ガォン。と、冗談みたいな音がした。
魔法を扱う者にとって基本中の基本、これができなきゃ恥ずかしくって外も歩けない。それが、物体を動かす魔法だ。
ナイトレイブンカレッジともあれば入学よりも前に独学で練習を重ねている奴もいるけど、やっぱり原理やコツを掴まないとどうにも難しい。茨の谷の出身でさえ、入学当初は手でやるのと同じようには動かせない。それを学ぶのが、毎週月曜、水曜、木曜五限、物体移動魔法の授業だ。
最初は手のひら大のスポンジボールから、ノート、参考書、椅子。次の試験では水の入ったコップを動かすらしい。聞いた瞬間ウゲエと舌を出した。今はまだ考えたくない。だって椅子を動かすのが精一杯だし。三つも四つも浮かせようとすれば、もう神経使い切っちゃってヘトヘトだし。
そんなことを考えていた矢先だった。
ガォン。と、冗談みたいな音を立ててエースが操っていた椅子の一つが後頭部にブチ当たる。誰のって?
「く、クルーウェル先生・・・・・・」
たたらを踏んだ彼(か)の教師は、そのままゆっくりと膝をついた。ああ、終わった。エースは確信した。頭に椅子をブチ当てるだけでも最悪なのに、膝をつかせてしまった。あの、デイヴィス・クルーウェルに!
言葉にするのも恐ろしいお仕置きと、この世の終わりのように厳しい罵詈雑言が飛んでくると思った。思ったのだけれど。
顔を真っ青にしたエースの前で、クルーウェルはどの反応も示さなかった。後頭部に手を当てたまま、静かに倒れ伏したのだ。どっと教室がざわめく。駆けつけた他の教師によってクルーウェルは保健室へと運ばれ、1-Aの授業は急遽自習に変更されたのであった。
そんなアクシデントを経て、悶々としたまま授業を終えた放課後。エースは保健室の前にいた。何度も深呼吸をして、やっとの思いでノックノック。養護教諭が不在なのか、返事のないドアを慎重に開けて室内へと滑り込む。正面のベッド。
ピンク色に夕暮れた空がクルーウェルのことも染めていた。いやにファンシーな光景。
こちらを一瞥し、クルーウェルがベッドから立ち上がる。よろめくこともないしっかりとした足取りにエースは安堵した。ばつが悪くて突っ立ってるのも意に介さず、彼はサッサとコートを着込む。近くにいると、煙草となんだかわからない良い香りが少しだけした。
もう退室するのだろう。いつもの格好をしたクルーウェルに目の前へと立たれ、頭を掻きながら俯く。先手必勝。こんな場面に強いのが、エースという男だった。
「えーっ、と。先生。すんませんでした」
「馬鹿め」
偉そうに、それでいて柔らかく笑う目元。離れて久しい父と母を思い出す。
「お前たちは、なんのためにこの学園へ通っている?学ぶためだろう。俺はなぜここにいる?教えるためだ。生まれたての仔犬同然の貴様らを、いっぱしの魔法士見習いにするのが俺の職務だ」
これくらい、噛まれたとも思えん。
先生のこんな顔は初めてだった。意外と鋭い犬歯が見える、くしゃっとした笑顔。
「さァ帰れ。反省しろ。次は同じ失敗をするなよ」
くっと背を押される。嘘みたいにハデな鞭は先が細くて、背骨をつきんと抉った。一歩、二歩、前へ踏み込む。
「ッス!サセンした!」
体育会系特有の大げさな仕草で頭を下げ、すっきりした胸を抱えてエースは走り去った。
もうすぐ陽が沈む。
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初公開日: 2020年09月27日
最終更新日: 2020年09月27日
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