目が覚めた。
 そんなに広くない部屋はまだ暗く、あぁ…日が昇る前なのだなぁと寝起きのぼんやりとした頭で思った。
 焼き立てのパンを食べたことがないと聞いて、それなら明日の朝焼いてあげると約束した。
 食べ物に関する約束はちゃんと守られるように体が反応してしまう事実に、少し面白くなりながら隣で寝ている人を起こさないように気をつけて、ベッドから抜け出した。
 キッチンの立つとちょうど自分の身体の横にある窓から夜の光が漏れてる。
 日が昇る瞬間の、
 夜の闇を照らす瞬間の、
 一瞬の青が部屋の中に満ちて、新しい一日が始まろうとしている。
 すぐに青は溶けて消えて、白い朝がやってくる。
 それを横目で見ながら、昨日の夜に仕込んでおいた生地をこねて、分けて、もう一度発酵のためにボウルに戻した。
 焼くまでの工程に時間がかかるのが難点で、まあそれも……焼き立てを食べる瞬間、その初めてを貰えるのかと思うと、不思議と苦労とは思えなかった。
 待ち時間の間、寝ている顔でも眺めようかとベッドのふちに座り、長い髪がかかる頬を見た。
 もう部屋の中は新しい一日を告げる白い光で充ちているのに、いっこうに起きる気配はなくただ気持ちよさそうに眠りを貪る彼を見ていると、不思議と嬉しい気持ちになれた。
 目にかかる前髪を指の関節で払う。
「……夏も終わっちゃったっすね」
 もう夜の名残にも、
 朝の始まりにも、
 あのうだるような暑さの名残はなく、季節が一つ変わったんだと、カレンダーだけではなく肌で知ることになる。
 過ごしやすい気候を好ましく思うのに、どこか寂しくなるのはなんでなんだろう。
 たぶん、この夏はたくさんのことがあって、出会って、たくさんの思い出を作ることになったから、区切りがついてしまうことがどこか悲しいんだと思う。
「今年の夏は、マヨちゃんでいっぱいだったっすね」
 指の関節で頬を撫でると、すべらかで改めてそれに気づくと、やっぱり好ましい。
「……マヨちゃんにとってもそうだったらいいんすけど。
 できたら、とっても良い方の評価で」
 キッチンの方でチンッと控えめになるタイマーの音がした。
 整形して焼けば形になるはずだ。
 うちの狭いキッチンでは、大したものは作れないけれど、それでもお眼鏡に叶うはずだと確信があった。
 それはもう培ってきた日々が、教えてくれるから。
 目が覚めた。
 窓から差し込む光で、覚醒を促されたようで目覚めは悪くない。
 鼻腔をいい匂いで埋め尽くされる。
「……椎名さん?」
「あっ、マヨちゃん起きたっすか?
 ちょうど焼けたっすよ」
 誘われるままキッチンの方は向かうと、ちょうどトースターからパンが取り出されたところだった。
「本当に作ってくださったんですか?
 ……すみません……大変でしたよね?」
「マヨちゃんに作ってあげたいって思ったのは僕なんで、そんなことはいいっすよ。
 それよりも座って欲しいっす。
 これは焼き立てが一番美味しいっすからね」
 無理矢理着席させられ、目の前にふんわりと膨らみ焼き色がついたパンが置かれる。
 飲み物や付け合わせもあらかじめ準備していてくれたらしい。
「起こさなきゃって思ってたから、本当、タイミング良かったっす。
 さ、どうぞ」
「……はぃい。
 いただきます……」
 指が触れた熱さに驚いたり、割った瞬間にのぼる水蒸気に目を奪われたりしながら、一口のサイズにちぎったものを口元に運ぶ。
「……美味しい、ですぅ」
「よかったっす♪」
 目の前で満面の笑みで微笑む人がいる。
「……その顔が見たかったんすよ」
 誇らしげにそう言われ、どんな顔をしていたのかと急に恥ずかしくなり顔を覆おうとした自分の手を掴まれ、引き寄せられる。
「……僕は喜んでるんで、隠さないで欲しいっす」
「……は、はひぃ。
 椎名さんには、お恥ずかしいところをたくさん見られてる気がしますねぇ」
「……たぶん、それがいいんすよ」
「趣味が悪いです……」
 一緒にいると出すべきではないと思っているようなことまで外に出してしまい、それを肯定されるたび、恥ずかしくて消えたくなるのに、やっぱりそれは……嬉しかった。
 熱くなった頬を、いままでとは違う涼しい風が包む。
 季節が変わったのだ。
「……そういえば、この夏のこと思い出すといつも椎名さんがいて……たくさん色々なことを経験させてくれて、感謝してるんですよぉ」
 過去を振り返るたび思っていたことをようやく口にできた。
 それに少し驚いた顔をして、そのあとすぐに破顔する。
「それはこっちのセリフっす。
 これからも色んなこと、したいっすね」
 新しい一日も、
 新しい季節も、
 キミと迎えるものはなんでも新鮮で、好きになれる。
 食卓にかかる光はまだ昼のものと違って、淡く優しかった。
「マヨちゃんのはじめて、もっと僕が回収できるように頑張るっす」
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