宗空 新刊
プロローグ
「俺は、この恋をした事を後悔はしていないし、……この恋を知ることが出来て、本当に、本当に良かった」
空の声が、ほんの数分前まで盛り上がっていたのが嘘のように静まり返った会場に、マイクを通して響く。
会場にはいつもと変わらず熱気と、高揚感とが入り混じり、照明の光をメンバーそれぞれの衣装や、楽器の金具が反射させていた。
空は、ステージの中央。いつもと変わらない場所で、いつもと同じような背中をしたままで、スタンドマイクを前にして照明を浴びながら立っている。後ろ姿しか見えない宗司からは、どんな顔をしているかはよく分からない。
だからこそ、空の声の変化がよく分かるようになったのだろうか。
空の声からは揺るぎない意志の強さを感じたが、それとは裏腹に、涙の色を滲ませて震えているかのように宗司の耳には聞こえた。
誰もが、会場にいるファンはもちろん舞台上にいる宗司たちも、空のことをただ見つめて、その場から動けなかった。
そんな視線や雰囲気にも空は動揺することなく、一度小さく息を飲んでから、またスタンドマイクに手をかけて、そのまま強く握りしめた。
一瞬見えたような気がした空の頬を伝うものが、照明を浴びてキラリと光った、
「それでは聞いてください。……──」
1
秋の長い雨は、夏の湿り気とまとわりつくような熱気を人々にもたらすものとは異なり、空気の温度を下げてゆく。しかし、冬の雨よりも柔らかく、穏やかなそれは、振り終わった時のちょうど良い気温を知っているからか。そこまで厭う人もいないのでは無いかと、空はぼんやりと考えていた。
もちろん、移動の時には少し煩わしいと思わないでもなかったが。
「ねぇ、若ちゃんが言ってたビッグニュースって何なんだろね?」
そんな雨の日でも、まるで日の光のように明るい声で、前を歩く望は、その後ろで並んで歩いている空たちの方を振り返った。
「わざわざ事務所に呼ばれるくらいだから、きっとすごく重要なことなんだろうね」
ほら望、前を見ないで歩くと危ないよ。そんなふうに優しく諭したのは、空の右隣を歩く守人だ。
「明るい声でしたから、きっといいニュースなんでしょうね」
同意するように望の隣にいた廉が、望の洋服の裾を少し引いて、ほら。と声をかけた。その様子が同級生の親友同士のそれと言うよりも、幼い弟と兄のようだった。
空たちSOARAのメンバーは、当初の予定ではオフのはずだった本日。急遽専属マネージャーである若月から呼び出されて、皆揃って仲良く事務所へと向かっている最中だった。
普段ならば若月が送迎として、車を運転してくれるのだが、突如入った件のビッグニュースについて調整だとかをしていて手が離せられないらしく、本日は自力での移動だ。
秋晴れの気持ちの良い日であったらな良かったのに、と思わないでもなかったが仕方ない。それに、この五人でならこんな移動だって楽しい事に変わりはないのだ。
「空、何にやにやしてんだ」
「ニヤニヤって表現やめてくれる!? 高校の頃思い出して、久しぶりにこんな移動もいいなって思ってただけなんで!」
左隣を歩く宗司に、無意識のうちに緩んでしまっていたらしい表情を指摘されれば、空はすぐに言い返す。それを楽しそうに笑ながら眺める守人と廉にも、笑わなくたっていいじゃんと抗議するから、空の考えた通り、楽しい移動時間だった。
事務所に着くと、すぐに指定されていた会議室スペースへ向かう。都内一等地に建つツキノ芸能プロダクションの本社ビル。エレベーターに乗り込んで高速で移動するそれに、乗り込むたびに少しだけワクワクしてしまうのは内緒だ。
そうして目的の会議室に入室すると、机の上に五人分の資料が用意された部屋で、若月がとても楽しそうな笑みを浮かべて、五人を迎え入れた。
「おー! 皆ごめんな、わざわざ来てもらって!」
「いえ、それは全然。ところで若月さん、ビッグニュースって」
「すぐに話すから、ほら皆座って座って!」
上機嫌の若月に促されるままそれぞれ資料の置かれた席に座り、空は目の前のそれに手を伸ばした。パラパラとめくろうかと手を伸ばした時に、若月がパンっと手を叩いた。
「さぁ、それではSOARAの皆! お待ちかねのビッグニュースです!」
そう言って若月は自分の手元の資料を手に持って、こちら側に見せ付けるようにそれを翳した。
「実は、宗司のドラマ出演と、そのエンディング曲をSOARAが担当することが決定しました! ハイ拍手!」
「おおおお!! ソウ先輩すごい!」
突然の発表に誰よりも早く反応したのは望で、大きく手を叩きながら喜ぶ。空とそれから守人や廉もそれから一拍置いてすぐに手を叩いた。
「すごいすごい! ソウ、やったじゃん! いつの間にオーディション受けてたのさ!」
「あ〜、お前が修羅場期間だった時?」
「そうそう! 空の新曲が中々上がらなくて、流石の俺もちょ〜っとヒヤヒヤしてた頃のやつだね!」
「あはは」
当事者である宗司よりも、空達の方が大喜びをしているからか、宗司はいつもとあまり変わりのないテンションのようだ。
「よし、それじゃあこの喜びのまま、ドラマの内容と今回のエンディング曲についての説明しちゃうからな」
「宗司先輩のドラマ出演でびっくりしていましたが、そうですよねエンディング曲もあるんですよね」
廉が他のメンバーに思い出させるように、もう一つの話題であるエンディング曲について話すと、若月はにっこり笑って頷いた。
「はいじゃあ皆、資料の1ページ目から説明するぞ」
「あ、雨上がってる!」
事務所に来る時に降っていた雨はいつの間にか止んでいたようで、分厚い灰色の雲の隙間から、差し込むように陽の光が地上に降りてきている。
見事な天使の梯子を見ながら、空は自身のリュックに使おうと思って出していた折り畳み傘を仕舞い込んだ。
アスファルトの窪みに出来た水溜りが、落ちてきた光を反射して僅かにキラキラと光る。素敵なニュースの後だから、こんな水溜りにも何か素敵な事や楽しい事が映り込んでいないかと、つい覗き込んでしまう。
残念ながら雨上がりだというのにUFOは映り込んでいなかったが、水溜りに映った自身の顔が笑顔だったので良しとする。
「空、何かあった?」
そんな空の様子を見ていたらしい守人に問いかけられ、空はううんと首を振りながら返事をした。
「モリ、こいつのこういう謎行動に意味なんてある訳ないだろ」
呆れ半分のように口を挟んできた宗司に、空が突っかかろうとすると、それを見ていた廉と望がまた楽しそうに笑っていた。
先輩らしくない腐れ縁二人を見ながら、後輩二人はいつもの事だからと、そのまま若月に説明されたニュースについて楽しそうに話し始めた。
「それにしても、ソウ先輩がドラマに出て!しかもバスケ選手役で俺達がそのエンディングを担当するって、すごい話だよね〜」
「本当にね。なんだかまだ実感が湧かないな」
まだ若月に仕事があるという事で、帰りも自力で帰ることになったが行きの時よりも、雨は上がっておめでたい情報もあって、空達の足取りはさらに軽かった。
今回宗司が出演するのは、高校生同士の恋愛ドラマだ。その中で宗司は、主人公と同じバスケ部に所属している幼馴染兼親友役を演じる事になったのだ。
バンドでの活動がメインのため、SOARAのメンバーそれぞれソロの仕事は他のユニットと比べると少ない。中でも、ドラマについては深夜帯だったり、ゴールデンタイムでも事務所の人が出ているところに、友情出演程度でほとんど実績もない。
そんな中に突如舞い込んできた、大きな役なのだから、大抜擢と言えるだろう。
おまけに、そのドラマの監督がSOARAの事を知っていたらしく、エンディングは直々にご指名のオファーだったのだ。
「空、どんな曲にするつもり?」
空の曲がまたこの世界に増えるという事で、隠しきれない喜びを滲ませ問いかけてくる守人に、まだ気が早いよと空は苦笑した。
「でもそうだな、ソウの晴れ舞台だし俺めっちゃめちゃいい曲作るからね!」
「期待してる」
「俺も。空、手伝えることはなんでも言ってね」
守人と宗司の顔を交互に見ながら空がそう宣言すると、信頼のこもった笑顔が返ってくる。まだどんな曲にしようか、方向性も決まってないがきっといい曲が浮かぶ。そんな予感に空もまた笑みを返した。
2
仕事をする時には、スイッチを切り替える為にブラックコーヒーを飲むようになったのはいつからだったか。基本的に空は甘党なので、コーヒーには砂糖もミルクも入れて、コーヒーというよりカフェオレにしたい派だ。
けれどいつだったかの修羅場の時。エナジードリンクを何本も飲むのは身体に悪いからと守人に禁止されて、それに変わる眠気覚ましとして、苦い苦いそれを飲んでどうにか眠気と抗ったのだ。
今もまだ、ブラックコーヒーを味わって飲むというのは正直よく分からない。けれど、その苦さに顔を顰めて舌を出し、コップを置く事はいつのまにか無くなっていた。
solidsの志季のようにコーヒーに対しての拘りがある訳でもない空は、今日もインスタントの粉末コーヒーをマグカップに入れる。目分量だけれど、薄かったり濃かったりすれば後からいくらでも調節すれば良い。味わう為の嗜好品ではなく、仕事モードへのスイッチであり眠気覚ましなのだから。
時刻はすでに日付を跨いで、まだもう少し先だと思っていた明日になっている。座って作業する事が多いからと、少しだけ奮発して買ったちょっと良いゲーミングチェアの背もたれに背中を預けて、空はコーヒーを淹れたマグカップを、両手で包み込むように持った。
猫舌だからすぐには口を付けられず、少しだけ冷たくなった指先を温めながら、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。黒い黒い夜の海のようなそれは、空の吹きかける息に合わせて、海面が揺れるかのように小さく揺れた。
「ん〜、苦い」
やっと口を付けてロクに味わいもせずに嚥下するが、やはり感じるのは苦味だけでまだまだ美味しいと言える境地には無かった。
事務所での情報解禁から早一ヶ月が過ぎた。曲作りの為にと、一足早く渡された脚本や設定資料をマグカップと交換するように空は手に取る。何度も何度も見たそれは、少しばかり端が折れたりよれてしまっていた。
今回のドラマは高校生同士の恋愛を主軸に、部活についてもストーリーに深く絡んでくる。本当に王道の青春ドラマと言った内容だ。
その中での宗司の役は、主人公の親友でなかなかに出番も多い良い役だ。
「主人公の親友で、そこまで口数の多くないクール系。そんでもってバスケもめちゃくちゃ上手い」
もらった資料の宗司の役の説明を独り言のように読み上げる。まるで当て書きなのかと言いたくなるような役には、まだ続きがあった。
「試合中に怪我によって、部活を引退。──それをきっかけに主人公は力を発揮して、チームは勝利、か」
ここまで当てなくても良いのに。そう思いながら空は資料をまた机の上に戻した。
きっと、人気が出るだろう。元々宗司はビジュアル的にも、同性である空から見ても格好いいし、大体のことは器用にこなす方だから演技だって出来る。しかも今回はかなり宗司自身と近い役だから、役づくりもあまり困らないだろう。素直に、すごく大きくていい役だ。けれど。
「宗司がバスケやるの、怖いな」
ドラマの詳細について聞いた時に、一番に抱いたのは祝福や喜びの感情ではなく、紛れもない恐怖と戸惑いだった。
宗司が肩を壊したあの時、バスケをやめる選択をした時に一番近くにいたのは空だった。まるで宗司の分まで泣いているかのように、止まらない涙は今でも忘れられない物だった。
天才中学生ともてはやされて曲を作り、それを全て否定された黒歴史を経て、空は音楽を辞めた。好きで好きで仕方なかったそれを、まるで目を閉じるように見ないフリをして、仕舞い込んで、離れたのだ。そんな空にとって、好きな事をして、その成果が正当に実り、さらにこれから先も確約されているような、バスケに打ち込む宗司の姿は、どこか叶えられなかった自分の未来とも重なって見えた。
そんな宗司が肩を怪我して、バスケ選手としての道を閉ざされた時は、宗司に自身の叶えられなかった未来を重ねていた空にとって、二度目の挫折であり、宗司自身の事を思うと悔しくて悲しくて心配で仕方なかった。
そんな感情は涙として溢れ、宗司が泣かない姿を、弱いところを見せずに平気なフリをして笑ったその顔に、何もかも感情を止める事が出来なくなったのだ。
だからこそ、あの怪我のおかげで結果的には今宗司と一緒にSOARAとして活動できているけれど、空にとっては大きなトラウマの一つ故に、その時を思い出すような今回の役にはじんわりと不安感が付きまとう。
「……どんな曲にすればいいのかなぁ」
今回、空にオーダーされた事はもちろんドラマの内容と大きく乖離しない曲という大前提はあるけれど、オープニング曲が明るい曲なので、エンディング曲はバラードを作って欲しいとのことだった。
さらに、そこに空は宗司がせっかくの大きな役を貰ったのだから、お祝いを兼ねて宗司と宗司の役にも当てはまるような要素を入れ込もうとしていたのだ。
トラウマではあれど、それはあくまで仕事とは関係ない。空自身割り切れてはきっといないが、それでも努力してなんとか作業を進めていたのだ。思いつくままにざっくりと曲を作ったのはいいものの、けれどやはりと言ったほうがいいのか。しっくりこないからと調整したりを、ここ数日空は何度も繰り返していた。
こう言う時は、正直練ってもあまりしっくりこない事が多いのは、経験と感覚で分かる。これだ! と思える曲は自ずとどこら辺が足りないのか、何度も何度も聞いて考えれば浮かんで来ることが多いのだ。
「かと言って、また一から作るほどの時間は正直あんまり無いし」
時間的な猶予はまだある。けれどそれは、十分な物とは言えないし、想定外のトラブルが起きればそんな猶予はすぐに消え去ってしまうのだ。
今回は、ただ自分たちの曲を出すだけではなく、依頼元からの発注でプロとして仕事を請け負っているのだ。その締め切りを伸ばすだなんて事は出来ない。
空は資料とまた交換にマグカップを手に取った。いつの間にか冷めてしまったそれは、舌に馴染む心地よい温度は通り越して、少しだけ体温よりも低い。淹れたての時よりも舌に伝わる苦味に、空は顔をしかめて、眉間に皺を寄せた。それでももったいないからと、惰性でちびりちびりと啜る。
「美味しくない……」
ポツリと独り言を呟いて、空はそれ以上作業することをいったん諦めて、席を立った。
砂糖と牛乳を加えて、気分転換に飲み物も甘いカフェオレにしようと自室に備え付けてある簡易キッチンに向かう。
「……うわ、もうスティックの砂糖切れてるじゃん」
そう言えば、数日前にも同じようにカフェオレを淹れて、砂糖が切れるなと思った事を思い出す。共有ルームには確かまだスティックシュガーが残っていたはずだ。
空はすぐにマグカップを持ったまま、スリッパをペタペタと鳴らして共有ルームへと向かう。それぞれの個室が完全防音と言うこともあり、廊下は照明で明るく照らされているが、夜らしい静けさが世界を包んでいた。
閑静な住宅街の中にある寮だから、ふと目をやった窓の外もいつもの慣れ親しんだ街灯と、静けさが満ちている。
それを横目に共有ルームの扉を開けると、どうやら先客がいるらしく、真っ暗だと思い込んでいた室内からは暖かい明かりと人の気配がした。
こんな時間まで、いったい誰が夜更かしをしているんだろうか。空は自分のことを棚に上げて、そんな事を考える。自分と同じように夜更かしが好きな望あたりだろうか。
「お、空か」
「あれ、ソウじゃん。珍しい」
先客は想定していた人物とは全く違い、夜更かしをあまり好まない宗司だった。部屋着にしているグレーのスウェット姿で、どうやら何かお茶でも飲もうとしているようだ。
キッチンには、SOARA全員でお揃いにしたマグカップ。それぞれ自身のメンバーカラーを選んだから宗司の黄色いそれからは、ふわふわと暖かそうな湯気が上がっていた。
「どうしたの、ソウがこんな時間に起きてるなんて」
「夕方昼寝したから、目が覚めた。で、なんとなく。お前は?」
「ん? 俺はお仕事の気分転換かな」
マグカップの中に冷蔵庫から取り出した牛乳を目分量で適当に加えて、そのまま電子レンジに入れる。スイッチを入れれば、それはブーンと小さな音を立て、オレンジ色の光を出しながら温め始めた。
「あんまり夜更かしすんなよ」
「あれ宗司くん、優しいじゃ〜ん」
「あんまり夜更かししてっと、背が伸びないからな、空くん?」
ニヤニヤとしながらこちらを見下ろす宗司の脇腹に、空は無言で手刀を入れると、宗司はそれに小さくいてっと声を上げた。
ちょうど宗司が声を上げたタイミングで、電子レンジもチンっと小気味のいい音を立てて、温め終わった事を伝えてくれる。電子レンジを開けると、コーヒーの匂いが広がった。
「ソウ、砂糖取って」
「はいよ」
スウェットの裾を伸ばして指先までを覆い、取手とカップ自体を包み込むようにして取り出し、そのままダイニングテーブルの方へと持っていく。
宗司は、引き出しから取り出したスティックシュガーとマドラー代わりのスプーン、それから自身のマグカップを持って、空と同じようにキッチンから出て、ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、空の前にスティックシュガーとスプーンを転がした。
それをすぐに手に取った空は、封を開けてサラサラと流れる砂糖をカフェオレの中に溶かしていく。
なんの抵抗も見せずにすぐに消えていくそれを全て投入して、くるくるとスプーンで中身をかき混ぜる。まだ熱いそれが、猫舌の自身の舌に馴染む温度になるようにと、空はすでにすっかり混ざり切っているであろうそれを混ぜ続ける。
「それで、作業は順調か?」
「う〜ん、一応軽く出来たんだけど、なんかイマイチかな」
「そうか」
宗司の問いかけに対して、空は苦笑を混ぜながら素直に答える。
「ソウのせっかくの晴れ舞台で、俺たちSOARAにとっても大きなきっかけになる曲だろうから、気合入れて作ってるんだけどさ」
言葉尻を濁してそれごと飲み込むように、空はマグカップに口をつける。まだ少し熱すぎたが、飲み込めない温度ではない。生温く残ったあのブラックコーヒーの温度と苦味を上書きする熱さと、甘さに、少しだけ頬が緩んだ。
「気分転換でもしに行くか?」
そんな空の様子を見て、どうにかしてやろうかと思ったのか、宗司はお茶を飲みながら提案を投げかけてきた。
「どこに?」
「川越」
候補地として挙げられたのは、二人はもちろんSOARA全員の地元である聞き馴染んだ地名だった。
「帰省するってこと?」
ありがたい事に、プロとしてデビューしてから早数年。SOARAの活動も軌道に乗り、バンドとして音楽番組はもちろんのこと、ライブハウスでライブをさせてもらったり、イベントをさせてもらったり。個人でも、バラエティを始め、多くのテレビ番組や、雑誌のモデル、インタビュー記事も載せてもらったり……つまり、中々に多忙な日々を過ごしていたのだ。
それ故に、実家にすら年末年始に一泊程度するくらいしか帰っていない状態だ。
「実家にももちろん寄るつもりだけど、それよりうちの母親から連絡きたんだよ」
宗司は自身のスウェットのポケットからスマートフォンを取り出して、画面を少しばかりいじった。
「近所の田中のおじさんちの土地、家建つって母さんから連絡きたんだよ」
「まじで?」
母親から来たばかりのSNSメッセージを見ながら教えてくれた宗司に、すぐに返答する。そうして久しぶりに聞いた名前のその人を思い出しながら、一つ引っかかる事があった。
「田中のおじさん、あの土地売るの嫌がってたんじゃなかったっけ?」
「あぁ。でも、おじさんも歳だからな」
宗司と空の実家近くの土地──近所のおじさんが地主で、ずっと空き地だったそこは、宗司と空はもちろん、周辺の子供達にとっては定番の遊び場のひとつだった。少しだけ変わり者で頑固者な人だったが、子供には優しくて、好きに遊ばせてくれていた思い出の場所。宗司の母親も、それをよく知っているから、わざわざ連絡をくれたのだろう。
「懐かしいな〜、田中のおじさん。もうこっち来てから全然行ってないや」
この機会に久しぶりに実家に帰るか、だなんて思っていると、ふと何かを思い出したのか、宗司が何かを思い出したかのように声を上げた。
「ん? どしたのソウ」
「いや、確かあそこの土地に、俺とお前とでなんか埋めなかったか?」
そう問われて、空は記憶を掘り返す。
確かになんとなくの記憶だが、二人でタイムカプセルだなんて言って、中学校の卒業式の日に、なにかを埋めたのだった。
「ソウ、よく覚えてたね。俺すっかり忘れてたんだけど」
自分は一切覚えていなかったそれを覚えていたことに対して感心まじりに言えば、宗司はわざとらしくため息を一つ溢した。
「忘れるか、普通」
「んなこと言ったって、ソウもなに埋めたかまではどうせ覚えてないくせに。俺とたいして変わんないじゃん!」
言いながら、空が宗司の事を小突くと、宗司はそれに対して仕返しをするように、空の額に軽く手刀をお見舞いした。
「お前よりはマシだ」
「図星だったんだ」
覚えてないだろうと言ったそれに、まんまと引っ掛かった宗司のことを笑うと、宗司は無言で空の頭をさらに叩く。
「いったぁ〜! ちょっと宗司! か弱い俺に対してそれはなくない!? めっちゃ痛かったんですけど!」
「はいはい。ほら、この日なら俺もお前も仕事ないし、締め切りまで時間あるだろ」
空が叩かれた頭を押さえながら抗議すると、宗司はそれを軽くいなして着々とスケジュールを確認し、直近で空いている日を調べて、空にスマホでカレンダーを確認させた。
「……うん、ある」
「よし、それじゃあこの日に帰るぞ」
空が画面を確認して頷くと、宗司はすぐにそのまま自身の母親へと、帰省する日程を連絡していた。
3
「それじゃあ行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
実家の玄関でこの挨拶を言って家を出る事が、数年前までの当たり前だったと言うのい、今は少しだけこそばゆい。そんな事を思いながらも、空は物置から掘り出したバケツを手に取った。
「お待たせ〜」
「おー」
空の準備を待っていた宗司に、バケツを見せながら言えば気の抜けた返事が返ってくる。
出がけに流れていたニュースでは、雨は降らないが夜は冷えると言っていた。まだまだコートやマフラーが必要な寒さになるまで時間はあるだろうが、すっかり一歩一歩季節は冬へと向かっているのだろう。そう言えば、最近はこの時間も室内にこもりきりで仕事や、作曲作業をしていたから気がつかなかったが、日が暮れるのも早くなっているようだ。
「めっちゃ夕焼け綺麗〜!」
「そろそろ帰りの放送流れる頃だしな」
二人にとって久しぶりに歩く道だが、住宅街のそこは変化は何もなくまるで高校生のあの頃から時間が進んでいないかのような錯覚さえ覚えそうだ。傾いた日差しに照らされた二人分の黒く長い影がアスファルトに落ちた。
「ソウは何埋めたか覚えてる?」
「あ〜、なんかど定番で手紙とか入れてんじゃね?」
「それ、覚えてないよね」
大原家の玄関にある靴箱横の物置スペースに忘れられていた色褪せた小さな黄色のバケツには、これまた少しばかり錆びて塗装の剥げたスコップが二本。空が歩くたびに、鉄製のそれはぶつかってかちゃかちゃと音をたてた。
「そう言うお前は、中に何入れたか覚えてんのか?」
「……俺のことだから、きっと素敵なものを入れてる! はず!」
「お前も覚えてねぇじゃねえか」
宗司に指摘された通り、空自身もすっかり何を入れたのか思い出せずぐうっと小さく呻いて誤魔化した。
「貯金箱とか、へそくりとか入れててくれないかな〜、俺!」
「無いな」
記憶の中ではもっと遠かったような気がするが、すぐにたどり着いてしまったそこは、歩いてきた道同様に当時見慣れていた空き地で、ここが数ヶ月後には全く違う景色になるとは思えなかった。
まだ数年しか離れていないから変わっていないだけで、これから何年も過ぎていくうちに変わらなかった景色も次々と変わっていってしまうのだろうか。そう思うと、ほんの少しだけなんとも言えず物悲しいような気がした。
「……ソウ、どこに埋めたか覚えてる?」
物悲しさから切り替えるように、今回の目的であるタイムカプセルを埋めた場所について全く記憶にない空が問いかけると、宗司は空の持ったバケツからスコップを取って、早速地面を掘り出した。
「なんとなくな」
「え〜、不安〜」
「何にも覚えてないくせに、よく言うな」
宗司のあやふやな記憶を頼りに、小さなスコップで地面を掘る。数日前に雨が降ったおかげもあってか土が柔らかく、そこまで大変な作業にはならなそうだった。
過去の自分たちがどの程度の深さに埋めたのかは、おぼろげな記憶しかないが、せいぜい中学生のやることだ。おそらくそこまで深くはないだろう。
「あ、思い出した。俺めっちゃ深くしようとしたら、ソウが穴掘るの疲れるからって、そんな深くしなかったんだ」
埋めた時と同じような作業をしているからか、記憶の中でぼんやりと蘇ってきたやりとり。当時は掘り始めた時に、深くしたいだなんて言っていたのに、結局空も途中で疲れてしまって、穴はそこまで深くならなかったのだ。
「過去の俺に感謝してくれ」
「うむ。苦しゅうない」
「何様だ」
「殿様?」
軽口の応酬をしながら、二人とも手は休めずに掘り進めていく。気がつくと、あたりは掘り返した土で、まだら模様になっていた。
「……ん?」
まだ冬よりかは夕焼けの時間が長いとは言え、そろそろ本格的に夜空へと塗り変わる時間。そんな時にようやくスコップに当たった硬い感触に、空はすぐに宗司にも声をかけて一緒に地面を掘った。
「あっ! これ、見覚えある! って言うかこれだよこれ!」
掘り起こされ、土にまみれたそれは某テーマパークのお菓子が入っていたであろう缶だ。そこまで年数は経っていないからか、案外塗装は綺麗に残っていた。
「意外と見つかる物なんだな」
そう言いながら、宗司は缶を持ち、両手でそれを開ける。滑らかとは言えないが、蓋は案外呆気なく開いた。
「さすが」
「まぁな」
ワクワクした気持ちで、開いたばかりの缶の中身を覗き込む。しかし、入っていたものは、そんな空の気持ちや希望的な観測を裏切って、宗司の考えたとおり封筒が二つ入っているだけだった。
「……昔の俺、もう少し気が利いてると思ったのに」
「お前なんだから、そんな訳ないだろ?」
「宗司くん、何か言った?」
「何も」
缶の中に入っている封筒には、なんとなく見覚えがある。それぞれ無地の飾り気のない封筒には、ただお互いの名前が書いてあるだけだった。今とほとんど変わらない筆跡のそれを手に取ったはいいものの、夕闇の暗さでは時期に文字も読めなくなるだろう。
「とりあえず、家帰って後で読まない?」
「だな」
宗司も同じように考えていたようで、互いにバケツと発掘したばかりの缶を土産に家路につく。ちょうどオレンジと紫の混ざった空を見ていると、これから夜へと切り替わる時間だと告げるように、子供たちの帰宅を促す放送が流れた。
「夕焼け小焼けで日が暮れて〜や〜ま〜のお寺の鐘が鳴る〜」
「ほら、烏と一緒に帰るぞ」
「は〜い」
子供の頃から何度も聞き慣れた放送に、見慣れた景色は懐かしいと感じるのには十分だった。小学生の頃は、この音楽が遊びの終わりだから少し嫌いだったなと思い出す。
「なんかさ、田中のおじさんの空き地行った後にこの音楽聴くの、すごい懐かしい」
「放送鳴っても帰らないでいたら、妹連れて母さん達が怒りながら迎えに来たこともあったな」
「あったあった〜!」
思い出話に花を咲かせながら歩けば、すぐに夕暮れは夜へと切り替わり、塗り替えられた空には星が浮かび上がってきたかのように瞬き始めた。東京の、地上の明かりでかき消されてしまうそれよりも、やはり何もない地元の方が星は綺麗だ。
「ソウ、ありがとね」
「何が」
「気分転換!」
そもそもの目的だった、作曲作業の行き詰まりからの気分転換は十分させてもらった。新しいメロディーは残念ながらしっかりと浮かんではこなかったけれど、それでもこんがらがっていた頭が少しだけクリアになった気がした。
「そうか。よかった」
言いながら僅かに口角を上げて笑ったその横顔は、幼い頃から何度も見上げた空の好きな横顔だった。
よく知った道は、さらに行きよりも帰りの方が短く感じるのはなぜなのだろうか、と惜しみたくなるほどに早く空の実家にたどり着く。
「ただいま〜」
「お邪魔します」
「お帰りなさ〜い、あら宗司くん」
物置に軽く土を払ったスコップを入れて、そのままバケツを適当な場所に片付ける頃には、すっかり日は暮れ切って街灯がチカチカと瞬いていた。夜空の星明かりと違ってそれが瞬くのは、ただ単に白色灯が切れかかっているからなんて言う、ロマンのかけらもないような理由だろうが。
声をあげながら上がり框で靴を脱いで、揃えることもしないままに放り出す。きっと母や守人、さらには廉あたりに見つかるときっと声をかけられるだろうけれど、どうせ荷物を取りに戻っただけなのだからと言い訳を頭の中でだけ溢す。リビングに入って、ソファに置きっぱなしになっているリュックを取ろうとすると、ちょうど夕飯の準備をしていたらしい母は、空の帰宅よりもその後に部屋に入ってきた宗司に対して、あからさまに声のトーンを上げた。
「お久しぶりです」
「久しぶり〜って、宗司くんまた大きくなった? それとも空が縮んだのかしら」
「ちょっとお母様!?」
「っすね、こいつ縮んでます」
「やっぱり!」
「やっぱりじゃないよ! ちゃんと現状維持してますから!」
揶揄うのがおもしろいと、隠そうともしない表情で話す宗司に、母もまた同じ様に同意する。そんな二人に対してまた失礼な!と空は憤慨した。
他愛ない話をしながらも手に取っていたリュックを背負うと、準備の手を止めて、母は空に問いかけた。
「荷物なんて持って、もう帰っちゃうの?」
「そのつもりだけど」
明日の予定は全員揃って、午後からスタジオでのバンド練習が入っているくらいだが、空の作業進捗的にはゆっくり一泊してと言うのは少し厳しい。それもあって、名残惜しい気持ちもあるがすぐに帰って作業を進める予定だったのだ。
「せっかくだから、ご飯くらい食べて帰ったら? 宗司くんママにも連絡してあるし」
母は流石に何となくはその辺りの事情が分かっているのか、夕飯だけ──しっかりと宗司の家にも連絡をして、断るという選択肢を実質潰しているのは、実に母らしい強引さだが──
「いいんですか?」
「もちろん。イケメンのために、おばさん頑張ってご飯作ってるから」
「お母様、そのイケメンってもちろん俺のことだよね!?」
空からの問いかけに対して、澄ましたようにうふふと笑って誤魔化した母はそのままキッチンへと引っ込んでいった。空自身が面食いなのは確実にこの母親の遺伝と影響な気がする。
「……じゃあ、イケメン二人は夕飯できるまで俺の部屋いるからね」
「はいは〜い」
宗司に声をかけて一緒にリビングから出る。築年数の結構経った戸建ての実家は、いささか階段が急な作りをしている。階段を上がってすぐの空の部屋は、たまに母が掃除をしてくれているおかげか最後に見た時から特に変化はなかった。
「相変わらずおばさん、賑やかだな」
「まぁね。それ言ったらソウんちのおばさんだってそうでしょ」
「確かにな」
互いの母親の話をしながら、なんとなくそれぞれいつもの定位置に座る。空は自身の学習机とセットの椅子に座って、宗司は空のベッドに腰かけた。途端に見慣れた光景に、懐かしさを感じるとともに、制服を着ていたあの頃の自分たちがなんとなく思い浮かぶ。
「それにしても、まさか宗司とこんな、運命共同体にまでなると思わなかったな」
「いきなりどうした」
「いや、小学校入学以来の腐れ縁も、あと数年で記念すべき二十年になるかと思うと感慨深くて」
「……まぁ、同じ場所から来て同じ場所に帰って、タイムカプセルの中身を見ることになるとは思わなかったな」
「でしょ!?」
思い返すと、家族の次に長い時間をともに過ごしているのは互いだけなのだ。ついそんな事を考えると、しみじみとした気分にだってなってしまう。普段ならば空がそんな事を言い出すと「またか」と、変な物でも見ているかのように呟く宗司も、珍しく今回は空に同意した。
「そうだ、自分たちの手紙、どうする。ここで読むか?」
しばらく思い出話に花を咲かせた後、宗司が思い出したように今日の成果について口にする。十五歳の自分たちからの手紙は、今は互いの上着のポケットの中だ。
「あ〜、どうしようかな。俺は、作業する時に読もうかな。その方がなんか色々思い付きそうだし。ソウはどうする? 読むんならどうぞ」
気分転換という目標は果たせたが、それでも空はまだ新曲についてのアイディアで行き詰まっている事に変わりはない。それ故に、過去の自分からの手紙でも、作詞作曲に生かせるのならば、逃さず使いたいのだ。宗司は空からの問いかけに少しだけ悩んでいるような表情を浮かべた。
「空〜! 宗司く〜ん! ご飯できたわよ〜!」
「……俺も、寮に帰ってからだな」
「だね」
夕飯ができたと呼びかけられた声に、すぐに行くと階段に向かって言いながら部屋を出る。その時に見えた宗司の顔が、どこか「助かった」とでも言いたげな表情を一瞬浮かべていたような気がしたが、それは本当に一瞬のことですぐに消え去ってしまった。
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『未来の俺へ。俺はまだ、宗司の隣にいますか』
手紙の封を開けると出てきたものは、数枚の便箋と何度も何度も書いては消してと繰り返した後の残る、汚れた五線譜だった。どうして忘れていたのだろうかと思うほど鮮明に、それはすぐに空の記憶を呼び覚ます。
「……そっか、うん、そう言えば、これくらいの時から苦しかったんだっけ」
折り畳まれた便箋を丁寧に開いて、空は今よりも幼い字を指先でなぞりながら読み始めた。
空の家で夕飯を食べた後、宗司の家にも顔を出してから、一緒に電車に揺られて帰ってきたのは数時間前。母親たちから持たされたお土産という名のおかずをSOARAの他のメンバーに振る舞ったり、今日の事を話したりしているうちに、時間はあっという間に深夜になってしまっていた。
入浴も済ませて、後は本当に作業に集中しようと意気込んでからようやく自分宛の手紙を開いたのだ。
『未来の俺へ。俺はまだ、宗司の隣にいますか。今もまだ宗司と一緒にいたいと、思っているんでしょうか』
大原空は、天才中学生だった。
授業の一環でフリーのソフトを使って作成した曲。それをただ提出するだけではもったいないからと完成記念としてネットにアップしたところ、それがなぜかものすごく評価されたのだ。全国ネットのニュースでも取り上げられて、若き天才音楽家だなんて評価もされて。
今までそんな事言われた事もなかったのに、いきなり天才だとか、もっと曲を聴きたいだなんて言われて、感想もたくさん貰えば、さらに評価が欲しいと欲を出してしまう。そんな風に欲を出したのがいけなかったのか。一曲目の評価はどこに行ったのかと思うほどに、それから先作る曲は全て否定された。挙げ句の果てには空自身の人格や存在も否定するように、悪意の色を濃くしていったそれに、空は押し潰されていたのだ。そんな空を音楽から切り離してくれたのが、宗司だった。中学三年生の卒業式あたりに書いたのだから、きっと件の事件から一年が経つかどうかという時期だった気がする。
一番酷い時よりも随分精神的には回復してはいたが、まだあの頃の空は脆く、自分の事を分かってくれる宗司だけがまるで世界の全てだとでも言うように、依存していた気がする。そんな依存心が恋心に変化したのはいつだったかはもう分からないけれど、この手紙を書いた頃の空はまだその判別がついていなくて、自身の中で名前の付かない感情を持て余してるようだった。
「まだ、まだちゃんと、宗司の隣にいて、ずっと苦しいよ」
もう何年も一緒に育って、育ててきてしまった感情なのだからすっかりそれの名前は、今の空にはわかるものになっている。苦笑いを浮かべて、過去の自分と会話をするかのように、空は手紙を読み進めていく。
「……苦しかったね、俺」
読み進めれば進めるほどに、苦しさと困惑が伝わってくる文章は、過去の自分が書いたと言うのにまるで人ごとのようですらある。苦しすぎてきっと、忘れてしまっていたのであろう感情と記憶が、鮮明に蘇ってくるかのようだった。
「……恋を、知らなかったもんね」