アイマル短編
現役男子大学生古池くんと、痛コスプレイヤーマルスの話
そういった人種との関わりは一切ない。
唐突に目の前に現れた華美な装飾を身に付けた男を見て、古池は言葉を失って立ち尽くす。
往来には未だ人通りも多く、道行く人々の好奇の目線を一身に感じて、古池はただただ居心地悪く身じろぎする他ない。
「アイク!」
一方、華美な装飾を全身に纏い、現代の洋装とはかけ離れた中世騎士風の格好をしたその男は、古池の手を取り、整った美しい顔で笑った。
「探したんだ!会えてよかった、さあ、一緒に帰ろう」
古池徹は、どこにでもいる普通の男子大学生である。
特別に人より秀でたところはなく、かといって特別に劣った部分がある訳でもない。大学進学を機に親元を離れ、親戚の伝手を頼りに古びたマンションの一室を間借りしている。親からの仕送りは少なくないが、それに頼り切りなのも憚られて、バイトを始めて生活費の足しにするようになってもうずいぶん経つ。余った分は学費なりに回した方が、と電話口で話していたら、車の免許を取ってこいと言われた。今度の夏季休暇にでも、まとまった休みを取って合宿に行こうかと思案中だ。
「あ、あの…人違いだと思うんだが」
あまりの気迫に仰け反りつつも、古池はおずおずとそう主張する。目前の派手な男──いわゆる、コスプレイヤーというやつだろうか。鎧とマントを纏い、腰には細かな装飾を施された長剣を提げている。髪の色は目の覚めるような深い青色。瞳の色まで青色なので、整った顔立ちも相まって古池は初め、外国人に話しかけられたのだと思ったほどだ。しかし、件のコスプレイヤーの口から紡がれるのは、流暢な日本語である。その内容が古池に理解できるかはまた別問題であるが、つまるところ、そのコスプレイヤーはあまりに古池の生活圏とかけ離れた人種であった。
そういった趣味があることは理解しているし、特別に嫌悪の感情も抱いてはいないが、かといってイベントごとでもないのに、日常的にそうした格好で彷徨いている人間との関わり合いは古池にはなく、共感もできない。
有り体に言うと、往来のど真ん中でコスプレイヤーに話しかけられて、古池はドン引きしていた。
古池の気持ちなどいざ知らず、コスプレイヤーは人々の好奇の視線さえ物ともせずに続ける。
「人違いなものか、ぼくが君を間違えるはずがない。大丈夫、きっと元に戻してみせるから」
「何を言っているか全く分からない。悪いが、急いでいるんだ。他を当たってくれ」
だんだんと驚きより不信感の方が勝り、下手に相手をして妙なことに巻き込まれたくないとの思いから、古池はコスプレイヤーの手を振り払うと背を向けて歩き出した。コイツに関わって、古池まで珍妙な集団の仲間であると思われるのは心外だ。あるいは、インパクトに騙されて付いていくと、新興宗教の勧誘でも受けるのかもしれない。ともかく、関わらないのが一番だ。コスプレイヤーも相手をしてくれる人間を探すだろう…との古池の目論見は見事外れた。コスプレイヤーはそのまま意味の分からないことを言いながら、古池の後を付いてくる。
「そうだとも、分からなくて当然だ。君は上からテクスチャをかけられ、本来の認識を阻害されている」
「付いてくるな」
「でも、ぼくの格好を見てくれたら、何か思い出すかもしれない。背中に背負うアリティアの紋章、勇ましいだろう?ああ、君の故郷とは違うんだった。それじゃあこれはあまり意味がないかも…」
古池の迷惑そうな声色、表情、態度などまったく意に介せず、コスプレイヤーは延々と話し続けている。すれ違う子供がコスプレイヤーを指差して、親がそれを古池にも聞こえる声量で諫めても、追い越した老婆がコスプレイヤーの恰好を見て大きく口を開けて放心していても、店から出てきた女子高生が「やばーい!」と言いながらスマホを向けて写真を撮ろうと、青い髪の男はそれらを一切無視した。いや、本当に古池のことしか視界に入っていないようだった。古池がわざと大股に歩いて歩調を速めているのにも、すたすたと早足で付いてきて、いつの間にか隣で並んでいる。
さっさと自分に飽きてくれればいいのに、とそれだけを願って古池は生まれて初めて出会う不審者への対応を必死に脳内でシミュレートし続けた。走って撒くか、どこかの店に入って助けを求めるか、面と向かって迷惑であると告げるか…。そのどれも古池が試す前に、彼は気が付くと自分の住まうマンションの前に辿り着いてしまっていた。大股で歩いてきたのが仇になったか、帰路を急いだ分、考える時間も短縮されてしまったらしい。
とはいえ、馬鹿正直にこの建物に入っていっては、自宅をみすみすこの不審者に教えることになりかねない。今のところ、特別の害はないように見えるコスプレイヤーだが、もとより初めから人の話を聞かないぶっ飛んだ人間であることには変わりないのだから、不用意に個人情報を明け渡すのは危険である。古池の手はいつでも助けを呼べるように、ポケットに突っ込まれたスマホを握りしめて汗ばんでいた。
「なあ、あんたどこまで付いてくる気なんだ?」
警戒の色濃く古池が問うと、興味深そうにマンションを見上げていたコスプレイヤーは振り返って朗らかに笑った。
「付いてきたんじゃなくて、君を連れ帰りに来たんだ」
「それが、意味が分からないって言ってるんだ。第一、俺はあんたのことなんて知らない」
至極当然のことを言っているにも関わらず、コスプレイヤーは古池の主張に目を丸くして、いかにも初耳だというように大袈裟なほど驚く仕草をして見せる。
「ええ…、ぼくを、このぼくの顔を覚えていない?」
言外に、自分の顔の秀麗なのを確信しているのだろう、そういった自信をひしひしと感じさせる口調と表情に、古池の方もだんだんと腹が立ってくる。自分はいったい、今何の相手をさせられているのか。この時間は、いったい何になるというのか。
「さぞ有名なキャラクターなのかもしれんが、生憎俺はゲームも漫画もさして詳しくなくてな。あんたが誰なのか皆目見当も付かない」
自然と口調にも棘が宿る。むしろ、今までどうしてこの不審者にも丁寧に接してやっていたのだろうと疑問に思うが、それが古池の性分なのだから仕方ない。とはいえ、さすがの古池にも我慢の限界というものがある。それが下手に出ていれば増長して全く悪びれない相手であるなら、なおさら。
不思議と、初対面であるはずのそのコスプレイヤーの表情が、ゆっくりと移ろうのがその瞬間古池にははっきりと分かった。古池の苛立ちもすべて見透かしたような、それでいて憐れむような色合いだけが青い瞳に通り過ぎ、気が付くとそれらを塗りつぶすような尊大でおどけたようにも見える芝居がかった仕草と口調で男は恭しく一礼して見せる。
「ぼくは──マルス・ローウェル!アリティアの王子、あるいは英雄王。紋章の王子といった方が、聞き覚えがあるかな?」
「どれも全く聞き覚えがない」
マンションの前での問答がしばらく続いたためか、ここでも目立つコスプレイヤーのために道行く人々が足を止め、遠巻きに見守り、ちょっとした人だかりが形成されていた。いまさらながら、古池はいたたまれなさに胃が引き絞られるような錯覚を覚える。大家でもある親戚がこの光景を見たらなんと言うだろうか。さして付き合いもない近所の住人たちに、あのお宅の親戚の子は得体の知れない連中と付き合いがある、と後ろ指でも差されようものなら。厄介になっている親戚にも迷惑がかかるし、親と親戚の仲にも影響を与えるかもしれない。
古池はなけなしの根性を振り絞って声を張り上げた。
「王子だかなんだか知らんが、付き纏われて迷惑してるんだ。あんたとこれ以上話すことはない、帰ってくれ!」
日常生活でもこれほどの大声を出す機会はない──後から思い返してもそう断言できるほどに、この時の古池の声量は目を見張るものがあっただろう。周囲で遠巻きに様子を見守っていたギャラリーの間にも緊張が走り、自然と誰もがコスプレイヤーの返答を固唾を飲んで待つ形となる。大声を出しただけじゃまだ足りぬ、と古池はそのまま唇を噛み締めて不審なコスプレイヤーを睨み付けた。お前のペースには乗せられまいと、思い通りになるものかという思いを込めての視線は、果たしてどれだけ相手に伝わったのか。
うんうん、とコスプレイヤーは聞き入ったように深く頷き、考え込むように腕を組む。それだけで絵になる男だった。腹立たしいことに。いまさら、不審者の纏う衣類が随分上質な布で誂えられたものであったことに古池は気付く。鎧にしても、子供の手遊びという域を超えた重厚さを感じる。不審者は王子だと名乗ったが、なるほど状況が状況でなければ、絵本から飛び出してきた登場人物だと言われても無垢な子供なら信じていたかもしれない。
脱線しがちな古池の思考を引き戻したのは、当のコスプレイヤー本人だった。
「なるほど、なるほど…。君の混乱も一理ある。だが、それらの問題は時間が解決してくれると思う。だから、ひとまず君の家に一緒にいって、もう少しぼくたちはお互いを知り合う必要が──」
「もしもし、警察ですか!!」
一欠片残っていたコスプレイヤーへの同情、善性を信じる古池の気持ちが、粉々に砕け散った瞬間である。
「なあ、昨日お前んちの近くに警察来たってほんと?」
大学の講義室、ほどほどに教卓から遠く、黒板にひたすら公式を書き連ねる教授の目に入らない区画(と学生たちは思っている)に陣取る友人たちは、古池と同じく特別に熱意がある訳でもなく、かといって大々的にサボリを敢行できるほどの不良でもない、普通の学友たちである。そのうちの一人が興味津々という風に話しかけてきて、あわや意識の飛びかけていた古池は途端に覚醒する。昨日のことが思い出されて、重い溜息を禁じ得ない。
「来た…っていうか、俺が呼んだ」
「まじかよ!なんでなんで?」
もはや黒板の公式を追っている学生はいない。それは古池の友人に限らず、最前列で舟を漕いでいる者、スマホの画面を確認しているもの、次の講義のレポートを作成している者、様々である。かくいう古池も、昨日の興奮冷めやらぬのだから、正直おとなしく座って講義を受けている気分などではない。
ことの顛末は、こうだ。あの後、なぜか古池の部屋にまで押しかけて来ようとするコスプレイヤーに怒り、もとい恐怖を覚えた古池は、その直感を信じて110番に通報した。怪しい男が自宅まで付いてきて、なぜか部屋に押し入ろうとしてくると。男との面識はなく、何を言っても聞く耳を持たない。警察は民事不介入だと聞いたことがあったが、通報から間もなく二名の警官がパトカーに乗ってやって来て、古池の訴えを馬鹿にするでもなく親身に聞いて、コスプレイヤーとの仲裁に入ってくれた。身分証明を求められた不審者は、己の顔を差して「アリティアの王子であるこの顔以上に確かな証明が?」などと意味不明なことを警察を前にして臆面もなく言ってのけたが、当然そのような主張が通るはずもない。短くはない問答の後、コスプレイヤーは警察署に連行される運びとなった。
「とりあえず、青い髪のお兄さん、話だけでも聞かせてほしいから、一緒に来てもらえるかな」
さりげなく古池から引き離すように立ち位置を変えてくれた警官の背後に隠れるように、古池は小さくもない己の体を縮こまらせてコスプレイヤーの視界に入らないようにする。コスプレイヤーは、僅かな沈黙の後、それまでの芝居がかった口調より一段低い声で溜息を吐いた。
「そううまくはいかないか」
「落ち着いたら、色々分かることもあるだろうし」
さらに警官が一歩進み出てコスプレイヤーの腕を掴もうとする。このままでは埒が明かないとの判断からだろう。既に野次馬さえ話の進展の無さに散開しかけている。
刹那、コスプレイヤーの体がぐっと沈み込んだ。倒れたのかと古池が錯覚するほどだったが、瞬きの間に彼の体は跳ね起き、そうしてそのまま宙を舞った。どのような身体能力でか、コスプレイヤーが地面を蹴って、そのまま民家のブロック塀の上に飛び上がったのだと、その場にいる誰もが一部始終を見ていたはずなのに、そうと理解するのにずいぶん時間を要した。
「は……は?」
伸ばした手が虚空を掴み、警官がポカンと口を開けて固まっている。遅れて、それまで事態に興味を失っていたギャラリーから歓声に近い驚きの声が上がる。軽快な動画を撮る電子音が続く。ブロック塀からさらに飛び上がり、二階建ての民家の屋根の上に立つコスプレイヤーは、薄暗くなりつつある住宅街の空を背に青と赤の派手なマントをはためかせ、呆然と立ち尽くす古池を見下ろして言った。
「無理に連れて行っては、君を壊しかねないと■■■■■■■に言われている。日を改めるよ、アイク」
親しげにそう告げるコスプレイヤーは、まるで友人に再会の約束を取り付けるような気安さだ。警官が問うように古池を見やるが、全く身に覚えのないことだと慌てて古池は首を横に振る。その様子すら慈しむように眺め、それからコスプレイヤーは民家の屋根伝いにその場を去っていった。軽やかな足取りは羽根が生えたようにも思えたが、当然彼が超常的な現象によって宙を舞った訳ではない。単に並外れた身体能力で、大きく跳躍してあっという間に視界から消え去ったに過ぎない。
それから後、慌ただしく無線で連絡を取り合う警官たちと、突然の出来事に興奮を隠せない野次馬たちの好奇の視線とに晒されながら、古池はずいぶんと長いこと立ち尽くしていたように感じた。嵐のような出来事だった。そうして、何もかもが理解不能だ。まったく縁のないコスプレイヤーに付き纏われて、家にまで押しかけられて、さんざん意味の分からないことを言われて、理解が全く追い付かない。
結局、古池が警察署まで連れていかれて、謎の男との関係を事細かに聞かれることになる。無論、古池にあのコスプレイヤーとの面識はない。それは最初から述べた通りである。そもそも、彼がコスプレイヤーだとして、何のキャラクターを模したものかも分からない。あれが似ているのかそうでないのかさえ古池には分からないのだ。既に大勢の目に触れただろうあの姿は、しかし誰も元とされたキャラクターを特定することはできなかった。とあるゲームのキャラクターに似ている、とか、漫画の登場人物の面影がある、という者はあるが、そのどれもがあの不審者に当てはまらない。唯一分かるのは、彼が自称していた「マルス・ローウェル」「アリティアの王子」という情報だけである。
「なるほど…マルス・ローウェルと自称する男による、押し込み強盗未遂、と…」
古池の証言を元に調書が作成されていく。警官の呟き通りに書面には書かれており、これは大事になったと他人事のように古池は思う。
疲れ切っている古池を気遣う様子を見せながら、警官は再度念押しのように尋ねた。
「何度も聞くようで悪いけど…君の名前は、古池徹くんで間違いないよね?」
不審者がしきりに別の名前を呼んでいたのを警官も聞いていたのだろう。古池は気力を振り絞って力強く頷いた。
「間違いありません」
「例えば…SNSとかで、あの名前で呼ばれているとかはない?」
「全くないです!」
こちらに落ち度があるような誤解でもされたら堪らない。あるいは、あのコスプレイヤーとの関わりが微かにでもあると思われるのが無性に嫌で、古池の語気も強くなる。警官の方もそれを分かってくれているのか、同情するように頷いて調書に改めて「面識なし」と書き足してくれた。
警官は大層親身になってくれて、家まで古池を送ってくれた後、その晩は警官が近所を巡回する旨を教えてくれた。
「今の世の中、男の子でも気を付けないといけないからね」
「?はぁ、まぁ」
「とにかく、戸締りはしっかりね」
警察の巡回が功を奏してか、その日件のコスプレイヤーが古池の周囲に現れることはなかった。古池が大学に向かう道すがらにもパトカーと警官の姿が散見されて、ひとまず不審者の影を見ることはなかった。それで一安心していたのだが…。
そうした一部始終を端折りつつ友人に話す。友人たちはもはや講義そっちのけで古池の話に聞き入っている。友人のうちの一人がいち早くネットニュースを探し出して、差し出された小さなスマホの画面を皆が覗き込む。そこには野次馬が捉えたらしいコスプレイヤーのボケた写真が、引き伸ばされて掲載されて「●▲町に不審者情報。民家に押し入り未遂、けが人はなし」との見出しが付けられている。他の記事では、古池と歩く不審者とのツーショットとして掲載されており、古池の顔にはモザイクがかけられている。
「それにしても、本当に古池の知り合いじゃないのか、こいつ?」
「こんな知り合い、いるわけない」
やや語気を強めて答えると、友人はへらりと笑って「怒るなよ」と肩を竦める。怒っている訳じゃない、と弁明したが、あの不審者と接点があると思われるのは心外だった。別の友人が、考え込むように唸る。
「でも、確かに不思議だよな。全く接点がないのに、どうして古池を選んで声を掛けてきたんだろ、そいつ」
「分からない」
これは純然たる事実だから仕方ない。古池には不審者に絡まれる余地も隙もあったとは言い難い。友人はなおも分析を続ける。
「髪色だって黒の真面目くんだからな、古池は。そのくせタッパはあるし、普通に考えれば道を聞きたくなるような奴でもない」
「真面目そうだから、からかわれたんじゃないのか?」
「ま~、確かにそれは一理ある」
「お前ら、馬鹿にしてるのか?」
好き勝手に言い出す友人たちの言に、古池の眉間にもしわが寄る。冗談だよ、と再度愛想笑いを浮かべる友人に古池の方も肩の力が抜ける。いまさら分析したところで、不審者の考えることなど分かるまい。分かったところで、もう関わり合いになることもないのだろう、これだけ事件として取り沙汰されて、警察まで動いているのだから、程なくして不審者の情報など立ち消えになるはずだ。昼食の時間ではそう笑い飛ばしさえして、午後の講義が終わって古池が飲食店のバイトに向かう頃には、彼の脳裏からはすっかり不審者の情報など抜け落ちていた。
その日は月末で、飲食店のバイト先では月締めの処理が残る。そんな訳で、普段よりも仕事が片付くまでに時間が掛かり、古池が帰途に着いたのは人通りもまばらな夜も更けた頃合いだった。忙しくて晩飯を食う暇もなかった。なんとかコンビニで簡単に食べられる弁当だけは確保して、買い物袋を手に提げながら、古池は街頭が照らす路地を歩く。
マンションまであと少しというところで、住宅街の中に押し込められたような形の公園が目に入る。昼間であれば近所の子供たちで賑わうそこは、低い生垣とまばらな街路樹、オーソドックスな遊具とそれなりな広さのグラウンドを備えて、住民たちの憩いの場として申し分ない。普段であれば、古池はそこに目をくれることもなく、ただ隣を通り過ぎただろう。ところが今日はどういう訳か、公園の街頭が照らす遊具の影に目を凝らしてしまった。誰かに呼ばれたような気がしたからかもしれないし、単に疲れていたからかもしれない。ともあれ、そこで古池は滑り台の上にこじんまりと膝を抱えて座り込む不審者、もとい先日彼の家にまで押しかけてきた謎のコスプレイヤーを見つけてしまったのだった。
「アイク!」
古池が気が付くのとほぼ同時に向こうも気が付いたのか、コスプレイヤーは軽やかに滑り台の一番高いところからこともなげに飛び降りて、古池が反応を返す前に目の前まで駆け寄ってきていた。コスプレイヤーは綺麗に並んだ白い歯を見せて笑う。
「よかった、もう会えないかと思った!まさか君の方から会いに来てくれるなんて」
「……あんたに会いにきた訳じゃない!」
はっと我に返った古池は大袈裟なほどにコスプレイヤーとの距離を取る。こいつは口で言っても全く聞く耳を持たない。少々大袈裟にしたところで傷つくような繊細な心の持ち主とも思えなかったし、そもそも不審者相手に古池が気を遣ってやる道理などなかった。古池はいつでも逃げ出せるように荷物を両手に抱え込み、じりじりとコスプレイヤーとの距離を取りながら続ける。
「あんた、警察に捕まったんじゃなかったのか…?」
「ぼくが?まさか」
面白い冗談だと言わんばかりにコスプレイヤーは朗らかに笑う。この浮世離れした反応が彼を不審者たらしめている。古池は改めて、この男が得体の知れない存在であると認識し直す。後に残虐な事件の犯人であったと聞かされたとて、古池は手放しで納得するだろう。ふと、古池はコスプレイヤーが腰に提げている長剣のようなものに視線を落とした。万が一、あれが模造刀ではなく真剣で、このおどけた口調や芝居がかった仕草も相手を油断させるためのブラフだとしたら……。
古池の警戒などどこ吹く風で、コスプレイヤーはやれやれと肩を竦めた。
「…とはいえ、警戒線を張られたのは痛い。迂闊に君の部屋に近付けなくなってしまった。特殊な結界の類だろうか?だがいいこともあった。追手を撒いていたら、ここにちょうどいい拠点を見つけてね」
聞いてもいないのに、コスプレイヤーは背後の遊具を指差してそう言った。思わず目を凝らしてその指が差す先を見てしまう。どう見ても、この男が指示しているのは彼が先ほどまで座っていた滑り台だった。聞き間違いかもしれない、との可能性に賭けて古池は何度か彼の話を脳内で反芻したが、妙に耳障りの良い彼の声を聴き間違えるはずもなかった。同時に、彼の口から結界だとか非科学的な言葉が飛び出したのも頭痛が痛くなるような案件ではあったが。
これ以上付き合うべきでないと常識的な古池の理性が告げていたが、何故だかこのコスプレイヤーには不思議と人の目を引き付ける魅力があった。無論、派手な衣装とビビッドな色合いは間違いなく現代社会では浮いて目立つには違いないのだが、それだけではない。常識外れな恰好と言動でかすみがちだが、整った顔立ちは特に手を加えた様子がなく、普通に立っているだけでも絵になる気品は、確かに王子と呼ぶにふさわしいのかもしれないと思う程度に古池も認めるところである。微妙な古池の反応の変化をいち早く悟ったか、それまで仰々しいほど大袈裟だったコスプレイヤーの口調がいくらか和らいだ。
「…この広場はいい!見張り櫓もあるし、なんといっても屋根がある。雨風を凌ぐのにぴったりだ」
「はあ…?」
「ぼくもさすがに不眠不休という訳にはいかない。夜に腰を落ち着ける場所が早くに見つかって安心している」
「そうか…、いやちょっと待て」
危うく納得しかけたが、男の話はいろいろとおかしかった。堪らず古池は口を挟む。こういった時、真面目な性分なのが災いするのだと後から思うが、結局は後の祭りだ。
「あんた、まさかとは思うが…家に帰っていないのか?昨日から、この公園で寝泊まりしてるって?」
ますますもって不審者だ。冗談だと信じたかったが、こんなときばかり目の前の不審者はきょとんと青い目を丸くして古池を見つめ返した。
「そんなに驚くことかい?ここは緑も多くて野営に申し分ないと思ったんだけど」
「や、やえい…?」
コスプレイヤーは古池が話に付いてきていないことも気にせず、何気ない様子で腰を屈めて足元の小枝を拾い上げた。
何をしているのか理解できるはずもないと、古池がその行動の真意を問うことすら諦めていると、次々と小枝を拾い集めながら不審者が続けた。
「幸い、夜も寒さはさほどでなくて助かった。焚火にちょうどいい薪の確保にも苦労しない。敵地ながら、快適には過ごしているよ」
「たき…今なんて言った?」
「うん?思いのほか快適って」
「そうじゃなくて……いや、それならいい…」
問いただすだに恐ろしく、古池は口を噤む。もとより、関わり合いになってろくな相手ではない。古池がこの男の心配をするのもおかしな話だ。警察に通報しないだけ、古池はずいぶん優しい手合いだろう。
そう、この日の古池は前日ほどの嫌悪感をこのコスプレイヤーに抱いていなかった。むしろ、憐れんでいた。現代社会において、ここまで世界に不適合な人間がいるものかと、彼の境遇に思いを馳せさえした。きっと辛いことがあって、そうして現実から目を背けて生きているのだろう。そうでもしなければ、彼の心は壊れてしまうほどに、その人生は波乱に満ちているに違いない……。
人に迷惑をかけない限りは、好きにさせておいてやるのがせめてもの情けだろう。そうした判断の元、古池の対応は昨日より幾何か柔らかかったわけだ。その日はしつこくコスプレイヤーが付き纏って来なかったのも一因だろう。せっせと足元の小枝を探し集める男を公園に残し、古池は今更のようにずいぶんと夜が更け込んでいることを思い出した。
「あまり、人に迷惑をかけるなよ」
お節介だろうが、不審者とて警察の厄介になるのはごめんだろう。さほどこの男のことが当初ほど悪い人間であるとは思えず、そう古池が声をかけると、コスプレイヤーは暗がりでも分かるほど綺麗に並んだ歯を見せて笑った。
翌日、朝のニュースに近所の公園が映し出され、「不審者による小火騒ぎ」と銘打たれた報道がなされることとは、その時の古池は夢にも思っていなかった。
「いや~、びっくりだよね!ちょっと火を起こしただけで衛兵を呼ばれるなんて、この区画はずいぶんと監視の目が厳しい」
次の日、古池が所属する運動サークルに顔を出してから帰路に付くと、いつも通る公園の入り口には警官が一人仁王立ちして、人の通りを監視していた。そういえば、今朝のニュースに不審者の情報が出ていたし、マンションの掲示板にも慌てて作成されたらしい張り紙がされていた。古池は容易に思い当たる犯人の顔を思い浮かべて溜息を吐く。だから人に迷惑をかけるなと忠告したのに……そう思っていた矢先、公園と道路を隔てる背の低い生垣の影から気安い調子で顔を出したのが、件の不審者その人だった。
「あんたは……!」
思わず上げそうになった声を寸でのところで呑み込んで、古池は公園の入り口に立つ警官がこちらを見ていないか慌てて確認した。警官の姿は道路からは見えなくなっていた。公園の内部の見回りにでも向かったのだろう。確認してから、何故自分がこの不審者の肩を持って気遣いしてやらねばならないのだ、と自問する。自答する前に、コスプレイヤーが元気に続けた。
「こんばんは、アイク、今日は稽古の帰りかな?」
「だから俺は古池だと…、あんたこそここにいて大丈夫なのか?ニュースになってたぞ」
古池がコスプレイヤーの心配をしてやる義理などないが、それでも気になるものは仕方ない。そもそも目と鼻の先に警官がいるのにこうして公園に居座る胆の据わりようはどうしたことだろう。一応隠れてはいるようなので、見つかると厄介なことになることは理解しているようだが。
男は昨日と全く同じ格好で、騎士風のコスプレ服を相変わらず見事に着こなしていた。こんな目立つ格好でもなければ、無理に隠れる必要もないはずなのに、頑なに貫き通すのは故あってのことなのか。不審者への疑念は尽きない。
「ううむ、確かに敵地で迂闊に火を焚いたのは失策だった。居場所を特定されて、監視の目を強めてしまった」
大真面目に現状をそう分析するコスプレイヤーを見ていると、古池の方も肩の力が抜けてしまう。どこか抜けていて、常識の通用しない男だが、何故か彼が警察に捕まって檻にでも閉じ込められている姿は想像できなかった。
「そりゃ、公園だから、火を焚くのはまずい。…いや、今は野焼きも禁止されているんだったか…?」
「とにかく、火がまずいというのは身をもって分かったよ。幸い、灯りには困らないし。しばらく火おこしは控えようかな」
なんとなく、このコスプレイヤーが原始的に板と木の棒で火おこししてる姿が想像されて、古池は奥歯で笑いを噛み締める。それには気付かず、男は生垣の中で窮屈そうに伸びをしていた。
不審者には違いないが、このコスプレイヤーが他人に危害を加えるほどの男ではないことは、なんとなく古池には分かっている。いや、公園での寝泊まりや焚火は十分迷惑行為かもしれないが、思い返せば妙に顔の整った男だ、要するに日本人離れしている。あまりに流暢な言葉で話すのでその可能性を失念していたが、例えば日本の文化をよく知らないまま、この外国人(仮)が騎士に扮して日本にやってきたのだとしたら…。
気が付くと、古池はこのコスプレイヤーの肩を持ちたがっている自分がいることに気が付く。初めこそ、警察を呼んで警戒したが、妙に放っておけないというか、なんというか。もう一度、公園の入り口を見直して、見回りの警官の姿がないのを確認して、古池は再度男に視線を戻した。
「あんた、なんでそんな恰好をしているんだ?」
堪らず、問う。コスプレイヤーはいつもの大仰な口ぶりで答えた。
「そりゃ、ぼくは王子だからね。指揮官でもある。上に立つものがみすぼらしい恰好では、臣下に示しが付かないだろう?」
「違う違う、そういう“設定”の話じゃなくて、なんでコスプレなんかしてるんだって意味で」
古池には全く身に覚えがないが、コスプレイヤーがもし本当に古池に用があるのだとしたら、こんな目立つ恰好をわざわざする必要はなく、普通に自分を訪ねてこればいい。警察にまで追われて、これ以上ないほど確かな手がかりとして彼の姿が世に共有されつつあるのだから、身の安全を確保する意味でも珍妙な服は脱いで隠れればいい。それをしないのは何故なのかと、そういった趣旨のことを聞きたかったのだが、生来言葉が足りないと言われ続けてきた古池の口から零れたのは、あまりに無神経な一言だっただろう。珍しく、表情の抜け落ちた顔で男は沈黙した。聞かずともペラペラと喋る男なだけに、黙ると作り物めいた白い顔が威圧感をもって恐ろしかった。
短くはない沈黙が流れ、ようやく古池は己の発言の無神経さを自覚した。
「あ、その、すまない、不快にさせるつもりは…」
しどろもどろになりながら古池は弁明する。言い訳しながら、どうして自分は不審者相手にここまで気を遣っているのだろうと情けなくも思ったが、人間誰しも荒らしてはならない領域というものがあるだろう。恐らく、目の前のコスプレイヤーにとっては今の話題が逆鱗だったに違いない。
「それが、悪いって意味じゃない。だが、あんたは…その、目立つ。警察もあんたを探してるのに、それでも貫き通すには、何か理由があるのかと」
「アイク」
諭すような口調で名前を呼ばれる。否、断じてそれは古池の名前ではないが、呼びかけには萎縮する必要などないという労りの色が濃い。男はそれまでの威風堂々な口調とは一転、囁くようにして続ける。
「君を連れ帰るためさ。ぼくがこの姿でいることが、そのままぼくたちの道しるべになる」
息を詰めて男の声に耳を澄ませる古池は、相変わらず意味の分からない発言の数々に目を白黒させるしかない。とはいえ、怒らせた訳ではなさそうだということがひとまず古池の心を落ち着かせ、次いで歯並びの良い笑みを形づくった不審者が普段の調子で言った。
「あとはまぁ、他に着替えを持ってきていないというのもあるね。通貨も違うし、さすがに市民の衣服を剥ぐ訳にもいかない」
「……お前の話を真面目に聞いた俺が馬鹿だった」
結局、いつものコスプレイヤーの夢物語に帰結するのだから、古池の心配も無駄というもの。がっくりと項垂れて頭を搔く古池をハハハと小気味よく不審者が笑い飛ばす。それでも男の無表情が妙に印象的で、内心古池の緊張は完全にほぐれた訳ではない。だがそんなことをコスプレイヤー本人に悟られるのは癪なので、古池は気を取り直して説教じみた言葉を続けた。
「着替えも持たずに、公園で寝泊まりなんて無謀にもほどがある。というか、金もないのか?それなら今まで食事はどうして……」
「きみ!」
突然見知らぬ声が割って入って古池は飛び上がる。声のした方向を振り返ると、懐中電灯をこちらに向けた警官が胡乱な表情で古池を見つめていた。コスプレイヤーとの会話に気を取られるあまり、警官が戻ってきたことに気が付いていなかったらしい。咄嗟に古池は近くの生垣を見やる。既にその場はもぬけの殻だった。いなくなるなら、声くらいかければいいのに、と知らず古池は頭の片隅に不満が零れるのを他人事のように聞き流す。
「この近辺で不審者の目撃情報が相次いでいる。こんなところに長居しないで、早く帰りなさい」
警官は注意深く古池の周囲を見渡しながら言った。コスプレイヤーとの話し声が聞こえていたのだろう、話し相手がどこかにいるものと探しているらしい。愛想笑いを浮かべて、古池は頷きつつ踵を返す。悪いことをしている訳ではないのだから、と自分に言い聞かせつつ、早鐘を打つ己の鼓動を抑え込むように溜息を吐く。警官はそれ以上古池を呼び止めなかった。
ざわざわと暗がりの中で風に吹かれた木の葉の揺れる音がする。最後に聞きそびれた質問の答えが気になって、振り返りたいのをなんとかこらえながら古池は自宅へと続く道を歩く。寝泊まりする宿もない男が、替えの衣服もなく、そういえば通貨も違うと口走っていなかったか。
(ちゃんと、飯を食ってるんだろうか)
明日の帰りは、何か差し入れられるものを買って帰ろう。そうして、帰る場所があるなら帰るべきだと諭してやらねば。そういった使命感に駆られつつ、古池の一日は終わる。
***
懐かしい夢を見た気がする。凝り固まった背中をほぐすように伸びをする。固い地面で眠るのはさほど苦ではないものの、連日の追跡を躱しながら、周囲に気を配りながら眠る時間は体を休めるには至らなかった。まだ空は白む前だが、拠点としている公共の広場の周囲からは人々が動き出す気配がしていた。朝が来る。
何故ここにいたのか、何から逃げていたのか、つかの間思い出せずに頭を抱える。ここのところ、頭痛が酷い。夢の中でさえ、仲間の名前を思い出せなくなっていた。縋り付く相手がいればそうしたかもしれないが、その相手の名前も思い出せない。
ふと固い感触に意識が逸れる。手探りにその正体を伝っていくと、美しい装飾の施された神剣だと知れた。
「ああ、ファルシオン」
声に出して確かめると、沈んでいた意識がじっくりと戻ってくる。ファルシオン、アリティアの国宝。そうしてこの神剣を扱うことを許された自分、マルス。この逸話の指向性が、彼──アイクと近いのを見込まれて、彼を異界から解き放つことを目的に、この敵地へとやってきた。
「ぼくは、マルス。マルス・ローウェル。アイク、アイクを連れ帰るためにここに来た、ここにいる。ああ、アイク、アイク」
何度も声に出して確認しないと、手のひらですくった水のように、すぐさま両の手の隙間からほろほろと零れ落ちて、当たり前のことさえ思い出せなくなってしまう。それだけ異界のテクスチャとやらはマルスにも影響を与えていた。何もかもが彼をこの異界の常識に当てはめようとする。マルスが気を抜いてこの異界の常識に屈した瞬間、マルスもまた元の世界のことを思い出せなくなってしまうだろう。
「早く、思い出してほしいよ、アイク」
マルスの知らない名前で呼ばれる彼を見ているのは辛い。それどころか、異界の常識に馴染むように、姿さえ変えられている。意志の強い蒼炎灯る瞳も、紺青の髪色も、今はこの異界特有の色なのか、黒色に塗りつぶされている。
だが、希望もある。初めこそマルスという異物を忌避していた風なアイクは、徐々にではあるがマルスへの警戒を解きつつある。白手袋の言う通り、マルスとアイクのデータの指向性が、お互いを引き寄せ合っているのだろう……。
加えて、マルスは確信していることがある。確かに見た目も境遇も、何もかもが今のアイクと元のアイクは違うと言えるが、性格だけはさほど変化がないように見える。妙に面倒見が良かったり、建前やお世辞よりも己の信念に従って行動したり。それを信じるならば、もういくらもしないうちにマルスの目論見は上手くいく……はずなのだ。
だから、それまでの辛抱だ。
古池は、気が気ではなかった。既に不審なコスプレイヤーと出会った日から四日が経とうとしている。どうやら出会ったその日から公園で寝泊まりしているらしいあの不審者は、日中何をしているのか知らないが、おそらく所持金もなく、古池の見立てが確かなら風呂にも入っていないし、食事も取っていない。認識を改めねばなるまい、と古池は考える。あの男は痛コスプレイヤーなどではない。ホームレスだ。
となると、もはや古池のような一介の学生が手を差し伸べたところでどうにかなる問題ではない。いっそ警察に保護された方が彼のためになるのではとすら考えたが、すんでのところで古池は思いとどまる。あの男…まる…なんだか横文字の名前だったが、悪い奴ではないはずだ。これまではあの勢いに圧されて何も言えなかったが、古池も浅からぬ縁の生まれた相手、これからの身の振り方について相談に乗るくらいのことはしてやってもいい。そう考えて、昨日はいつもの公園にコンビニ弁当の袋を持って古池はやってきていた。不審者の姿を見失ったのだろう、今日は既に警官の見張りもなく、古池が公園の入り口に差し掛かったところで、滑り台の上に据え付けられた屋根の上に、器用に登ったらしいコスプレイヤーがひらひらと手を振っていた。
食事の差し入れのついでに、懇々と生活保護申請の窓口についての説明をコスプレイヤーにした。スマホの検索も駆使しつつ、元来口の回る方ではないが、真摯に訴えたつもりである。思った通りというか、やはり男は三日間何も食べていなかったようで、公園の水道水だけで生活していたらしく、古池の差し出したコンビニ弁当に喜んであり付きながら、古池の面白くもない行政支援の話を聞いていた。
なんとなく、古池は子供のころ、捨て犬に家からこっそり持ち出したソーセージを与えていたことを思い出した。親の許可がなければ犬を飼うことはできず、それでもやせ細った野良犬を見てはどうにか世話できないものかと考えたものだ。野良犬は保健所に連れていかれてしまうものだと聞いたときは、目の前が真っ暗になったような錯覚に陥ったが、……その後どうなったのか、どうしても思い出せない。
思いの外、男は真面目に古池の話を聞いていた。もしや自分の置かれた状況を理解してくれたのか、と古池が相好を崩しかけたのも束の間、ご馳走様と律儀に述べたコスプレイヤーは、のんびりと唇に付いた油を舐め取りながら言う。
「ちょっと…君の話、難しかったなぁ。明日、もう一度聞かせてくれるかい?」
「今、もう一度聞かせてやるから考えろ。ここにいてもあんたに良いことは一つもない」
「うーん、久々にお腹いっぱいだから眠くなっちゃって」
呑気にそう続ける男は、ごろりと地面に転がって空を見上げる。そうして浮かぶ星々を指差し、あれは英雄アンリの星座かな?などと相変わらず意味不明なことを言う。
だんだん、古池は腹が立ってきた。そもそも古池がここまでしているのは、この宿無し金無しコスプレイヤーが辛い思いをしているだろうとの配慮からで、古池の方が現状を憂いてあれやこれやとしているのにも関わらず、当のコスプレイヤー本人は全くそれらのことに無頓着で、事態を解決する気がないように見える。
古池は寝転がる男の食べ終わったコンビニ弁当の容器を引っ掴み、空のビニール袋に突っ込むとそのまま立ち上がった。アイク、と例の名前で呼びかけてくるのは一切無視して、古池はようやく起き上がったコスプレイヤーの鼻先に人差し指を突き付けながら言った。
「俺はもう帰る。そして金輪際あんたには関わらん。気にかけてやるのもこれが最後だ。ただの学生に過ぎん俺には、あんたの面倒は見切れない」
これが最後通告だと、そう脅すように低い声で言ったはずの古池だったが、なぜかコスプレイヤーは薄っすらと目を細め、にたりと笑う。男の不自然にも思えるその表情は一瞬で流れ去り、古池が瞬く間に、男の整った白い顔にはいつもの晴れやかな笑みが浮かべられていた。
「ありがとう、また明日」
「もうここには来ないと言ったんだ」
全く人の話を聞かない男だ、と一層神経を逆撫でされた気分で、肩を怒らせながら古池は踵を返す。親切もここまで徒労に終わると虚しいばかりだ。背後で男が手を振っているのが分かったが、当然振り返るつもりもない。ところが、男は古池の罵声にも全く堪える様子もなく楽し気に続ける。
「ふふ、来るさ。君は優しいから」
「意味が分からん!」
そうして、喧嘩別れのようにして一夜が明け、現在古池は大学で午後の講義を受けているという訳だが。
古池の心配事は窓の外にある。日除けのために降ろされたブラインドカーテン越しにもはっきり分かるほどに、窓を叩く雨音は大きい。
そう、雨だ。幸いにして、これまでは天気も良く、あのコスプレイヤーも公園の簡単な屋根の下で眠ることができただろう。ところが、今日の雨は叩きつけるような土砂降り。当然、水捌けの悪い公園など簡単に水没してしまうし、そもそも雨除けを想定されていない構造の遊具でいかほど雨宿りができるだろう。昼過ぎから降り出した雨のあまりの激しさに、古池の頭は公園で震える例の男の想像でいっぱいになっていた。
ブラインドのせいで外が見えず、聞こえる雨音が余計に大きく聞こえる。風が吹いて雨足が強まる度、古池は気が気ではなくなった。元々耳に入りづらかった教授の講義などもちろん右から左に抜けていく。ノートを取ることすら覚束なく、古池は神経質に机の下で貧乏ゆすりを繰り返した。
「…では、今日はこの辺りで」
まったりと教壇に立つ老爺が告げる。終業時刻より数分早いが、まんじりともせず時計の針が進むのを待っていた古池は跳ね上がるように立ち上がった。周囲の友人が驚きつつも声をかけてくる。
「古池、今日はバイトないだろ?メシ行こうぜ、赤城たちも来るって」
「すまん、今日は用事がある」
慌ただしく鞄の中に持ち物を突っ込んでいく古池の様子は、確かに鬼気迫るものがあったのだろう、友人たちは古池を引き留めなかった。そのまま大慌てでキャンパスを突っ切り、折り畳み傘を広げて走り出そうとして、止まる。
(こんな小さな傘じゃ、あいつが入れない)
記憶の中の男は、一見華奢な体型にも思えたが、そうはいっても古池とさして身長の変わらない成人男性に見える。もはや古池の脳裏に理由を問う声はない。ただ、そうしたいという衝動だけが、古池のなけなしの所持金で新品のビニール傘を買わせるに至る。
そのままビニール傘を握りしめて、折り畳み傘が傾くのも構わずに古池はいつもの公園までの道を可能な限り早足で駆け抜けた。
公園に近づくにつれ、古池の頭は冷えていく。小さな折り畳み傘では防ぎきれなかった雨に濡れて、事実古池の体温は下がったのだろう。それほどに雨は強い。土砂降りと言って遜色なかった。そんな中、あのコスプレイヤーが馬鹿正直に公園に居座り続けるだろうか?常識的に考えて、もっと雨がしのげる場所に移動するなり、帰る場所があるならそこに戻るなりするだろう。話していても、あまり悲壮感のない男だった。つまり、本人はさほど困っていないということの証左であり、余裕があることの裏付けに他ならない。古池は公園の入り口に着く頃、自分がどうしてここまで急いでやってきたのか不思議に思うまでになっていた。
案の定、公園の砂地は降りしきる雨水が小川のように流れ込み、人通りの多い削れた地面には特に深い水たまりができていた。当然ながら、公園には人影などない。やはり心配するだけ無駄だったのだという虚無感と安心感とがないまぜになって古池は立ち尽くす。肩の力が抜けた。わざわざ買ったビニール傘がいまさら重く感じる。
存分に濡れてしまったし、さっさと帰って着替えよう。そう思って古池が踵を返そうとすると、唐突に近くの生垣が揺れて見覚えのある蒼髪が姿を見せる。知らず、古池の頬が緩む。古池の探し人は、目が合うとずぶ濡れのままはにかむ。
「また会ったね、アイク」
「あんた、こんなところで、……何してるんだ!?」
その身を案じる言葉を言いかけて、古池は思わず叫ぶ。生垣の影に隠れているが、今日の男はいつもの騎士風の目立つ服を着ていない。むしろ服を着ていなかった。辛うじて下着は着けているものの、雨の中夕刻とはいえまだ明るいうちにこんな恰好の男が公園をうろついていたら、理由はさておき通報されるだろう。古池は慌てて男を生垣の奥に追いやって、人の目に触れないように囲い込む。
ひとまず、雨の中この時刻に外を出歩いている人間はいないようで、近隣に彼を通報するような監視の目はない。しかし、問題の解決には至っていない。古池は極力声を抑えつつ、半裸の男に詰め寄った。
「今度は露出狂にでもなって通報されるつもりか…!?服を着ろ!説教はそれからだ」
「人目もないし、濡れたついでだから沐浴でもしようかと…分かった分かった、そんなに怒らないで」
あまり事態の深刻さを分かっていない様子で、不審者は大袈裟なんだからなどとぶつくさ言いながらいつもの装束に手を伸ばす。可能な限り雨の降りこまない木の下に畳まれた状態でコスプレ服が積まれている。鎧の類もそこに並べられていたが、ずいぶんしっかり防水加工されているのか、水でふやけて形が崩れるなどといったことにはなっていない。だが、先に男が述べた通り、着なおしたコスプレ服は既にびしょ濡れで、コスプレイヤーは居心地悪そうに身震いした。
「うえー…マント重い」
「そりゃそうだ」
見れば見るほど男の佇まいが憐れで、古池は同情を禁じ得ない。手を差し伸べたとてきりがないということは百も承知だが、こんな雨の中に「知り合い」を放り出すのは、古池にはもはや看過できない事柄となっていた。
ぐっしょりと芯まで濡れているのだろう、妙にボリュームのない湿った前髪から水滴を垂らしている男に、古池は買ってきたビニール傘を差しだす。コスプレイヤーは傘と古池の顔を見比べ、はてなと首を傾げた。
「…どうしたの?」
「あんた、本当に帰るところがないのか?こんな雨の中で突っ立っていたら風邪をひく」
「さっきまでは、ちゃんと屋根のあるところにいたよ」
「それは、あの遊具の屋根のことか?」
古池が顎でしゃくったのは、公園の中心辺りに設置された滑り台だった。登頂部に機能性の低そうな尖った屋根が設けられているが、現状横殴りの雨に対して雨除けの意味を成しているとは到底言えず、昨日まで男が拠点だと言い張っていた場所はずぶ濡れになっている。
それは本人も自覚があったのか、とぼけるように男は肩を竦めただけだった。古池は溜息を吐き、再度ビニール傘を男に押し付ける。
「…それを差して、一緒に来い。明日の朝には雨が止むそうだから、それまでは俺の部屋を貸してやる」
珍しくというか、コスプレイヤーはぱちくりと目を瞬かせ、古池の発言の意図を汲むのにずいぶんと時間が掛かっているようだった。最初は自分から古池の家に押しかけようとしていたのに、と古池はその様子を意外に思いながら見つめる。図々しいばかりかと思っていたが、時々妙に抜けているところがある。
男はなかなか傘を受け取らない。
「アイク、それは…君は、思い出してくれた?だから、こんな……」
「何の話か分からんが、あんたがこんなところで野垂れ死ぬと寝覚めが悪いだけだ」
これまでのコスプレイヤーの空想話に比べると、男の声はずいぶんと弱弱しい。さしもの不審者も、雨で体力を奪われているのだろう。いよいよ彼をここに放置するのは憚られる。古池はビニール傘を開いて、その取っ手を男に押し付けた。
「それとも、ここに居座って警察の世話になりたいのなら、無理には止めないけどな」
そのまま男に背を向けて古池は歩き出す。自分のしていることが単なる自己満足なことが急に自覚されて、強く彼を誘う口実には至らなく思えてきたのだ。本当にこのコスプレイヤーが困っていて、長期的に援助が必要なのだとしたら、もはや古池にはどうしようもないことだ。だが、不思議と──根拠はないが──そうならない気がしていた。近く問題は解決する。そういった予感が古池の心の奥底には芽生えている。それがどういった結末になるのかはさておき。
しばらく、古池の背後でコスプレイヤーは立ち尽くしていたようだった。付いてこないなら、それはそれでいいと己に言い聞かせつつ、それでも気になって公園の入り口辺りで振り返ってみると、男は渡された傘を律儀に差して、にこやかに顔を綻ばせながら古池の後を付いてきていた。
念のため、と古池は男に釘を刺す。
「俺が借りてる部屋だが…集合住宅だから、あまりでかい声を出したり、目立つような真似はするなよ。警察を呼ばれたくないだろ」
コスプレイヤーの特徴を書いた張り紙は、いまだマンションの掲示板に張り出されている。既に熱心に彼を探している民間人はいないようだが、今日が雨で幸いした。傘で彼の目立つ風体はある程度隠れるし、そもそも日頃に比べて外を出歩いている人影は少ない。
コスプレイヤーは邪気なく笑い、うんうんと頷く。本当に分かっているんだろうかという一抹の不安は残るが、こうなればままよと古池は歩き出す。
「でも、君は呼ばないでしょ」
歩き出す古池の背に、面白がる風な男の囁きが追いすがる。言いたいことや、彼を招き入れたことへの後悔など、様々な感情が古池の胸中を行き交ったが、それすら呑み下して古池は足を止めることなく己のマンションへと続く道を大股に進んだ。
自室へと向かう道中、近隣の住人に同行者の存在を指摘されることを古池は恐れていたが、雨が幸いしてエントランスにも廊下にも住人の姿はなく、目立つ姿のコスプレイヤーは誰に通報されることもなく古池の部屋へと足を踏み入れていた。これでもコスプレイヤー本人ですら緊張していたのだろう、古池が部屋の扉を閉めて息を吐くと、男もまた肩の力を抜いて息を吐く。古池がその顔を見やると、気が付いたらしい男はへらりと愛想笑いを浮かべた。
「ありがとう、雨宿りできるだけでもとても助かる」
コスプレイヤーは水の滴るマントを抱えて、玄関のたたきの部分で縮こまっている。一応、室内が濡れないように配慮しているらしい。古池は自分のぐしょ濡れのスニーカーを脱ぎ捨てて、同じく踝まで水を吸った靴下を丸めて洗濯かごに投げ入れた。床が濡れるのは仕方なしと諦めて、そのまま脱衣場に置いたタオルを引っ掴んで玄関に戻る。
「とりあえず、これで体を拭いといてくれ。今湯を張るから、風呂が沸いたら使うといい」
半ば放り投げるようにタオルを手渡し、古池は慌ただしく部屋の中を駆けずり回る。人を招く予定もなかったものだから、部屋の中は荒れ放題だった。話す間に、風呂に水を溜め、床に散らばった衣服を隅に除け、出しっぱなしのはがきや書類をひとまとめに重ねて本棚に押し込む。
タオルを受け取ったままの体勢で、コスプレイヤーはぽかんと口を開けて固まっていた。
「…そんなにしてもらっていいの?」
そうして、そんなことを言った。逆に、ここまで連れてきて玄関で一晩を過ごさせることの方が不自然だろう。古池は部屋を雑に片づけながらそんなようなことを言った。
「ついでだから、服も洗濯しといてやる。明日の朝には乾くだろうから、それまでは俺の服でも着ておけばいい。…コスプレイヤーの服は洗濯していいのか?まあ、何かあってもあとで文句言うなよ」
「…ありがとう」
妙にしおらしく、男は二回目の礼を言った。古池もむず痒くなって、話題を逸らすように饒舌に続ける。
「夏用の布団しかないが、我慢してくれ。急な来客をもてなす用意はうちにはない。メシもインスタント麺しかないな…まぁ、コンビニ弁当をあんなにがつがつ食ってたんだ、いまさら好き嫌いもないだろう」
そうこうしているうちに、浴槽に溜めた湯がいい頃合いになって、古池はコスプレイヤーの重厚なブーツを脱ぐように促すと、脱衣場まで案内して湯気立ち上る風呂場の扉を開けながら言った。
「ここで服を脱いで、シャワーの蛇口はここ。こっちが頭を洗うやつで、体はこの石鹸を使ってくれ。新しいタオルはここに置いておく」
「うん」
まるで初めて見るものばかりだというように目を白黒させつつ、男が頷く。海外とはいろいろと様式が違うのかもしれない、と古池は常になく丁寧に浴槽の使い方を説明した。目を離すと何をするのか心配でもあったので、とりあえずシャワーを使うところまでは見届けようと決意して、コスプレイヤーが服を脱ぎ出しても古池は脱衣場のそばで待機し続けた。
無論、同性とはいえ彼の着替えをじっと見るつもりはなかったが、公園のどしゃぶりの中では気付かなかったことに古池は目を留める。
コスプレイヤーの体は、妙に古傷が多い。小さな傷ではない。背中を袈裟懸けに横断するものに始まり、既に塞がったものではあるが、日常生活を送っているだけでここまでの怪我を負う機会などあるまい。知らず、長々とその傷を見つめていたのだろう。視線に気が付いたらしい男が振り返り、首を傾げた。
「何か間違っていた?」
ここの常識に疎い自覚があるのだろう、古池の視線を非常識な行動に対する非難と捉えて男が尋ねてくる。古池は傷の理由を問おうとして、喉まで出かかった言葉を辛うじて呑み込んだ。事故、虐待、自傷……怪我の理由は様々考えられたが、どれも軽々しく踏み込んで良いものではなかった。首を横に振り、大丈夫だと付け加える。
「…脱いだ服、貸してくれ。洗濯する。そっちの鎧なんかも拭いておくから」
近づいて手を差し出すと、男は照れ臭そうに笑って大人しく脱いだ衣類と鎧とを古池に渡した。想像以上に鎧の類が重く、思わず沈み込む古池の手を男が支える。古池が瞬いていると、男がくすくすと笑った。
「ずいぶん、本格的なものを着けているんだな」
相対した男は、背中のみならず体の正面にも場所を問わず大小さまざまな古傷を残していた。それはまるで、歴戦の戦士のような──。
「命を守るものだからね」
「…あんたの髪も、てっきりカツラだと思っていたんだが」
「ふふ、ぼくも最初は、君のことそう思ってたよ」
微妙に噛み合わない言葉をかわすことに、古池は慣れつつある。古池は冷えないうちに湯船につかるといい、と男に風呂に入るよう促した。大人しく古池の言葉に従い、男が浴室に進んでいく。はて、と視線を落とすと脱衣場の壁に立てかけられたコスプレ道具に目が留まる。美しい装飾の施された鞘に納められた剣に見える。無意識に手を伸ばすと、浴室から男の声が響く。
「触ってもいいけど、真剣だから、気を付けてね」
まさか、と笑い飛ばそうとした古池だったが、鞘を掴んで片手で持ち上げようとすると想像以上の重量が古池の腕に負荷をかける。
こんな重いものを、と普段苦も無くこれを腰のベルトに提げて飛んで跳ねるコスプレイヤーのことが思い出される。真剣であるかどうかはさておき、本物と遜色ない重量であることは確かだ。見せかけのハリボテではなさそうだ。かつて、古池はこの長物を本物の刃物ではないかと恐れていたが、今は不思議とそういった嫌悪感や恐怖感より、古池の中に眠る少年としての冒険心をくすぐる意味合いの方が強い。古池とて、小中と学生時代には修学旅行で木刀を買うことに憧れた時分のあるものだ。
いや、そうだろうか?細身に似合わぬ重量のある剣を手に、古池は己の脳裏をよぎる違和感を自問する。この感情は、もっと、懐かしいとか、もどかしいとか、自分にも相応しい剣があったのでは──。
「普段のアイクは、もっと重い剣を振り回していたけどね」
驚く古池を見届け、蒼髪の男は妙に満足気に笑っていた。
古池の懇切丁寧な説明が功を奏してか、蒼髪の男は問題なく入浴を済ませ、温まったのかずいぶんと血色よくなって脱衣場から顔を出した。古池は引っ張り出しておいた新品の下着と、高校時代のジャージを彼に貸し与えた。一瞬、男はそれに着替えるのをなぜか渋ったが、結局は素直にそれらの衣服に袖を通した。男が入浴している間に、古池はせっせと洗濯機を回し、男のコスプレ衣装を室内に干し、濡れた鎧を拭き上げた。真剣だというそれを鞘から引き抜く勇気はなく、軽く外側を拭くに留める。風呂から上がった男にドライヤーの使い方を説明し、彼が自分の顔に温風を当て続けているのを後目に、古池もまたすっかり冷え込んだ体を温めるべく、風呂に入ることにしたのだった。とはいえ、客人をほったらかしに長風呂する訳にもいかず、さっさと体を清めて着替えを済ませ、まだ顔の中心に温風を当てて髪の全く乾いていない男からドライヤーを取り上げる。そうしてさっさと彼の頭を乾かし、そのまま自分の頭も乾かした。その間、男は古池の隣で古池のすることをじっと見つめ、その場を一歩も動かなかった。
風呂を済ませ、体も温まったところで古池は立ち上がって台所に立つ。述べた通り、家に都合の良いあり合わせの食材などない。湯を沸かし、買いためていたカップ麺二つに湯を注ぐ。大きさの違う湯呑に茶を入れて、そんなものを食卓に並べる。
「言った通り、これが今出せる限界だ。悪く思うなよ」
「まさか。君には感謝してもしきれないよ、アイク」
古池の高校時代のジャージに身を包み、常より迫力に欠ける風体の男はふにゃふにゃと笑ってそう言った。その迫力の無さが古池の背中を押したのだろう、古池の不満はするすると口を突いて出ていた。
「…その、アイクっての、やめてくれないか。正直、あんたのことは前ほど嫌いじゃない。悪い奴じゃないのも、なんとなく分かる」
「それは、……」
古池の予想に反し、男はバツが悪そうに口ごもった。当然だろう、と古池は思う。ここまで親切にされて、呼び名の要望くらい通らないはずがないという打算がある。このコスプレ男が、自分を憎からず思っているのは分かっている。馬鹿にして、例の呼び名を使っている訳でもないというのも。彼が扮するコスプレキャラの仲間なのか、あるいは他の誰かなのか、とにかくそういった別なものを古池に投影してそう呼んでいる──古池はそう推察していた。だが、それは古池という人間を蔑ろにする行為だ。それを男も分かっているのだろう、だからここで強く反論できない。
あと一押しだ、と柄にもなく古池はしゅんとした男の姿に手応えを感じていた。
「もし、あんたが、俺の誠意に報いたいと思うなら、俺には古池という名がある。呼ぶならそっちで呼んでくれ。そうすれば、あんたとも…ちゃんと友達になれそうな気がする」
完全に男は閉口した。ぐうの音も出ない、といった風に見える。それでも男はなかなか首を縦には振らなかった。だが、それも時間の問題に思える。意地が悪いと思いつつ、古池は最大限傷ついた風を装って溜息を吐く。
「そういうつもりがないなら、それはそれでいい」
「ち、違うんだよ」
慌てた様子で身を乗り出して、男が青い瞳を動揺に瞬かせながら言い募る。男は懸命に首を振り、古池に訴えた。
「君と仲良くなる気がないとか、そういうつもりは全くないんだ、もう一度君と友達になれるなら、それはとてもうれしい、でも」
何かを言いかけ、それから苦虫を噛み潰したように男は視線を落とし、同時に乗り出した身を元の位置に戻してしゅんと項垂れた。その姿に古池は同情したが、敢えてそのまま様子を見守った。そのうちに、男はぽつぽつと喋りだした。
「……いや、そうだよね、ごめんね、このままでは君の優しさを踏みにじることになる。その……ふ、フルイケ、くん……」
蚊の鳴くような声だったが、男は確かにそう言った。ようやく、と古池は謎の達成感に包まれる。これで、この非常識な来訪者も、古池の知る常識的な世界に組み込まれたのだろうと、そういった安心感がどっと胸中に広がった。
そんな折、軽快な電子音が鳴り響く。何が、と視線を落とすと、ジャージ姿の男の目の前に置かれたスマホの画面が着信を報せ明滅していた。古池のスマホは古池の目の前に置かれているのだから、それは男の持ち物に他ならないだろう。小さくはない音量でなり続けるその画面をのぞき込むと、着信画面には『父さん』の文字が見て取れる。いつまで経っても電話に出ようとしない男を不審に思い、古池は声を掛けた。
「電話、鳴ってるぞ」
「…は?」
全く理解が追い付かないというように、男はスマホと古池の顔を交互に見た。焦燥感を煽る着信音にじれったくなり、古池は語気を強める。
「スマホ、あんたのだろう。早く出たらどうだ」
「え」
「“父さん”かららしいぞ、出た方がいいんじゃないか」
男は目を見開いて、再度スマホの画面を見た。だが、見つめるだけで手を伸ばそうとする気配がない。そうこうしている内に、電話の応答が不在時のものに変わる。そのまま留守番電話サービスに切り替わり、古池と男の見守る最中、見知らぬ男の声が留守番電話に吹き込まれていく。
『……マルス、いつまでもくだらないことをしていないで、早く家に帰って来なさい。どれだけの人に迷惑をかけたと思っている。これ以上、父さんに恥をかかせるな──』
留守番電話の録音時間をたっぷり使い、見知らぬ男の声は説教をするような口ぶりで延々とそんなことを言い連ねた。聞いていくうち、古池の目の前でコスプレイヤーはみるみる青ざめていき、今にも息が詰まりそうな顔をしていた。留守番電話の録音時間が切れて、ようやく部屋に静寂が戻った時、古池は出会ってから一番この男のことを憐れだと思ったかもしれない。大きく目を見開き、沈黙したスマホの画面を見つめ、男は凍り付いたように固まっていた。
「…その、親父さんとうまくいってないのか?」
最大限気を遣って、古池はそう尋ねる。ぎこちなく顔を上げた男は、頷くでもなく否定するでもなく古池の顔を凝視した。
「あんたが家に帰りたくないのは分かったが、一度ちゃんと親父さんと話をした方が…」
「ち、ちょっと待ってくれ」
恐ろしいものを見るように、男は机の上に置かれたスマホから遠ざかる。さして暑くもないはずなのに、玉のような汗を額に浮かべ、浅い呼吸を繰り返す彼の姿は確かに尋常ならざる様子である。それほどまでに親子仲がうまくいっていないのか、と妙に古池は納得したが、後ずさってとうとう壁際までたどり着いた男は、頭を抱えてうわごとのように続けた。
「な、なんだ、この記憶…違う、これ、ぼくじゃない、ぼくであるはずがない!」
だんだんと語調の強くなっていく男の声に、古池は胆を冷やす。集合住宅で騒音はご法度だ。まして不審者として追われている男、ここで問題を起こす訳にはいかない。
「落ち着け、あまりでかい声を出すな…」
「落ち着いている場合じゃない、ぼくまで戻れなくなったら、誰が君を連れ帰るっていうんだ、帰るんだ、一緒に、か…帰るって、どこに?」
蒼白となった顔で、男が囁く。もはや古池の声も届いているか怪しい。さすがに様子がおかしいので心配になって、古池は部屋の隅でうずくまる男の背をさする。冷や汗で背中までぐっしょりと濡れてしまって、せっかく風呂で体を清めたばかりなのにと古池が思ったのも束の間、近寄ってきた古池の腕を男が鷲掴む。見た目に似合わぬ膂力である。掴まれた腕が白く血色を失っていくのが古池の視界の端に映る。
「君と、君と一緒に、君を…君が……きみって、誰…?」
常であれば、古池はここできちんと己の名前を告げただろう。さきほどようやくまともに名前を呼んでくれるようになったばかりでもある。だが、今求められているのはそんなことではないという直感があった。確かに、この男が理解できる範疇にやってきたことは安心できる。だが、まるきりこの男の浮世離れした部分を、否定して塗り潰してしまうのは、あまりに惜しい気がした。
「俺は、…俺のこと、あんたはアイク、とかいう傭兵だって、ずっと言ってきただろう」
古池の腕を握る男の腕に、一層力がこもる。このまま折られるのではないかとも思えたが、先ほど名前を呼ばせるのに意地の悪いことをしたという負い目もあって、それも致し方なしと古池は半ば本気で思っていた。
「そういう設定なんだろう?」
「……アイク」
「まぁ、古池なんだが」
「アイク」
その名で呼ばれることが、以前ほど不快でないことに、古池自身が一番驚いている。頑なにそう呼び続ける男──マルスの血色が、ようやく見れる程度にまで戻ってくるのを見ると、いまさら強く訂正する気にもなれなかった。
「…もうそれでいいから、飯を食え。それから寝ろ。明日には出て行ってもらうんだからな」
古池が立ち上がろうとすると、それを察してマルスは手に込めていた力を緩めた。握りしめられていた部分は赤黒く鬱血していて、見た目に似合わず力があるんだなと古池はその痕を撫でさする。食卓に戻り、ほったらかしになっていたカップ麺のふたを開ける。中で麺が汁を吸って、すっかりふやけていた。溜息が漏れる。ただでさえ質素な夕飯が、さらにグレードダウンしてしまった……。
マルスの方を見やると、カップ麺につけられた粉末スープの小袋を摘まんで物珍しそうに眺めているので、古池はそれを取り上げ、自分の分と合わせてふやけたカップ麺にかやくとスープを足して完成させる。
様々なことが一度に起こったせいで、古池はもちろん、マルスも気が付いていなかったが、アイクと呼ばれる人物が傭兵であるなどマルスはこれまでに一言も言わなかったし、本来であれば古池には知る由もないことであった。