「あっ」
こたつと挟んで膝に抱えていた女が呆けた音を出す。左手には今日すでにいくつめかわからないみかんの房、右手にはテレビのリモコンを持っている。
このあいだ始まったばかりだと思っていた一月ももう日付は二桁になろうとしている。正月がひと段落し、気の抜けた午後にはそれ相応の番組しかやってない。これではないがそれでもない、そういう雰囲気でリモコンのボタンを押していたはずの女のつむじから画面に目を移す。
「なんかあったか」
「しっ! 黙って!」
光の速さでのびてきた両の手に、鼻から下をひんやりとわしづかまれる。舌を噛むところだった。指先に宿ったみかんが鼻先を濃く、爽やかによぎった。
遠慮と躊躇のない指は男の半開きだった口の中にも先が何本か入り、だが深い考えもないそれをむげにするわけにもいかない。
犬歯にあたった爪を吐き出してやりながら、女の視線の先をうかがう。
なんてことはない。ただのドラマだった。こぎれいなフローリングの、この二間とは比べものにならないほどの部屋数がありそうなマンションの一室で、髪の長い女優がソファに埋もれて顔を覆っている。隣には神妙な顔つきをした俳優が座っていた。ここに来る前に世話になっていた女がこういう部屋に住んでいた。そんなことを言うわけにもいかず、女にならって黙ってテレビをみつめる。
死にたい、と女優が言った。
こんなはずじゃなかった。
俳優が女優に手をのばそうとする。そんなこと言うなよ、俺がいるだろ。そう言っていた。
「ふうん」
女優はまだ泣いていた。乾いた相槌は画面からではなく、男の
山場はまだだ。たいして興味もない男でもそのくらいはわかる。ひとの口に指をそこそこ突っ込んでおいて何がしたかったのか。聞くより先に女が胸に体重を預けて呟いた。
「きりたんぽじゃなかったかあ」
「……あ? 何だって?」
聞き間違いにも限度があるが、文脈からしてそうとしか思えない。
「前にね、夜勤のバイトしてたとき、部屋にあったテレビ見ててよかったんだけど、そのときも偶然この回でさ。この女のひと、婚約者だった彼氏に騙されてずっと泣いてたのに、突然きりたんぽ、って言ってさあ。え? て思うじゃん。思うよね? でも仕事だったし、それから見る機会もなかったんだけどずっと気になってたの今思い出した。ごめんね、急にあごひっつかんで」
「ああ……」
まあまあ文句を言うつもりはあった。だが、その前に女があまりに唐突に、腑抜けた音の単語を出すもんだから何に怒ってみせようとしていたのか、勢いがすっかりさっぱり抜け落ちてしまった。男の表情を知らない女だけがいかにも満足そうにうなずいている。
「いやー、なんでこんな修羅場できりたんぽって言うんだろってずっと思ってたんだよね。すっきりした」
「どーいう……」
何からどう言えばいいかわからず、口を開けて閉めるのを二回繰り返してから、諦めた。絶句というのはこういうのをいうのだ。
なるほどね、などと呟きながら手は新しい球体にのびる。ドラマにはもう興味がないようだ。観客がいなくなったのとは関係なく、画面の中の女優は目に涙を浮かべてなければいけない。
女が剥いた房をつまんで飲み込んでいるうちに、女優はもう笑っていた。俳優に肩を抱かれている。どういう展開かは知らないが、目を離した数秒のうちにもう死にたくなくなったらしかった。よかったな、と、他人ごとだから思った。
色気のないくだもの
「きりたんぽ、……キリタンポ、ねえ」
髪に顔を埋めるとうすくシャンプーのにおいがした。肩が震え、こらえられなかった呼気が漏れて小さい頭の表面を撫でる。
「あ、今馬鹿にしたでしょ」
「いや、バカだなと思っただけ」
「それは馬鹿にしてると違うの?」
「違うと思うか?」
「おも……わない」
「じゃあそういうことだろ」
「むきー!」
「口で言うな口で」
垂直より角度をずらさないと寝ころんだときにこたつの脚が浮く。
「手ェつめて」
「心があったかいんですー」
特に返事はしなかった。しばらくすると、呼吸が寝息に変わったのがわかった。昨日は仕事で、遅くまで残っていたようだ。昼寝には遅いが、冬の日暮れにもまだ時間がある。
節の赤みがめだつ白い指を手のひらで包んで揉んでいると、女の冷えた体温がかさついて硬い肌の表面に移りこんでくる。しばらく経てばもとの温度に戻るんだろう。
付けっぱなしのストーブに炙られた空気は乾燥している。
もう中身は腹の中にすっかり収まったみかんが、机の上から遠くまた鼻に届いた。何度目かの――片手の指で数えて余るほどしか知らない、冬のにおいだ。