森の奥深くに小さな墓がある。
石を積んで作った、今にも崩れそうな粗末な墓だ。一番上に積まれた石には、不恰好な字でこう彫られている。
——灰の森の魔女、ここに眠る
この灰はどこから降ってくるのだろう。
緑のベルベット生地を張った椅子に腰かけ、フィオナは窓の外を見つめた。窓枠にもたれた拍子に、銀灰色の髪が肩から落ちる。
眼下には石造りの砦が広がっていた。砦の上には雪と見まごうような白い灰が、絶え間なく降っている。
広い部屋の暖炉には、金色の火が燃えていた。薪の爆ぜる音がかすかに聞こえる。
この場所はまるで暖炉の中だ。それも火が燃える暖炉ではなくて、薪が灰になったあとの暖炉だ。
灰が降りつもる異様な光景を前に、フィオナは目を閉じた。
さむいなあ、と呟いたちょうどそのとき、膝の上に何かが登ってきた。
「おや、お前も寒くなったんですか」
閉じていた目を開けて、黒い獣の毛並みに触れる。獣は長い尻尾を上機嫌そうに揺らし、大きな口を開けてあくびをした。
「ここは寂しいところですからねえ」
獣の毛並みを撫でつけながら、灰色の髪の少女は目を細めた。
部屋の中には暖炉の火の色やベルベット生地の緑、カーテンの臙脂色など色に溢れていたが、窓を一枚隔てた向こう側は無彩色の世界だった。
城を囲む城壁の向こうには広大な森が広がる。
ここは灰の森。その中央に佇む灰の城で、魔女はひとり滅びの時を待っていた。
◇
灰の森から遠く離れた王宮の一角では、しかめっ面の若い騎士が王国騎士団の参事官の前で背筋を伸ばして立っていた。
「謹んでお断りします」
若い騎士はよく通る声で言い放った。その態度はまったく堂々たるものだった。
樫材の広い机を前に椅子にかけた参事官は、和やかな微笑みを崩さない。
「——これは、騎士団の規律を一度見直す必要があるね。上官の命令に逆らうとは何事だい」
「別の者にやらせればいいのです。私は辞退します」
「君だから頼んでいるんだ。騎士団の中でも指折りの実力者と褒めそやされている君だからね」
「褒められている気がまったくしませんが」
多分に嫌味を含んだ賛辞を変わらないしかめっ面で跳ね除けて、若い騎士はこう続けた。
「ご存知でしょう。私は魔女が大嫌いなのです」
「むろん、知っているとも」
「その私に魔女を迎えに行けというのですか。目にした瞬間、縊り殺してしまうかもしれないのに」
「いくら君でもそこまではしないだろう?」
無言を貫く若い騎士を見て、参事官の笑顔がほんのわずか引き攣ったように見えた。
大きくため息をついて顔を上げた後、彼の顔に笑みはなかった。幾多もの困難を乗り越えてきた強靭さが垣間見える。
「この頃、魔女たちに不穏な動きが見られる。個々の点でしかなかった彼ら彼女らが、集団として纏まりつつあるようだ」
若い騎士は無言で参事官の話を聞いている。
外では細かい雪が舞い始めた。
「こちらも戦力の増強をしたい。今、王宮にいる白花の魔女たちだけでは対処しきれない可能性がある。味方の魔女は一人でも多い方がいい」
水が冷気に当てられ薄氷を張るように、空気が鋭く冷えていく。若い騎士は眉一つ動かさなかったが、こめかみには冷や汗が滲んでいた。
「これは命令だ、ライリー・シュタイナー。灰の森の魔女を王都に連れ帰還せよ」
吹雪きはじめた外の景色を背負いながら、王国騎士団の参事官は優雅に微笑む。
「君にしか頼めないんだ。頼むよ」
ひとつひとつの言葉が鉛のように重く、まるで全身に鎖を巻かれているようだ。
ライリーは不承不承ながらも、その命に諾と返した。
この国は魔女に呪われている。
分厚い氷の板のように、絡まり合った糸のように、決して解けない呪いだ。
呪いは自然のあるべき姿を歪めた。
ある時は森に灰を降らせ、ある時は湖を枯らし、またある時は荒野に消えない炎を宿した。この国は魔女の呪いのせいでそこここに歪みがある。太陽の光は年々弱まり、今年は去年よりもさらに作物の実りが減った。
このままではこの国はいつか滅ぶだろう。
それを分かっていても、崩壊の道は止められない。魔女の呪いが解けない限りは。
ライリーは王宮から屋敷に戻り、すぐに支度を整えた。使用人に手伝わせ、略式の兵装に身を包む。足元は丈夫な革靴で固め、灰色のローブを羽織り、道中の水や食料など、必要最低限の荷物を持って二階の自室から玄関へ向かう。
エントランスに続く階段の途中で、下に小柄な影がいるのに気がついた。明るいラベンダー色のドレスに身を包んだその女性は、顔に黒い紗の布をかけていた。
「もう行くのですか」
「……はい」
ライリーは彼女から目を逸らし、低く返事をする。階段を降りてすれ違ったとき、彼女が何か言いたげに手を伸ばして、すぐに引いたのは見えていた。
見えていて、見ないふりをする。
「どうか気をつけてね」
「……ええ、母上」
顔も見ずにそれだけを言い置いて家を出る。
初めから目にするための顔などない。母は魔女の呪いのせいで、顔を失くしているのだから。布の下の顔は何年も前から黒く塗りつぶされている。
母が呪いをかけられてから、暖かかった屋敷は火が消えたように静かになったままだ。父は家に帰らなくなり、弟妹たちも部屋に籠るようになった。もう昔のようには戻らない。
呪いはそこにある幸せをたやすく砕く。呪う力を持った存在など、この世には必要ないはずだ。
呪いも魔女も、残らず消えてしまえばいい。
ライリーは本心からそう考えていた。
腰に提げた剣の柄に手を触れ、ため息をつく。
灰の森にいるという魔女。果たして、殺さずにいられるだろうか。
厩舎に立ち寄ると馬の用意はすでに済んでいた。馬丁と少数の使用人に見送られ、騎士は屋敷を後にした。
街道を馬で駆け、適宜休みを取ってはまた駆けて、二日ほどで目的地に辿り着く。
灰の森の最も近くにある村は、ひどく寂れていた。まともな宿屋も見当たらず、食事処もなさそうだ。村の者たちはよそ者のライリーを不審そうに見ていたが、近づいても逃げることはなかった。
「灰の森の魔女を知っているか」
端的に問うと、村人の男は露骨に話したくなさそうな顔をした。まるでその話をすると自分まで呪われるとでも言わんばかりだ。
「知らないよ」
一人目にはにべもなくそう言われ、逃げられてしまった。諦めずにそのあと何人かに話を聞いてみたが、結果はほとんど同じだ。
皆、魔女の話などしたくないとばかりに口を閉ざす。気持ちは分からないでもないので、ライリーも深追いはしなかった。
聞き込みを続けるうちに、ライリーにも少しずつ状況が呑みこめてきた。この村の人々は魔女について話さないのではない。話すほどのことを知らないのだ。魔女がどんな呪いを使うのか。年はいくつなのか。髪や目の色、身体的な特徴について。そういったことは全く聞き取れなかった。
唯一わかったことは二つだけ。
魔女は灰の森の中にある古城にいるということ。
村人はそれ以外のことは魔女について何も知らないということ。
騎士はため息をつき、灰の森の方を見た。遠目に見てもその森は異常で、上空は灰色にけぶっている。木々は黒々と捻じ曲がり、生物の気配はない。
この村で得られることはもう何もない。そう判断し、ライリーは立ち上がった。そばで待たせていた馬の手綱を引く。
魔女がいるという古城へと、足を向けた。
森の中には本当に灰が降っている。馬を連れてきたことをすぐに後悔した。ここは生き物が長く居て良い場所じゃない。
「すまない。もう少し頑張ってくれ」
馬の首を撫で、励ましの声をかける。灰の森はいよいよ暗くなりはじめ、足場が見えづらくなっていた。外套のフードを被り、上を見上げる。村にいたとき遠くに小さく見えていた城は、今はすぐ近くに大きくそびえていた。こうして見ると、王都の宮殿とは大きく趣が異なる。これは防衛拠点として使える城塞だ。だが、これは王家の所有する城ではない。それどころか、数年前までここに城などなかったはずだ。ある日何の前触れもなく現れた。
つまりは、この城も呪いの一部である。ライリーはこれから呪いの中に入ろうとしているのだ。
顔のない母の姿が脳裏にひらめき、すぐに消える。ついで、魔女が徒党を組み始めているという参事官の声が。
恐ろしくないといえば嘘になる。魔女を味方に引き込むことへの疑念や抵抗もある。それでもこれから苦しむ人を一人でも減らすためには、手段は選んでいられない。
頭上に覆いかぶさってくるようだった木々が不意に途切れ、視界が開ける。目の前に石造りの古城と、そこへ繋がる跳ね橋があった。
灰を避けるために被っていたフードを取り払い、そびえ立つ灰色の城を睨めつける。
まずは、灰の森の魔女が本当に味方となり得るのかこの目で見極める。
軋みを上げる跳ね橋を渡り、閉ざされた城門の前まで進む。しかし、重たげな門扉は無情にも閉ざされていた。この城の造りは要塞そのものだ。防衛のための城であるがゆえに、外からの侵入は困難である。ましてや単騎で門扉を突破することなどできはしない。門扉がだめなら城壁を登るかと考えたが、それも現実的ではない。跳ね橋の下には深い堀があるし、城壁の壁は鏡面のようになめらかで、足をかける場所などなさそうだ。
考え込んでいたそのとき、今しがた渡ってきた跳ね橋に灰が降り積もっていないことに気がついた。明らかに、誰かがついさっき跳ね橋を下ろしたように見える。
一体、誰が。
疑念を抱き始めたそのとき、何かを引きずるような音が聞こえた。跳ね橋に気を取られていたライリーはすぐに剣に手をかけ、音のした方を見る。そして彼は、自分の目を疑った。
先ほどまで閉ざされていたはずの門扉がひとりでに開いていたのだ。引きずるような音は門扉が地面をこする音と錆びた金具が軋む音だった。扉の向こうから風がやってきて、積もった灰を舞いあげる。たまらず口を覆い、目を細めた。馬が不快げにいななく。
「……なるほど、呪われた城か」
怯える馬をなだめ、城の中へ入る。門扉の裏に視線を走らせても、人影は見当たらない。大の男数人がかりでやっと開くようなこの扉は、本当にひとりで開いたのだ。見えない力に押されたように。
灰は城の中にも降り積もっていた。森の中であればどこであろうと降るらしい。
「何をしているのです」
若い少女の声がした。驚いて振り返ると、誰もいなかったはずの中庭に漆黒のローブを着た人物が立っている。
「早く戻って。あなたはここにいてはいけない」
彼女の顔は目深に被ったフードのせいで分からない。見えるのはせいぜい口元だけだ。
「……お前が灰の森の魔女か?」
半信半疑で問う。もっと年嵩の女を想像していただけに、拍子抜けだ。だが思い返してみれば、王宮に詰める白花の魔女たちも若い女性が多かった。何ら驚くことではないのかもしれない。
「早く出て行って」
魔女は問いに答えず、頑なに同じ言葉を繰り返した。
「顔を見せろ。話はそれからだ」
「だから……早く出て行けと言っているのが聞こえないのですか」
「何故そこまで追い出したがる? さては何か後ろめたいことを隠しているな」
少女が諦めたようなため息をつくのが聞こえた。ライリーは馬から降りて少女の前に立つと、彼女のフードを掴んで後ろへ払う。
思った通り、彼女はライリーよりも年下の少女だった。肌は白く、髪の色はくすんだ灰色だ。彼女はひどく蔑んだ瞳でライリーを見上げる。
馬がいななきを上げ、突然駆けだした。主人を置いて城の外へ駆けだしていく。
「なっ……」
馬が城を出るとほぼ同時に、強風に吹かれたように門扉が動き、森中に響くような轟音を立てて閉まった。
「あの子は賢かったようですね」
唖然としているライリーのそばで、少女は嫌味たっぷりにそう言う。彼女はライリーの前に手を差し出し、きれいに微笑んで見せた。
「はじめまして、愚かな騎士様。灰の森の魔女、フィオナです」
呪われた森に灰が積もる。その灰がどこから降ってくるのか誰も知らない。灰はただ静かに降り積もり、堅牢な城は扉を閉ざした。
その日、ひとりで滅びのときを待つ魔女のもとに、愚かな騎士がやってきた。