自分の心臓が動いていることが不思議だった。
自分の体の中を神経が駆け巡り、血液が流れ、骨に囲まれて皮膚に覆われている、その事実が不思議だった。
人を形作る物質は同じで、人と同じ構造をしているのに、私と万人は違う存在であった。
私は人と違うものが見えた。
私は人と違うものであった。
他人から見れば私は人では無いようだった。
いつも私の周りには膜があって、その薄い隔たりを通して世界があった。
人は皆私を見て何かを囁いている。私の耳は些細な言葉も聞き取れるが、どれも瑣末なことだった。
私は全てを見ているが、誰かと同じものを見ることは出来ない。
膜を破って誰かと触れ合うこともない。
私の隣に誰かが立つことはない。
それなのに見た目だけ人と同じで、作りだけ人と同じで、心臓は動いている。
それが不思議だった。
雨が降っている。
風も吹かない空から雨の雫が落ちてくる。
垂直に垂れたそれは地面に跳ね音を鳴らす。
生前の屋敷を模したこのシミュレーターの中で降る雨が如何なるものか、よくわかってはいない。
ただ私は彼と二人、屋敷の中から外を見ていた。
壁も雨戸も取り払われ、手を伸ばせば雨を掴むことすら出来そうな距離で、雨を見ている。
私が召喚されてから、彼がこんなに静かであるのは初めてだった。
私達がこうして静かに顔を合わせるのは初めてだった。
彼は薄っすら目を伏せて外を見ている。
私はそんな彼を見ていた。
雨の音は広がり続け、私達を飲み込むようだった。
雨は石に当たり、土に当たり、花に当たり、跳ね返っては音を奏でた。その和音が木霊する中で、それでも呼吸の音すら聞こえそうなくらいの静寂だった。
(死んだ私が呼吸するとは?)
サーヴァントの体はエーテルで編まれている。この手も口も身体も全て紛い物であるというのに、彼の胸が上下しているかが気にかかった。吐く息が白くはないか、この冷気が彼を苛んではいないか気にかかった。
(彼も死んでいるというのに)
今更何を考えるのだろう。
私も彼も既に死者であれば、生者の真似事をしているようで可笑しかった。おかしいと言えばこの状況で、何故彼はさっきから黙っているのだろう。
「道満」
反応は無い。
「道満」
反応は無い。
「道満」
やっと僅かに顔を上げて此方を見た。
その目の色は凪いでいて、やはり普段の彼とは違っていた。
「こんなシミュレーターを使って、いったい何の用なんだい」
此処はまるで生きていた頃と同じで、あの頃と同じ香りがした。
そう、この部屋。この部屋でよく私は道満と話をした。些細な話もあった。人には言えない話もあった。それでも一番はやはり己が研鑽のための情報交換であった。
「話をしようと思いまして」
道満の声は雨に消える程の声量で、それでも私の耳に入ってきた。
「話?」
「ええ」
道満は最早此方を見ていない。雨を見ている。
あの燃えるような瞳が私を見ていないことが気に食わなかった。この雨が彼の炎を消しやしないかと気かがりだった。話とはなんだろう。
「あの日の事を覚えていますか」
あの日とはいつだろう。
彼との思い出は少ない。
それでも引っかかるものがあった。
「あの妖退治かい」
とある田舎に鬼が出たという。
その鬼は人を喰らい成長し、やがては都の脅威になるやも知れなかった。
私と道満法師と連れ立って赴き、懲罰したのを覚えている。
「あれは滞りなく終わったではないですか」
「結果の話ではありません」
道満は頑なに此方を向かない。
声だけが硬質に響いた。
「あの時何故死のうとしたのです」
鬼は死んで尚人を害そうとした。
その怨念の悪たるや、ひとたび浴びれば忽ち死に果てるだろうものだった。
その念は私を狙っていた。
私は避けなかった。
ただ気がつくと私は押し倒されていて、酷く狼狽した様子の道満が覆い被さっていた。
怨の念は辺りの木々を腐らせ、水を毒し、あの村には人が住めなくなった。
そんなことがあった。
「別に死のうとした訳ではないよ」
「では何故避けなかったのです」
同じことをあの時も言われた。
まるで気が狂ったかのように道満が叫んでいた。
『何故避けないのです!』
『当たれば死ぬとわかっていて何故!』
私は何と応えただろう。覚えていない。
覚えているのはその後の道満の顔で、呆然と私を見て何か呟いていた。みるみるうちにその瞳から涙がこぼれて、彼は怒っていた。
『晴明、晴明ェッ!』 
『お前など死ねば宜しい!』
『死んで地獄に落ちればいい!』
そう言って彼は私の腕を痛い程掴んで泣いていた。
私はそれをぼんやりと見ていた。
(何故道満が泣いているのか)
今もわからないでいる。
道満はあの時とは打って変わって静かなものだ。泣いてもいない。
ただ私を見ようとはしない。
「結局あの時貴方は答えなかった。何故死のうとしたのです。何故避けなかったのですか」
「何故、」
私には言葉が見つからなかった。
理由はあった。理由はあるのだ。
だが何故それで死ぬような真似を選んだのかがわからなかった。
「あの村には子供がいただろう」
「子供?」
「おまえに随分懐いていた。痩せ細った小さな子だ」
「ああ…」
「あの子は随分おまえに懐いていたから、私にも近寄ってきてこう言ったんだ、『陰陽師さま、どうか村をお助けください』」
「……」
「あの時式神を出していては間に合わなかった。避けては後ろの川が毒される。だから、」
「自分が死んでも庇おうと?」
「わからない」
「……」
わからなかった。そこまで考えていたかもわからない。
ただ、避けねばと思った時に、あの子供の声が聞こえた。
私の手を握る小さな手のひらを、枝のような指の温度を思い出した。
そうした時に私は、体が動かなくなった。
「安倍晴明の価値をわかっておいでか」
「村ひとつ、子供ひとりの命よりも重い」
「貴方はそれをわかっておいでか」
わかっている。命には差があるとわかっている。
私はあの時間違えていた。
普段ならば気にしなかったかもしれない。
ただあの子は膜を越えて私の手を握った。
だから今まで覚えていたのかもしれない。
「何故おまえはあの時泣いていたんだい」
その声に道満はキッと此方を睨んできた。私は久方ぶりに道満が此方を見たので嬉しかった。
「貴方があの時何と言ったか」
「悪いが覚えていない」
「ええ、そうでしょうとも。悪いとも思っていないでしょう」
道満はゆらりと腰を浮かせ、私を押し倒した。頭を強かに打った私は顔を顰めた。
「貴方は自分が何と言ったかなど覚えてもいないでしょう」
道満の目には怒りがあった。あの時の怒りがあった。
「お前など地獄に落ちればいい」
「……私を助けたのはおまえだよ。矛盾している」
「貴方も矛盾している。自分に価値があると知っていて価値のないもののために死のうとしている」
「道満、思ってもないことを言うのはおやめ。おまえはあの子を随分可愛がっていた」
「それでも貴方より価値のある者はいないでしょう」
「やめてくれ道満、私はそんなことは聞きたくない」
「いいえ聞いて頂く。その為に此処へ呼んだのです」
雨がすぐそばで降っている。
その雨粒が跳ね返っては私達を冷やしていく。
隔絶されたシミュレーターの中で、世界はこの部屋ひとつだった。
この世で人は道満ひとりだった。
「私はあんなことでは死なないさ。私は最優の陰陽師で、私は」
私は人では無いのだから。
そう続けようとした口を道満は塞ぐ。
彼の手の冷たさを知った。
やはり彼は泣きそうな顔をしていて、やはり怒っていた。
「…何故貴方はいつもそうなのですか」
ぽろりとまろびでた言葉が部屋に転がる。
道満は身の内の炎を燃やして私を見る。
「貴方はどうしていつも人であることを辞めようとするのですか」
「人を辞めたのはおまえじゃないか」
あんなものになってまで力を求めたのはおまえじゃないか。
私を置いていったのはおまえじゃないか。
この世界ではどう終わったのか。あの世界ではどう終われたのか。私は知っている。
知っていてもわからないことばかりだ。
全てを見ていても、全てを聞いていても、結局私は膜の内側にいて何もわからないままだ。
その膜を破ってきたのはおまえだというのに。
私の手を最初に掴んだのはおまえだというのに。
私が振り返った時にはもうおまえはいなかった。
おまえは身のうちから出た炎に焼かれていた。
「私におまえを殺させたのはおまえじゃないか」
その言葉は酷く震えて、鋭利な刃物のように私を刺した。
道満は大きく目を開いて私を見ていた。
そうしてぐしゃぐしゃと顔を歪めて、酷く苦しそうに言った。
「今更言ってももう遅い」
その言葉は私を傷つけていく。
「拙僧は最早人では無い」
「拙僧は貴方に追いつけるならば何にでもなれる」
「例え外道に堕ちようとも、例え全てを殺そうとも」
「拙僧が人でなしとなって死のうとも」
「お前に癒えぬ傷をつけてやろうと思ったのです」
私を傷つけているのは道満なのに、道満は泣いていた。
苦しそうに息を吐いて、私の腕を強く掴んで泣いていた。
私はその涙を拭ってやりたかったが、腕は動かなかった。
道満からこぼれた涙が雫となって落ちる。
私の頬を濡らして伝い落ちていく。
私は無性に泣きたくなって、それでも私の瞳は乾いたままだった。
(やはり私とおまえは違う)
私には涙などない。
人のためにこぼす心などない。
ただ薄い膜の内側で見た目だけ繕っていて、まるで私は人ではなかった。
私達は心などというあやふやなものに侵されていて、それでも私は立ち続けられた。
人は皆私を見て何かを囁いている。その言葉の意味を知っていた。
それでも私は変わらなかった。
人は皆私を見て何かを怖れている。その視線の意味を私は知っていた。
それでも私は変わらなかった。
少しずつ狂っていくおまえとは違った。
変わっていくおまえを見ていて、知っていても何もしなかった。
これの何処が人だというのだろう。
私の何処に人の欠片があるというのだろう。
道満は人でなしになって私に追い縋った。
私はそもそも人ではなかった。
私を神だという者もいた。
私は神にはなれなかった。
私が神ならこんな結末ではなかった。
「私は何者にもなれない」
道満の涙はこぼれ続けていて、その瞳はギラギラと私を睨んでいる。
その熱が羨ましかった。
彼は人だった。
所詮人の真似事をしている私と違って、彼は人だった。
人だったから人でなしになれた。
人生に苦しんで、間違えて、道を踏み外して、人で無くなってもその心は人だった。
私には何もない。
道満は私の人間性を数えては拾っていく。
私はそれを返されてもまた捨ててしまう。
その繰り返しだった。
心を制御できた。
やるせないことをそのままにしておけた。
彼にはそれが出来なかった。
道満はどうしようもない莫迦で、何度倒れてもまた立ち上がってきた。
私はそれがずっと続くと思っていた。
だから振り返ったときにおまえが死んでいて。
私は泣くことも出来なかった。
虚な穴をそのままにしていた。
そうして私もいつの間にか死んだ。
私達の関係はそれだけだった。
それだけの関係にしたのは私だ。
「私は何者にもなれなかった」
私の声は酷く掠れて、果たして聞こえているのかわからなかった。
「何者にもなれなかったんだよ」
人に生まれて、人を営む努力をした。
それでも私は人と違って、人ではなかったのだ。
道満はもう泣き止んでいて、私を掴んでいた腕が離れていく。
「何者かなどと、そんなことはどうでもいい」
道満の声も掠れていた。
黒く美しい瞳は涙に濡れていて、やはり美しかった。
「儂は蘆屋道満として生まれ、悪性に堕ち、混ざり物になって此処におります」
「そんなことはどうでもよろしい」
「儂が儂である理由はただひとつ」
「安倍晴明に勝つことだけ」
「それだけあれば拙僧は何になろうとも蘆屋道満でありまする」
道満の手が私の頬を撫ぜる。
濡れた私の頬をなぞって道満の涙を拭っていく。
まるで私が泣いたみたいだ。
いつかの時、彼は優しかった。
私達は時折重なる事があって、それでも違う存在だった。
体温が混ざることもあった。手が触れることもあった。彼の前で眠ることもあった。
それだけのことが幸せだったのだ。
そんなことに死んでから気がついた。
死んでから気がついたのだ。
「道満」
私達は死んだまま。
死んだまま此処にいる。
死後の続きをしている。
「どうか地獄まで追い縋ってはくれないか」
一時の夢であるこの時を。
どうか忘れないでいてくれないか。
いつかの日々の続きをしたい。
今度は間違えずに、その手を取りたい。
道満は不思議な色の瞳で私を見つめる。
そっと私に覆い被さって言う。
「此処が地獄です」
「我々は地獄にいることを、人生と呼び変えているのですよ」
耳元の声が脳に直接響く。
私は道満の手を握った。
「此処が地獄なら」
「こんなに素晴らしいことはない」
私の言葉に道満は笑った。
「ええ、左様。…素晴らしいことですな」
私達は恋人のように体を合わせていた。
道満は体重をかけていなかったが、その熱は感じた。
(まるで生きているみたいじゃないか)
死んだ後の飯事みたいな今が私達の始まりだった。
私達は死んでから繋がれるようになった。
「なんと滑稽なことでしょう」
道満が私の髪を撫でる。
「死んだら全て終わりだと思っていたのに、死なないように生きていたのに。どうやら人生は続くらしい」
どうしましょうね?
道満が何か楽しそうに呟く。
私は少し考えて、考えてもわからないので首を振った。
「わからない事ばかりだ」
「あの安倍晴明が聞いて呆れる」
「私にだってそういうこともある」
「左様で」
「道満」
「なんです」
「おまえが死んだ時、私は悲しかったよ」
「……」
道満の笑う気配がする。
「そうですか、そうですか。それならば……死んだ甲斐があるというもの」
そう言ってくすくす笑う道満の頭に手を回して、口を寄せた。
触れるだけの口付けはすぐに離れる。
「私達は違う関係になれるだろうか」
私はおまえにとって何者だっただろうか。
これから私は何者かになれるだろうか。
「関係など、拙僧と貴方では違う名前をつけるでしょう」
道満は柔らかい声でいう。
彼は時折酷く優しかった。
嫌っている筈の私の為に泣ける男だった。
地獄までついてきてくれる男だった。
「ものの見方など人によって違うのですから。同じものを見て同じ気持ちになれるものではありますまい」
「そうだろうか」
「ええ、そうです」
道満は外を指差す。
いつの間にか外は晴れて、日が昇っていた。
「晴れた空に貴方は何を思いますか」
「美しいと思う」
「拙僧もそう思います。ですが美しさとは、人によって違うのですよ」
貴方は少し、人間に理想を見過ぎている。
道満の声が聞こえてくるが、私は外を見ていた。
言葉の意味を考えていた。
「道満は、私を何だと思いますか」
するりと道満の腕が私に絡んでくる。
「安倍晴明。それ以外に何が必要でしょうや」
なんてことないように言われたその言葉が、私には大切なものだった。
「そう、では、ただの晴明がいいます」
「なんでしょう」
「この地獄で、二人共にありましょう」
道満が少し動いて、さらさらとした髪が私の頬をくすぐる。
「ええ、では、ただの道満が応えましょう」
そっと彼は私の耳元で囁いた。
その言葉が胸に染みて、私は道満の腰に手を回した。
今までよりも重みが増して、その重さが生を感じさせた。
(ああ生きている)
(私達は生きている)
私と道満は同じものから出来ていて。
同じようなところもあって、何かが決定的に違った。
私と彼の進む道は違えていて、それでも並んで歩いたことがあった。
私は人にはなれなかった。
私は何者にもなれなかった。
ただ彼は私を見ていた。
薄い膜に覆われてあやふやな私を見ていた。
その燃える瞳を向けていた。
伸ばされた手は確かに私を掴んでいた。
奈落に落ちても私に向かって走っている。
仮初の地獄で生きている。
私は今度こそその手を握り返して、彼を抱きしめて。
もう一度口付けをした。
澄んだ空の日差しが私達を照らした。
雨はもう上がっている。
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銀 せい
お疲れさまでした!
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fgo腐 晴道
初公開日: 2021年01月21日
最終更新日: 2021年01月22日
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