こう見えて、一応武術の鍛錬は積んだことはある。初めは趙雲様がみっちりと鍛え上げようとして、あの趙雲様ともあろうお方が匙を投げた筋金入りの能力なしだ。さすがは私、人に誇れるところがあまりにもなさすぎる。それではあまりにかわいそうだ、文官とはいえ身を守る程度はと今度は諸葛亮様が直々に羽扇の扱い方を教えてくれたこともあったけど、それはいろんな事情があって中断した。中断は再開することがないまま諸葛亮様が亡くなってしまって、私のお遊びのような武術鍛錬に付き合ってくれる暇な人も蜀にはいなくて、今でも鍛錬は放ったままだ。私のためにと用意してくれた羽扇も、置き場所はわかるけど手にしたことはない。私みたいなのが羽扇を持ったところで何の戦術も思い浮かばないのだ。持っているだけで期待をさせてしまう代物なのだ、あの武器は。
「というわけで終わったな、私・・・」
もちろん死んではいない。死ぬにはほんの少しの猶予が与えられているらしい。でもこんな猶予、ない方が良かったなあ。私は、身ぐるみ剥がされた後に着せられたらしいさらさら透け透けの衣を手に取りため息をついた。劉禅様の后でも着ていないような上等物を、たかが捕虜に着せるのか。恐るべき曹魏の国力、これでは姜維殿がどんなに北伐をしたところで蜀軍が疲弊するばかりだと思ってしまう。それにしても、戦場のど真ん中にあって放蕩にふける馬鹿がいるとは。面倒なことになってしまった。面倒な奴が相手でなければいいんだけど、いや、誰であろうとたとえ相手が姜維殿でも面倒にはなってしまうのだけど。ぎいと戸が開く音が聞こえ、音の方へ顧みる。あれは確か曹爽、なるほど納得だ。司馬一族を出し抜こうとして無理やり兵を率いたけど姜維殿相手に苦戦を強いられて、やられっぱなしのところで偶然生け捕ったのが姜維殿の傍にいた私だったから腹いせか!自分が天才軍師なのではないかと勘違いしてしまうくらいに相手の考えが読める、読みまくりだ。でへでへと下品な笑いを浮かべて気持ちが悪い、どうせならもう少し風情のある場所で男前に・・・。現実逃避に励んでいると、曹爽の手が肩に伸ばされた。
「いや無理、やめた方がいいと思う」
「女、そう怯えるな。私は大将軍、曹爽である! 案じることはない、お前は私の寵愛を受け后となるのだ、曹家の后ぞ!」
「曹家って・・・あなた皇帝じゃないじゃん」
「陛下など我が意のまま。さあ、さあ・・・」
「う~ん・・・」
馬鹿だなあと思う。私も私自身のことは結構な馬鹿だと自負しているけど、私よりも数段上の紛れもない馬鹿だ。私は曹爽を全力で押しのけると、寝台の団扇を手に取った。これで何をされるつもりだったのか、考えるだけでおぞましい。私は団扇を構えると、すうと深呼吸した。鍛錬を中断したのは、そうした方がいいと諸葛亮様が気を遣ってくれたからだ。本当に優しい人だった。どうしようもない事実にさえ私が傷つくことを許さなかった、鬼のように優しい親だった。馬鹿なの、と呟く。団扇に宿るはずのない熱が籠もり、淡く光る。できる、できるに決まっている。だって私の親は。
「―――ねえ、どうしてそんなに馬鹿なの?」
できなかったから中断したのではない。できてしまったから、できすぎてしまったからやめたのだ。何の変哲もない悪趣味な団扇から放たれた黒い閃光が曹爽の耳元を通り過ぎ、閉ざされた戸を貫く。見覚えがある光だろう、あなたが大嫌いな光だろう。そいつを出し抜こうとしているのに、せっかくのお楽しみの獲物が同じことをしたんだから。哀れにも腰を抜かした曹爽にもう一度馬鹿なのと吐き捨て、部屋を飛び出す。本当はこの下品な衣も脱ぎ捨てたいけど、代わりがないのでこれで駆け抜けるしかない。曹爽が人払いをしていて良かった、まだ騒ぎにはなっていないから逃げられるかもしれない。私は、今や唯一の味方となった団扇を胸に抱え城外へ走り出した。