朝から嫌な予感はしていたのだ。目覚めた時から鈍く頭が痛み、それはいつもの偏頭痛のような片側だけ痛むようなものではなく、頭蓋全体を締め付けられるようなもので。ああこれはあまり良くない兆候だなとは思っていたが試合をそう簡単に休むわけにはいかない。そうやってとにかく無我夢中で試合をこなし、頭痛に苛まれていたせいで食事も水分もろくに摂らなかった結果――
「ああ、これは駄目だな。本当にまずい」
「……ルカ?」
「アンドルーすまない、ちょっと支えてくれ」
「は? っておい、ルカ!」
私は談話室で体の限界を迎え、アンドルーの肩を借りる形で意識を失った。
そして目が覚めた、おそらく医務室であろう清潔そうな空気と天井と共に私を見つめていたのはダイアー先生だった。
「意識が戻ったみたいね。バルサーさん」
「……えっと」
「とりあえず水分を摂りましょう。起き上がれる?」
言われるがままに起き上がり、まだ痛む、だがだいぶマシになった頭痛に顔をしかめながら手渡されたグラスを受け取る。見回したところやはりここは医務室で、窓の外はだいぶ暗くなっていた。今日の気絶は日を跨ぐものではなかったらしい。
ダイアー先生からいくつか問診と軽い診察を受けて、これからの行動の注意を受ける。もう何度か繰り返しているそれにお互い飽き飽きしているが、ダイアー先生は医者で私は患者である以上、言わなければならないし聞かなければならない。カルテの代わりにしているファイルを閉じた先生に、私はずっと気になっていたことを問いかけた。
「私の記憶の最後にはアンドルーが居たはずなんだが、彼はどこに?」
「クレスさんだったらあなたをここに送り届けた後、私にあなたをよろしく、って言って部屋を出て行ったきりよ。……多分自分の部屋に戻ったんじゃないかしら」
「そうか……」
「けれど彼、本当に深刻そうな顔をしていたから。バルサーさん、もしかして彼の前で倒れるのは初めて?」
そう言われて私はふむ、と顎に指をかける。頭痛が酷いと嘆いたり、実際に寝込んでいるところを世話してもらったことは何度かあるが、確かにこうやって意識を失うのは初めてかもしれない。あまり不安にさせるような無謀なことをしないようにね、小言のように付け足された心配に苦笑して、私は医務室を後にした。そしてそのままアンドルーが居るであろう彼の部屋に向かう。相変わらず頭はズキズキと痛んでいるが、先程のように意識を失うほどではない。アンドルーの扉を数度ノックして声をかければ、少しの沈黙の後鍵の開く音がした。
「……ルカ?」
「アンドルー、先ほどは助かったよ。医務室まで運んでくれたんだろう?」
「……。もう動けるのか」
「何とかね。相変わらず頭は痛いから、部屋に戻って横になろうとは思うけど」
「そうか」
アンドルーは緊張した雰囲気を漂わせていたけれど、私の言葉のどこかに安心したのかその空気を和らげた。心配してくれていたことに申し訳なさを覚えながら、同時に少しだけ不満に思っていたことを吐き出す。
「目が覚めたら、アンドルーがいてくれたらもっと嬉しかったな。看病は苦手?」
「……」
アンドルーは私の言葉に一瞬目を見開いた。ああこれはあまり良くないことを言ったかもしれないと思いつつもアンドルーの出方を伺っていれば、アンドルーが部屋から出てきて鍵を閉めた。
「アンドルー?」
「立ち話はもういいだろう。お前は寝たほうが良い。……今度は、ちゃんと見てる」
それきり何も言わなくなったアンドルーを見上げ、だが彼の言う通り頭痛が酷いことには変わりなく、私は大人しく自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。慌てた気配が背後からしたが、大丈夫だよ、と声をかけつつブーツを乱雑に脱いでベッドに転がる。
「また気を失ったりはしないよ。ただちょっと、本当に……頭が痛いだけだから」
「そうなのか……?」
目を閉じて頭を押さえている間に、借りるぞ、と遠くから声がしてほどなく近づいてくる。恐らく椅子を寄せたんだろう。大きくため息を吐いて痛みを耐えていると、アンドルーの声が上から囁くように降ってきた。
「……痛むのか」
「とっても。こういう時は耐えるしかないから、どうしようもないね」
「……何か、できることは」
おや、と思いながら私は額に乗せていた手のひらをずらし、薄目で彼の顔を見上げる。薄暗い中でもほの明るく光る彼のまつ毛が不安そうに揺れているのを見て、私は安心させるように微笑みをした。額に乗せていた手を離し、彼の片腕に触れる。どうしようもない痛みにまたため息が漏れた。
「撫でてほしいな、頭を。誰かに触ってもらっていれば気も紛れるから」
「わかった」
アンドルーは神妙そうな声でそう言って、手袋のまま私の頭を緩く撫でてくれる。布の擦れる音を聞きながら私は目を閉じた。先ほどよりよっぽどマシになった気がする。規則的に感じる温かさに浸りながら、私は先程のアンドルーの部屋の前で交わした会話を思い出していた。看病が苦手だなんてとんでもない。
「さっきの話の続きだけど、アンドルーは看病が苦手? 私はそうは思わないけど」
「苦手、ではない。けど、好きじゃない」
アンドルーの手の動きが止まる。額に集まる熱にほうと息を吐けば、アンドルーが動きを再開して、しばらくずっと頭を撫でてくれる。
「母さんの、看病をずっとしていた。僕のせいで母さんはたくさん大変な目に遭って――体を壊して、倒れてしまったから」
「倒れて」
「本当は今みたいに、ちゃんとした場所へ連れて行って、お医者さんに診てもらって、大丈夫ですよ、って」
言ってもらいたかったけど、と最後の方はほとんど掠れたような音になっていた。私は閉じていた目蓋を持ち上げる。アンドルーは泣いていなかった。
「だから私を医務室に運んでくれたのか」
「……別に。談話室で倒れて運ぶのに、部屋よりもあっちの方が近かっただけだ」
「そうかい」
アンドルーはそう言っているが間違いだ。確かに距離自体は近いが、医務室は階段を下った先にあって移動に手数がかかる。それを手間と思わずにやってくれたのは、ひとえに彼の過去が起因するんだろう。かつてと同じ轍を踏まないように。医療機関に頼りたかっただろう彼はかつては無理だったんだろう。彼の容姿と世間の目を考えたら仕方がない。だからその枷が無い今、私を医務室に運んでくれた。納得しながらも少しだけ寂しいと思ってしまうのは私が贅沢な人間だからだろう。
私はアンドルーに右手を伸ばした。撫でていた手も離してアンドルーが慌てて両手で私の手を包む。
「アンドルー、お願いがあるんだけれど、良いかな」
「なんだ」
「子守唄を、歌ってほしい」
「……」
アンドルーが目を見開いたのち、ぎゅっと目を瞑る。まつ毛が震えている。それを見上げながら私は彼が一体何を思い出しているのかが少しだけ察せられてしまうことに苦笑を奥歯で噛み殺した。かつての彼の看病はきっと、その程度なのだ。だからこれは彼の傷口を開く行為に近い。
「だめかな」
「……。……ルカが」
アンドルーはしばらく沈黙していた。握られていた手に力がこもる。それを柔く握り返せば、確かめるようにもっと強く手を握られた。目を開いたアンドルーが、その赤い目で私を見下ろす。そして恐る恐るというように口を開く。
「明日僕を、おはようって言って、起こしてくれるなら、いい」
「約束するよ」
ちゃんとアンタの部屋をノックするよと付け加えれば、それを聞いてやっと安心したのか手から力が抜けた。アンドルーは確かめるように約束だぞ、と呟いて、片手は繋いだまま、また私の頭を撫で始めてくれる。
「……あんまり、上手くないから。笑うなよ」
「笑わないよ」
目を閉じてアンドルーの手の温もりに身を任せていれば、掠れた声で降ってきたのは聞いたことがあるようなないような、どこか懐かしさを感じる歌だった。幼少期と呼べるような記憶がほぼない私でも知っている歌があるんだから不思議なものだとため息をまた吐く。
「……眠くなってきた」
「なら寝ろ。……ちゃんと寝るまでは一緒にいる」
「それは嬉しいな」
このまま眠るのは勿体ないと思うけれど、けれど体の疲れには抗えずに意識が落ちていく。きっと目覚めた時にはこの頭痛もなくなっていると思いながら、私は彼の温もりを感じて眠りについた