オム ファタールはその時を待つ 幕間 ④
アジームの現当主をただの富豪ではなく、類稀な為政者足らしめているのは、彼の人徳によるところと言えるであろう。彼は政治家になるつもりなどなく、あくまで富を持つ熱砂の国の一市民ではあったが、その富の莫大さが問題であった。巨大すぎる富の所有権を握るということは、人々の生活、引いてはこの国の社会秩序の如何にさえ密接に関わっていた。その権力こそが必然、彼に為政者と近しい意識を持つに至らしめたのだ。
その彼の人徳とは、市政の人々との関係に留まらない。商いによって珊瑚の国の流通に革命を起こした、若き人魚の商人。門外不出のテクノロジーを数多く保持する、嘆きの島の御曹司。強大な力を持ち、正当な王家の血を引く夕焼けの草原の第二王子から、荊の谷の現王まで。商売だけでは決して利きようもない所にまで交流を持つ人徳があるからこそ、この当主は一族の歴史の中でも類稀な名君であり、そして敵対するものにとっては酷く厄介であるのだ。アジームを販路から締め出すということは、彼らの不興をも買うということだった。
男もそれを理解出来ていなかったわけではない。だからこそ、アジームを己の販路から締め出すには最新の注意を払ったと、男自身は考えていた。どんな商品、どんな商談でも最後にはあの従者が当主名代として姿を表す。しらを切るような澄ました横顔に、同席する娘がぼうっと見惚れているのに狂わんばかりの嫉妬を抑えながら、ひとつ、またひとつと、男はアジームとの取引を断っていった。
やがて完全にアジームを締め出すことに成功した時には相応の年数が立ち、いつの頃からか、私室と寝室を兼ねた豪奢な部屋に、男は娘を幽閉するようになっていた。気が付けば二人の息子は、白い馬車か黒い馬車、進学にあたりどちらの迎えが来るのかと周りが噂するような年頃になっていた。
その間ゆっくりと時間をかけ、男が一族の内外から孤立するようになっていったのに、娘も気がつかなかったわけではない。だが、興味が無かった。男に伴ってなら屋敷の外に足を踏み出すのを許可されていたのが、それさえ禁じられ。屋敷の中だけならばと言われていたのが、豪奢でこそあるが部屋の一室だけに閉じ込められるようになった。唯一の慰めだった、思い出の空中庭園で僅かばかりの自由の残滓を振り返ることさえ、もはや無い。娘が逃げ出すことを恐れたのか、あの日の浜辺を思わせる燃えるような朝日の見えたバルコニーは、男の手によってすっかり鍵をかけられてしまった。娘に出来るのは、ただ、使用人が日に三度持ってくる豪勢な食事を口にし、選ばれた服に袖を通し、それを夜毎、男の手で剥ぎ取られるばかりのことだった。だから長らく見知った使用人が知らない顔に代わり、またそれが頻繁に幾人にも入れ替わるのを見た時、さしもの娘もこの家と男の置かれている立場は想像以上に悪くなっていることを察しはしたが、もはや何の感慨も湧かないのだった。隣室から聞こえる一族が男を批難する声も、激昂した男がそれに反論する怒声も、なにもかも娘の心を動かしはしない。男は執拗に娘へ固執し、何人たりとも娘を脅かさないよう彼なりに大事なものを閉じ込めているつもりであったが、己の執着によってその権威と信用を失っていった男の妻など、もはや命を狙う価値さえも無かったのである。それをよく理解しているのは、むしろ娘の方であった。後継の子も生まない、後ろ盾もない、命を脅かされたところで報復に踏み切る親族もない、この世のものではない女。この屋敷の内外に潜む敵にとって、もはや狙うべきは娘ではなく、男本人となる段階にまで来ていることを、男だけが気付けないでいた。馬鹿なひと、と胸中で呟きながら、己を組み敷く男の肩越しに、娘は毎夜寝台から天井を見上げていた。なんの慈悲か、いつからか天井には幻想的な空模様が描かれるようになっており、もう長らく本物の空など見ていなかった娘はあくる朝、あまりにも今自分のおかれた境遇がおかしく、惨めで、たまらず寝台で一人笑い転げたのだった。だから男がに瀕したと、久方ぶりにいざ部屋の外に出た時も、娘の足取りはどうもぼんやりしたものだった。
その日の朝は酷く大きな入道雲が出た日で、僅かばかり屋敷に残った使用人たちが、数日後に大荒れの天気になると噂していた日だった。アジーム以外の販路を拡大すべく、かの一族と敵対する他国の商人たちを招いての食事会で、この日は部屋中が熱砂の国では見ない、奇妙な貢物で溢れかえっていた。男が商人たちと談笑をしていたところ、みるみる青ざめていくのが扉の前にいた使用人にも分かった。やがて男は銀の杯を掌から落とすと、咄嗟に口元を抑えた。その指の間からは、蟹のようなあぶくが溢れはじめ、やがて赤黒い鮮血となって男のシルクの衣装の胸元を染めあげ始めた。「ユウを………」流血に溺れながら叫ぶような、地獄の底から響く声だった。
「連れてこい。ユウを、連れてこい。今すぐ、ここへ連れてこい!」
気管に入った血に咽せながら叫ぶその声は、男を医者の元へ連れてゆこうとする使用人の足を凍りつかせた。血走った目は端から順に客人たちを睨みつける。今際の際を予感して、男の頭を支配した衝動は、死にたくないなどという渇望では無かった。自由以外の、何もかも与えた。何もかもから閉じ込めて守った。初めて愛を伝え、愛を示し、夜ごと我がものとしてなお、男を真の意味で見つめることの無かった、あの娘。その女が、死を前にした己を目にして、どういう顔をするのか。最期の時ばかりは、あの従者ではなく、心から己を見るのか。いや、そうでなければならない。血走った衝動が、男に叫ばせたのだ。
娘はやがて、客間にやってきた。男はとうとう伏せって、磨き上げられた大理石の床を血で汚していた。なんとか娘の元へと動かない体で這いずるので、真っ赤に染まった衣服から滴った血が伸ばされて、奇妙な足跡を残していく。あまりに異様な光景に、その場の誰もが男に手を差し伸べようとはしなかった。
「まあ………」
娘は哀れっぽいため息を吐くと、衣装の裾が汚れるのも構わず、その血だまりにしゃがみこんだ。男は娘の顔を一目見るべく首をもたげようとしたが、自分のものとは思えないほど鉛のように重たい体を動かすことは出来なかった。
俺を見ろ。
俺を見ろ。
俺を見ろ。
今際の際、声にならない声でそう叫んでいた男が最期に見たのは、娘の白魚のような手が自らの視界を閉じる瞬間だった。
「もう死んでる」
ある男の生涯 了
オム・ファタールはその時を待つ
最終幕に続く
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