ある朝起きて食事の支度に向かったミトは、一輪挿しに飾られた一振りの桜の枝が目に入った。食卓として使われているテーブル上のそれは、カナタがアトリエで制作したのだという。か細く見える枝も、その先にこぼれるように咲いた小さな花弁の群れも、くすんだ色彩に囲まれたウーユリーフタウンのそこかしこで見られる風景と同じく金属製だ。鮮やかな色彩こそなかったが、周囲の穏やかな光に照らされて時折きらめく様子は、ともすれば無味乾燥になりがちな日々の生活の中に華やぎを与えてくれるには十分だった。
「綺麗だな」
「そうだね」
あとから起きてきたマツリが独り言のように言葉を漏らす。ミトもそれを受けて頷いたのだった。
*
ウーユリーフタウンに花は咲いていない。街の中で目にすることができる植物と言えば、街のシンボルのウーユリーフの木ぐらいだ。
「花なんて珍しいな」
昼食を終えてマツリが自室でくつろいでいた時のことだった。同室のミトが小脇に抱えていた紙袋から取り出したのはちいさな紫色の花だった。狭いテーブルの上にアルコールスプレーを吹きかけ消毒をした上にいつもまな板として使っている薄い板を敷き、その上にパラパラと紙袋から取り出したままの小さな花を並べている。
「どこかに咲いていたのか?」
「違うよ、これは、食用。食堂で仕入れてもらったんだ」
「食用」
マツリは思わずミトの手元を覗き込む。言われてみれば、その小さな花々には茎や葉がついていない。ガクの部分、言わゆる首のすぐ下の部分で切り取られており、観賞用として活けるのは確かに無理そうに思われた。
「食べるのか? 花を?」
「そう」
「サラダとか?」
「ううん」
不躾なマツリの視線を嫌がるでも咎めるでもなく、ミトは何かの下準備らしい作業を進めていく。
「砂糖漬けにね、するんだ」
「砂糖漬け」
そう言ったミトが今行っているのは何かの液体を刷毛で薄く花弁に塗る作業だ。マツリが問えば、溶いた卵白を塗っているのだという。小さな花を優しく指先にのせ、花弁が崩れることのないようソッと刷毛を動かす。なかなか器用だなと思いながらマツリはそれを眺めていた。
「なんていう花なんだ」
「これは、スミレ」
「へぇ」
「花を砂糖漬けにするやりかたは、昔からあるんだけど。一番有名なのはやっぱりスミレじゃないかな」
「そうなのか」
「見て楽しむこともできる、お菓子みたいなものだよ」
ふうん、と呟いてマツリは作業を行うミトをなんとなく見続けた。小さな花の数はそれなりに多そうに見える。ちまちまとした作業は大変そうだが、普段から料理を好み得意とするミトにとっては案外大変な作業ではないのかもしれない。料理をしたことのないマツリにはよくわからないが、作業中のミトはなんとなく機嫌が良さそうに見えた。
刷毛を横に置いたミトが、今度は白い砂糖を花にまぶしていく。マツリは砂糖の種類のことはよく知らなかった。コーヒーに入れるのがグラニュー糖で、小学校の調理実習で使ったのが上白糖。名前の違いがどういう差を示すものなのかすら分からない。その程度の知識しかない。おそらく先程塗った卵白が接着剤のような役割を果たしているのだろうことだけは理解できた。白い砂糖を纏った小さな花々は、粉雪の中で花開いているような愛らしさが感じられてマツリの目に好ましく映った。
「これで、おしまい」
ミトの細い指が、慎重な手つきで目の細かい金属の網目の器の上に砂糖まみれの花を並べていく。粉ふるいなのだそうだが、別に網でもザルでも何でもいいらしい。
「もうできたのか?」
「まだだよ。風通しの良い場所に何日か置いておけば、完成」
「なんだ、すぐ食べられるわけじゃないのか」
「すぐ食べたかった?」
トレーラーの窓を開けようと窓枠に手を掛けたミトがこちらを振り返り、目が合う。分厚い前髪に遮られて実際のところは分からないが、目が合った、とマツリは感じた。たぶん、今、ミトは優しい目をしている。
「……別に」
なぜか拗ねたような声がマツリの唇から零れて、それを誤魔化すようにマツリはミトから目を逸らした。
「こうして陰干ししておけば、砂糖が花の水分を吸って乾燥させてくれるんだ。だから、日持ちするんだよ」
「へぇ」
大量の砂糖や塩を使うことで食材を長期保存させるための技術として広く使われているのはマツリも知識として知っていた。おぼろげな記憶の中、台所に立つ高齢の女性の後ろ姿がよみがえる。イチゴを大量の砂糖で煮詰めてジャムを作っていた。梅の実を氷砂糖と共に瓶詰めにしてシロップを作っていた。……あれは、誰だったのか。
マツリはズキリと痛む眉間を押さえた。そこに、ミトの手が差し出された。見ればその指先にはさっき砂糖をまぶされたばかりのスミレが一輪、のせられている。
「食べてみる?」
目の前のスミレの花は、元は濃い紫色をしていただろうに、今は白い砂糖のおかげでずいぶん柔らかい雰囲気をまとっている。
「……いや、いい。完成したら、遠慮なく食べさせてもらう」
「そう」
ミトの手がマツリの前から離れていく。他の花と同じように金網の上にのせられる様子をマツリは目で追った。
「乾燥するって、どのくらいだ? ドライフラワーぐらいか?」
「そんなにかからないよ。そうだね。花弁の手触りが、ベルベットからしっとり感がなくなるぐらい、かな」
「そうか。楽しみだな」
「うん。楽しみだね」
細く開けられた窓から穏やかな風が室内へと吹き抜けていく。そよいだ風がミトの前髪を揺らし、気持ちよさそうに目を細めているのがマツリにも見えた。明るい黄緑色の瞳が宝石のようにきらめいている。美しい絵画のようだと思った。それなのに、その瞳の色はなんだか目尻の泣きボクロとそぐわないような気がして仕方がない。砂糖漬けにされたスミレの花の色、そればかりがマツリの脳裏を占めていた。
*
一日が終わり、トレーラーハウスのメンバーもとうに就寝していた深夜のこと。
ミトは窓際からキッチンへ移動させたスミレの砂糖漬けをのせた粉ふるいを前に座っていた。同室のマツリを起こさないように小さな小さな灯りだけを灯している。
「砂糖、剥がれてるのは、なさそう」
小さな花の数々を目でざっと確認して、ミトは呟いた。
「僕も、この砂糖みたいになれたら、良かったのに」
花弁を覆う砂糖には、乾燥を促し防腐剤となる役割がある。そうして、スミレが美しい姿を維持し続ける手助けをするのだ。
「君の世界を壊すことなく、そのままの君を守れたら」
同室者の安眠を妨げることのない、かすかな声だった。
「ごめんね、マツリくん」
夜が明けて再び窓辺に置くまでの間、ミトはスミレの砂糖漬けの置き場所として冷蔵庫を選んだ。小さな音を立てて冷蔵庫の扉が閉ざされる。
砂糖漬けの確認をするために灯していた灯り。そのスイッチへと、ミトの手が伸ばされた。
「すまない、ま 」
小さな謝罪の声はカチリと鳴った消灯の音に掻き消え、トレーラーハウスには静寂と暗闇だけが訪れた。