※死ネタです
フィガロはオズを恐れていない。彼から親愛の情を持たれていることを把握しているし、長い年月は扱い方を教えてくれた。
だから最強の魔法使いが、扉を蹴破らんばかりの勢いで私室に入ってきた際も、何一つ言葉を発したりはしなかった。
「急患だ」
だまって、ベッドを指さす。オズの腕の中には、髪の長い女が収まっている。言うまでもない。賢者だ。いつも快活な表情を浮かべている顔は、青白く色褪せている。
「任務の最中に、不思議の力を持つ生物の強襲を喰らった」
窓の外からは弱々しい朝日が差し込んでいる。なるほど、夜明けだ。最強の魔王と恐れられた男も、魔法が使えないのでは形無しである。
今日、魔法舎を離れていたのは、中央の魔法使いと西の魔法使いだ。教師役であるシャイロックや、成熟した魔法使いであるラスティカ、ムルだって腕は良いけれども、絡めてが得意な面々ばかりだ。幼い――フィガロにしてみれば、この世に存在する大概の存在が該当する形容詞だが――それ以外の人員も、戦闘能力という点ではいささか心許ない。
オズ一人が存在していれば、それだけで解決する問題ではあったはずなのだけれど。
「とっさにカインが庇おうとしたのだが」
「間に合わなかったのか」
真木晶は、口の一つも開かずに、黙ってベッドに横たわっている。フィガロはそれが残念でならない。
「任せる。治癒術はお前の得手だろう」
伊達や酔狂で「優しいお医者さん」を名乗っているわけではない。せめて、オズがその事実をいまだに把握していることを喜ぶべきなのだろうか。
「オズ、みんなは何か言っていたか?」
「……言っていたかもしれないが、覚えていない」
「そうか。そうだろうね」
フィガロは賢者を指さして、極力静かに口を開いた。
「よく聞け、オズ。俺は彼女に、何もしてやれない。彼女が既に、死んでいるからだ」
「そんなはずはない」
「どうしてだ? 腹には穴が開いていて、心臓もとっくの昔に留まっているだろう。生き物はこんなに血を流して、生きていることなんてできな――」
「賢者は」
フィガロは驚いた。オズは極端に寡黙で、言葉を発する速度も遅い。千年以上の付き合いになるけれど、彼によって話を遮られることなんて、初めてのことかもしれなかった。
紅い瞳は普段よりも爛々と輝いて、男が吐露できない激情を、鮮やかに示しているように見えた。
「賢者は石になっていない。何か手立てがあるはずだ。」
「いいか、もう一度言う、オズ。今度こそしっかりと聞け」
重く閉ざされた瞼。ぴくりとも動かない指先。無残な体――。顔が損傷していないのが、いっそ不気味なほどだった。
「彼女は人間だ。人間は命を落としても、魔法石に変わったりしない」
ぴくり、と形の良い眉が動いた。オズは虚空から杖を取り出すと、だまって赤い宝玉を賢者に向けた。
「ヴォクスノク」
賢者の体が僅かにうごく。しかしそれは、ただ、彼女の体からこぼれる赤い液体の量を、増やしただけのことだった。
「死んでいるのか」
フィガロは黙ってオズの背後に椅子を差し出した。いつの頃からか、自分よりもわずかに高い位置にあった顔に、ぐしゃりと皺が寄った。
「人間は石にならない」
「そうだよ、オズ。彼らは柔らかい肉の体のまま、徐々に熱を失って、そしていつかは土に還るんだ」
本棚に並んだ、背の高い百科事典を動かす。その裏には、ミチルの目を盗んで、とびっきり上等な蒸留酒が置いてあるのだ。薄手のグラスの中に琥珀色の液体を注ぎ込んで、呆然と椅子に腰かける男に無理やり受け取らせる。
「飲め、オズ。そしてとりあえず、自分の部屋にでも戻って、じっとしておいた方がいい」
「お前はどうする」
「双子先生と――あとは、教師役を務めている魔法使いを集めて、今後の方針を相談しないといけないからね」
「私は」
「まともに物を考えられる状態かい? 今のお前は」
フィガロの言葉に、オズは返事をしなかった。
「ほら、早く部屋を出てくれ。そうしないと、俺もここから動けないだろ」
「ここに居る」
「はっきり言わないと、分からないのか、オズ? 今のお前が、賢者の傍にいたら何をしでかすか分からないから、さっさと出ていけって、そう言っているんだ」
「……」
「お前には力がある。この世界の誰よりも強い力が。……万が一にでも暴発でもされたら、誰も止めることが出来なくなってしまうかもしれない」
「それは」
「可能性が無い、とは言わせない。分かっているな?」
兄弟子としての言葉だった。オズはしばらく賢者の顔を見つめると、黙って立ち上がった。背の高い青年が、部屋から出て行ったのを見送って、フィガロはやっと肩を撫でおろした。
危ない橋を渡った自覚はある。アーサーが彼の元を去った時のことを、フィガロはよく覚えている。あの時は、感情が内側に暴発したから、被害が発生しなかっただけなのだ。魔法は心で使う。誰よりも強い不思議の力を持つものが、平静をうしなったその瞬間、何が起こるのか。長い時を生きてきたフィガロにも、想像の出来ないことだった。
「とんでもない爆弾を遺していってくれたね、君は」
返事はない。あたり前だ。先ほどオズに事実を突きつけたばかりだというのに、自分は一体、何をやっているのだろうか。
「あーあ、あの時、俺に篭絡されてれば、こんなことにはならなかったのに」
無責任に責任を押し付けて、フィガロはもう一つ、グラスを取り出した。普段よりの多くの酒を注いで、一気に喉へ流し込んで来ても、脳はちっとも酩酊してくれない。
失ってしまった物、あるいはこれから起こるであろう波乱。そういったものから目を逸らすには、フィガロはいささか長生きしすぎていた。
おしまい