君をぎゅっと抱きしめてあげるからおいで
炭治郎がいるからどれだけ嫌なことでも頑張れる。
善逸にそう言ってもらえるような存在になりたいと思ったのはいつからだったか。
出会ってすぐの頃“俺を守って”と初めてしがみついてきた時よりも、もっと俺だけを見ろと願いを込めながら抱きしめるようになったのもいつからだったか。毎晩任務を終えて胸に飛び込んでくるキラキラと眩しい善逸をぎゅうぎゅうと抱きしめ、しなやかな金糸に鼻を埋めて鬼の血や知らない場所の匂いを嗅ぎ分け、一番好きな香りを目一杯吸い込んで肺に溜め込む。そして「無事でよかった」と呟く
その瞬間がかけがえのない幸せで、怖い中頑張ってきた善逸へかけてあげるおまじないになった。
先の任務で折れた肋の骨がやっと癒えてしのぶさんから簡単な任務であればと診断が下り、久々に蝶屋敷から外へ出た。今回任されたのは三十分ほど歩いた街での聞き込み調査。変わったこと、不審な人物や事件などはないかを聞くだけというほぼ見回りのような任務だったが、沢山の人に聞いた方が情報も集めやすいだろうと朝早くから目的地へ向かっていた。朝の澄んだ気持ちの良い空気の中、待ちわびた温かな陽気を謳歌するように桜が舞い、道端には寒い冬を乗り越えた草花たちが緑や黄色などの自分の色を鮮やかに主張しているのを見て、今年ももうすっかり春だなと感じる。「俺も冬は忘れがたい記憶があるから春が来るのを楽しみにしていたんだ」ふわりとゆるやかな風に運ばれてくる春の便りを嗅覚で楽しみながら、一年前は気付かないふりをしていた気持ちをその草花たちに投げかける。当然返事はないが、俺を案内するかように道の両端にずっと先まで咲いているたんぽぽを見て、脳内で思い描かれた人物が「もう一人じゃないよ」と言ってくれた。
任務を終え、空が茜色に染まる頃に蝶屋敷に戻るや否や、朝から脳内で思い描いた人物の泣きわめく声が聞こえてくる。今日も飽きずに任務が嫌だと叫んでいる様子だったので声のする方へ向かっていつものようになだめすかし、肩を落としつつも鬼の元へ向かう黄色い背中を見送る。食事や風呂など身の回りのことをしながらも、ちゃんと辿り着けただろうか、けがはしていないだろうかと心配が止まず、それを振り払うように蝶屋敷を囲む塀を伝い走って機能回復訓練に集中する。昼間は暑いくらいだったのに夜はまだ寒く、吸い込む空気は血が巡った肺を刺し、荒くなった白い息は勢いよく出ては消え、冷たい空気を切って走るおかげで鼻先や耳がじんじんした。癒えた肋が悲鳴を上げかけた頃に屋根へ上り、棟板金に座って息を大きく吸ってはいて整える。ふと目を開けて空を見上げると、暗闇の中を無数の星が瞬いて綺麗で、そのキラキラと輝く様が善逸の目に似ているななんて思う。
ピンチになったら善逸のように一瞬で空を飛べないし、俺がけがをしたせいで一緒に任務も行ってやれないけど、きっと「俺頑張ったんだよぉ」って言いながら見送った時と同じように頬を濡らして帰ってきたら、思う存分抱きしめてその泣き顔を笑顔に変えてやろう。だから頑張るんだ、善逸。そう心の中で呟いて、視界いっぱいに広がる星空に“あの時の星空”を重ねた。
一年の中で嫌いな季節なんてなかった。この国は四季というその時期によって気候も、見える風景も変わる素晴らしいものがあって、俺はどの季節も好きだった。
春は、街へ炭を売りに行くとみんなどこか浮足立ってる匂いがして、不思議と自分もわくわくしていた。炭を売り切って帰るある日の道すがら、風が運んでくる安心するような香りを楽しんで、その中を小さな桜の花びらが舞い、綺麗な花たちが楽しそうに身を揺らす春の空気に自然と顔をほころばせながら家に着いたとき、禰豆子と花子がついさっき見てきた花たちのように揺れながら庭で歌う光景が脳裏に焼き付いているほど好きだった。
夏は、春先に切った木を炭にするためずっと火のそばにいて倒れそうになるし、暑くて炭も売れないけど、その代わりにゆっくりできる日も多い。そんな日は決まってみんなで少し遠出をして大きい川へ行き、あまりの冷たさに凍えながら思い切り水浴びをする。そして俺たちがはしゃいでいる間に母さんが冷やしてくれていた、近所の人からもらったトマトやきゅうりにかじりつく。最後に甘いスイカをしゃくしゃくと音を立てながら食べていると誰からともなく始める種飛ばし大会も、竹雄が毎回一番遠くに飛ばせるのも、毎年恒例だった。
秋は、山に住んでいることもあって栗や松茸などの美味しいものが毎日食卓に並ぶ。そのおかげで、誰が最後の一つを食べるかでいつも喧嘩していた。俺と禰豆子はそれには参加せず微笑ましく見ているだけだったが、いつからかそんな俺たちに母さんが「炭治郎、禰豆子。少し味見してくれる?」と手招きし、下の子たちには内緒ねと言いながら出来立てのものを食べさせてくれるようになった。最初は、俺たちだけ……と罪悪感はあったがそれがすごく嬉しかったのを覚えている。
冬は、炭焼きの稼ぎ時。休みなく俺は毎日籠いっぱいの炭を背負い、一つも残さずみんなの待つ温かい家へ帰る。ざくざくと雪を踏みしめ歩いた先、部屋の明かりがこぼれる戸を開けると「やっと帰ってきた!」「お兄ちゃん冷たい!」と言いながら茂と六太が足に引っ付いてくる。そんな二人の頭を撫で、茂を背負い六太を抱きかかえて居間に向かうと家族みんなからおかえりなさいの声。それだけで雪道で一人心細かった心は温まり、さらに母さんが作ってくれた料理で芯まで冷えていた身もぽかぽかになるその瞬間が幸せだった。
父さんが死んだ時に、幸せな毎日にはいつか終わりが来ると知ったのに、父さんの代わりに俺が家族を守らなきゃって思ったのに、俺の知らないところで家族は鬼によって殺され、唯一生き残った禰豆子でさえ人間ではなくなり、幸せだった日々はガラガラと音を立てて崩れ過去の事となった。
春、夏、秋は思い出さないように自分を誤魔化すのは簡単だったが、冬だけは一筋縄では行かなかった。冬独特の、何もかもを凍らすような冷たく張り詰める空気は俺の鼻が敏感に反応して、遠くの少しの匂いも嗅ぎ取る。そして何も無かったところからいきなり血の匂いがしたその瞬間、あの日見た凄惨な光景がまざまざと蘇り、自分をうまくコントロール出来なくなる。でもそんな冬ももうすぐ越える。
──よく頑張ったぞ、竈門炭治郎。
キラキラと視界から溢れんばかりの星が瞬く夜空を見上げながら、縁側に座って自分を激励する。チクチクと身に刺さるような寒さを感じながら思っているとふと背後の襖が静かに開く音がした。振り向くと、善逸が立っていて「風邪引くよ」と言う。
「そうだな、もうすぐ寝る」
「ん。てか、トイレで起きたんだけど思ったより寒いな……」
俺が返事をしたあとそう呟きながら背中を通りすぎ、冷たい床をつま先歩きで進んで行った。その数分後、戻ってくる足音が聞こえ、また何か言われるなと思って振り返ると善逸の手にはお盆があり、湯のみが二つ乗っていた。湯気がゆらゆらと揺蕩いては、冷えた空気に紛れていく。そのまま右隣に座ってきた善逸は「炭治郎からあんまり聞いた事ない音がする。何か悩み事?」とその湯のみを差し出してきた。受け取ると、冷えた身体に湯のみの温かさが全身に広がり、夜の暗闇に溶け込むように渦巻いていた、普段は胸の奥でしっかりと蓋をしている思いが霧散していく。ほっとするお茶の匂いとともに、隣から心配している、少し苦い匂いも鼻をかすめて。久々に家族のような、包まれるような温かい優しさに甘えたくなって重たげに話し出した俺を善逸は静かに頷きながら聞いてくれた。
家族を放って一人、安全な場所でぬくぬくと寝ていたこと。その間に命よりも大事な家族は怖い思いをし、鬼に食われてしまったこと。唯一生き残った禰豆子も、人間ではなくなってしまったこと。誰にも漏らさず脚光を浴びることのなかった凍てついた思いをゆっくり溶かしていくように、時間をかけて話した。全て話しきり、二人の間に沈黙が訪れ、代わりにクビキリギスたちの大合唱で埋まる。
あぁ、とうとう言ってしまった。任務の妨げになると散々勘付かれないようにしてきたモヤモヤを善逸とはんぶんこし、気持ちが少し軽くなっていることに気付くと不意にぽろぽろと涙が溢れた。それは勢いよく頬を伝い落ち、寝間着に染み込んでいく。なんで泣いているんだ?と自問自答した時、中身がなくなり冷たくなった湯のみを取り上げられ、その両手を冷たくなった善逸の手に拾われて包まれる。吃驚した俺の目線が鼈甲の瞳に吸い込まれるように奪われていると、「大丈夫だよ、俺がいるから。俺が、炭治郎を守るから」「何の役にも立たないけど…」そう俯き加減に視線を逸らしながら善逸は呟いた。それは違う、役に立たないわけがない。確かに普段は頼りない節があるけれど、現に今、俺の苦しかった気持ちを一緒に背負ってくれたじゃないか。守ってくれと言いながらも俺が苦しい今、善逸は守ると言ってくれたじゃないか。そう思って「そんなこと、言わないでくれ」と言った声は涙声だった。月明かりに照らされ眩しいほどに輝く金色を映す瞳に、薄い膜を張っていた涙は抑えようとすればするほどボトボトと音を立てて溢れ落ち、善逸はおろおろした様子で包んでいた手を離して振り回す。自由になった手でぐちゃぐちゃに濡れた顔を拭うが、泣いてしまった理由が蓋をしていたのに言ってしまった罪悪感からか、普段からは想像できないほどに頼もしい善逸だからか、はたまたそのほかの理由か。それさえも分からないほど感情が混ざり合い、余計に涙が止まらず小さい子どものように目を擦りながら泣きじゃくってしまう。身体を震わせて泣き続ける自分に、人前でこんなに恥をさらすかのように泣くのはいつぶりだろうかとどこか冷静に思った瞬間、キツく身体が締め付けられる。驚いて目を開けると視線の先に善逸は居らず、安心する匂いが辺りを満たし、さらに強い香りと陽だまりのような温かさが全身を包んでいた。ここでようやく、善逸に抱き締められているんだと気付く。
「炭治郎もそうやって俺みたいに泣くことあるんだね。新しい一面を見れてなんか嬉しい。普段はなんでも我慢してる音させてる炭治郎だから、たまにはこうやって甘えてもいいんだよ。それくらいなら、俺にもできるし」
誰にも見せたくなくて、気付かれたくなくて、心の奥底で息を潜めさせていた思いは、善逸のやさしさによって溶かされ、苦しさをはんぶんこしただけではなく、見せてもいい、と。聞いて頭で理解した時、ぶわりと涙がまた溢れてはっきり見えていた星が滲み、それを誤魔化すように顔を善逸の肩に押しつけ「うん」とだけ言った。
「落ち着いた?」
「……うん、」
あれから善逸は、肩に顔を埋めたまましゃくりあげて泣く俺の背中を何も言わずに規則的なリズムでトントンしたり、さすったり、頭を優しく撫でたりと存分に甘やかしてくれた。おかげでたまに鼻を鳴らす程度まで落ち着き、「明日目が腫れちゃったらみんな心配するだろうから冷たい手ぬぐい取りにい行きたいんだけど、大丈夫?」と言われ顔を離すと、善逸の肩と自分の鼻が鼻水で繋がってしまい、恥ずかしさと申し訳なさですぐ肩に顔を押し戻す。やばいやばいどうすれば、と心臓が早鐘を打ち、善逸はえっえっ何その音!?と言いながら焦る。鼻を啜りながらそっと少しだけ離すと鼻水はついて来ず、「大丈夫だ。久々にこんなに泣いてしまって、頭もうまく回らないから、お願いできるか…?」と言うとお安い御用!と立ち上がり、肩に鼻水をつけたまま駆けていった。
その背中を見送り、鼻水とほぼ乾いてしまった涙を拭うために部屋へちり紙を取りに行くと、隅に置いてあった木箱からカリカリと引っ掻く音がした。きっとあんなに大きな声を上げて泣いていたから禰豆子にも聞こえたかと思い、大丈夫だと抱き締めたかったが、今は兄ではなくただの竈門炭治郎になっている気がして、代わりに木箱をぎゅっと抱き締めた。
鼻をかみ、涙を拭きとろうとするが乾いて皮膚にこびりついてしまっていた。顔を洗いに行く気力もないし、また朝にしようと思っていると不意に温かいものが頬に当てられ振り向くと、戻ってきた善逸が俺の隣にしゃがみこみ、そのまま俺のあごを掴んで取れなかった涙の跡を優しく拭き取る。
「あったかい手ぬぐいも持ってきて正解だったね。あーあー、めちゃくちゃ涙の跡あるじゃん……あれ、鼻水かんだ?」
ちり紙もいっぱい持ってきたのに…と肩を落としながらちり紙の山を見せてきた善逸にもう泣かないぞと怒っていると、湯気が立つ湯のみを手渡される。先ほど同じように渡されたときはどうしようもなく鬱々としていてこの夜に紛れて消えてしまえたらどれほど楽だろうかと考えていたが、今はそんな気持ちを打ち明け、月のように吉良止みを照らしてくれる善逸が隣にいてくれるおかげで随分と心も身体も軽く感じる。温かいお茶を一口ごくりと飲み干し、じわりと胃が温まる。
はぁ、と一息ついて出た白い息を目で追って見上げた夜空に、心なしか視界が広がって一層星が綺麗に見えるな、なんて思っていると右の手首を掴まれ、目線を動かして目が合った善逸は照れくさそうに目を伏せ唇を尖らせながらぐいぐいと手首を引っ張り続ける。不思議に思って湯のみから右手を離して浮かすと、そのまま手のひらを滑り込ませ指を絡ませて握られる。予想外の行動に頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。
「……ドラム缶を思い切り蹴飛ばしたような音がする」
「な、何言ってるんだ、よくわからないぞ」
俺の気持ちを見透かすように言われて思わずはぐらかすと繋いだ手を下ろしながら「落ち着いた?」と聞かれ、少し考えてうん、とだけ答える。
「もう少ししたら布団入ろっか」
「……いや、寒いからもう布団入る」
「えっ?あ、ちょっと炭治郎さん!?」
手を繋いだまま急に立ち上がり部屋へ歩き出すと善逸は慌てて俺の後を追ってきた。こうして無理に引っ張ってもほどかれず優しく握られている右手とそれに対して高鳴る心臓に気付かないふりをしながら部屋に入った。