「さてリム。お前はどう見る?」
昼間の大通りを歩きながら、イポスは隣のリムにそう問いかけた。
「姿を消すことができ、……食った者の姿に化けることができる幻獣、でしょうか」
「ああ。クロードの話を聞く限りじゃそれが一番「らしい」な。俺もそれを考えた。だが、多分違う。食った者の姿に化けるとして、じゃあその姿で次の獲物のところに行って警戒されないだなんてことはあり得ないだろ。死体が跡形もないならともかく、だ。死人が歩いてるようなもんだぞ」
ああ、とリムが納得したところで、二人は宿に辿り着いた。ロビーには人が疎らで、団員たちは各々で情報の収集や武器の手入れなどに行っているのだと知れる。窓際に上等な造りの机を挟んでソファが二つあったので、二人はとりあえずそこに腰を落ち着けた。
「どうも、見えているものと、そこから導き出される情報が噛み合っていないような……そんな感覚ですね」
リムの言葉に、イポスは頷いた。そうだな、と呟いて窓の外を見る。
「情報が足りていないか、あるいはノイズになる情報があるか。――あるいは、そのどちらもか。だが、『幻獣を飼っている者が街中にいる』という噂についてはなんとなくの納得がいく話ではあったな」
夜は街の門が閉ざされる。その状況下で出てくるならば、確かに街中に潜んでいるとしか思えない。そして、イポスが酒場の主人から聞いたことを信じるならば、この街には幻獣が身を潜められる場所はほとんどない。
そして、イポスはクロードが襲われていないことが不可思議だ。リムもだろう、と目の前を見ると、険しい顔をして思案に沈んでいる。これまでに討伐した幻獣と、それらの被害に遭った町や村を思い返す。幻獣というのは、目の前に獲物がいたとして、まして、その獲物が戦意を喪失していたとして、見逃して帰るものだろうか。その、『大人しさ』のようなものがやや気にかかる。
「実際ご対面してみないと分からねえこともありそうだな」
「そうですね。今の時点ではすべては仮説でしかなく、……ともすれば全て的外れの可能性さえある」
「ああ。まずは奴を見つけ出し、手掛かりを掴んで無事に帰ってくるための算段をつけなきゃな」
無事に帰ってくる。それこそが何よりも重要だ。殊に、相手の正体が分からない段階であるならば、情報を持ち帰ることが出来なければ何の意味もない。
「よし、リム。俺は診療所に行って情報を貰ってくる」
「同行します」
即答したリムに、イポスはしかし首を横に振った。
「お前にはやってもらうことがある。別行動だ。……ちょっとばかり、気取られたくないことがあってな」
バティンから所在を聞いていた診療所にイポスが向かうと、彼女はイポスの来訪を予見していたように現れて「どうぞ」と彼を中に通した。
「先ほどの副官の方は?」
「ちょいと訳あって別行動だ」
「そうですか。事件時の状況報告書です。持ち出していいそうですので、ご自由にどうぞ」
「そりゃあ助かる。……で、バティンはどう思う?」
世間話めいて問うたイポスに、バティンは「検分の時に述べたことがほとんどですが」と素っ気なく返した。
「ああいや、この報告書についてだ。お前も目を通してるだろう?」
「まあ、はい。……そうですね、ご覧になればわかることかもしれないんですけど、夜、それも暗い夜にしか現れていないのだな、と」
「暗い夜?」
そうです、とバティンは頷いた。報告書をめくって、天候の記述を指す。
「月のない夜。月があってもかなり細い――三日月や、それ以上に細い夜。さもなければ曇りや雨の夜。例の幻獣が出ているのはそういった状況ばかりです」
「この十件目はどうだ?月もあり、かなり明るい夜のようだが」
「死亡推定時刻を見てください。私も気になって天気を調べましたが、この夜は一時間程雨模様だったようで――」
「――そこにぴったり重なるって訳か。ハ、仕事が早えな」
それはバティンに対しての称賛か、幻獣に対しての皮肉か定かではなかった。
「ありがとよ、バティン。こりゃいい情報だ」
「お役に立てたなら何よりです」
「……それなら奴を探すのは夜になる。悪いがバティン、」
「別に夜でも、怪我をしたら駆けこんでくれて構いませんよ。私も宿は取っています」
ただ――と彼女の浮かべた微笑は完璧で、それ故の温度の低さにイポスは肩を竦めた。
「寝起きだからといって、私の治療は何も変わりませんので、そのつもりで」
診療所のベルナール医師と、自警団のテオドールによって、「暗い夜は外出してはならない」「たとえ誰かが扉を叩いても――扉の向こうに知った顔があろうと――開けてはならない」という幻獣への対策が街中へ伝達された。住人たちはそれを律義に守っているようで、月の出る夜だろうと表通りにはほとんど姿を現さない。
対策は当たっていたようだった。これまで、月の出ていた夜以外はほとんど毎日のように起きていた事件がぱたりと止んだのだ。だが、勿論これで喜んではいられない。制限を強いられた生活は人々の精神をすり減らす。
街の雑貨屋で物資を買ったリムは、そうした世間話を店主とした後、宿へと戻った。ロビーは静かだ。幻獣が夜に出る以上、傭兵団は皆夜の見回りが主な仕事になっており、昼間は宿で休んでいる。彼らだけが昼夜逆転している。否、あるいはリムのみが彼らとは逆転した生活をしていると言ってもいいのかもしれなかった。
街に住んでいる富豪、グスタフに関する情報を収集すること――それが、リムがイポスから言いつけられたことだった。
「俺とあいつとは面識がある。この街に俺がいることも知れている。俺が嗅ぎまわってることを知られたら面倒だ。何事もなければそれで良し、何かあるなら――さて、どうするか」
部屋に戻って、リムはさらさらと集めた情報を紙に書きつけていく。口頭で伝達する時間がない場合でも、いつでもこれで目を通し、情報の共有ができる。背後のベッドではイポスが規則正しい寝息を立てていた。夕方ごろに起き出して、身支度をきっちり整え、陽が沈むと同時に剣を提げて出ていくのだろう。
夜は絶対に宿から出るな、と、イポスがリムに言ったのは、傭兵団が見回りに出る最初の夜だった。
「敵は姿を変える。どういう仕組みで姿を変えるか、どういう相手に化けるのかは分からねえが、近しい者に姿を変えるんだとしたら、お前にも化ける可能性があるだろ」
「ああ、私が宿にいることが確かであれば、見回りの間に姿を現した『私』は贋物であると。そういうことですね」
「そういうことだよ」
宥めるようにリムの肩を叩いて出て行った背を思い返す。
「何もしないこと」をしなければならない。それはリムの性分からするとやや落ち着かないことだった。それでも、イポスが作戦の一部としてそれを命じている限り、リムに否やはない。宿の部屋で一人、集めた情報について推測を繰り返すことが多かった。
半分隠居しているような富豪、グスタフ。彼のその情報とは裏腹に、本人はまだ若々しさを残す男である。妻子を亡くしたのだという。その理由については詳しく知る者はいなかったが、どうやら一度に亡くしたわけでも、何か悲劇的な事件があったわけでもないらしい。だが、それ以来――特に一人息子を亡くして以来、らしい――彼は人々と関わることを減らした。邸の使用人も減らしたのだという。ごくたまに街にやってきて買い物をしたり酒場に現れたりするが、それ以外は邸にこもりきりで、他に人前に姿を現すことがあるとすれば、それは時折開かれるパーティの時くらい。パーティはその時々の気分らしく、様々な趣向が凝らされており、街の住民にも招待状が来る。
そのパーティに潜り込めれば情報が掴めるかもしれない、とリムは考えていた。ここ最近――事件が起きるようになるしばらく前くらいからだというが、パーティが開かれる頻度は増えているらしい。さて、彼が『黒』であればそれに意味があるのかもしれない、と考えて――背後でイポスが身を起こす音がしたので、リムは一度思考の海から浮上し、振り向いた。
「……おう。帰ってたのか」
「コーヒーでも淹れますか」
「……頼む」
寝起きの、唸るような声だ。上半身を起こした姿勢で固まったまま、イポスは眠気と戦っている様子だった。手早くコーヒーを淹れ、イポスの元に戻り、手渡す。熱さなどものともせずにぐいと呷って、それから何を言うでもなく唸り、そしてようやく完全に目を覚ましたようだった。
「首尾はどうだ」
「さて。上々かもしれませんし、あるいは『白』であれば完全に水の泡となる情報かもしれませんね」
「そうか。まずは幻獣とご対面してみねえことには俺達も先に進めねえ」
今は満月を過ぎて少し。雲が出ていなければ、件の幻獣はまだ現れないだろう。
だが、とリムは窓の外を見た。灰色の雲がこの街を覆い、遠くまで垂れこめている。――月の光は地上に届かないだろう。今夜は暗くなるだろう。それを予感して、「ああ」とイポスは笑う。
「――絶好の狩り日和ってわけだ!」
果たして、元々さして明るくなかった曇り空はすぐに暗くなった。月も、星も、今夜の空には存在しない。ただ低い位置に分厚い雲があるだけだ。雨の気配はなく、それは傭兵団の団員たちを安心させる。足元が不安な中での戦闘で後れを取るほど柔ではないが、条件は良いに越したことがない。
「手筈通りに持ち場につけ。二人一組を崩すなよ。奴が現れたら大声で呼べ、それが聞こえた他の奴らはすぐに加勢すること。それから……松明の火を絶やすなよ。思い付きの策だが、当たれば上々だ」
団員たちが各々散っていくのをイポスは静かに見ている。フレイザがふと気が付いたようにイポスに声をかけた。
「あれ。団長は誰と組むんですか?それに松明は」
「ああ。……俺の読みが当たってるなら、奴はきちんと俺のところに来るはずだ」
にやりと笑ってみせたイポスを見て、フレイザはこの策の意図を悟った。そして呆れたように眼元を覆って首を振る。
「リムさんは――ああ、別行動でしたね」
「おう。だが、あいつも言うんじゃねえか?『確かにこれが一番確実だ』と」
「言うでしょうけど、その五十倍くらい叱られそうですね」
「そんなもん、いつものことだろ」
今度はフレイザは何も言わず、溜息をつくだけだった。それから、「それでは行ってきます」とそれだけを言って、組んだ相手の団員を伴って持ち場に消えてゆく。
道の中心に立つイポスは一人きりだ。前にも後にも人の気配はない。あちこちの区画で明かりを持った者たちが見回っている。
――もし、クロードが無事だった理由が、彼の持っていた松明によるものだったとしたら。
その推測が正しいかは定かでなかったが、試してみる価値は十分にある。何より、事件は暗い夜にしか起きない。
剣の柄に左手をかけて、夜闇の落ちる道の向こうを睨む、その目は狩りに臨む獅子のそれだ。
「さて。何が出て来てくれるやら」
何者かの気配を感じたのは、見回りを始めて数時間ほどが経ったと思われる頃だった。背後で微かな足音がして、イポスは油断を解かないままにゆったりと振り返る。
「へえ。……なるほどなあ」
十歩ほどの距離を隔てて立っている、それはリムの姿をしていた。ためらいもなくイポスは歩み寄る。一歩、二歩。三歩を踏み出したところで足を止めた。
「リム。てめえ、俺が言ったことを忘れたか?」
冷徹な声を投げる。リムは無言だ。ただ佇むままの彼に、重ねてイポスは声をかける。
「言ったはずだぜ、夜は宿から出るなと。勿論、頭のいいお前のことだ。分かってるだろう?……お前の姿をしているからって――たとえ本物であろうと――俺は決して手加減をしねえってな!」
言うが早いか一息に距離を詰める。「奴が出た!」と辺り一帯に響く大声に、建物を隔てていくつもの足音が聞こえてくる。
リムの姿をした何者かに剣先を定めたイポスは、しかし、不思議な違和感を覚えた。
見えているモノと、感じている気配の位置が違う。そして、こういう時にどうするのが良いか――長年の経験と、それに基づく勘は良く知っていた。一瞬で狙う先を変えて、遠慮なしに突き出す。狙った先は虚空だったが、たしかに何かを突いた手応えがある。獣のような悲鳴が短く上がり、しかしそれはすぐに消えた。
「へえ。成程――そういうからくりかよ」
気配が背後を取ろうとするかのように横に回った。近ければどんな足音もごまかせるものではない。無駄だ、とでも言いたげに、イポスは虚空の形をしている何かに剣先を定めたままだ。
「そりゃあ確かに何も分からなきゃ騙されるな。……そして何が起きてるか分からねえままに一撃で殺せる」
周りの区画にいた団員たちがイポスの姿を見てとって駆け寄るのを視界に入れて、イポスは「見えているものに惑わされるな!」と声を張り上げた。
「見えている場所に奴の実体はない!松明を持った者は四方から俺のいる場所を囲め!敵は俺の剣先が示す先だ!何もないが、確かにそこにいる」
「見えねえってことですか!」
「そうだ!近づけば気配で分かるだろうが――見失うと厄介だ!」
敵はイポスの隙を窺うように回るばかりで、仕掛けてくる気配を見せない。最初の一撃を失敗した以上、幻獣の側にはイポスの隙をついて襲うか、あるいは逃走するより他にない。
「さあて、どう仕掛けてくる?」
そして、イポスには隙ひとつない。たとえばこのまま夜明けを迎えたらこの幻獣はどうするのか、そこまで付き合うのも、気力は削がれるが一興か――そう考えた瞬間、横合いから、目の前の幻獣に向けて何かが浴びせかけられた。ばしゃっ、と派手な音を立てて地面が濡れ、そのすぐ後に白く汚れる。イポスも僅かにそれを被ったが、「すみません!水と小麦粉です!」という団員の言葉に安心をして、すぐに納得した。
「いい機転じゃねえか」
にい、と笑って、イポスは相手から視線を外さないままそうした団員に声をかけた。目の前はもはや虚空ではない。水を被った後に粉をぶつけられて――その体は、見えない物であった体は白く輪郭を露わにしている。太い前肢と鋭い爪。姿が見えるようになった部分だけならば、狼に似ていた。
そして、姿が見えるようになった今、不可視のもたらす恐怖は取り去られている。間合いさえも、慎重に図る必要がなくなった。
「これが本当の初対面――ってな!」
怖れず踏み込む。たじろいだ幻獣が咄嗟に後退ろうとする。――だが遅い。踏み込みの勢いを剣にありったけ載せて、イポスはその目を狙う。
闇夜に悲鳴が響いた。相当深く貫いたはずだったが、相手はしぶとかった。反撃の爪をイポスが落ち着いて受け、その反撃をしようとしたが、相手は身を翻し、脱兎のごとく駆け出して行った。
「追え!――だがとどめまでは刺すなよ。塒を突き止める!」
了解、と団員の声が響く。明かりを持った団員が幻獣の背後を塞いで追い立てる。大通りを猛然と進んでいた幻獣は、しかし、角をいくつか曲がったところで唐突に姿を消した。
「撒かれたな。……とはいえ、この当たりのどこかが塒に繋がっているということで間違いはないだろうよ」
周囲を見回している団員に、「このまま夜明けまで見回りは続けろ」と指示を出し、各々持ち場に戻っていく彼らを見送って、イポスはふと、近くにそびえる建物を――グスタフの邸を見上げ、それから静かにその場を後にした。
夜明けとともに雲は晴れていった。白んだ空の端から陽が昇るころ、傭兵団の一行は宿に引き上げた。そのまま各々が部屋に戻ろうとするところをイポスが引き留める。
「眠い所悪いが、情報共有が先だ。――お前たちが駆け付けた時、俺と対峙している相手は、お前らの目には何に見えた?」
イポスにはリムに見えていたが、他の団員には何に見えていたのか。同じくリムであるか、そうでないかで、相手の擬態にも似た能力に対する想定が変わる。
「俺には総伝令に」というものがあった。イポス自身に見えた者もあるらしい。そんななか、おずおずと手を挙げたのはまだ歴の浅い団員だ。
「……俺には故郷の妹に見えました」
当然、その姿を知る者は彼以外にいない。その言葉を皮切りに、「恋人に見えた」とか、「昨日酒場で声をかけたお姉ちゃんに似ていた」などという声まで上がり始める。
イポスはそのすべてに頷きを返して、「なるほど。……俺にはリムに見えていた」と明かす。
「よくあんな躊躇いなく斬りかかれましたね」
とセンが言ったが、イポスは
「リムには『何があっても絶対に宿で待ってろ』って言ってたからな。何があっても――だ。それで俺のところにああして現れるなら、贋物以外にありえねえ」
と口の端を僅かに上げて笑うばかりだ。
「――私がどうかしましたか」
ロビーの入り口からそんな声がしたのはその時だった。リムが一部の隙も無く着込んだ姿で立っている。この後すぐに出かけるのだろう。
「ああ、リム。おはよう。よく眠れたか」
「いつも通りに。皆さんは作戦帰りですか」
おう、と頷いて、イポスは自らの隣にリムを手招いた。
「お前の頭も借りたい」
その晩にあったことを、情報の整理がてらリムに話すと、「なるほど」と合点がいったようにリムが頷く。
「擬態ではなく幻覚、ということでしょうか」
「おそらくは。あいつが化けているんじゃなくて、俺達に『本来奴がいる場所にはなにもなく、少し離れた場所に近しい者の姿がある』という幻を見せている――というからくりだ」
ややこしいな、と誰かが言った。「そうだな」とイポスは苦笑気味に返す。
「実際、討伐するとなると面倒だぞ。そもそも、この手の化物がお伽噺に出てくるときなんかには、複数人で対処したら何に化けたらいいか分からなくなって正体を現す――ってのがお決まりだろうに。現実はそんなに甘くねえってこったな。ただ、そうそう笑ってもいられない、……昨日みたいに誘い出して待ち受けるならまだしも、突然現れて乱戦になったら厄介だ。もう少し弱点を探る必要がある。……もう何回か同じように戦ってみるか。だが、奴も学習するだろう。早いうちに塒を抑えちまうぞ。とりあえず今は解散としようか。よく休んで、夜から万全の状態で動けるようにしておけよ」
了解、と声が重なる。眠気で重くなった体を引きずって団員たちは各々の部屋に引っ込んでいった。
「リム」
そう呼ぶ声にも僅かばかり眠気が混じっていた。リムは「何です」と近寄った。
「……ちょっと追加で探ってほしいことがある」
「何をでしょう?」
「そうだな。――この街にある避難経路や地下通路の資料を。昨日遭遇した奴は追跡してる途中に姿を消した。どこかに――おそらく地下に、身を隠せる場所があるんだろう」
酒場の主人は「街の外へつながる経路の類は全て把握している」と言っていたが、それは、果たして街の中を繋ぐ通路でも同じかどうか。
「ただし決して気取られるなよ。別働にしている意味はお前なら分かってるだろうがな」
「ええ。……隠し球、ということでしょう」
「あるいは、切り札――かな」
悪い気はしませんね、と微笑し、リムはコートの裾を翻して宿を出て行った。
昼間の酒場には人がいなかった。穏やかだが、どこか翳った空気でもある。
「いらっしゃい。真っ当な人間なら昼間はカフェなりレストランなりに行くもんだぜ」
にやりと笑った店主に「じゃあ俺がここに来るのは間違いでも何でもねえな」と笑って返す。人のいないカウンターにどかりと腰掛けて、「ジンジャーエールはあるかい」と問うた。
「酒場に来ておいて酒は入れねえんだな」
「夜の見回りがあるんだよ」
「ああ。そういやあんたたちが夜に見回り始めてから事件が起きなくなったな。首尾はどうだ?」
「まだ捕獲には至ってねえんだ。悪いな」
「いやいや。夜に怯えなくなっただけでも収穫さ」
そんな話をしながら店主はイポスによく冷えたジンジャーエールを出した。
「しっかり生姜の味がするやつだ」
「いいねえ」
口をつけて、二口、三口。甘みは薄く、店主の言うとおりにジンジャーの味が濃い。
「で、飯は何が食いたいんだ?」
「あるものでいいさ。……ああ、でも、宿に戻ってもう少し――夕方ごろまで仮眠をとるから、胃に優しいものが良いな」
「およそ酒場でするリクエストじゃねえな!」
言いながら、店主は「とりあえずこれ食って待ってろ」とパンを差し出した。それを齧るイポスは、ふと店の隅に見慣れない物を認めて店主に声をかけた。
「なあ。あれ――」
「ああ、旅の楽団さ。今度、この街の富豪――グスタフっていうんだが――その邸でパーティがあるんだよ」
へえ、とイポスは頷いて、店の隅に固まって置かれている楽器を見遣った。各々布が被さっているが、大きさとシルエットでそれなりの判断はつく。金持ちのパーティに呼ばれる楽団、と言われて想起するものよりはやや堅さの薄い構成だろうか。この酒場の隅で始まりも終わりも気分次第で行われるような演奏をしている方が似合うかもしれない。
あるいは、むしろそちらをこそ主な目的として街を訪れているのかもしれない。
「そういや前も言ってたな。パーティなんぞする御仁なのか」
グスタフとの因縁などおくびにもださず、イポスは問いかける。
「時々な。今やほとんど隠居――というよりは邸に籠りがちの生活になってしまってるってので、時々パーティを開いて交流を図ってるんだよ。ああ、でもここ一年か二年くらいは少し頻度が増えたかな」
「へえ。あんたは行かねえのか」
「そりゃあそうだろ。パーティ帰りの奴らが俗っぽいものをを思い出すために必要だろうが?」
つまり商売時というわけだ。
「まあ、俺のところにもたびたび招待状は来るがな。残念ながら毎回使われずに置いてある。――何ならお前さん、行くかい」
「あー……考えとく。パーティっていつだ?」
「確か、三日後の晩だな」
月が出ていれば、まだ夜道は安全だろう。
「もうひとつ質問だ。事件が起き始めてから、そのパーティは初めてか?」
「ん――そうだな。初めてのはずだが」
「分かった。その晩は特別に警戒するよう、団員にも伝えておこう。終わるのは夜だろう?月もまだ明るい時期だが、安心はできん」
そういやそうか、と酒場の主人は難しい顔をした。
「いつもありがとうよ。俺からも来る客に『今回ばっかりは早く帰れよ』って伝えておこう」
「助かる」
そんな遣り取りの後、イポスに食事を差し出して、店主は「ちょっと軽く買い出しに行ってきたいんだけどよう。三十分かそこらだけ、厨房に怪しい奴が入らねえか見ててくれねえか?」と恐る恐るという様子で言い始めた。
「別に俺は構わねえが、いいのか、傭兵なんぞ信用しても?」
やや底意地悪い笑みを浮かべて、イポスは訊いた。実際、傭兵などは信用するものではないと自分自身が思っている。自分の目の届く範囲で、己の傘下の隊員が狼藉を働くことは魔獅子の傭兵団として許しはしないが、他の傭兵がそうとは限らず、また、良識を持ち合わせていると期待できるものでもない。
「狼藉を働けるならもっといい機会がこれまでにあっただろう。それをやらないってことは、そもそも実行に移すつもりがないってことだ」
「ハッ、そうかよ」
「それじゃ行ってくるぜ」
鞄を持って、店主は出て行った。昼間の誰もいない酒場は、それはそれで趣深く、また一種奇妙な雰囲気でもある。高い天井を見上げて、イポスはため息をつく。情報としては思わぬ収穫だ。潜入して情報を探りに行ければ有意義だろう。だが、店主から招待状を譲り受けるつもりにはなれなかった。グスタフと己の因縁を彼が知らない以上、何か起きた時に巻き込むことになりかねない。
招待状の手配さえできればリムあたりを潜入させるのだが、と思案した。こういう時に彼はうってつけの人材だ。
――その時だった。
「イポスじゃないか」
聞き覚えのある声であった。店主は出て行ったばかりで戻りそうにない。帽子の鍔を指で押し上げて、椅子に座ったまま、イポスはまさに渦中の人となっている彼――グスタフの顔を見上げる。
「よう。あんたこういうところにも来るんだな?」
「はは、傭兵の時分の名残さ。お前とも何度も酒場に行っただろ」
「それもそうだった。――で、何の用だ?」
用もなしに来るあんたじゃないだろう、と問うその表情は朗らかだが、奥底に剣呑な色を湛えている。
「………俺を疑っているか?」
対して、見下ろすグスタフの視線は冷ややかである。その色にイポスは怯むでもなく、口元だけで笑ってみせた。
「理由もないのに疑うものかよ。それとも何か、あんたは俺に疑われる心当たりがあるのか?」
「まさか!だが、前も言っただろう、そうは思わない者たちもいるのさ」
「俺がそれに流されやしないかって?」
「……まあな」
グスタフはばつの悪そうな顔をして俯いた。イポスはひとつ息を吐いて、「だが――」と続ける。
「一つだけあんたに忠告だ。……今回の件は幻獣の仕業だとはっきりした。けど、捕獲には至っておらず――幻獣を追うと、必ずあんたの邸の近くで姿を消す。このままだと、真実がどうあれ『噂が立つのも無理からぬことだ』という風評が立つ」
「……そうか」
眉を顰めて思案してしばらく。顔を上げた彼はイポスに「それならば」と口を開いた。
「俺の邸に調査に来るといい。そうすれば潔白は明らかになるだろう。まあ、お前なら最初から分かってくれているだろうがな」
「……さて。あるいは俺も疑っているかもしれないぜ」
軽やかで、しかし冗談でもなさそうな声色だった。は、とグスタフは驚愕したような声を上げた。
「おいおい、嘘だろ。傭兵なら自分の意思で住民に危害を加えることの不毛さを知ってるだろう。誰も得をしない」
イポスは笑う。グスタフを見上げながら。その目の奥を見透かすように。
「誰も得をしなくたって、たとえ己の身を滅ぼすことだって、それが良くない結果を招くと分かっていて――それでも尚そうしてしまうのもまた人間だっていうことも分かってるだろ。傭兵をやっていたなら、な」
「―――」
苦々しい表情だった。そうだな、と口元が動く。
「いずれにせよ、俺はお前に潔白を証明する必要がある」
「俺に?街の者たちではなく、か?」
「同じだろ。お前に潔白を証明することは人々に潔白を証明することに繋がると思うが」
「随分と買い被ってくれたもんだな。それで、俺はいつ調査に行けばいいんだ」
「……近々、俺の邸で催しがある。その時なら入ってもいいぜ。くれてやる」
懐から取り出されたのは、どうやらそのパーティの招待状だ。
「ありがたく貰ってやるよ。これは一人分だな?」
「ああ。こっちにも用意ってもんがある、ホールの大きさや食料の事情、その辺は分かるだろ」
「勿論さ。一人分でも有難い。邸の中は探し回ってもいいのか」
「こちらから言い出したんだぞ、くまなく探せばいいさ」
ならそうしよう、と微笑して、イポスは安堵したような顔をしたグスタフにふと問いかける。
「あんたが何もない日に俺を調査に入れないのは、住民にあらぬ噂を立てられるのを避けるためってことでいいかい」
「……そういうことだ」
話は終わったとばかりにグスタフは踵を返し、ふと振り返る。
「なあイポス。――お前本当に俺を疑ってるわけじゃないんだよな?」
見下ろす視線はやや冷ややかだ。引退したとはいえ彼も傭兵である。彼の空気感にその頃のことを思い出してイポスは懐かしくなり、――己もまた瞳に冷たいものを湛えて笑う。
「はは――疑われる心当たりでもあるのかよ?」
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初公開日: 2020年09月05日
最終更新日: 2020年09月19日
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原稿をのそのそやっています
エワ展示物を慌てて書く
ワートリオケがめちゃくちゃ良かったので、オーケストラ幻覚を出力しようかなって思って……オーケストラで…
なっと
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原稿をやっています 尻叩きに来てくれると嬉しい
なっと