その日もいつものように、早番のシフトに間に合う時間にアラームがセットされていることを確認してからベッドに入った。部屋の電気を消してしばらく、明日バイト先についてからやらないといけないこととまかないで何を作るかを考えている内に意識がとろりと眠りの底に吸い込まれていきそうになる。閉じた瞼を開けることはもう難しい、そんなときに玄関の鍵の開く音を聞いた。
錠の回る重たげな音に僕はとろけかけていた意識を取り戻し、またか、と思いながら布団の中で目を閉じたままなんとなく息を潜める。潜める必要はないはずなのになんとなく寝ている風を装いたい気になって身じろぎにすら気を遣う。
玄関からキッチン、暗い部屋に灯りをともすこともなく、まるで何もかも見えてるかのように慣れた足取りでずんずんと横切ってベッドへ足音が近づく。そうして音の主は、ベッドの傍で立ち止まりごそごそと音を立てる。この音は恐らく足音の主が上着やら靴下と脱いでいる音だ。僕はまだ気づかないふりをしている。布団の片側がめくりあげられ、背中側ににひやっとした空気が触れる。ベッドのスプリングをきしませて大きな塊が僕をベッドの隅に追いやるようにして潜り込んでくる。そうしてめくった布団をかぶりなおすとふうっと大きく息をついた。
僕は動物を飼ったことがない。だから飼ったことがある誰かに聞いた話だけど猫を飼っていると夜にベッドにもぐりこんでくることがあるという。猫によってはどっかり人間の上に乗っかって、重いのだとかそれのせいで悪夢を見るのだとか聞いた。話を聞いただけではうまく想像できなかったけど最近はこういう感じかなと思うことがある。寝ている布団に何かが無遠慮に入って来る体験を、今の僕は経験済みだ。
ひとり分のスペースしかない狭いベッドに猫と人間ではなくて、大の男がふたり横になっている。体が相手に触れないようにと気を使って端と端に寄ってしまえば朝が来るまで寝返りすら打てないほどの空間で僕らは気を使い合うことをいつしかやめた。互いの体温が分かるほどの距離で寝ることに慣れてしまった。
僕らはもうとうに大の男になっているので、一緒に寝なくていい。僕らは既に生活のほとんどを別にしていて同じ家に帰って来る暮らしはしていない。それでもしばしば、燐音くんは僕の家に来る。連絡してから来ることもあれば連絡もなしにこんな風に夜中にいきなり布団に潜りこんでくることもあった。連絡をせずに夜中に来て、布団に潜りこんでくるときは大体なにか嫌なことがあった日だというのを僕はなんとなく察している。察しているだけでそうなのかどうかは知らない。僕の勘違いとか、思い込みなのかも知れない。でもなんとなくそういう匂いがする。苛立ちとか焦燥とかを持て余して身の内で燻らせているような、それを無理やり消火しようとしているような匂いだ。実際になにかが燃えてるわけではないので焦げ臭いとかそういうのとは違う。ただ僕はそれを匂いとしか感じられないし、そういう表現しかできない。もしかしたら僕の知らない言葉でもっとぴったりくる表し方が出来るのかもしれないけど、その人そのものの匂いにかすかに混じって立ち昇るそれは匂い以外になんなのかがわからない。
僕のつま先に燐音くんのつま先が当たった。燐音くんのつま先はひやりと冷たくて、外の気温の寒さがそのまま入って来たようだった。燐音くんのひょろりと長い足の指と青白くぼやっと発光するような白すぎる足の甲が頭に浮かんだ。僕はまだ目を閉じている。燐音くんがどうしているか少しだけ気になったけどやはりまだ何も言ったり聞かれたりしたくなかった。眠たいし面倒くさいから。燐音くんの足の指が器用に僕の足の指を掴む。冷たい足先にじわりと僕の熱が奪われていく。
「燐音くん。足、冷たいっす」
「やっぱり起きてンじゃねェかよ」
「寝てるっすよぉ……」
「冷てェなァ」
「冬っすからね」
言い終わる前にあくびが出た。燐音くんが足の親指でぎゅっと僕の足の親指をつねるように握ったので僕も握り返した。
「痛ってェな」
「先にやったのそっちでしょ」
目を開けてみると暗がりの中で燐音くんがにやにやと笑っている。この時間にスウェットの上に上着を羽織ってここまで来たようだ。ノーセットでぺしゃんこの髪の毛がお風呂には入った後だということを教えてくれる。最近はいつもつけているアンバーグリスに隠れてローズマリーやセージっぽい香りのする香水の匂いも今はしない。
「ニキ」
「なんすか」
「おやすみ」
そう言って目を閉じた燐音くんの顔を少しだけ眺めてから僕も目を閉じた。ほどけた足の指の熱はもう戻っていた。