***
夢を見た。
夢の中で、古池は小さな傭兵団を切り盛りしていた。個性的な仲間たちと、任務のために各地を飛び回る日々。古池には見慣れぬ光景ばかりのはずだが、不思議と目を凝らすと木々の葉一枚までもをつぶさに観察できた。夢の中の古池は、身の丈ほどもある金の大剣を振り回していた。都合のいい夢だからか、重さは感じない。それどころか、古池の肉体は張り詰めた筋肉に覆われていて、今ならこの体でどんな敵でも倒せる気がしていた。
ふと思い立って立ち止まる。振り返る。ここにいるはずの男がいない。いや、元よりあの蒼髪はこの国にはいなかったはず。それでも、今いる人工物に囲まれた都会の喧騒よりも、自然豊かなこちらの方が、あれには似合うと──。
***
翌朝、古池が目を覚ますと、やはりというか、隣のせんべい布団で寝ていたはずのマルスの姿はなかった。
なんとなく予兆はあった。昨夜の食事前から、マルスの様子はおかしかった。一旦は持ち直したように見えたが、結局古池が明日の講義のために早く寝ると宣言するまで、普段の溌剌としたコスプレイヤーの雰囲気は全くなりを潜め、何かを警戒するようにしきりに窓と玄関を繰り返し見ていた。あまりの豹変ぶりに、古池は口を挟む勇気もなく、それでも部屋の灯りを落として横になるとすこんと眠ってしまって、マルスが影も形もなくなったことに気付くこともなかった。
貸した服は几帳面に畳まれて、同じように畳まれた布団の上に重ねられている。窓際に干したコスプレ衣装一式もない。当然部屋のどこにも、マルスが隠れているような形跡はなかった。
玄関を覗き込むと、複雑な意匠のブーツもなくなっている。だが、玄関のカギは二重に締まっていた。はて、と不思議に思って部屋の中を見渡すこと数瞬、ワンルームを横切ってベランダに続く扉を確認すると、扉は閉まっているものの、錠だけが降ろされた状態になっていることに気が付く。ここから出て行ったのだと察せられた。
「…って、ここ三階だぞ…!」
慌ててベランダに飛び出すと、昨日の土砂降りが嘘のように今朝の空は青く澄み渡っていた。昨夜の雨で濡れたベランダに誰もいないのを確認してから、生唾を呑み込んでベランダの下を覗き込む。まさか、ここから身投げしたなんてことは、と嫌な想像が瞬時に古池の脳内を駆け巡ったが、閑静な住宅街の通りに面したマンションの前には憐れな身投げ死体などなく、事件性を感じるような人だかりもなかった。遅れて、初めて会った日のマルスの人間離れした身体能力を思い出す。あるいは、そのまま向かいの民家の屋根に飛び移ったのかもしれないし、あるいは近くの電信柱を足場に難なく地面に着地したのかもしれない。ひとまず想定していた最悪の事態は否定されて、安堵するやら気落ちするやらで古池はとぼとぼと部屋に戻る。目を覚ましてマルスの姿がなかった時、やはりという気はもちろんしていたが、何故そうするのかという明確な答えを古池は持たなかった。確かに、朝になったら出て行ってもらうとは言った。それでも、昨夜マルスと友達になれると思うと告げた古池の言葉に嘘はないし、それに応えようとしたマルスとてまったくのでまかせを口にした訳ではないだろう。ならば、挨拶もなしに黙って出ていくような真似をされるほど、二人の関係は冷え切ってはいないはずだと古池は思う。となると、昨日の電話が原因だろうか。マルスは、電話の相手よりも電話そのものの方に気を取られていたように思えた。確かに、古池と共にこの部屋に足を踏み入れたマルスは、コスプレ道具以外に所持品など持っていなかったはずだ。マルスの衣類を洗濯機に突っ込んだ古池は、いまさらになって何故あの瞬間、マルスはスマホを持っていたのか疑問に思った。
マルスのいない部屋は妙に寂寥として寒々しかった。改めて室内を見渡すと、件のマルスのスマホが机の上に置きっぱなしになっていた。忘れていったのかと、近付いて手に取ろうとした古池は触れる寸前で手を留める。スマホが真ん中で真っ二つに割れていた。割れたというのは正しくないかもしれない。その鋭利な断面を見れば、即座にマルスの持っていた長剣が連想された。本人は、真剣だと言っていた。あれだけの長さと重量のある刃物なら、確かにスマホくらいバターでも切るように切断できるかもしれない。
一層謎が深まる。自分の持ち物を何故破壊して、そのまま古池の部屋に置いていくのだろう。古池は考え込むように腕を組み、うろうろと部屋の中を動き回った。マルスがスマホを持っていってくれたなら、連絡を取る術が残されていたかもしれない。それとも、メモの一つでも残していってくれたなら、古池もいくばくか納得しただろう。だが、そういったものは一切なかった。ということは、マルスは古池に追いかけてきてほしくないということなのではないか。もっと言えば、もう顔も見たくないと思われている可能性もある……?そう考えると、ことさら古池は凹んだし、本当なら、さっさと大学に出かける支度をすべき時間だったが、なんとかそうではないのだと自分を納得させる他の手がかりを見つけないことには、別のことにかかずらっている余裕はないとすら思えた。
「…痛!」
そんな折、唐突に足裏に激痛が走り、古池は一人で大声を上げる。慌てて足を持ち上げ、痛みの原因を探す。幸い、血も出た様子はないが、小さなピアスが足の裏に食い込んでいた。
はて、古池は耳に穴など開けた覚えはない。当然それ以外の体のどこにもピアスを付ける場所はなく、あるいはピアスを忘れていくような友人もついぞこの部屋を訪ねたことはない。いや、一人だけ。あまりしっかりと確認はしていなかったが、もしかしたらマルスが耳に何かしらの装飾を着けていたのかも……。
記憶を辿っても確かなことは何も思い出せなかった。よくも悪くも派手な男である。目の覚めるような蒼い髪に始まり、甲冑とマント、そして腰に提げた長剣とくれば、古池が彼の耳にピアスがあったかどうかなど見落とすのも無理はない。だが、そうであってもなくても、構わないと古池はその金色のピアスを握りしめた。どういう訳か、古池の前から姿を消してしまったマルスを、これがあれば追いかける口実になる。口実などなくてもこれまで散々世話を焼いてきた古池だったが、ここにきて怖気づいている己がいることを古池は自覚している。致命的にマルスに拒絶されるのではという不安が、彼に真意を問い質そうとする古池の口を重くする。だが、それもここまで。古池はひとまず寝間着から外に出れる程度の服に着替え、学業に必要な鞄を持たずに外に飛び出した。
マルスが行く場所の心当たりなど一つしかない。一路、古池の足はいつもの公園へと向かう。
そんな短絡的な見通しに任せて目的地に辿り着いた古池の目に飛び込んできたのは、普段の閑静な風景とは一転して大勢の野次馬に囲まれた公園入口の様子である。何事か、と人の少ない生垣の合間から公園内部の様子を盗み見る。抉れた地面と太い幹が真ん中で折れて倒れる街路樹、すさまじい力でへし折られたり切断されたりしている遊具が散乱して殺伐とした空気を漂わせる、変わり果てた公園の姿がそこにはあった。
大勢集まった野次馬の頭の隙間から、辛うじて見える公園の惨状を改めて確認する。台風でも通り過ぎたかのような、災害と呼ぶに相応しい破壊の痕跡が残る。無論、昨夜から現在に至るまでに天変地異など起きていないし、公園の外は全く普段通りで荒れた様子もない。そんな現場を物々しい雰囲気の警官たちが巡回していた。野次馬が公園の入り口に集まっているのも、彼らによって規制線が張られ、出入りが封鎖されているためだった。だが、何が起きたのかは分からずじまいで、古池は何気ない風を装って野次馬の人の群れに交じり、その会話に耳を澄ました。どれも信憑性のない憶測ばかりが野次馬たちの間で囁かれる。テロリストによる自爆テロが起きたのだとか、ヤクザ同士の抗争が起きたとか、はたまた怪物が現れて暴れたと言い出す者までいる始末。埒が明かない、と思い切って古池は人混みを掻き分け、野次馬の先頭に躍り出た。立入禁止と書かれた黄色いテープが無造作に公園入口のポールと生垣を渡すように巻き付けられていて、その前には人の出入りを監視するように警官が立っている。警官は野次馬を押しのけて進んできた古池をちらと見て胡乱な表情をしたが、構わず古池は声を上げた。
「あの」
「君、下がりたまえ。ここは爆発事故の原因調査のため、立入禁止だ」
もう何度も口にしたのだろう、投げやりにも聞こえる棒読みで警官が唱える。爆発だって、と興奮気味な野次馬の声が古池の後ろの方で聞こえたが、怯まず古池は続ける。
「知ってます。…ここによく知人がいたので、巻き込まれていないかと思って」
それまで視線を投げかけるに留めていた警官が、溜息と共に振り返る。野次馬への応対など面倒だとはっきりそう顔に書いてある。だが、古池とて必死だ。返答がもらえるまでてこでも動くまい、と身を乗り出して重ねて問う。
「怪我人はいませんか、あいつは大丈夫ですか──」
「明け方未明の出来事だ、巻き込まれた人間はいない。公園に無断で寝泊まりしていた不審者はいたようだが……」
「そいつです!そいつは、今どこに」
古池が叫ぶと、それまで単に鬱陶しそうにしていただけの警官の表情が、怪訝なものに変わる。いつの間にか、野次馬の群れが割れて、古池から距離を取るように引いていたことに今さら気が付く。
警官は無線に一言「至急応援頼む」と呟き、それから古池の方へとずんと一歩進み出た。
「…昨夜から不審者の目撃情報はない。事件との関連を調べて、現在警察で行方を追っているところだ。君は、奴の知り合いかね?」
さらにもう一歩、警官が近づいてきて、脅すような口調に思わず古池は後ずさる。なんとなく、状況は掴めた。公園で爆発があり、その容疑者としてマルスが追われている。その安否を気遣う古池も、事件に関係のあるものとして、今警戒されている。
知り合いであるかと言われれば、答えは微妙なところだ。古池は結局、マルスの何をも理解していない。彼が何故ここに来たのか、あの恰好の意味は何か、彼が何を考えているのか、それを打ち明けてくれる仲になれたなら、と友人になる提案をしてみたものの、結果としてマルスは古池の家を黙って出て行って行き先も教えてくれなかったのだから、失敗したのだろう。そうすると、古池がマルスの知人や友人を名乗る資格はないように思える。
古池が言い淀んでいると、いかつい顔の警官が公園の奥から走ってくるのがちらりと見えた。依然として目の前の警官はずんずんと近寄ってきているし、唐突にこのままではまずいことになると直感し、古池はそのまま踵を返し警官に背を向けていた。
「あ、待て!」
警官の怒号が追い縋るが、それはますます古池の足を速める一因にしかならない。逃げ出そうとする古池の行く手を阻もうとする野次馬はおらず、さっと人垣が割れて道ができ、古池は無意識のうちに土地勘のある自宅方面へと走り出す。
「マジ?今の犯人?」
「普通の大学生っぽかったけど」
「俺さっきまで隣に立ってたよ」
そんな無意味な囁きが飛ぶように遠ざかっていく。一方で規制線を乗り越えて追いかけてくる警官は、低い声で怒鳴りながらいつまでも古池の後を追ってくる。とんでもないことになった、と徐々に古池の胸中に不安と恐怖が押し寄せる。単に古池は友人の安否を心配しただけだ。それがいつのまにか、とんでもない事件の関係者として警官に追われる羽目になるなんて。いや、全く古池は事件に関与していないし、正直に話せば罪に問われるような後ろめたさもないが、こうして逃げ出してしまった手前、ここで立ち止まって大人しく捕まるのはあまりに心証が悪すぎた。
冷静になってくると、このまま家に帰ることが得策ではないことに思い至る。そんな突発的な思い付きで住宅街の方向に足を向けたものの、行く当ても当然ないし、とにかくどこかに隠れて追手も撒かないと、と混乱した頭で考えること数瞬、唐突に民家の門扉の影から手が伸びてきて、そのまま古池を誰のものとも知れぬ民家の庭先に引きずり込んだ。
驚きの形に開いた古池の口を、その誰かが手で覆って声を塞ぐ。マルスだった。
「おま……!」
どうしてここに、とか今まで何を、とか聞きたいことが山のようにあり、古池は状況も忘れて声を上げそうになったが、マルスの方が警戒するように門の外を顎でしゃくり、人差し指を顔の前で立てて黙るように目配せした。いくらもせず、二人が隠れる民家の前を警官らが慌ただしく走り去っていく足音が過ぎていく。
しばらく、無言の時間が続く。それまで走り詰めだった古池は己の息遣いで居場所が割れるのではないかと呼吸を整えるのに必死だった。それでも、こんなに堂々と民家の庭先に隠れていては家主に不審がられるのでは、としきりに民家の方を気にしているのがマルスに悟られたのだろう、警官が通り過ぎるのを確認した後、肩の力を抜いたマルスが古池の隣に腰を下ろしながら言った。
「ここの家主は、共働きで夜まで誰も帰ってこない。安心していい」
「そうか、いやそれより…」
聞きたいことが山のようにあって、古池はむしろ声を詰まらせた。何から聞くべきか。公園の爆発事件の犯人として追われていることは、隠れている風なマルスだから知っているのだろう。本当に関わりがないのだろうかという質問は、彼を信用していないようでいきなり聞くには気が引ける。犯人がマルスでないというのは、古池の希望的観測であるが、それを断言できるだけの情報を古池は持たない。答えを探すように古池はマルスの顔を見つめる。昨夜、洗濯をしてやったはずのコスプレ衣装は既に泥に塗れて薄汚れていた。美しい蒼髪もずいぶん乱れて、白い顔は土気色に見えた。というより──。
「…怪我してるのか?」
コスプレ衣装はところどころ引き裂かれたように破れ、その隙間から見える地肌は痛ましく変色している。痣になったり、擦り剥いたりしているらしい。それまでの葛藤を一瞬で忘れ、古池は改めてまじまじとマルスを見た。泥の汚れに見えたのは、青い装束が血を吸って変色した部位も多い。土気色の額には血をふき取って乾いたような跡があり、髪の一部は赤黒いものがこびりついて固まっていた。
マルスは乾いた声で笑った。これまで聞いてきた朗々とした笑い声とは異質なもので、それだけ事態は切迫しているのだと古池に思わせるには十分な声だった。
「…イレギュラーが、本格的にぼくを排除しようとしている」
「…いれぎゅ…何だって?いや、どうしたんだその怪我、早く病院に」
「ぼくを世界に取り込むことを諦めたんだろう、だがここまでなりふり構わずになるとは予想外だ。…だが、それだけ奴も焦っているということに他ならない。アイク、思い出しそうなんだよね?あと少しなんだ、探しに来てくれたのがその証拠……」
虚ろな表情でぼそぼそと呟くマルスの鬼気迫る様子に、さしもの古池も口を挟めない。昨晩の気まずさなどもはや些事だ。マルスの怪我、公園の惨状、物々しい警官、追われる古池……そのすべてが繋がろうとしている気がしていた。それを知れば、古池はこのささやかな日常には戻れないだろうという予感も。踏み込むべきか否か、しばしの間古池は悩み、それから意を決したようにマルスの腕を掴む。ようやく我に返った様子でマルスが古池を見た。初めて見た時は、服から髪から何もかも青い男だと思ったものだが、よくよく見れば瞳の碧も、髪の蒼も、すべてが全く異なる色彩を放つ。
「よく分からんが、酷い怪我だ!まずは病院に行こう。手当をして、それから…警察のことを考えよう」
マルスの顔に束の間懐かしむような表情がよぎる。その顔をどこかで見た気がして、ああと一人古池は腑に落ちたように息を吐く。初めて彼に会った時、別れ際に古池を見下ろすマルスは、同じ表情をしていた。慈しむような、懐かしむような、親しい友人に向けるそれに晒されると、古池は身の置き場がなく萎縮してしまう。だって自分は、彼のことを何も──。
とはいえ、それも一瞬で、マルスは厳しく口を引き結び、手を引かれてもその場から動こうとしなかった。
「人の多いところは危険だ。オブジェクトの多い区域はそれだけ監視の目も多い。ぼくはともかく、君が捕まってしまう」
「俺は…何もしてない!捕まる謂れもない」
「ぼくを匿った」
マルス本人がそれを言うのか、と古池は思わず返答に詰まる。助けた、ではなく匿った、と己で表現するということは、マルス自身後ろめたいことのある証左だろう。では、やはり公園の惨状は目の前で座り込む青い男の仕業なのだろうか?何を信じて良いのやら、てんで古池には判断が付かない。古池の直感は、マルスは悪い人間ではないと叫ぶ。古池の理性的な思考回路は、この男は危険だと警鐘を鳴らす。
「君が隠されてしまうと、ぼくにはなす術がない。そうなれば、この異界も体裁を保てないだろうが…痛み分けだ。ぼくにとって、君が帰ってこなければ、意味が……」
相変わらず古池には意味の分からないことを滔々と語るマルスは、唐突に言葉を切って腰を浮かせた。いつの間にか腰に提げられていた長剣は抜き身になっていて、高いブロック塀に遮られて反射する陽光も差しこまないはずなのに、不思議と燐光を放っている。
「なにが──」
起きている、と尋ねようとした矢先、ガァンと劈くような破裂音がして、同時に古池の目の前で火花が弾ける。マルスの振り抜いた剣に何かが当たったのだろう。遅れて、二人の潜伏する庭に警官が三人掛け声と共に雪崩れ込んでくる。ようやく、古池は今の劈くような音が銃声だったのだと、目前の喧騒をどこか遠くに聞きながらに気が付いた。
「動かないで!」
目の前で怒鳴るマルスの声が妙に靄がかって聞こえる。銃声で鼓膜がどうにかなってしまったのだろう。だが、これまで見た誰よりも凛々しく猛々しいマルスの勢いに気圧されて、古池はブロック塀まで後退してその場に張り付いた。マルスはそれを見届けることなく、低い体勢からじぐざくに庭先を駆けて銃を構えた警官の懐に潜り込んでいた。一人、二人は呆気なく剣の束を鳩尾と首筋に叩き込まれて昏倒し、わたわたと照準を定めようと銃口を向けてくる警官の手元を燐光放つ長剣が一閃する。警官の喉から吐息のような悲鳴が漏れる。その手元から、真っ二つに切断された拳銃がぽとりと落ちた。その隙にマルスの腕が警官の首を抱え込み、勢いを殺さず鋭い膝蹴りを彼の腹に見舞う。潰れたカエルのような悲鳴を上げて、三人目の警官がその場にくの字に折れ曲がって沈黙した。
あまりに現実離れした出来事に、古池ははくはくと酸素を求めるように息をすることしかできない。拳銃と、警官と、それをものともしないで制圧してしまうマルス、淡く光る真剣、血と暴力とがここには存在している。
マルスが剣も抜き身のままやってきて、壁と一体化していた古池の腕を引っ張った。
「今の騒ぎで居場所が割れた。移動しよう」
険しい表情で周囲の警戒を怠らないマルスは、一瞬だけ古池の様子を見、怪我のないことを確認すると再び周囲の敵影を探すように視線を戻す。この男に付いていくのはあまりに危険だと常識的に考えれば明らかだというのに、この異常事態は古池の感覚を麻痺させたのだろう。まだ耳の聞こえ方はおかしかったが、古池は頷きマルスの腕を握り返した。ほんの僅か、マルスの動きが止まり、彼は小声で何かを囁く。その何かを古池は聞き取ることができずに聞き返したが、マルスは答えずそのまま古池の手を引いて走り出した。
どれくらい走ったのか、週一回お遊び程度の運動しかしていない古池は息をするたびにきりきりと痛む脇腹を抱え、ひいひい言いながらマルスの後に付いていくしかない。マルスは狭い民家同士の隙間を縫うように進み、見事警官を撒いたようだった。それでもさすがにずいぶんな距離を移動してきた。マルスの方も全く堪えていないという訳ではなさそうで、近くに巡回の警官の姿が見えないのを確認すると、ようやく古池の手を放し、そのままずるずるとブロック塀にもたれて倒れ込んだ。
その様子を見守っていた古池は、不自然に荒く肩で息をするマルスにおやと首を傾げる。確かに息が上がって倒れ込みたいのは古池も一緒だが、それにしても様子がおかしい。再度、古池はマルスのもたれた壁を見やる。そしてぎょっとした。年季の入ったブロック塀には、真新しい血の跡が擦り付けられている。慌てて駆け寄りマルスの肩を抱く。改めて見ると、彼の青い装束の腹あたりが真新しい血で赤く染まっていた。先の民家の庭先で最初に確認したときにここまでの大きな怪我はなかったはず。とすると、これはその後の警官との交戦でできたものだろう。最初の銃声が聞こえた時、マルスの剣が銃弾を弾いたものと思っていたが、軌道を逸らして急所を外しただけで、実際には彼は銃創をそのままにここまで逃げてきたのだ。
「お前、この傷…!」
「へへ…大したことないと思ってたんだけど」
文字通り血の気の引いた顔でマルスは笑った。大したことがないはずがない。流れ出た血は腹から前垂れを伝い、足元まで流れ落ちている。今さらのように、通ってきた道を見返せば、点々とマルスのものと思われる血が落ちていた。何故もっと早く気付かなかったのだ、と古池は唇を噛む。古池はこんなに五体満足で、不調もないというのに。
古池には、何もない。彼を手当してやれる知識も、力も、道具もない。病院に行くべきだと思ったが、それは当の本人であるマルスに拒否されてしまって、もはや八方塞がりだった。自分が何の取柄もないただの大学生であることが恨めしい。せめて、彼と肩を並べて戦える■■であったなら。
考えたところで不毛だった。古池が普通の人間であることに変わりはないし、マルスの怪我がよくなるでもない。マルスは嫌がるかもしれないが、この怪我を放っておくことはできなかった。座り込んでしまったマルスの肩を支えようとしたが、彼は足に力が入らないようで長く歩けそうにない。意を決し、彼を背に負う。いかつい鎧と分厚い衣服の印象とは違い、背負ったマルスはずいぶんと軽く感じた。
「病院に行こう。こんな怪我だ、きっと助けてもらえる。俺が連れて行ってやるから」
「アイク、……」
「心配するな、きっとなんとかなる。きっと」
軽いとはいえ、成人男性を背負って移動することは相当な苦行だと間もなく古池は思い知った。数歩と歩かぬうちに額からは汗が吹き出し、足がよろめいて太ももが悲鳴を上げたが、意地でも古池は立ち止まる訳にはいかなかった。ここでやり遂げれば、古池は何の取柄もない大学生から「何者か」になれるはずだ。それが何かは分からない。あるいは、警察に追われた者を助けたとして普通の生活は送れないかもしれない。それでも、今の古池にとってはそんなことより、命がけで自分を守ってくれたマルスの誠実に応えることの方が重要だった。
狭い路地を出て、大通りに到達する。血だらけの男を背負う古池の姿に、道行く通行人はぎょっとして道を開け、遠巻きにして腫物を扱うように見守った。古池は徒歩で遠い病院に向かうのはあまりに無謀だと思い知った。人目も多すぎる。そのまま側道に止まったタクシーに声を掛け、乗せてくれるよう頼みこむ。
「怪我人がいる、病院まで乗せてくれ」
「はいはい、じゃあ扉を開け…ヒッ」
後部座席の扉を開けて、古池を乗せようとした運転手は、開いた扉から血だらけの男が乗り込もうとしたのを見て悲鳴を上げた。違うんだ、と古池が弁明する暇もなく、運転手はそのまま車を放り出し、悲鳴を上げながら逃げていく。
「おい、待ってくれ!怪我してるだけだ、助けてくれ」
思わずその後を追って呼びかけるも、既に運転手は近くの店の中に駆け込んでいて、店員に何事かを喋っているのがガラス窓越しに見える。血だらけの不審者が無理に乗り込もうとしてきた、とでも説明しているのだろう。大仰に頷いた店員は、そのままどこかに電話している。まずいことになったと古池は己の無計画さを呪う。こんなに人通りの多いところで、迂闊に囲まれでもしたら。
気が付くと、周囲に人だかりが出来ていた。指を差し、スマホをかざし、決して近付き過ぎず、遠巻きに古池たちを見守っている。「やばい奴がいるって」などと囁き合う声が聞こえるが、やばいのはマルスの怪我の容態で、それ以外ではない。誤解さえ解ければ、と古池は己を囲む野次馬に訴えた。
「頼む、怪我人がいるんだ。誰か、手を……」
一歩古池が踏み出すと、ハチの巣を突いたようにその場は騒然とする。甲高い悲鳴が上がり、先頭にいた若い女が走り去っていく。ざわめき、どよめき、一層人垣が増え、警戒した様子の男たちが険しい表情で立ち塞がって、彼らが全く聞く耳を持たないことを悟る。
「大人しくしろ!今に警察が来る!」
「これ以上近付いたらこちらも容赦しないぞ」
古池は後ずさり、そうして改めて周囲を見渡した。広い歩道は人の群れで埋め尽くされて、逃げ場がない。車道側には一応道があるものの、車通りの多い場所でひっきりなしに猛スピードの車が通り過ぎる。反対側の歩道にも見物人が多数見て取れた。
「貴様、動くな!」
そうこうしているうちに、武装した警官が数名やってきて古池にそう怒鳴った。元より古池らを追っていたのだろう。無線で連絡を取り合って、他にも応援が向かっていると思った方が良さそうだった。黙っていては取り返しのつかないことになる。古家は慌てて言い募った。
「別に、何かした訳じゃない、ただ助けてほしいだけだ。怪我してるんだ、こいつを病院に」
「手を上げて跪け、抵抗すれば撃つ」
「話を聞いてくれ」
「言う通りにしろ!」
警官は拳銃を構え、じりじりと包囲を狭めていた。古池の嘆願など全く聞き入れられない。一瞬、このまま捕まれば古池とマルスの身の潔白が証明されて、マルスの手当をしてもらえるのではという楽観的な夢想が古池の脳裏をよぎったが、所詮は一瞬だ。マルスはむしろ古池が捕まることを危惧していた。そうすると、古池が隠されて、マルスに見つけてもらえなくなってしまう……(そういえば、初めて会ったときも「探していた」と言っていた。何故?)
古池は警官が近付いただけ後ずさった。それを抵抗とみなしてか、警官の一人が発砲する。成り行きを見守っていた野次馬たちから悲鳴に似た声が上がる。否、それは歓声だった。どういう訳か、古池を追い詰める警官の行為を、ギャラリーは歓迎している。
銃弾は古池の足元のコンクリートを穿ち、遅れて弾の位置を確認した古池は驚いてよろめき、尻もちを突く。その拍子に背負っていたマルスが投げ出される。呻くマルスが立ち上がる様子はない。ただでさえ怪我をしているのに、申し訳ないことをした。
「いまだ、取り押さえろ!」
警官の一人が号令すると、応という掛け声と共に複数の警官が飛び掛かってきて古池を地面に押さえ付けた。思い切り地面に顔を押し付けられて、口の中が切れたように血の味がする。なんとか身を捩ってマルスの方を見ると、マルスも同じように拘束されていた。我慢ならず、古池は叫ぶ。
「そいつは、怪我してるんだ。まずは手当してやってくれ!」
「大人しくしろ」
僅かに起こした頭さえ、上から掛かる力に無理やり地面に擦り付けられる。ぞんざいに扱われるマルスが、治療を受けられるような様子はない。
無慈悲に警官らの会話が頭の上で続く。
「この青い髪の男が、異分子ということでいいのか?」
「そのようだ。こっちの男は共犯者か」
「絆されたんだろう。無知すぎるのも考え物だ」
警官の会話さえ、古池には理解が追い付かない。そう、疑うべくもなく、古池の身の回りで起きていることに対し、古池自身はあまりに無知だ。本来であれば関わるはずもない世界の出来事、そう思っていたが、不可思議な出来事は古池を取り巻くように発生し、その中心であるはずの古池からなぜか秘匿されている。何故、と湧き上がる憤りが抑えきれない。何故無知で良しとしたのか。何故己には力がないのか。何故マルスは連れていかれようとしているのか。何故、何故、何故──
何故この手に剣がないのか!
「…マルスに、触るなぁ!」
渾身の力で跳ね起きて、古池は己を拘束していた警官を突き飛ばし、足蹴にした。火事場の馬鹿力とでもいうのか、がむしゃらに突き進んで、そのままマルスを取り押さえる警官をも引き倒す。殴り倒す。呻くマルスは、僅かに顔を上げ、そうして笑った。
「ふふ…相変わらず、めちゃくちゃ…」
「大丈夫か!」
殴り倒した警官はすぐに起き上がってくるだろう、それでも聞かずにはおれずに問う。マルスは頷き、そうして突き飛ばされた警官が押収していた彼の真剣を指差した。
「ファルシオン」
それが剣の名であると、不思議とすっと理解できる。彼がその剣で先の窮地を救ってくれたように、今回もどうにかしてくれるのだろうと倒れた警官から鞘に収まった剣ごと奪い取る。振り返る。そうして剣を手渡そうとする古池に、マルスは言った。
「君に貸してあげる」
「は!?」
もう大抵の異常事態には動じないと思い始めていた古池は声を上げて聞き返す。背後で起き上がった警官らが態勢を立て直して警戒網を狭めようとしているのが知れたが、それでも古池は首を左右に振るしかない。
「何言ってるんだ、俺は剣なんて一度も」
「ファルシオンは、正統な持ち主が扱わなければ何物も斬ることはできない」
今さらながら、撃たれた腹を抱えて蹲るマルスに剣を振る余力などないように見えた。どちらにせよ、古池がしり込みしていたところで再び警官の総突撃を受けて二人は拘束されるだけだろう。マルスが扱う真剣の切れ味を目の当たりにしていることも古池が萎縮する一因だったが、次なるマルスの一言が的確に古池の不安を払拭した。
「…君がその剣を使えば、相手はめちゃくちゃ痛いだけの鈍らだ!安心して振ってくれ」
「ええい、やるしかないのか!」
叫び、鞘から剣を抜き払う。現れた白銀の刀身は少しの歪みもなく美しかったが、先ほどマルスが振っていたときのような燐光は見られず、これが己が正統な持ち主ではないことに起因するのだなとぼんやり思う。武器を手にした己を警戒するように警官たちが色めきだつ。武器を持った素人に何ができるはずもない、と警官の一人が躍りかかってくる。なるほど、確かに……。
「ッらぁ!!」
気合の掛け声と共に、両手で構えたファルシオンを一閃。剣技など知ったことかという開き直りによるフルスイングが、駆け寄ってきた警官の腹部を捉えて吹き飛ばす。警官はそのまま吹き飛ばされて、人の輪を作る野次馬たちの中に突っ込み姿が見えなくなる。警官らの唸り声と共に、ギャラリーからも不満の声が漏れる。何故異分子が排除されないのかと、番狂わせを誰もが歓迎していないことが肌で感じられた。
知らず、凶悪な笑みが口元に浮かんでいる。手の中で剣の柄を遊ばせる。妙に手に馴染む重さだった。柄の硬質な感触と、切っ先まで感じる重量とのバランスが心地よい。本当はもう少し重さと長さがあるともっといいのだけれど……。
続けて二人、飛び掛かってくる警官の腕と足を打ち据える。マルスの言う通り、どれだけ全力で振り抜こうとファルシオンは鈍らであり続けた。刃先が潰れている訳でもないのに、それは何物も斬らず、ただその重量と掛けた力で相手を叩き潰す鈍器と化している。
懐かしかった。同時にもどかしかった。もっと動けるはずなのに、被せられた膜のようなものが邪魔をして、思ったような爽快感もない。借り物の武器も違和感を助長した。もっと。もっと手に馴染む剣があるはずだ。理想の体と、理想の剣と。自分は持っていたはずだ。自分は──自分とは、誰だ?
眩暈がした。よろめいて、頭を押さえる。それを隙と見て残りの警官が銃を構える。倒れて様子を見守っていたマルスの鋭い喝が飛ぶ。
「アイク!!」
「その名を呼ぶな!」
警官は激高し、そのまま銃口をマルスに向ける。しかし、その警官が引き金を引くことはない。ファルシオンを携えた青年が、固く握った拳で警官の顔面を先に打ち抜いていたためだ。青年はマルスを振り向き、蒼炎燃ゆる瞳ではっきりと彼の姿を捉えながら叫んだ。
「マルス、もう一度!」
話している間にもう一人の警官が飛び掛かってくるが、それは無造作に蹴りで沈める。立っている警官はもはやいなかった。だが、彼らを取り巻くギャラリーがそれを許しはしない。武装もしていない見物人が、気が触れたように怒号を上げながら飛び出してくる。それを皮切りに、次々見物人が暴徒と化して、目に目に憎悪の色を浮かべて包囲の中心にいる二人に襲い掛かった。だが、今更そんなことに気を取られる二人ではない。
「もう一度、その名で呼んでくれ、マルス!」
わあん、と彼らの会話を掻き消すように群衆から意味のない叫び声が上がる。それでもなお掻き消せぬほどに、不思議と英雄王マルスの声は響き渡る。
「ずっと呼んでるだろう、アイク!帰ってきてくれ!」
*
終点に集うのは、今期の大乱闘に招かれたファイターの中でも指折りの強者たちばかり。その皆が一様に険しい顔をして黙り込んでいるのだから、事態の深刻さは言うに及ばないだろう。上下左右無数に並べられたモニタの数々を指差しでチェックしつつ、そんな彼らを振り返ることなく創造の化身である巨大な白手袋、もといマスターハンドが述べる。
「皆も知っての通りだと思うけど、アイク君がイレギュラーの形成した異界に閉じ込められてしまった」
相槌さえないのは、一同が既に聞き及んでいる事柄であるためで、軽々しく反応を返せない窮状に陥っているからとも言える。集ったファイターのうち、マリオが口を開いた。
「救出に向かうのは当然として、入口も分かっている異界にどうして突入の許可を出さなかったんだ?」
責めるような口調であるが、それを咎める仲間はいない。同じくマスターハンドを見上げるファイターの多くが同じ不満を抱いていたのだろう。かくいうマルスもそうであったのだから、彼は苛立ちを抑え切れずに声を荒げる。
「早くに回収しないと、データの修復が難しくなると言ったのは君だろう」
「その通りだけれど、イレギュラーの方も最近は対策をしてくるみたいでね」
不穏な空気のファイターとは対照的に、マスターハンドの方は弱弱しく反論する。あなたが管理人なのだからしっかりしてください、とリンクが呆れた様子で溜息を吐く。
本当は、マルスは今にも飛び出して彼を助けに行きたかった。無論、神殺しとすら呼ばれた彼の偉業を鑑みるに、たかだかはぐれのイレギュラー一体に後れを取るような男ではないと確信しているものの、イレギュラーの形成した異界による精神汚染は深刻だ。要するに、この世界での蓄積データの損傷である。彼とは特に懇意にしていたマルスにとっては、失われるものは計り知れない。
重ねた時間のみが価値ではないが、それでも二人で築いたこの関係を気易く捨ててしまえるほどにマルスは彼に頓着がないはずもない。五体満足はもちろんのこと、あらゆる記憶に欠損なく彼には帰還を果たしてほしい。
とはいえ、世界の管理人が適当なことを言うはずがないことも知っている一同である。色々と身勝手で優柔不断、頼りがいのなさそうな言動の多い管理人ではあるが、創造の化身の言葉に嘘はなく、そうして大抵のことはその“手のひら”の上で完結している。今回とて、全くの無策でファイターがここに集められた訳ではないということは重々承知で、逸る仲間の様子を見かねたように、フォックスが口を挟んだ。
「具体的に、そのイレギュラーがしてくる対策ってのは?」
「まずは、異界の形成。これは最近では珍しくもないね、様々な世界の模倣と継ぎ接ぎで、狭い亜空に独自の世界観と地形を形成する。これが興味深いことにまた手が込んでいて、楔となる中心に近づくほどテクスチャの解像度が……」
「マスター、ボクたちにも分かるように言って!」
カービィが弾みながら抗議する。おっと失礼、と我に返った様子の白手袋が、ありもしない口を隠すように咳払いの仕草をして見せる。サムスが鋭い視線を向けてマスターハンドを睨む。まぁまぁ、と隣のファルコンがそれをなだめた。
「つまり、異界を異界たらしめる楔として、アイク君が使われてるということさ!」
「……今度は端折り過ぎてて何言ってるか分かんないんだが…」
「あれ?そうか…ええとね、なんて言うんだろう、イレギュラーはもともと無いものを亜空に定着させている。これをテクスチャと私は呼んでいるけど、これは亜空とさほど相性が良くない。対して、君たちファイターは仮想空間での大乱闘を想定されたボディにしてある。これは亜空との相性がいい」
マルスには、マスターハンドが何を言っているのか半分も理解が及ばなかった。ちらと他の仲間たちの顔を見ると、リンクとカービィが自分と同じく目を白黒させているのが分かる。マリオ、フォックス、サムスとファルコンはその限りでなく、大真面目に頷きながら話を聞いているようなので、詳しい原理の理解は彼らに任せつつ、マルスは意識をマスターハンドの話に戻す。
「イレギュラーの形成する異界に、要石のような存在としてファイターが使われている、ということでいいか?」
腕を組みつつ、マリオがそう要約すると、管理人は状況も忘れて「そう!」と嬉しそうに指を鳴らした。終点の虚空にパチンと弾けるような音がこだまする。わずかに流れた沈黙の後、再度誤魔化すように咳払いをしたマスターハンドが何事もなかったように続けた。
「…だから、イレギュラーの方も易々と楔を抜かれないよう、厳重に彼を異界に縫い留めているだろう。事実、外から見た限り彼の体は境界など分からないほどに異界に溶け込んでしまっている。彼を無理やり引っ張って回収することは可能だが、その時は異界に溶け込んだデータの紛失は免れない」
「それじゃあ、どうすれば」
「そこで、マルス君!君の出番だよ!」
唐突に名前を呼ばれ、マスターハンドが巨大な右手で己を指差すので、マルスは目を丸くする。助けを求めるように隣を見やれば、同じく驚いた様子で目を丸くしているマリオとリンクが見返してくる。マスターハンドは何故か興奮気味に声のトーンを上げていく。
「君は、アイク君の元のデータとの親和性が高い!…ああ、仲がいい、という意味ではなくて、逸話としての指向性が近い、という意味で…分かりにくい?」
ぽかんと口を開けたままになっているマルスらに気が付いたのか、マスターハンドが一度言葉を切って問うてくる。白手袋はどこから声を出しているのか、低く考え込むような唸り声を上げる。
「何と言ったらいいか…有り体に言えば、“出典作品が一緒”というやつだね。つまり、アイク君に被せられた異界のテクスチャよりも、君の持つ逸話の方が、本来の彼にとって馴染みがいいはずなんだ」
「は、はぁ」
「だから、マルス君!君こそがアイク君を助けに行くにふさわしい、いや君でなければならない!君とアイク君のデータの指向性の近さを利用して、アイク君自らが楔の役割を放棄するように仕向けるんだ。名付けて、『類は友を呼ぶ大作戦』、というわけさ!」
*
異界は、亜空に擬似テクスチャを張り巡らせることで形成される。本来、それは世界の創造にも迫る行為だ。亜空に法を敷き、秩序を与えるは創造の化身の権能。当然、一介のイレギュラーにそこまでの力はない。だからこその「擬似」テクスチャである。既存の世界の継ぎ接ぎで賄われ、無からの創造は一切ない。さらに亜空にテクスチャを固定する権能のないイレギュラーが取る方策が、創造の化身の眷属ともいえるファイターたちを、その楔として亜空と異界とを縫い止めるために打ち込むことだった。
一方で、ファイターには強い自我が存在する。単にその存在を楔として利用したとて、異界はファイターの協力を得られない。故に、異界は何よりも厳重にファイターそのものに擬似テクスチャを重ねがけしていく。異界こそが真実の世界であると、そしてお前は世界の住人そのものなのだと、偽の情報を上塗りしていく。ファイターがその認識の齟齬に気付かぬうちは、楔としての機能を無意識に果たし、そうして異界の安寧は保たれる。破壊の化身ならいざ知らず、異界の内部は偽りの秩序によって満たされ、世界としての硬度を増していき、何人も干渉は許されない──
マルスに任されたのは、そうした偽の認識の中に生きるアイクに、本来の記憶を呼び覚ます役回りであった。強力な催眠状態にあるアイクに、初めマルスの声は届かなかった。単に世界に現れた異分子、それどころか異界の常識に当てはめた「不審者」で処理されようとしていたのだから堪らない。異界は貪欲にマルスをも楔の候補として取り込むことに余念がなかった。異界に潜伏する間、マルスは恒常的な精神汚染と物理的な襲撃を受け続けた。それらを躱し、逃げ隠れ、ともすれば見失いそうになるアイク──に被せられた見知らぬ青年のアバターを探し出し、懇々と世界の真実を教え諭す。聞く耳を持たなかったアイクではあるが、回数を重ねるごとに変化は現れた。異界の常識に生きる中でも、実直で誠実な青年であり続けた彼は、異界の常識に全く適応しないマルスのことを「放っておけない人間」として意識し始めたのだった。
そんなマルスの苦行も終わりが近付いていた。咄嗟の機転でアイクの意識が眠る青年にファルシオンを貸し与えた。元の彼とは似ても似つかない不恰好な有様で神剣を振り回す姿は哀愁すら誘ったが、それでもマルスを守るためという一貫した目的のために異界の常識に反逆する彼の瞳は頼もしかった。勇ましかった。
殺到する群衆は、もはや人の形をなしていない。追い縋るように伸ばされた腕はいくつもの節を形作って折れ曲り、隣の異形の腕と繋がり、繋がり、網のように広がってマルスらを追い込んでいく。整然とした街並みは不自然に歪み、ひび割れ、用意されていた壁紙が剥がれ落ちるようにあちこちが崩れ初めていた。
それでも、マルスはその場を動かなかった。もちろん、怪我が響いて動けないのもある。異形となった人間たちは、既に道路の境も無視して四方から押し寄せていた。逃げ場はない。逃げたところで、安全な場所などこの異界に存在しない。
だが、一方で今この瞬間、ここ以上に安全な場所は存在しない。彼がいるなら、マルスは動く必要性を感じないのだ。
ゆらりとマルスの隣で青年が身を起こす。風もないのに彼の黒い髪がさらりと揺れて、汚れが剥がれ落ちるように下から紺青の髪色が浮き上がる。それまで隠されていたものが、ノイズを晴らすように露わになっていく。気が付けば、マルスは見知らぬ青年の頼りない背中でなく、見慣れた赤い外套が翻るのを目撃していた。
「ア……」
「アイク。間違いない、俺の名前だ」
振り返る青年は、マルスが言い切る前に己の名前を繰り返し、噛み締めるように頷く。頑なにマルスの言を否定してきた素朴な塩顔の青年ではない。華やかな大乱闘の世界で共に戦う蒼炎の勇者その人が、まっすぐにマルスを見返していた。
そうしている間にも、異形の包囲網は狭まっていた。だが、アイクは少しも慌てることなくファルシオンを地面に突き刺す。ちょっと、とその乱雑な扱いをマルスは咎めたが、虚空に手を伸ばして何かを掴もうとする友人の期待と興奮に満ちた表情を見れば、小言もそれ以上は続かない。マルスとて、アイクが正統な持ち主として繰る大剣こそが、彼の手に相応しいことはいささかの反論もない。
アイクは、一瞥をくれることもなく虚空に伸ばしたその手で何かを掴む。空気だけがそこにあるはずだが、アイクが触れたそばからそれは質量を持ち、視認できる強度に存在が保証される。さながら、空間に収納されていたかのように、抵抗なく彼の神剣ラグネルが姿を現した。
借り物の鈍らより、使い慣れた祝福ある愛剣を振るうアイクのなんと生き生きとしたことか。未練がましく波状にマルスらに襲い掛かろうとする異形どもを、アイクの居合が薙ぎ払う。マルスの柔の剣に対し、剛の剣とすら呼ばれるアイクの太刀筋は情け容赦なく力でもって迫る敵を掃討し、あとには抉れた地面だけが残る。そのあまりの威力に、集った異形たちは恐れ戦いた様子で後ずさる。アイクが感情の籠らぬ目で睨み付ければ、それだけで竦み上がって壁もないのに視界の暗がりに逃げ込むように身を寄せ合って震える。本来、イレギュラーそのものに大した力は存在しない。単に管理人であるマスターハンドの管理下にないものを総じてそう呼ぶ。不確定要素がさらなる不確定要素を呼び寄せ、管理を逸脱していくが、その一つ一つの要素は賽の目が違うとか、蝶が羽ばたいたとか、その程度のものでしかない。それらのまさに「羽虫」が如き存在が、創造の化身の寵愛を一身に受け、あらゆる特権を付与された特別製のボディを持つファイターに敵うはずもない。
憐れにもそれに気づかぬ異形の群れは、とうとう異界の維持を諦めた様子で周囲の景色ごとお互いが身を寄せ合い、混ざり合い、一つの集合体としてむくむくと肥大化していった。異界は色を失い、光を失い、音を失いすべてのリソースがただイレギュラーの核となる原始の異常の元へと集約していく。それをただただ冷めた目で見上げるアイクと、それに守られる形で脱力するマルスは、逃げ出す気配もなければ敢えて攻勢に打って出る様子もない。
ぼこぼこと泡立つように体表の組織を煮え滾らせて、一柱の神の如き巨躯を得たイレギュラーは、蒸気の吹き出す目玉で不遜な反逆者を見下ろし、轟く声で言った。
『アア、ア、返せ、返せ!ここは楽園、私の世界』
「こんなお粗末な箱庭が世界であるものか」
吐き捨てるようにマルスが言い返す。アイクがもの言いたげにマルスを見やるが、発言を訂正する気は毛頭ない。異界に潜伏する間、マルスはこの異界をくまなく探索した。そうして気付いた。ここにはアイクのアバターとなる古池の生活範囲にしかテクスチャが存在しない。もっと言えば、街を歩いていると突然道も空も断絶し、何もない空間に片足を突っ込んでいたなんてことは両手で足りぬほど起こっている。それも無理からぬ話で、イレギュラーはアイクを異界に繋ぎ止めるだけで手一杯だったのだろう。あるいは、楔の目に触れる範囲にだけハリボテのように世界を構成すればよい異界の本質こそ、イレギュラーのような力なき者共にはお似合いの性質だったのかもしれない。マスターハンドという創造の化身が創り出す無限の世界を知るからこそ、マルスにはこの閉鎖的な異界が、そこに閉じ込められるアイクが、憐れで惨めに見えたのかもしれない。
だが、既にこちらの声など聞こえていないのだろう、視界すべてを覆い尽くす巨大な化け物は、マルスの暴言とも言える言葉を一切無視し、己が大事に大事に育て上げ、秘匿してきた楔となるファイターのアイクに手を伸ばし呼びかける。
『フル、フルイケ、古池徹、お前は何の取柄もない男だ。何物も残さず、何者にも為らず死んでいく。思い出せ、思い出せ、戻ってこい』
僅かにアイクの表情が翳る。長い精神汚染は、いまだ完全に彼の記憶の混濁を癒しはしない。何百、何千という無数の人の声が重なったようなイレギュラーの呼び声は、アイクの深層心理に語り掛ける。