木をふんだんに使った、明るく抜けるような空間の中で、本田菊は大きく息を吸った。広々とした空間の中に整然と並べられた花の香りが混ざり合って、それを木材の暖かな香りが包み込んで、全てから解き放たれるようなこの空間が、本田は大好きだった。並べられる花の種類は日々変化し、香りも同じ日はない。肌寒くなり始めた最近では、アイリスの涼やかな香りが混ざり、冬の訪れを強く感じるようになってきた。
本田は目をあけ、眼前の花々の顔色をなぞるように覗き込んだ。目利きの店主に選ばれたそれらはどれも特級の輝きを持っている。本田は目を細めてほほ笑んだ。
「おい、菊」
背後から声をかけられ、本田は慌てることなく振り向いた。呼びかけた無骨そうな、本田より一回り大きな青年は、睨むように鋭い目で本田を見ている。しかしながら彼のことをよく知っている本田はにこりと笑いかけた。
「こんにちは、蘭さん」
「何かお眼鏡に適うもんが?」
蘭はそう言うとさっと注文票の挟んであるバインダーを構えたので、本田は苦笑した。
「どれも素敵ですよ」
その言葉を聞いて、本田の性質をよく承知している彼は、わざとらしく肩をあげてみせた。本田はその様子を見てふき出した。
「買わないのなら帰った方が?」
ヤ、と彼は目を細めた。
「それならいいお知らせが。今日は頼みたいものがあって来たんです」
「なんや、それを早う言え」
「ふふ、すみません。思わず見とれてしまいました」
蘭はそれを聞いているのかいないのか、菊を注文用のカウンターに招いた。
「生活の方は落ち着いたんか」
「ええ、それなりに。助かりました、こちらでの生活の手配をいろいろとして下さって」
「別に。代わりにうちの常連になるって約束やったやろう」
「そうですね」
言いながら菊は、鞄から手帳を取り出した。メモのページに花のアレンジメントのイメージを描いたスケッチブックの断片数枚と花の種類、数量がメモしてある。
「アムステルダムのホテルから有り難いことにご依頼を頂いて、初仕事になりそうです」
「幾つ作りよる」
「エントランスロビー用に一つ、各階ロビーに一つづつなので四つ、各部屋にも花があればいいそうですが、そちらはアレンジメントでなくてもいいと」
ふうん、と蘭はアレンジメントのスケッチを眺めながら答えた。菊の方で何の花を使うかの見当は大方つけてきたのだが、蘭であればより良い花の案を出してくれるだろう。
本田菊は、ごく最近オランダに越してきたばかりの、生粋の日本人だった。日本では師匠に師事した“華道家”であったのだが、好きが高じて洋花に手を出し、海外のコンテストにも作品を出していたところ、“フラワーアーティスト”の名が大きくなっていた。菊としてはどちらも大して変わりはしない、というのが正直な感想だった。西洋であろうが日本であろうが、育つ花の種類が違うというだけでそれを愛でる心は変わらず、それを生き生きと表現したいという人の心も変わりはしなかった、というだけのこと。
しかし西洋の花市場は日本に比べて大きく、どちらかと言えば菊も“フラワーアーティスト”への比重が大きくなっていった。日本では手に入らない花も多く、遠征を何度か行っていたところ、そこで知り合ったオランダの花屋兼流通業者であった蘭(これは彼の本名ではない――当然だ――が、彼は菊にそう呼ぶよう言ったので、菊はその大きく無骨な青年を蘭さんと呼んでいる)が、移住を提案してきたのだった。実際オランダの花市場は日本のそれとは比べ物にならないほど大きく、花を買う人間も多い。結局それから一年ほど悩み、蘭の手助けを借りて移住してきたのだった。
菊自身、自分は大きな変化に対応しうる人間だとは思っていない。昔から、自分は親から残された平屋建て庭付きの少し古く近所に小さな商店街のあるばかりの家でペットたちとのんびりすごすだろうと思っていたし、事実その生活に不満はなかった。しかしこと“花”のことになると行動力が強く、庭で品種改良のまねごとをしてみたりだとか、地域の農業青年会に潜り込んで海外研修に同行したりだとか、車で何時間もかけて珍しい品種の花を育てているの農家を訪ねていったりだとか、そういうのは全く負担にならないたちでもあった。であるから、今回、泣く泣く大切なペットたちを知り合いに渡し、家を捨てて大陸の反対、オランダに来たのも自分では悩んだ気でいたけれども殆ど勢いだったのかもしれない。
菊に昔の自宅より少し古いものの庭付きの家を探して手配してくれ、そのほかの行政的なことも手伝ってくれた蘭には頭が上がらない。菊は英語の読み書きは出来るものの、発音は現地の人間に苦笑いされるほどだし、ドイツ語やオランダ語なんて聞いたこともあるかどうか、という程度だった。これからの日常生活にも不安がのこるが、現地にアドバイザーが一人いてくれるというだけでこれほど心強いものはない。蘭は「代わりに今後花の注文は必ず自分を通すこと」が条件だと言ったが、それで余りある支援だし、寧ろよく知る業者から花を仕入れられることも非常に有り難いことだった。
蘭は暫く菊の手帳の花の名前とデザイン図を見比べていたが、パンフレットを出してきて幾つか代替案のアドバイスをしてきた。見目に関することであったり、コストに関することであったりと、蘭のアドバイスは多岐にわたる。菊はそれの一つ一つを検討し、それらを手帳に書きつける。ぼんやりと浮かんでいた、その色があるべき場所に置いてあるイメージが、明確な形になっていく。
一度見学に行ったそのホテルの壁は、花が活きそうなクリームがかった白で、ロビーには白くて薄いレースのカーテンと透かしのはいったガラスがはめてあって、それを開ければ鮮やかなオランダの街並みが、天気が良ければその向こうに海さえ見えるとオーナーは言っていた。秋から冬にかけては、温かみのあるオレンジがいい。目をつむれば、もう目の前にそれは出来ていた。これから花瓶を選ぶという作業も残っていたが、ここまできたら決まっているも同然だった。各部屋用の花瓶については、オーナーから指定があった。白くてすらりとした四角柱をすこしだけ捻ったような、背が高い花のための花瓶だ。ロビーのアレンジメントをマリーゴールドとダリアを中心とするなら、部屋には幾輪かづつのコスモスかポピーがあれば可愛らしいだろう。
花を並べる作業から帰ってきて瞳を開けた菊を見て、蘭はやっと戻ってきたか、というような顔をした。蘭にこの作業を手伝ってもらったことは過去にも何度かあって、そのたびに蘭は菊が頭のなかの作業を終えるまで、声をかけずに待っていてくれるのがありがたかった。
「どうする」
菊はその余韻を感じるように何度か瞬きをした。
「これでほぼ決まりでいいです。後日正式に注文しますね」
「今買わんのか」
ふふ、と菊は苦笑した。