「時雨、今日誕生日だろ。これやるよ」
借りていた大量の婦人誌を返しに編集部へやってきた時雨へ、編集長がしわくちゃになった紙きれを差し出してきた。思わず受け取った小さな紙には目を眇める。
隣に立っていた如月が「老眼」とぼそりと呟いたので肘を打っておく。
紙には時雨も行きつけの喫茶店の店名と、「無料」という時雨の心に響く文句が書かれていた。
「喫茶店の珈琲の無料(タダ)券じゃねえか。ケチな編集長(アンタ)がめずらしいな、どういう風の吹き回しだ?」
「俺にだって働き者の部下を労わるくらいの甲斐性はあんだよ。なんてな、裏ひっくり返してみろ、条件付きの期限つきなんだよ」
言われるままチケットをひっくり返した時雨は、書かれた条件にひょいと眉を上げさせられた。覗き込んでくる如月がそれを読むより早く、折りたたんで尻ポケットにしまう。
「なるほどね。確かに今のアンタには酷だなあ。カミさん仙台だっけ? 今回ので五回目だっけか」
「馬鹿野郎、四回目だ。大体あいつが悪いんだよ、俺は仕事で疲れてるのにガキの相手しろだのなんだの。実家に帰る電車賃を誰が稼いでやってると思ってんだ」
編集長がガシガシと髪をかきむしる。飛び散るフケに如月がうえっという顔になり後ずさるのがおかしかった。梅雨になるたびキノコが生える安普請の八畳間で暮らすことには慣れきっている如月が、他人のそれには相変わらずの嫌悪感を晒すことへの微かな優越感も。
今はさえない中年やもめ(期間限定)の編集長だが、戦前は婦人誌で記者をしていただけあり、なかなかどうして。普段は入稿前でも、糊のきいたシャツと趣味の良いネクタイをかかさない彼が嫁さんに出て行かれている今、こんな格好をしているということは、つまりそういうことである。
「どうせ最後は頭下げに行くんだから、さっさと切符買いに行ったらどうです。せっかくだ、旅行記か随筆(エッセイ)でも書いて連載すりゃいい。いい穴埋めになりますよ」
「だからうるせえってんだよ馬鹿野郎。用が済んだんならさっさと行っちまえ馬鹿野郎」
「へいへいっと。じゃあ次のお借りしますね」
大事に扱えよとがなる編集長に手を一振り。いつの間にやら長椅子に長い足を組み、下っ端記者に入れさせたらしいお茶を飲んでいた如月を促し、風呂敷を抱えて資料室へと向かう。
合計二十冊の雑誌が入った風呂敷はずっしりと重たい。
軍時代の知り合いにして機人仲間の金剛が働く養護施設で始めた、婦人誌連載のとある文学の読み聞かせは、なんだかんだ続いていた。今では近所に住む子供たちが、場所代代わりに親に持たされたおやつ持参でちょろちょろ紛れ込むようになる盛況ぶりだ。
ガキの時空き地で紙芝居見ながら水飴食ったよなあ、と言って如月をはじめ機人の誰もが首をかしげたのに、世代間格差というか育ちの違いを感じてそうかあと黄昏たりもしたが、それはともかく。
資料室と札が下げられた部屋へ入る。一か月前に来た時同様、空気は埃っぽく、日よけの厚手のカーテンがかかっているせいで部屋は昼間なのに薄暗かった。
「如月、俺が新しいの出すからアンタはこっちしまってくれ」
風呂敷に包んだ雑誌を如月が大人しく受け取るのにおやと思う。如月は誰かに何かを命じられると、それが何であれ一言言い返さないと気が済まないタイプだ。うろうろと視線をさまよわせる彼の姿は珍しかったが、見覚えがない訳でもなかった。
夜、時雨が彼を追い詰める時。如月はよくこんな風にどこを見ていいかわからなくないといった風になる。
「どうしたの?」
「は? 何がだ?」
「いや、何か様子が変だから。気になることでもあった?」
「別に……」
「ふうん? そう? じゃ、とりあえずそれよろしく」
気にはなったが、あまり強く追及すると意固地になるので、適度に引いて逃げ場を残してやるというのが、去年起きたあの一連の事件で得た時雨なりの如月付き合いのコツだ。
妹がいるためか生来の気質か、鷹揚さを身に着けていた飛鷹も、適当にため息をついて話を切り上げるのがうまかった。逆に火群は如月に対して思うところがありすぎるせいでぶつかり合うと一歩も引かないことが多かった。それでも手を出すことはほとんどなく、生来優しく大人しい人間なのだなと時雨に思わせた。
金剛は火群とはまた別の意味で如月を苛立たせるのがうまかった。子供の相手に慣れているせいか、如月をそう扱うことにためらいがないせいで、彼の自尊心をゴリゴリと逆撫でしていくのだ、あの青年は。
しゃがみこみ、雑誌をめくって号数を確かめるふりをしながら如月を見上げる。と、ばっちり視線があって、如月がぎゃっという顔になって……薄暗い中でもわかるくらい顔を赤くして、思いっきりそっぽを向いた。
(うわあ、滅茶苦茶意識されてる……)
かわいい。
が、謎だ。
これまでの流れのどこに、彼をああも動揺させる要素があったのか。編集長との会話を思い返しても、時雨にはただの会話だったとしか思えない。時雨には何でもないことが気になっているのだったらもうお手上げだ。
何かがいっぱいいっぱいになっている如月を、この後喫茶店へ連れていって大丈夫だろうかと内心悩みながらニ十冊分の婦人誌を床に積み上げた時だった。
「……貴様、誕生日なのか」
「え? ああ、うん。そう。オジサンからオジサンに成長したの」
「老化の間違いだろうが」
「うわあ、ひっどいの。言っとくけどねえ、如月だって十年後にはオジサンですよ、オジサン」
「ぐ……っ煩い! そんなことはどうだっていい! 何故言わなかったと聞いている!」
「ええ?」
聞かれていない。
理不尽だ。
可愛い。
いやそうではなくて。
「……言ってたら祝ってくれたの?」
「そっ……、んなことは言っていない?」
「じゃあ何で聞いたの?」
「~~ッあの男が知っていて私が知らないのは不公平だろうが!」
「何だいそれ」
なんという我がままか。いや我がままというより癇癪か。
よっこいしょ、と膝に手をついて立ち上がる。如月が、視線だけは睨んだまま、けれど身体は正直にじわりと後ずさるのが、怯えた小動物みたいで可愛らしい。可愛らしいので顔の横に両手をついて閉じ込めることにした。時雨の方が背が高いから、こうすると覆い被さられた博士が怯えるので隙を見てはちょくちょくこの体勢に持ち込んでいる。
「つまり博士は自分が一番オジサンのことを知ってないと嫌ってこと?」
「う……」
「なら大丈夫(?)でしょ。博士が一番オジサンのこと知ってるよ」
「……誕生日を教えなかったくせに」
おや意外に根に持っていらっしゃる。別に博士に誕生日を教えなかったのは意地悪でもなんでもなく、時雨自身忘れていたしこの年になると誕生日を迎えることがそんなに嬉しくもないというだけなのだが、彼はそうは思っていないらしい。時雨としては、如月に「誕生日=祝うものという」認識があることのほうが驚きだ。あれか、金剛のこども園か。こども園では毎月、その月に生まれた子の誕生日会を合同で開いている。そして如月はその手伝いを(強引に)させられていた。その辺で情緒が芽生えたとか、なんかそんな感じのあれか。
「もし教えてたら、祝ってくれた?」
「……ぅ……」
如月が何かもごもごと言い訳じみたことを口にする。するが、それだけだ。ここで即座にうるさいと言わないあたり、それなりに「ほだされて」いるのだと時雨にはわかる。わかるくらいの時間は、共にしてきた。
「……何を笑っている」
「恋人に誕生日を祝われて嬉しがらない男の方が珍しいと思わない?」
「誰がッ……!」
「しー。騒いだら編集長来ちゃうよ? こんなとこ見られたら恥ずかしいよね?」
時雨だって知り合いに睦み合っているところを見られるのは堪えるが、そこはそれ。案の定如月は「なあっ」と目を見開いて逃げ出そうとするが、訓練経験皆無の医学者に負けるほど時雨もやわではない。
逃げ出そうと背を向けた如月の手をちょいと背中側へと捩じり上げ、仰け反って突き出した胸を本棚へくるりと押し付ける。そのまま背後から抱きしめてしまえばさっきよりも密着度の高い、誰が見ても一目で「お邪魔しました」と回れ右したくなるやーらしい姿勢の出来上がり。
「今更照れなくてもいいでしょ。ね、博士も何かちょーだいよ。誕生日ですよオジサン? そうだなあ、博士から口吸ってくれるとかどう?」
美味しそうに赤くなった耳朶をコリッと噛んで囁く。ついでに薄い尻にぐっと腰を押し付けて、それっぽくくいくいと前後に揺すれば、腕の中の身体がビクビクッと強張った。
「ふ、ふざけるな! 放せ、こんな……人が……」
「そうだねえ、誰かに口吸ってるところ見られちゃうかもねえ。でもこの状態見られちゃうのも博士は恥ずかしいんじゃないかなあ」
口吸ってくれたら離したげるよ?
そう続けて今度は耳のふちの皮膚が薄くなっているところをちろりと舐め上げる。
時雨を引き剥がそうと腕を掴んでいた如月の、指が。すがるようにもがくように、きゅうっと強張った。
「如月。アンタが俺を祝おうと思ってくれて、俺すごく嬉しいんだぜ? だからもっと俺を嬉しがらせて?」
「ぅ……う、うっ……」
屠殺される子牛のようにうめいて、如月がぎこちない動きで首をひねる。意図を察した時雨がにんまり、腕の拘束をゆるめる。腕を抜いた如月が、今度は時雨の首に腕を、指をひっかけ……。
「……」
人肌恋しい時、どうしようもない時時雨を柔らかく癒してくれた娼婦たちのような弾力はないが、舌ざわりの良いやわい唇が。一瞬、時雨の口の端に触れ……舌唇を食み……平時はおそろしいほど良く回るくせに、閨ではろくな言葉を紡げなくなる舌が、おずおず時雨の歯列をなぞり……。
そこが限界だった。
「っん、んぅ……!」
如月の顎を掴み、隙間なく唇を合わせる。途端に逃げ出そうとする舌は裏側の柔らかい付け根をくすぐって封じ込めた。口吸いを仕込んでくれた娼婦たちに感謝しながら、如月の口内を蹂躙していく。
「ふーっ……、ふ、ん、ん……ッ♡」
段々と荒くなる鼻息に前髪を揺らされるのが心地よかった。首筋をカリカリとひっかいていた如月の指がしおしおと襯衣(シャツ)の襟をつかむのも、とても。
数分か、あるいはもっとか。ようやく人心地ついて、時雨はちゅるりとぬめった音を立てて如月の口唇を解放した。
「こ、の……っ」
「ごちそうさま。素敵な贈り物貰えてオジサン嬉しい♡」
「……こういうのは……強奪だ、馬鹿が……」
「でも嫌じゃなかったでしょ」
「……」
如月が睨んでくるが、今にも零れそうなほど目に涙をため、唇の端に飲み込みきれなかった唾液を垂らしているせいで、全く迫力はない。腰も膝もガクガク震えて、時雨が支えていなければへたり込んでしまう状態ならなおさら。
「……このままここでしちゃいたい?」
「なっ……ば、馬鹿が!」
「うそうそ! 冗談、冗談」
さすがに知り合いに現場を見られるのは気まずすぎる。だがもし如月が乗り気だったら? その時、断りきれるかどうか、時雨にはあまり自信がなかった。
本棚にぐったり寄りかかった如月が、ごしごし袖口で乱暴に口元を拭う音を聞きながら、床で忘れされていた婦人誌を包み、そう言えばと振り返る。
「さっきの話だけどさ」
「さっき……? どの話だ」
「博士が一番オジサンのこと知ってるから不安にならなくていいんだよって話」
「……待て、前半はともかく後半は何だ、知らん、そんなことは思っていない」
「へえ? オジサンにはそう聞こえたけどなあ?」
「うるさい……その話が、何だ」
キスで上がった呼吸が戻るまでの間如月はしおらしい。これも時雨が去年から今年にかけて如月と過ごすうちに知ったというか、そうさせたというか、こういう関係になったからこそ明らかになった彼の一面だ。
「こういうことするのは如月とだけだからさあ。だからアンタは俺のことよく知ってる一番の人なんだよねえ」
「……!」
今は、とは言わない。いきずりの娼婦であってもたぶん、如月はむくれて面倒くさいことになる。それはそれで、嫉妬する彼も可愛いなあと愛でる機会ではあるのだけど。
「……そう、か……」
けれどはにかみ照れる如月も時雨はとても愛おしんでいるし、彼をむやみに苦しめるのも……夜、苦しいほどの快楽を与えるのはまた別の話ということで……好きではないので。
「そうだよ、博士だけだよ。博士が一番」
「うるさい、何度も言わなくても聞こえている……」
ほんの一言黙っているだけで彼を幸せに喜ばせられるのなら、それはとても良いことで、そうすべきことだと時雨は思うのだ。
それはそれとして、編集部に戻ったら新米編集者が妙に顔を赤くしてバッと顔を背けるわ、「お前たちのせいで資料一つとるのに随分待たされたんだが」と編集長ににやつかれるわで、時雨は編集部の入ったビルの外に出るなり如月に怒鳴られた。
おわり