グランドピアノの黒い光沢、それだ。それにちがいない。
 最初は墨汁だかブラックコーヒーの塊だと思っていたけど、この鋭い反射はピアノに決まり。靴がキュッキュと歌う声も可愛らしいし、夜空にたゆたう半月が、私をピアノに映してくれるのも最高だ。この黒い世界には私と光だけ。そして私はピアノの上を歩いている。そんな経験をした人など、後にも先にも私以外に居ないだろう。
 回ってみたり、跳んでみたり。スキップをして、ふと立ち止まる。深く息を吸い込んで、吐き出して。天を突く地平線を覗くと、自分の存在が一気に不安になる。そのうち私も黒に溶けて、消えてしまうのだろうか。私はいつまでたっても、黒に染まることは許されないのだろうか。瞬きが少しだけ怖くなる。でも絶対、星にだけはなりたくない。惨めさを必死に隠してニコニコ笑いかけるなんて、今とそんなに変わらない。
 白いブラウスが黒くなってしまわないかを逐一確認しつつ、また跳ねる。動くたびに紺のキュロットスカートがヒラヒラとついてくる。袖口のレースが私に従い舞って、靴紐は一緒に回る。靴底の歌は絶え間なく、でもデュエットするには私が音痴。質素な凱旋パレードよろしく、上々気分で踊り歩いていた。
 しかし、繰り返しのパートへ移った途端、私は硬くて大きいものにぶつかった。おでこには鋭い痛みと、俯いた視界の端には赤い色。最高の気分は簡単に冷め切って、ピアノへ溶けた。弁償してもらおうと犯人を見てみると、古くて今にも壊れてしまいそうな、赤い……劣化して赤黒い自動販売機が鼻の前に設置されていた。
「ねえもう、何これ」
 角にぶつけた頭をさする。パレード中の前後不注意? いやいやまさか、二宮金次郎じゃないんだから。どこからともなく現れ、ピアノの光沢に堂々と佇立するそれには、月光よりもまばゆい光を放つ、白い街灯がピタリと寄り添っていた。自販機の赤い塗装は妖しく不気味に照らされる。
「あーあもう。傷になってたらどうしよう」
 額にできたタンコブを指の平で押さえて均す。血は、出ていない。しかし目には白と黒と赤。派手なのか地味なのか分かりやしない。
「こんなところに自販機って。誰が買うの、これ」
 ショーケースは錆と汚れで覆われていて、要となる商品は一つも見えない。ピアノの上に、私と街灯と自動販売機。街灯と自動販売機は古くからの仲のようだから、私はお邪魔かもしれない。
「手持無沙汰のお嬢さん、長い歩きで喉が渇いてはいませんか」
 異質に捕らわれていると、機械音声が降ってきた。「まじか。喋るの、これ」私の頭上付近に、スピーカーとモーションセンサーらしきものが張り付いている。キュルキュル、とテープを巻くような音もついてきて、また喋った。「ええ。喋りますとも」くぐもった声。バリトンかバスか。なんにせよ、会話が思わず楽しくなるような音質ではない。
 目が合って、見つめ合って、私の瞬きの数が多くなった。「長い歩きでって、なんで知ってるの」
「そんな顔をしておられましたから」低い機械音声は所々が聞き取りづらくて、たまに大型犬のようなハウリング。私の耳はその度に壊れてしまいそう。「とても素敵な踊りでしたよ。ご職業は踊り子を?」
 踊り子。踊り子って。この自販機は、頭の中まで錆で覆われているのだろうか。
「どうもありがと」嫌みの種を植えずに流す。喉も渇いているのに、植物を育てる余裕なんて無い。「ただの学生だよ。あなたこそ、どこのメンタリスト? だいぶ目が良いようだけど」このピアノの上では誰もが踊り出したくなるのかもしれない。はたまた、この貧相な赤い体には最高峰のAIが搭載されているのかもしれない。「喉が渇いているのは大正解」プロのダンサーはきっと、この程度の踊りでは疲れない。
「渇いているでしょう、そうでしょう」グワガガガ、話す度に軋む。「今回ばかりはお安くしておきますから」息継ぎの度にモーター音。
 強引で魅惑的な誘いに、私は思わずポケットの財布へ触れるが、すんでのところで思い留まる。喉の渇きは覚えるけれど、ここで買うのは気が引ける。
「遠慮しておく。飲み物を飲む気分じゃないからさ」外見で判断するのは悪いけど、そんなに的外れでもなさそう。「どうか他をあたって」こんなに辺鄙な場所へ自販機を置いた人が用意したような飲料だ。どうせろくなものでない。
「はあ、私が飲み物を売っているように見えますか」
 それは不服なため息交じりで言った。あなたの自慢の商品は、黒く濁ったカバーの所為で月の光も当たっていないのだと、言及するのは相手を傷つける気がして止めた。「だって自動販売機は飲み物を売っていると思うじゃん」言われて考えてみても、売るのは食べ物か、飲み物かと大体の相場が決まる。喉を潤す目的ならば、飲み物以外の何があるのか。
「それは失礼しました。ですが、常識に囚われ続けるのもどうかと思いますよ」ガゴン、ガガ。壊れかけの洗濯機のような音が、私に当たって跳ね返る。「しかしながら、他の人をあたるというのも不可能な話でして」キュルキュル、ガガガ。今度は当たらず落ちていく。「生まれてこの方、私の商品を購入された方はただの一人もいらっしゃいません。どうか、一時の縁だと割り切り、ご贔屓願います」
 商品だけでなく、情まで買わせようとするとは。なんと高慢なAIだろうか。「ずっと一人なんだ。それはきっと寂しいだろうね」
 同調しつつ、彼の姿を再び咀嚼する。この年季の入りようで、商品を購入した者は一人たりとも居ないときた。喉を潤す何かは売っているのだろう? 奇異的な自己PRに、私は彼から異臭が放たれているとの錯覚を覚え、思わず鼻をつまんだ。「そんなん、余計に買いたくないじゃん」そう呟いた後に顔を歪め、数歩後ずさりした私を、自販機は声高らかに笑った。腹の底からケタケタと、笑う度に赤い体は揺れる。笑い声に不愉快さは感じられず、私は歯を食いしばった。滑稽なほどに急な態度の変わりよう。
「何笑ってるの」
「冗談に決まっているでしょう。面白いお嬢さんだ」そこで私は理解した、この自販機は生きている。「機械は嘘を吐かないと思いましたか」
 耳まで熱くなるのが分かった。紅潮した顔を覆ってしまいたくなったけど、あれに目はついていない。「あなたって、機械じゃないみたい」動揺を押し殺し、何食わぬ顔で向き合ったが、モーションセンサーとは目が合った。身心を射抜いてしまいそうな視線に、勝負事でなくとも勝てないと、心の底でひしひしと感じた。
「機械的とはよく言いますが、それはどのような意味なのでしょうね。人間が作るのですから、全ては人間であると思うのです」自販機は、可笑しそうに続けて言う。「何故わざわざ区別する必要がありましょうか」
「心が無い、とでも言いたいんじゃないの」
 耳の中に、『機械』がモヤっと残った。自尊心が潰れてしまいそうな、人間が中心である、との考えがこの機械には組み込まれている。「そういう意味では人間にだって機械的な側面はあるよ」でも、難しい話はしたくない。私は、サラッと当たり障りの無い綺麗ごとを吐き出す。
「ほう、では私には心があると。そうでしょう、そうでしょう! 道を歩く少女へ休憩を提案するほどに、私の心は豊かなのですから」傷を抱える部分を含めて、私は至極面倒な機械に掴まった。きっと独りで生き続けると、つかの間の温もりにのぼせ上ってしまうんだ。
 苦い顔に無理矢理作った笑顔を被せる。「それとこれとは違うんだけどさ。心ってのはもっとこう。色鮮やかで、何というか」
「色鮮やかと。かくして、心臓は赤い。分かりました、私そのものは心であると」
「うーん違うよ。ええと、だから」言葉にならない言葉をかき集めたら、薄っぺらい励ましが出来た。もちろんその場ですぐ捨てた。「いいや、忘れて。とにかく他をあたってね」ポイ捨てを誤魔化し、セールスを定型文で突き放したけど、そう言えば。「できないのか。あなたは」
「そうなのです。私の持つ賜物は、誰の目にも触れられることがないのです。お嬢さん、どうか私の自慢を拝聴願います」
 商品を買え、情を買え、心を説け、から更には自慢を聞けと。「悪い意味だな、あなたの人間らしさは」姿が見えなければ、子どものような愛嬌でもあったのだろう。しかし、婉曲のすぎる過度な慢心はいただけない。
「あなたには、善悪の判断があるのですか」
 本当に、子どもだったら良かったんだけど。声を大きくした自販機を傍らに、肩を落として財布を取り出す。無視をするには私の良心が多すぎた。
「お安くなりますか」
 自販機は意地悪く語調を和らげた。
「ええ、あればかりは嘘ではありませんとも」
 しかし、まともに自販機を見つめても、値段表示はどこにもなかった。
 ~ なんか、もう一展開を入れたい 保留 ~
 コイン投入口の錆を、爪の甲でなぞった。それは付箋紙のごとく簡単に剥がれて、ピアノに落ちる。足で踏むと、ジャリジャリ音がして、あっさり溶けた。私の人差し指の爪はマニキュアが剥げたように赤黒くなった。どうしようもなく悪趣味だった。
 錆の付いた爪で百円硬貨を二枚入れる。自販機の明かりはどこにも灯らない。飲み物でないと言っていたな。もっと高いのか? おつり返却で二百円が返ってくるのを確認してから、千円札を慎重に投入。何も買えそうにない。おつり返却で五百円玉が二枚。ちゃんと返却はしてくれる。しばらく迷いに迷って、二千円を食べさせたが、結局は五百円玉四枚に。なにこの両替。ってか五百円玉でおつりをくれるんだったら、私の前に商品を買った人が居る。成る程、そこまでが嘘であったか。
「ええと」両替の一部始終を傍観していた自販機へ助けを求める。「値段は?」喋れるくせに、明かりはつかないのかな。接触不良。多分、人との。
「見れば分かりますでしょう。ああもしや、値札と商品を見間違えられましたか。上方にあるのが値札でございます」
 私は今から、値札に似た何かを飲まされるのかもしれない。「ごめんね、ええと。私ってば目が悪くてさ。値札の文字が小さくて見えないんだ」ただの嘘っぱち。嘘の吐き合い、意地の張り合い。これらはちっとも楽しくない。「できれば、どこに何があるかも合わせて言って欲しいな」視力は毎年良好で、眼鏡なんて縁遠い。
「承知しました、お嬢さん。上の段は閲覧可能でしょうか」
「はい、見えますね」元気がないと一喝されてしまいそうな返事をしたせいか、はたまた嘘を重ねたせいか。意地悪をされた。「それではフルコースにしましょうか」「なんで」
 私の制止は聞こえないと、自販機は話を進める。
「では、三段のうち最も上の段をご注目ください。お嬢さんの左手から三番目に赤いものが見えますでしょう。その下方にございますボタンを、銅貨二枚を入れられたうえで押してください」
 うえ、ひだり、した、うえ。十円玉を二枚入れ、指定されたボタンを押した。「なんかややこしいね」銅貨二枚、って意味の分からない言い方をする。チャリン、音がした。するとおつり返却口には十円玉が二枚。「お金、返ってきちゃったけど」
「お安くしておく、と言いましたでしょう?」
「ただより高いものはないよ」
「一銭ほど頂戴しました」
「屁理屈だなあ。だとしたも、九円は返して良いのに」
「小銭が切れているものでして」
「五百円玉はあんなにあったくせに」
 自販機は愛想笑いをしてから言った。「さあ、私の自慢を聞いてくださいな」
 商品受け取り口を見てみると、真っ赤な、丸いもの? 赤から赤が。四角から球が。手を伸ばさずして、それは林檎であると分かった。
「うわ、食べ物出てきたんだけど」
「何か問題でも?」
「いや、ああ。お客さんは前にも来ているんだっけ」
「いいえ、来られておりません、それ故に閑古鳥がうるさいものです」
カット
18:31
重カ
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試作
初公開日: 2020年11月23日
最終更新日: 2020年11月28日
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思ったものを書くだけ。
こういうと厨二病みたい。ふはは。