「大丈夫?」機械的な音の中、心地いいトーンで涙が少しだけひいた。当たり前のように電話に出て、私のめんどくさい話をうんうんと聞いてくれる。次には諭すように、「大丈夫やで、〇〇は」なんて甘い声をかけないでほしい。
「ありがとう、正門くん」「ん、ええよ」「大丈夫?」「ん?」「ねむくない?」「大丈夫よ」「正門くんこの時間寝てるでしょ」「最近そんな早寝ちゃうねん」「最近?」「ようこういう時間に呼び出されるし」「そうなん?」「…ん、」「じゃあもうそろそろ切ろう」「〇〇はもう大丈夫なん?」「んー……」「んー?」「……大丈夫」「そか」
正門くん、から良規に呼ぶタイミングが変わらないあたりで別れたちっぽけな関係。女の子が絶えないイメージなんて無かったのに、私と別れて何週間が経ったのだろう、そんなに離れてないだろって思うくらい私はまだ、正門くんのことが頭から離れないのに、正門くんはもう誰かのものになろうとしていた。
お風呂に入って、ベッドに潜り込んだ。正門くんと別れて女の子っぽくなくなった部屋には飾ってるだけの加湿器が置いてある。
ムワッとするのが嫌いだから正門くんと入るときにしかスイッチを入れなかった。ラベンダーのいい香りに包まれたふたりの距離に、改まった「キスしていい?」の確認が無駄なこととか、唇を吸う音がいやらしく聞こえて、そういうことをしたりとか。
思い出したくもないのに、頬に流れ落ちる涙の分だけ思い出があるんだ。枕元で振動した携帯を、眩しさで目を細めながらロック解除した。「正門良規」という文字に、今でもドキッとしてしまうくらいだ。さっきも少し聞いたけど、また聞きたいと思ってた。
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「……もしもし?」「ごめん、こんな時間に」「ううん、大丈夫」「今、雨降ってきてさ」「うん、すごいね、けっこう」「終電、もう無くなってしもて」「…うん」「〇〇ん家、行ってもいい?」「……ネットカフェ行きなよ」「えー」「……何分くらいで来るの」「…もうあと、数分」「何分って聞いてるんだけど」「もう寝る?」「うん。ベッド入ってる」「…急ぐ」「ん、」
何分くらいで来るの、って聞いたとき少しだけ笑ったような鼻声が聞こえた。来てもいいなんて言ってないけど、顔見れたら嬉しい。急ぐって言った正門くんの声が、ふわふわしていて、たぶん、お酒を飲んできた帰りなんだろうと時計を見て分かった。
0時過ぎに聞こえたピンポンの音に少しだけ肩がすくむ。押すのは彼しかいないと分かっているのに、おそるおそるチェーンがかかったままドアを開けた。
「……おまたせ」「……めっちゃ濡れてるじゃん」「ん、せやねん、ふられてしもた、」「なにしてるのこんな時間まで」「お酒飲んでた」「……」「……あの…〇〇さん?これ、外してもらえませんかね」
チェーンを外すと、隙間に足を入れて入ってきた正門くんから女物の香水の香りがした。女の子らしい、甘ったるいにおいじゃない。でも鼻がつん、と引きつるようなかんじ。「お風呂。」「…」「借りるな。」「…うん、」「タオル新しいの使ってええ?」「…いいよ」
正門くんがお風呂場に行くのを見て、私は寝室に戻った。ドアの下の隙間から、あっちの照明の光が漏れるのが何となく懐かしくて、わたしは家もタオルの入ってる棚の位置も、シャンプーリンスもボディーソープだってずっと一緒なのに、正門くんが私の知らないところで知らない正門くんになっていくのが、なんだか悲しい。
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頭上でドアをひく音が聞こえた。控えめに前髪を撫でる指先があったかくて、狸寝入りをつづける。
そのまま指が耳へと這っていく。心地よくて、本当に寝ちゃいそうなところに、正門くんの声が聞こえる。ふわふわした声で。「なあ、俺の寝るとこ無いやん」と笑っている。
背中側から無理やり入ってくる正門くんは、当たり前のように体温が高くて暖かいし、別れてからもひとつのベッドでふたり一緒に寝ることはやめなかったのは、私が本当はまだそうしてたかったのと同時に、正門くんもそうだったらいいな、なんて思っていたけれど。
お腹に回す男らしい骨ばった腕が強く引き寄せられて、耳元で「おやすみ」だけ、ささやく。真っ暗な部屋でよかった。きっと正門くんには、耳があつくなっているのも赤くなってるのも気づかれていないだろう。胸の下にある正門くんの腕が、何かの間違いで上に動いたらなあって考えてしまう私はとても最低だと思う。
夜中、冷えた足が絡みついて、動かしたくても動かせないことに目が覚めた。寝返りを打つと至近距離に正門くんがいて、目を瞑って寝ていて、向かい合わせのあいだに数センチもないことにどきどきしちゃって、今日飲んだ相手のだろう香水の匂いが消えていて、わたしは正門くんの彼女でもなんでもないのに優越感に浸って。
少し開いた唇に、指で遊ぶと鼻をすすった。かわいくて、全然乾燥していない肌に羨ましく思って、また指の腹で頬をなぞると、くすぐったいのか肩をすくめた。「まさかどくん」かすかすの私の声だけがふたりのあいだにこぼれ落ちる。名前を呼んでも起きてないから返事もないのに、繋がれていた右手だけが微妙に動いた。外は雨が窓を叩き、私とおそろいの香りを身に纏った正門くんがここにいることにいつも、どうしても独占欲が生まれる。