。」と。
 
(上記の)モチーフは、ボードレール『パリの憂愁』に「腐肉のため肥えふとった華麗な花々の絨毯」の記載があり、またムンクの絵に、死体が埋まる「新陳代謝」の樹がある。そういったヒントを、湯川屋で三好達治と話し、一晩で書きあげた。
 
桜の樹のモチーフはここからだったのか。初めて読んだ時衝撃だったな。
坂口安吾
頁451  安吾がヒロポンとアドルム(覚醒剤と睡眠薬)に走ったのは、時代の不安という背景がある。(中略)しかし、安吾の料理を見ていくと、そこにあるのは、むしろ濃厚な合理性である。ドロドロしてコッテリしているが、純正なエキスである。とすると、安吾のヒロポンとアドルムは、安吾の合理精神からくるものとみたほうが正しいことがわかる。
 
安吾は言う。「私は仕事中はねむらぬ。仕事のあとは出来るだけムダなくねむりたい」と。そのためにはヒロポンとアドルムが有効であった。安吾にとってヒロポンとアドルムは、快楽や安逸や堕落とはまるで無縁であって、合理的薬剤であった。安吾は無頼ではあったが人一倍の勤勉家で、ワーカホリックである。 
 
薬にはこういう使い方もあるのか。かといって自分がそうなりたいとは全然思わないけど、このスタイルはカッコいい。
深沢七郎
 頁498~499.506 深沢さんは「自分は母から出た屁のようなものだ」と言っていた。「小説は自分の屁だ」というのも深沢さんの持論だったから、小説は屁のまた屁ということになる。(中略)深沢さんはギターで「楢山節」を演奏しながら、いつもの屁の話をした。人間が生まれるのは屁と同じ生理作用で、母親の胎内に発生して放出されるのだ、と。だから人間が生まれるのは大したことではない。
 
屁の話。深沢七郎の文章はひとつだけ「いのちのともしび」を読んだことがある(旬のいちごについての短いエッセイ)。
軽妙で、どこか土臭くておもしろかった。あれが屁のように出てきたものだとしたら、それも嬉しい。
私はつい、人生とかについて深刻に考えてしまいがちだから、これくらい振り切った軽い感じのものを読めて嬉しくなった。
 頁509~510 「女に人間的魅力を感じない、女に感じるのは性欲だけだから、こういう自分をどう考えたらいいか」という質問があった。深沢さんの答はこうであった。「オンナとは、(中略)しずかにさわれば、ウーとか、スウーとか音をたてる。とてもオモシロイ肉体なのです。だから、オンナを好きなのです。(中略)サカナにはホネがあるので食べるときはそこをとり去ってうまいところだけ食べます。だから貴君もオンナの胸くその悪い点はそんなふうにして下さい」
 
私は女性だし、こんなことを面と向かって言われたらきっとぶん殴りたくなると思うが、読むぶんにはおもしろい。サクッとしたわかりやすい語り口がいい。難しく考えず、別においしいところだけ食べればそれでいいよな。
おもしろかった。いい本だった。
それに、こういう読書メモみたいなのをずっと書いてみたかったから、書けて嬉しい。
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初公開日: 2021年02月04日
最終更新日: 2021年02月15日
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「文人悪食」という本を読んだあとの読書メモです
短編(主シド)
DQB2の主人公×シドーのSS(全年齢)です。いやー書くの久しぶりだ〜
えめり
Zephyranthes 星影
Zephyranthes 星影 第四話
neoluce
m
ウォーミングアップ
散文を書き散らします。手が慣れてくるまで。
mee