「カーレンリースさん、お届け物です」
と、デスクに届けられた封筒はやたら軽く、不自然に折りたたまれていた。
「ありがとうございます」
と、受け取り、差出人を確かめると、横版の社判の下に筆圧の高い文字で、氏名が書かれていた。
奥村 英二
***
―――― LABORATORY-O Eiji Okumura
先週の金曜日に交換した名刺を、名刺入れに確かめると、先日訪問したオフィスそのままのような堅実なデザインの一枚が現れる。
カーレンリースは、今朝、自宅でステンレスポットに淹れた珈琲を啜りながら、それを眺めた。
オフィスの近くに珈琲専門店があり、昼休みに豆を買う。
その豆を休日にミルで挽き、平日の蓄えとする。
そのような、決して派手ではない生活を送ること、それが自分の性分にあうことを、アスラン・カーレンリースはよく知っていた。金糸のような髪と翡翠のような目はみずから選び産まれ落ちた風貌ではないが視覚による印象を重視する人間社会においては、ある種のバイアスの効いた取り扱いをされる容姿ではある。
それを取り分け厭う訳ではないが、両手を広げて迎え入れたいようなものでもない。
遺伝子の成れの果てが生むニュアンスに振り回される人間を否定もしないが、構いだてもしなかった。
折りたたまれた封筒は、空気を含んでいる。
布ガムテープにカッターナイフの刃をあてて割き、中を覗くと、見覚えのある柄の布地が、あらわれた。
***
完璧な仕事。
完璧な段取り。完璧な進行。完璧な仕上がり。
それが自分の仕事を他の誰かに触れさせたくない潔癖のなせる業かと思えば、そうでもない。
カーレンリースは、仲間の力を信じていた。
己の欠落を想定し、仲間にチェッカーを任せる。
そして、ヒューマンエラーを防ぐためのルーチンワークを立ち上げている。
ひとりで生きていけるわけで、ない。
だからこそ、ともに働くために多種多様な仲間の言葉を、柔軟に取り入れる。
そのことが、結果的にカーレンリースの仕事に手堅いイメージを与えていた。
***
先週の金曜日は奥村のラボへ、商品を展示場に取り次ぐために訪れた。
日頃、行きつけない駅で降りた。訪日三年目のカーレンリースには発音が困難な地名の五番地にある路地裏の古民家を改造したそのラボの扉を開けた先には、色とりどりの椅子が据え付けられていた。
椅子、を、主に売っているが、一枚木のテーブルや、その他、木製のおもちゃや、道具。
だが、そのすべてを奥村が創っているというわけではない。
商談のあいまに知れたことは、代表である奥村が、大学時代の頃の縁故を辿り地方で活動しているアーティストの作品を展示し、興をそそられた消費者の手へ届ける役割を担っている、ということだった。実店舗と、インターネット。その双方の場を活用し、日常に、直接かかわりを持たない木工製品を、広く流通させる。そのことが、冴えわたるような黒い眸を持ち、まるで鴉の羽根のように光を弾く髪をした男の夢であることを、アスラン・カーレンリースは敢えて持ち歩くようにしている牛革の手帳のメモ欄に、書き留めた。
青いグラスに注がれた麦茶の氷が、音を立てずに崩れる。
厚手の硝子の肌に滑り落ちる水滴を目にし、奥村は、カーレンリースに茶をすすめた。
互いの名刺入れの上に互いの名刺を載せてビジネスの核には辿りつくが、まるで薄い膜を張るように、互いの腹の裡を見せずにいる。
促されるままに、氷を溶かした麦茶を口につけると、カーレンリースは行儀よくグラスをコースターへと戻した。
商談の青写真は描かれていた。
奥村をプラットフォームとして、各地方に点在するアーティストの作品を集約する。それをカーレンリースが日本、アジア、北欧、ニューヨークの展示会場へとコネクトする。所謂、民芸、の橋渡しを提案し、フィーを得るためにカーレンリースは奥村のラボトリーの品を見定めた。
何を、どのような戦略で、どれくらいの益を、狙うか。
商談の正念場に、カーレンリースは額の汗を、拭いた。
古民家を改造したラボには形ばかりのエアコンがついていたが機能不良であるのか、首を振る扇風機と、時折奥村が仰ぐ団扇の風による脆弱な涼を頼りとして、カーレンリースは手のひらにハンカチを握る。元来、カーレンリースは汗をかく体質ではなく、珍しく握りしめた厚手の布地が手のひらに違和感をもたらしている。
カーレンリースは契約書を整えるためにタブレットを操り、奥村は、彼のグラスに冷たい麦茶を注ぎなおした。
***
古民家から駅までは徒歩二十分程の距離であった。
バスも運行をしているが、それも二十分に一台の本数である。
流動的な商談の終了時間をバスの停留時間にあわせるわけにもいかず、カーレンリースは腕時計の長針を眺めながら、駅へは徒歩でたどり着くか、タイミングがあえばタクシーを拾っても良い、と考えていた。
落としどころは双方の思惑に合致したように感じていた。
無理を言いそうにはないが、本意ではないところから商いを煽れば梃子でも動かないような頑固さを漂わせた奥村は、格子のドアを施錠し、カーレンリースを見あげた。
夕方であり、蜩の声が響いていた。
ここは、いつも、暮らしている街ではないという至極当たり前のことが、夕日を背にアスファルトに伸びる影に際立つ。奥村はドアを施錠したが、これからどこへいくのだろうと、カーレンリースはぼんやりと考えながら、その黒い髪を見下ろした。
玄関先で述べた礼を再度伝えるべきか。
この門を潜り、左手へ行けばバス停がある。十分程度待てば白茶けたボディにそれもまた陽に焼けたようなオレンジの三本線を横に引いたバスはあらわれるだろうが。
所々が欠けたコンクリの塀に、さるすべりの花が垂れている。
「では、わたしは、こちらへ」
と言いながら、バス停へと革靴の先を剥けるカーレンリースを見あげながら、奥村は笑う。
「もし、カーレンリースさんが、よろしければ」
***
その言葉の先を予期していなかったかと問えば、一切予期していなかったと答えるだろうカーレンリースの脇に、駐車場の砂利を鳴らしながら紺のボルボが停まる。カーウィンドウの隙間から奥村の声が聴こえ、最大限に開けられた車窓を覗き込むと、こちらを見あげるように運転席より身を乗り出した年齢不詳の男の黒い目が、またカーレンリースの目を捉えた。
「もし、カーレンリースさんが、よろしければ」という枕詞の続きには、「駅まで送りますよ」という単純な、邪気のない言葉が続いた。
席を辞したのは、ラボの営業時間内であったが、奥村は躊躇うことなく玄関の鍵を閉めた。
独立自営家らしい振る舞いが、鍵を閉める手つきに滲んでいる。
一見に近い営業を駅まで送り届けることを、この代表が、毎度していることであればご苦労な事だ、と、カーレンリースはビジネスバックを、腹の上に抱えた。
奥村の車に同乗し駅へと向かっていることは、カーレンリースにとって、非日常のことだった。
クライアントとは、懇意にしない。
そのことを、いつの間にか信条にしていた。
ビジネス上の関係であるからこそ、心底まで分かりあわなくてもいい。
心をすべて、与えない。心を、誰かに分け与えない。
カーレンリースは、その勝手な拘りや諦念を自覚しながら生きている。
生きて、息を吸い、吐いて、死ぬ。ひとりで生きようが、生きまいが、変りがあることではない。
物質として発生した身であれば、物資として潰えていくだけだ。
人間という物質的存在を留めるほんの数十年という時間のなかで、他人に価値観を押し付けられ、また自分自身の価値観も他人に押しつけ窮屈な思いをするくらいであれば、ひとりでいる方がいい。
ビジネスが好きだった。
なぜならば、人間関係に介在するのは金銭と契約であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
***
「では、ここで」
と、奥村がちいさく告げると、商店街の入り口近くの古書店の脇に紺のボルボは停車した。
カーレンリースは手のひらを握り、日本で覚えた形式として、小首を傾げた。
「ありがとうございました」
お忙しいなかに、と、いういかにも定石な言葉を重ねると、奥村は、運転席から黒々とした目をカーレンリースへと寄こした。
「こちらこそ」
と言うその眸を見つめていると、「いつ、来ますか」と掠れるような声が奥村の唇から零れ、カーレンリースの鼓膜を揺らした。
「次は」
次回の予定は、先ほどの商談のクロージングで確認をしていたはずだ。
カーレンリースは奥村の真意を掴み損ねるのも不本意と思いながら、敢えて即答をせず、顎から喉にかけて、黒のポロシャツの合間から見える肌を、焦点を絞らずに眺めていた。
「あぁ……」
と、奥村は吐息を吐くように呟くと、「先ほど、決めましたね」と言う。
「引き留めてしまって、すみません」
黒い眉を下げるように苦笑いをすると、カーレンリースが車外に出やすいように会釈をした。
「では、これで」
カーレンリースはシートベルトを外すと巻き戻しが丁寧になるように指をゆっくりと離し、ドアを開ける。ムッとした夏の宵ならではの湿度が車内に滑りこむのと同時に、蝉が鳴く声が聴こえてくる。
車内の冷気が逃げ出してしまわないよう手早くドアを閉めると、奥村は車窓越しに軽く首を傾げ、まるであっさりと発車し、その姿をカーレンリースの前から消した。
古書店の脇に佇むカーレンリースの鼻先には、古い本特有のある種淫靡な香りが漂う。
カーレンリースは、鼻が利いた。
おそらく五感が人よりも長けている。そのことが彼を厭世的にしているのか、それともただの性分であるのか。郊外の商店街に佇むには滑らかすぎるスーツの生地やジャケットの着こなし、ネクタイの乱れの無さが、その外見と相まって衆目を引く。
居心地の悪さは特に感じるところではないが、この淫靡な香りもまた己にとっては非日常であると、それだけを考え、カーレンリースはJRの駅に繋がる地下道の階段を、コツコツと靴音を鳴らしながら、降り始めた。
***
レターオープナーを凹凸のある封筒に差し込み封を開けると、僅かに柔軟剤の匂いが漂った。
その大きさや、漂う匂いから、その内容物を推測することが出来た。
カーレンリースは奥村と商談をした日の夜にスーツを脱ぎながら、普段はかかない汗を拭いたハンカチが手元にないことに気づいたが、あえて忘れ物をしたことを先方へ告げて手を煩わせるのも忍びなく、次回の商談時に持ち帰ろうと考えていた。
白い封筒を開けると、ビニールの音がした。
ハンカチは透明なビニールに包まれている。開けやすいようにとの配慮か短く止められたテープを外すと、改めて馴染みのない芳香が漂う。決して嫌な匂いではない。寧ろ、何処か落ち着くような香りがしている。ハンカチは木綿の厚手のもので、何時だかスーツのセレクトショップで購入した高くもなければ安くもない代物だ。頑丈で使い勝手が良かったため、ここ数年愛用をしていた。
馴染みのない匂いもするが、いつになく張りがある。
糊をきかせてアイロンを掛けてくれたのは奥村か、それとも奥村に同居人でもいれば、その誰か、か。
礼をと思うが、突然電話をするのも気が引ける。かといってメールでは失礼にあたるのではないかとビニール袋をゴミ箱に捨てながら考え、カーレンリースは奥村の肉筆の掛かれた封筒は凹凸を伸ばすように畳み、デスクの引き出しへと仕舞った。
スマートフォンの連絡先をタップする。
奥村の電話番号を確認し、留守番電話になればそれに礼を吹きこめばいいという処まで考え、通話のアイコンをタップする。二、三度コール音が鳴るかと思えば、思いのほか早く受話され、「はい、奥村です」という先日鼓膜に響いた声が、電子音に交じって聴こえた。
「あ、……カーレンリースです」
「あぁ、届きましたか?」
奥村は要件を告げる前にカーレンリースの意図を汲み取り、僅かに笑いながら答えた。
「ありがとうございました。わざわざ送っていただいて」
「いえ。本当は次回お越しの際にでも、と思ったのですが、やはり早くお届けした方がよいかと思いまして」
「お気遣いありがとうございます」
「とんでもありません」
「わざわざ洗って頂いたようで」
「はい。ラボで使う布を洗うために洗濯機もありますし、手間でもありませんから」
という言葉の奥から、アイロンを掛けたのは奥村自身であることを拾い上げ、カーレンリースは何故か吐きそうになった溜息を電話口で気づかれないように静かに呑みこむ。
「こうして突然にお電話を差し上げるのもご迷惑だったでしょうけれど、御礼を申し上げたくて。失礼致しました」
そうカーレンリースが終話を匂わせると、奥村はまた笑い声を立てた。
「いえ。律儀なんですね。カーレンリースさんは」
「とんでもない」
会話はほんの二分足らずのものだっただろう。
終話し、あらためてハンカチを手のひらに載せる。
―― クライアントにハンカチを洗わせ、送り届けさせてしまう。
―― 重要かつ緊急の要件ではないにも関わらず、クライアントへ突然の電話を掛けてしまう。
その自分自身の行動に面喰いながら、カーレンリースはタブレットをタップし、十三時以降のスケジュールを確認した。
午後の予定は分刻みで詰まっている。
ランチの時間は、もうすぐ終わる。
***
奥村は終話したスマートフォンをテーブルに載せると、ラボに据え付けたキッチンへ向かった。
午前は椅子の修繕作業に没頭していたため、これから遅い昼食にしようと考えていた。
カーレンリースからの着信にすぐに反応したのは、そろそろ送ったハンカチが届く頃だろうと思いながら、彼の会社の企画書をアプリケーションで確認していたからだった。実際に企画が立ち上がるとすれば来年からの話になるだろうが、まずは年内に小規模な展示を試験的に行いたいとカーレンリースから申し出を受けていた。奥村のラボがセレクトした民芸をカーレンリースが展示する。物は試しに、秋ごろいかがでしょう。と柔和に笑ったカーレンリースの顔を思い返しながら、物腰は柔らかであるが押しの強い人柄であると感じていた。
(いかにも、ビジネスマン……という感じのひとだな)
奥村は片手鍋に湯を沸かす。棚から袋麺を取り出すと、沸き立つ湯に放り入れる。
三分待って、粉末スープを振り入れて溶かす。
野菜を刻んだり、ハムを載せたり、玉子を割り入れたり、ということをする時もあるが、今日は少し面倒だった。
奥村は几帳面な性格ではない。
ただ椅子が好きで、椅子と向き合うときにはどんな細かな作業も厭わないが、基本的には細かなことが苦手だ。
カーレンリースのハンカチにしても、彼のものでなかったらあんなに綺麗に仕上げなかっただろう。
あの日、カーレンリースを駅まで送り、近所のスーパーで買い出しをしてからラボへ戻った。奥村の住居はラボの二階にある。安く買い上げてリノベーションをした古民家が奥村の住居兼職場である。買い出した食糧を二階の冷蔵庫へと入れ、一階へ降りるとカーレンリースが口をつけたグラスをキッチンのシンクへと下げた。ふと見ると、ソファに見覚えのないハンカチがありそれを拾い上げると、カーレンリースが襟元から漂わせていた仄かな香水の匂いが漂ったのだ。
出来上がったインスタント麺をぞんざいに器によそうと、これも簡略的に据え付けたキッチンテーブルのパイプ椅子に座り、音を立てて啜り上げる。
カーレンリースとの打ち合わせは、来週の水曜日だった。
それまでに、展示会場へ搬入する民芸の候補を選び、関係各所から合意を取り付けないといけない。
奥村は立ち上がると、スープを直接、器から啜った。
***
二度目の商談を待つうちに、秋の気配が漂っていた。
今年は台風も来ず、夏は穏やかに領分を秋へと受け渡している。
陽が差せば暑いが、風が吹くと涼しい。そんな気候が一週間ほど続いていた。
カーレンリースは出勤の身支度をする度に奥村から送られたハンカチを目で確かめるのが日課になっていた。
その布は既に匂いを漂わせず湿気をふくみ、糊で与えられた張りを失くしている。
奥村との商談を、午後に予定していた。
敢えて置き忘れたハンカチを持参し話材にするかとも思ったが、あきらかにしどろもどろになるだろう互いの挙動を想えば、最早忘れてしまった方がいい類の記憶であるとも思える。
今回忘れてはいけないことは、手土産だ。
奥村の好物を知るほどには関係を近づけていないが、当たり障りのない、何か消費の出来るもの。
ラボの訪問者にも振る舞うことができ、ある程度、日持ちのするもの。
そこまでを考えて、カーレンリースは出勤途上でオフィスの近くの珈琲専門店に立ち寄った。
奥村のラボの奥にはキッチンがあり、フィルターやミルがあった。最初はローストしたての豆を買おうと思ったが、手間をかけるものは礼に相応しくないだろうと思い直し、ドリップパックのセットを選び直した。
奥村には、会いたいと思っていた。
それは、商談相手として久々に骨のある人間と話をしたという手ごたえからでもあった。
奥村に、会いたいと、思う。
近々に立案した数本の企画が並走しており、どちらかといえば奥村の案件よりも規模の大きなものばかりだ。それでも何故か、奥村の企画に力を入れてしまう。民芸品や椅子、それに生活を賭けた奥村の在り方に、カーレンリースは半ば呆れ、半ば尊敬をしていた。
奥村の黒々とした刃物のような眸は、見たことのない眸だった。
昼、時刻通りにデスクを離れ、ホワイトボードにNR(ノーリターン)と書き込み外出をした。
地下鉄を乗り継ぐのは骨が折れるため、JRの駅まで地下道を延々と歩く。
改札近くのラーメン屋に寄り、肉そばを啜る。
紙エプロンをつけ、手慣れた箸さばきで縮れ麺を啜る異邦人を、この界隈の人間は気にも掛けない。
前払い制の店であるから水を飲み干せば、カウンターを離れても良い。
電車の座席に座ったカーレンリースは、消臭効果のあるガムを口へ放り入れた。
***
電車に三十分程揺られると奥村のラボのある駅に辿り着く。
普段の生活では遣わない駅名を奥村の商談を機に知った。
ビルの背が徐々に低くなるにつれ、遠近にこんもりとした樹の頭があらわれてくる。
電車は高架の上を走り、空をいつもより広く見渡すことが出来た。
まるでショートトリップのようだと思いながら、カーレンリースはけれど商談の資料に目を落とした。
社外秘情報ではあるが、車内にぽつりぽつりと座るのは、老人や部活帰りの高校生しかいない。
長閑な景色に、長閑な車内。
まるで普段暮らす世界からは懸離れた様子を、時折タブレットから目を離して、観察をする。
奥村のラボには十四時に着く予定だった。
ハンカチの礼と、秋からの企画展の話と。
奥村は、展示品の候補を集めてみると言っていた。それを見れば、更に彼の嗜好が分かるだろう。
奥村は、何が好きなのだろう。
目線は資料を追ってはいるが、カーレンリースの頭にはそんなとりとめもない言葉が、まるで雲のように湧き立っていた。
***
奥村は、紙袋を覗き込むと「いい香りですね」と言った。
カーレンリースをソファへ通してコンロに薬缶を乗せた奥村は、未だに電気ポットを使うことに馴染まず、未だにガスで湯を沸かしていた。しゅんしゅんと沸き立つ音や、湯気が、好きだった。効率を求めて消えてしまう物や事柄を、惜しむように生きている。湯を沸かし、ミルで崩した豆に湯を掛けること。それが人生の幸せだ。利便性が高いことは何よりだ。けれど、それだけだと何かが消えてしまう。自分にとっての大切な何かが。
カーレンリースから受け取ったドリップパックを開くと、香ばしい匂いがキッチンに漂った。
丁寧にローストされ、丁寧に挽かれた豆であることが、そのきめ細やかさや、艶やかさから知れる。
奥村は、ソファに穏やかに座り、タブレットに目を落としているカーレンリースの横顔を伺った。
この商談を受けた時、奥村は懐疑的だった。
自分が大切にしている椅子や民芸を、資本が薙ぎ倒しにすることなどいくらでもあるだろうと思った。
手塩にかけ、時間をかけ、金銭の対価にはならない程の命を懸けて形づくられた椅子や民芸は、けれども金銭と対価交換され、使用者の手に渡らない限りその存在意義を発揮しない。
良質な審美眼を持つ仲介者が居れば、量産化に繋がり、制作者の糧となる。
だが、生産者の手に余る過剰発注は品質の低下に繋がり、品質の低下は制作者の誇りを少なくする。
質、を、分かる誰かに。
同じ思いを分け合える、誰かを、奥村は求めていた。
***
白茶の肌に茶の線が描かれたマグにドリップパックを嵌め、湯を注ぐ。
香ばしい匂いがキッチンに漂い、奥村は思わず、商談中であることを忘れそうになっていた。
珈琲に添えるような茶菓子は生憎、蓄えていなかった。
「カーレンリースさん」と、声を掛けると、穏やかな声で「はい」と答える。
「珈琲に」
湯を、ふたつのマグに交互に垂らしていく。
先々週の今頃は残暑の熱で煽られていたラボが、今日はまるで秋めいている。
庭に面した窓を開け放っているが、吹きこむ風に肌寒さを覚えるようだった。
「はい」と、カーレンリースが奥村の方を向くと、翠の目に光が溜まるようだ。
「珈琲に、砂糖やクリームは入れますか?」
奥村は手元に目を落とし、そう、尋ねる。
「いえ」
タブレットをテーブルへ音を立てずに置き、カーレンリースは奥村の方を向いて首を振った。
「そのままで、結構です」
「そうですか」
「はい」
小さなコーヒードームをそれぞれのマグに載せたパックの中に作ると、奥村は薬缶を鍋敷きの上に置いた。昔ながらの藁網の鍋敷きだ。年季の入ったもので、鍋の形をして焦げている。
カーレンリースはまたタブレットに目を落とす。
世間話のひとつやふたつが出来ないものかと奥村は思ったが、彼が、ビジネス以上の関係をこちらに求めていないことは、その雰囲気から察することが出来た。
だからと言って黙っていることが気まずいわけではない。
このラボへの訪問は二度目である美貌の持ち主を、奥村は自分でも意外なほど素直に受け入れていた。
一枚木から彫り上げた盆の上に釉を掛けずに仕上げた素焼きの陶器のマグを置き、カーレンリースの座るソファへ近づいていく。奥村が近づくと、カーレンリースは手元を片付け、奥村がマグをテーブルに置きやすいようにした。
伏せられたタブレット。
それとは対照的な牛革の手帳、軸の太い年季の入ったウォーターマンのボールペン。
その艶やかな黒が、庭から差す光を弾いている。
奥村は大ぶりのマグをカーレンリースの前に置くと、もうひとつを自分が座る黒革の背の低いチェアの前に置いた。商談資料は、カーレンリースが到着するまでに整えていたから、すぐに取り出すことが出来る。
「どうぞ」と、進めると、カーレンリースはようやくマグに手を伸ばした。
長く、まるでしなるような指が、マグの把手に絡みつき、珈琲は美しい唇に触れ、白く太い喉に少しずつ流し込まれていく。その喉は、仕立ての良い、糊のきいたワイシャツのカラーに包まれ、襟元には木通のような色の光沢を押さえたネクタイを垂らしている。
奥村は、初回の商談からその手帳や、ボールペンに見惚れていた。
何処にでも在るような、といえばそのとおりだが、何処にでも在るようなその物体が、カーレンリースのものとして扱われる時の美しさに、見惚れていた。
彼が、特別なひとであることを、知っていた。
何かを成し遂げたから特別であるということではない。営業成績や人物の素晴らしさや性格、来歴その他のことを殆ど全くと言っていいほど知らずにいる目の前の存在を、奥村は、何故か、特別である、と感じ、その自らの感覚を否定することなく受け止めていた。
素晴らしいビジネスマンの手のひらに握られるボールペンを、奥村は、目を大きくして見つめた。
カーレンリースは、かつてそのように手元を見つめられてことが、なかった。
窓から吹きこむ風は、奥村が用意をした企画書の端を僅かに捲り上げるが、商談の邪魔をするほどのものではない。よく磨き上げられた木の床には、窓辺に吊るされた観葉植物の影が揺れている。
カーレンリースは時折、マグに口をつけ珈琲を嚥下した。
タブレットを操り、何か、メモを書きつけるときには黒いウォーターマンで、紙の手帳に几帳面な文字を書き連ねる。
その眼差しには、脇の緩みにつけこむような商いを決して選ばない清潔さが漂っていた。
「何か?」
と、カーレンリースに声を掛けられて、奥村は口をぽかりと開けた。
「何か、私の手元に、ついていますか?」
そう言いながらカーレンリースは首を傾げ、奥村の眸を見つめ、そしてすぐに視線を外した。
「あ……」
と、開けた口を慌てて閉じた奥村は後頭部を掻くと自らの膝を眺めおろし、マグに唇をつけた。
「いえ」
睫毛を伏せ、それからふいに前を向くと、奥村は何かを心に決めたかのようにカーレンリースに話しかける。
「あの」
「…………はい?」
これまでの商談では感じることのなかった奥村の感情の露出にカーレンリースは顎をひき、首を傾げる。
「素敵な、ボールペンですね」
奥村はそこまでを声にすると、マグをテーブルに置いた。
「……ありがとうございます」
確かに、目の前の男が手に握るボールペンは、魅力的だった。
しかし、奥村は、そのボールペンを褒めたいというわけではなかった。
何か、言葉にするのがとても難しい、これまでに感じたことのないような衝動が喉元までせりあがり、溢れそうになっていた。このままでは思わず突拍子もないことを言ってしまいそうな予感を感じ、奥村はふたたび睫毛を伏せた。
「カーレンリースさん」
「はい?」
カーレンリースは、指に挟んだボールペンをテーブルに置こうとしていた。
そのスローモーションのような仕草に奥村の声は引き攣れる。
それは、意思と離れたところから発せられるかのような、言葉だった。
「もし、宜しければ」
大人の枕詞だ。
本当に欲しいものを率直に欲しいとは言わないための、緩衝材を唇から放ちながら奥村は首を傾げた。
「そのボールペンを」
カーレンリースはテーブルに置こうとしたボールペンを見下ろし、その次の言葉を促すように奥村の目を、また見る。
「持たせていただけませんか?」
言葉の表面上がただの好奇心で塗りこめられるように細心の注意を払いながら、奥村は、そう言った。
カーレンリースは再びボールペンを見下ろすと、何も言わずにその手を奥村へと伸ばした。
反射的に開かれた奥村の手のひらに、光を深く湛えた黒いボールペンが載せられる。
軸が太い分、重たさを感じる。
奥村は何も言わないままにカーレンリースの所持品を手に包み込み、その造形を触覚で確かめた。
見た目そのままの滑らかさや、嵌められた環の繊細な細工。軸から先端までの曲線。インクの滲むペン先。そして、その軸には、カーレンリースの熱が、宿っていた。
手のひらに在る、無機質な物体が目の前に座る男の熱を、奥村の手のひらへと伝える。
奥村は、そのボールペンを握りしめたいような気持になっていた。
しかし、それは、この商談の場にはそぐわないことであると、大人の心で知っていた。
無邪気に、触りたいものを触ることができる年齢はとうに過ぎている。
カーレンリースの熱を宿す物体に、自分のてのひらの熱が伝わっているのだと、そんな意味のないようなことを考えながら奥村は、「ありがとうございました」と言った。
「すみません。唐突に」
と、照れくさそうに笑う奥村の顔を、今度はカーレンリースがぽかりと口を開けて見つめた。
奥村の指先から、カーレンリースの手のひらにボールペンが戻されると、カーレンリースは一度だけそのボールペンを握りしめた。
商談は恙なく終わることが予見された。
互いが行いたいことが、互いの行いたいことである、という事を、二度目ながらに実感をしていた。同じ方向へ向かうべき同士であるかのような信頼と、まだ、詰め切ることの出来ずにいる距離感とを感じながら、カーレンリースは奥村の淹れた珈琲を最後まで、飲み干した。
◇◇◇
商談相手は、ただの商談相手である。
誰かと馴れ馴れしく飲みにいきはしないカーレンリースではあるが、商談相手となれば、それもビジネスの一環と割り切り、酒席を断ることはない。奥村とは、三年前の展示が成功した後に、一度だけ飲みにいった。それから翌年の本格的な企画も波に乗った。カーレンリースが展示会場を各国に決め、流通経路を確保した。そして、その国々の風土にあわせて民芸を奥村が選定し、作家と売値を決めカーレンリースと交渉をした。インターネット上の国内販売経路も太く確保し、作家に潤沢な益が届くよう、奥村は腐心した。一年が経てばおおよそのルーチンワークが立ち上がる。展示会場次第で決まる販売期間で売り上げが立てばよし、反応が芳しくない場合は別先を考案するか――――。
奥村は、海外の販売においてはなるべく手に触れて購入して欲しいという拘りを持っていたが、流通経路の代案がないと企画自体が行き詰まるとカーレンリースが提案し、売残の品の受け皿となるヴァーチャル店舗の立ち上げを飲みこむことになった。一方で、使用感の伝達に拘った奥村は、自分自身の手をモデルにして民芸品を扱う動画を作成し、無料動画サイトにアップするという企画を考案、カーレンリースに飲み込ませ、実行へと漕ぎつけた。結果、使用方法を解説する動画は展示会場でも好評を得て、売上を好調にする契機ともなった。
三年、という期間が、ビジネスパートナーの仲を深める期間として長いのか短いのかは、分からない。二人は昼であればランチを、夜であれば赤提灯の居酒屋やカジュアルなイタリアンや刺身の旨い小料理屋を、季節に合わせて渡り歩いた。
奥村は、酒を飲みと少しばかり言葉が粗くなるが、カーレンリースは淡々とグラスを傾ける。
初めこそは酔いにまかせてそれぞれの展望を語りあったりもしたが、この頃では酒席の目的は、最早、曖昧になっていた。
ただ、会いたいから、会う。
という、事を未だ、互いに明確には、しない。
***
その日は直接、店で落ちあうという事になっていた。
奥村のラボの最寄りの駅周辺には、昔ながらの商店街が長く伸び、ちらほらと行きつけのような店が出来ていた。
仕事を早めに終わらせたカーレンリースはJRの電車に揺られて、その駅に辿り着いた。
秋の始まりのような日だった。
この駅に降り立ち、奥村と商談を始めて行ったのも、丁度、三年前のこの頃であった。
暑いような、けれどふいに肌寒いような季節に、スーツを着ていることが心地よくなってくる。
奥村がアイロンを掛けたハンカチは随分古びたものになってしまっていたが、カーレンリースはそれをまだ使い続けていた。
駅の手洗いで用を足し、濡れた手を拭く。
改札を通り、エスカレーターで地上に昇ると、紙の本の時代は去ったと言われながらもしぶとく商売を続ける古書店があり、宵の歩道に、以前、カーレンリースが淫靡だと感じた古書の香りを放っている。陽に焼けた本が蛍光灯に照らされている。奥村との待ち合わせの時間まで、まだ少しあった。カーレンリースは古書店に身を滑り込ませ、これまでの自分の世界には訪れることのなかった文字たちをつらつらと眺める。一冊、何かを、と背表紙に指を伸ばすが、生憎、鞄を持ちあわせていなかった。ビジネスバックは、オフィスに置いてきた。そのまま帰宅が出来るように、財布だけをポケットに突っ込み、電車に乗って来たのだ。
また、今度。次の機会に奥村と商談をする時にでも、これまで触れたことのなかった世界に触れてもいい。
そう思いながら、カーレンリースが古書店の扉を開くと、横断歩道の向こうで信号待ちをする奥村の姿が見えた。こちらを向き、ビジネスパートナーの姿を認めると破顔をする奥村はいつまで経っても年をとらないように見える。
青信号になり、小走りに駆け寄ってくる奥村の前髪が風に煽られて、額がすこし露わになっている。
「もう、来ていたんですか?」という奥村は、その商売柄には珍しく、白のカッターシャツにネクタイを締め、ジャケットを羽織っていた。
「意外に仕事が早く終わりました」とカーレンリースが笑うと、「そうですか」と笑い返しながら、商店街へと向けて歩を進める。
「珍しいですね、ネクタイ」とカーレンリースが言うと、「今日は、大学で講義を行っていました」と英二が返した。
「そうですか」
「はい。知りあいの作家に依頼されまして」
「なるほど」
夕方の商店街には行き交う人が多く、やはり、この街は活気があるな、とカーレンリースは思う。
奥村は黒のジャケットに、深い緑のネクタイを締めていた。
それが、とても似合う、そう思いながらも、カーレンリースは口に出すこともなく、大人しく奥村の後に従って歩いた。
行きつけの、地下にある小料理屋を、奥村が予約をしていた。
個室のあるその店は、他人の目を気にすることもなく、ゆっくりと近況を語り合うことが出来る。
そのことを、二人とも、気に入っていた。
***
刺身の盛り合わせに、湯葉、銀杏の揚げたものに、出汁巻き玉子。
「まるで、僕たち、老人みたいですよね」と笑う奥村に酒を注ぎながら、カーレンリースは「そうですか?」と笑いながら返す。
「だって、二人ともまだ三十の半ばにもなっていない。本当だったら、唐揚げとか、肉とか、食べるじゃないですか」
「そうかもしれませんね」
「なのに、僕たちは、いつもこんなものを食べている」
「唐揚げ、頼みますか?」
「いえ、いいです」
「肉…ならば、豚肉の麹付けが」
「あぁ、それなら、いいですね」
そんな他愛もないことを話しながら始まる酒の席が、果たしてビジネスであるのか。
二人で、ほくりほくりと笑い、酒を注ぎ、旨いものを食べる。
箸を持つ中指や、グラスを包む手のひらや、椀を支える親指。
それぞれの手の在り様や、その手が持ち上げる刺身の光沢が滑りこんでいく唇の動き、咀嚼されていく音。五感すべてを刺激されながら、他人と空間を作り上げていくことの悦びをカーレンリースは奥村と出逢い、初めて知った。
奥村と話すと、楽しい。
奥村は、どうだろうか。と、漆の盃に酒を注ぐと、奥村は「楽しいですね」とカーレンリースを覗き込む。
「はい。楽しいです」と、カーレンリースは素直に答えてみる。
「なら、よかった」と奥村は上機嫌そうに頬を火照らせて、湯葉を箸の先で摘まみ上げる。
乳白の滴りが垂れないように慎重に皿を近くに寄せて、口に含む。
口の周りに少し滴が、ついている。
それに気づかないまま、更に湯葉を含む奥村を、カーレンリースは朱塗りの盃を片手に、眺めていた。
奥村と、酒を酌み交わすのは、楽しかった。
だからこそ、この関係が続いては、いる。
湯葉を全て口中に含み、幸せそうに咀嚼をする奥村の唇の端には、まだ乳白がついていた。
それを伝えるために、カーレンリースは自らの唇の端を指さし、「ついていますよ」と囁く。
奥村は慌てる素振りもみせずに、紙ナフキンで唇を拭う。
「とれましたか?」
「はい。……とれました」
カーレンリースは自分の盃へ、酒を注ぎだして、飲み干した。
***
二人の都合があえば、普段ならばこの流れでもう一軒、何処か別の店に行き、終電間際にカーレンリースが電車に飛び乗る。それが常だった。
二軒目は、バーであることもあったし、スパークリングをメインに提供するイタリアンということもある。そしてまるで名残を惜しむかのようにラストオーダーを頼み、奥村とカーレンリースは改札で別れる。
それが、いつもの流れだった。
***
階段を上がると、雨が降っていた。
傘を持たないカーレンリースと奥村は、仄かに額を濡らす雨をそのままに、行き交う人が疎らになった商店街を南下した。
このまま歩いていけば、老舗のバーがある。
そこを行き先として定めればいい。
そうカーレンリースは考えながら、隣を歩く奥村の横顔を伺った。
奥村は、何かを考えているような、しかし、何も考えていないような顔をして、雨に濡れていた。
ぽつり、ぽつりと、雨粒は大きくなり、やがて煉瓦造りの道に模様を描いていく。
早足で歩いていけば、さほど濡れずにバーへは辿りつかないだろうと足を速めるカーレンリースの隣で、奥村の足どりは重い。
ジャケットの肩を雨粒が叩き、流石にこのままでは髪を濡らしてしまうと思い、カーレンリースは奥村を振り返った。
「奥村さん」
そう呼ぶと、真っ黒な眸がカーレンリースを見あげた。
その頬には先ほどまでの朗らかさはない。
最早、雨に濡れそぼってしまったかのような、途方に暮れたような顔で、奥村はカーレンリースの目を見続けている。
「どうしたんですか?」
と問う、ビジネスパートナーの声に顎を引き、奥村は「酔っぱらいました」と小声で呟いた。
「え?」
カーレンリースはこれまでに聴いたことのない奥村の声に、首を傾げる。
雨は、そろそろ本格的に降ってしまうだろう音で、降っている。
奥村は、普段、着付けないジャケットの肩口を雨に濡らして、カーレンリースを見あげていた。
「雨……」と、言うと、奥村はカーレンリースの手のひらを、握る。
商店街の、シャッターを閉めた店の細い軒下へ身体を滑り込ませて、雨を避けていた。
酔っぱらっている、という奥村の顔は、さほど赤みを増していない。
寧ろ、いつもよりも白く、青みを増すようなその頬に、カーレンリースは無闇に不安を覚えた。
普段と、酒量は変わらない。
下戸ではないが、ザルでもない奥村の体質にあわせて酒を頼んでいる。
季節の変わり目に、体調を崩しでもしたのだろうかと顔を覗き込むカーレンリースの目を、シャッターを背にした奥村は、白目に光を含ませて覗き込んだ。
「カーレンリースさん」
奥村が声に出したのは、それだけだった。
互いの手のひらは、雨で、濡れ始めていた。
奥村の右の手のひらが、カーレンリースの左の手のひらを包み、奥村の左の手のひらが、カーレンリースの右の手のひらを包んだ。
奥村の手のひらは、熱かった。まるで、子どもの体温だ、と思うカーレンリースは、しかしその手のひらの凹凸に、職人が時間を経た記憶を思った。ざらつく皮膚、指の先。滑らかな頬や鼻からは想像が出来ない、その手のひらが記憶したこれまでの時間を、思う。
道端に降る雨は、ぽつぽつという音から、ざぁざぁという音に変わっている。
カーレンリースは、両手を奥村の手のひらに包まれたままで、立ち尽くしていた。
奥村は、黒い目を一度だけ大きく開くと、目を伏せた。
手のひらが離れていく気配を感じ、カーレンリースが指に力を入れると、奥村の手のひらは更に逃げようとする。
それを逃がしたくないと思うカーレンリースが手のひらに手を入れようとするが、奥村は目を伏せたままで、手のひらを振りほどく。
どうして、と、舌の先に、言葉を震わせながら、カーレンリースはそれを飲み込んだ。
今、奥村の顔を、見てはいけない、と、本能が知らせているようだった。
雨は降るが、この簡易的な屋根を出ていかなければ、いけない。
奥村は、ただ、酔っぱらっているだけだ。俺を、引き留めている訳では、ない。
そのことを、まるで苦い薬を噛みしめるように自らの腹へ言い聞かせながら、カーレンリースは踵を返す。
ビジネスパートナーと酔いの末に多少の悶着を起こしたとしても、時が、解決をする。
(なぜならば…………)
雨は、路地に跳ね返り、カーレンリースの革靴を叩いた。
すでにスーツのジャケットは、肩口も、裾も、色を変えていた。
普段ならば、折り畳み傘を携行しているが、今日はビジネスバックを持ちあわせない。
駅まで、早足で歩けば、被害は最小限で済むだろう。
(なぜならば…………、奥村は)
雨に濡れそぼつ商店街は、これまで見たことのないような光景だった。
カーレンリースは、この国を訪れて以来、感じたことのないような心細さで、雨が揺らす街路灯の光を見あげた。
***
カーレンリースの背が、雨に紛れながら遠ざかっていくのを、奥村はぼんやりと眺めていた。
酔っぱらっているという訳では、なかった。
いつも通りの会話に、料理、いつも通りの酒量。
これから向かう場所としても、いつも通りの、行きつけのバー。
カーレンリースは、自分が求めた道を切り拓いた恩人だった。
国は違えども、丁寧に生きる、という、そのことをそのままであるような人柄に、奥村は惚れていた。
その恩人に、自分が、一体何をしたかったのか。
自分の、手作業で凹凸や擦り切れのあるささくれた手のひらではなく、カーレンリースの手のひらは、滑らかで美しい。
その手のひらに、一度だけでいいから、触れてみたかったのかも、しれない。
触れてみれば、それだけだけで、いいのか。
カーレンリースの背が、ゆらゆらと遠ざかっていく様を、奥村は眺め、それから足を踏み出した。
訳が、わからない。
と、自分では、思っていた。
ただ、訳の分からない、その衝動をこそ、繋ぎとめておきたいのだと、思う。
惚れる、という、この感情が、果たして、何を指し示すのか。
奥村は、カーレンリースの背を追った。
雨は、降り続いていた。
深夜近く、行き交う人影はまばらであるが、傘の影を道に落としている。
カーレンリースは、その金糸に雨を垂らしていた。
肩から袖、腰の方までを雨に濡らし、それは、自分も同じことだろうと、奥村は思った。
おそらく、このままでは電車に乗ることは出来ない。
乗ることが出来ても、座席には座らず、濡れたままの姿で、カーレンリースは自宅へと変えるのだろ