ホームルームで配られた修学旅行の栞をパラパラとめくっていたら、目的地の一つに動物園と書かれていた。
「高校生にもなって動物園ってのもなあ……」
何の気なしに呟くと、隣の席の矢口が「だよな」と落胆のため息をもらした。
修学旅行といえば、観光地の神社だったり、おいしいごはんだったり、そういったものを期待していたのだ。
そもそも今回の修学旅行には不満な点があった。
自由行動の時間が例年より少ないのである。
というのも、僕が所属する文芸部の先輩が言うには、去年の自由行動時間に問題を起こした生徒がいたとのことだった。
昨年、我が高校は某鼠をシンボルとする遊園地に行ったのだが、なんと着ぐるみのキャラクターを近くにあった池に突き落としたというではないか。
そのおかげで、我が高は永久に出禁を言い渡され、次の年からは自由行動の時間も狭める方針を取ったのである。
たしかに許されざる行為だが、それはあくまで上の学年がしでかした不祥事であって、僕たち下級生にはなんら責任はない。
「近場で済まされるとかマジで最悪だよな。なんならオレこの動物園行ったことあるしよー」
「わたしもあるー」
不満を抱いたのは僕と矢口だけではなかったようで、クラスメイトたちが次々に愚痴をこぼしだした。
どうやら教師陣もこの反応を見越していたらしく、我がクラスの担任教師は困った顔で言った。
「まあ気持ちはわかるがな、こういうのはどこに行ったかじゃなくて、誰と行ったかが重要だぞ? 例え田舎の古民家だろうが海外の観光地だろうが、赤の他人と旅行するより、顔なじみのメンバーで行けば楽しい空間になるもんだ」
一理あるが、それとこれとは話が別である。そんなありきたりな言葉で誤魔化せるほど、高校生は子供じゃなかった。
クラスメイトの一人が再び文句を投げつけたが、担任教師はそそくさと教室を出て行ってしまった。
矢面に立つのは大変なのだなあと担任を慮りつつ、僕は諦めと共に栞を鞄へしまい込んだ。
動物園はありきたりと言えばありきたりのもので、はしゃいでいる生徒はいたが、僕を取り巻く友人は皆暗い面持ちでクラスの列を歩いていた。団体行動なので、一列に並んで歩けと指示が出ていたが、守っている生徒は皆無であった。教師陣も多少の申し訳なさは感じているのか、咎める声は挙がらない。
「ねえ」
ぺしぺしと肩を叩かれた。隣を振り向けば、赤城さんがちょいちょいと手招きをしていた。
「なに?」
「ちょっと耳貸して」
顔を近づけると、赤城さんは僕たちのクラスの前方を顎でしゃくった。
「あれ抜け出してんじゃない?」
僕たちは一年三組である。コースがバッティングしないよう、全部で六クラスあるうち、二クラスずつで移動しているのだが、三組と四組がセットなのに、前方に三人ほどの女性生徒が小走りで駆けていくのが見えた。四組はうちの後ろなので、たしかにおかしい。
「トイレかなんかじゃないの? ほら、女子ってよく連れションするじゃん」
「それ偏見だから。てかトイレだろうとそうでなかろうと、そんなのどっちでもいいわよ。ようは、抜け出したら自由よってことをわたしはいいたいわけ」
「え? それって僕を誘ってる?」
「なんだなんだ? なんの話だ?」
目ざとい矢口が後ろから割って入ってきた。
「いや、赤城さんが列から抜け出して自由行動しようって企んでるんだよ。そんなことしたら怒られ――」
「いいね!」
いいのかよ。
「馬鹿、声が大きいわよ」
「わりいわりい。んで、どうする? やるか?」
「決まってんでしょ」
「いってらっしゃい」
「アホか、お前も来るんだよ」
いつの間にか僕はメンバーに入っていたようだ。
「一応言っておくけど、これバレたらすっごい怒られるよたぶん」
「なに言ってんのよ。そもそも去年先輩たちの代がしでかしたせいで、わたしたちの自由時間が奪われてんのよ? なんで先輩たちがやりたい放題してわたしたちが行動制限されなきゃなんないのよ。取り戻すわよ、自由を!」
「そうだそうだ!」
赤城さんと矢口は完全に乗り気だった。このままでは強制連行されてしまう。
僕は助けを求めて、少し前を歩いていた木下さんに相談した。
「バレなければ、いいんじゃないかしら」
「ええ……木下さんまで」
木下さんは品行方正のイメージがあったので、きっと二人を諫めてくれると思っていたのだが、当てが外れてしまった。
「あ、木下ちゃんも来る?」
赤城さんが尋ねると、木下さんは「秘密ね」と蠱惑的に笑って、頷いた。
「こうなると、もうお前も一緒だな」
矢口が肩を組んできたので、僕は諦めて了承した。
三四組はちょうど猿の檻に差し掛かっていた。
「よし、ちょうどいいわ。餌やりで先生たちの注意が逸れている間に行くわよ」
赤城さんがタイミングを見計らい、いまよ、と合図する。四人で行っては目立つので、一人一人さりげなく抜ける作戦だ。
まずは矢口、次に木下さん、そして赤城さんと抜けていき、僕の順番が回ってくる。ここで怖気づいたふりをして、列に残るほうが正しいのだ。けれど僕の目は先生たちの注意を掻い潜ることに終始していたし、赤城さんの合図を待っていた。
赤城さんがアイコンタクトを送ってきて、僕は少しの罪悪感と解放感を胸に秘めて、自由時間へと駆け出した。
列を離れて、四人で園内を回る。
赤城さんはうんと伸びをして、満足げに言った。
「いやー、背徳感がたまらないわね」
なにを暢気な。赤城さんは相当肝が据わっているらしかった。
「にしても意外だったよな、木下も付いてくるなんてよ」
「私、実は何度か家族でここに来たことがあって。列に並んでいたら退屈で、ついね……」
「偉いぞ。ちょっと悪いことするほうが、楽しいんだよマジで」
調子のいい矢口だった。
「あ、ところでさ、木下ちゃんあの話知ってる?」
「なあに? あの話って」
なんの話だろう? 皆目見当もつかないので、僕は黙って話の続きを待った。
すると矢口が「あれだろ? 迷子になるってやつ」
「なんだそれ」
迷子? そんなにこの動物園はややこしい地理なのか? 入園時にもらった地図を取り出して眺めてみるが、別段迷いやすそうでもない。
「クラスのやつが言ってたんだよ。この動物園は、変なトンネルがあってな。そこを通ると、二度と戻ってこないらしいんだ。だから迷子」
矢口が好みそうな話題である。
なんというか、この手の施設にはこうした都市伝説が必ず付いてくるなあ。
疑いの眼差しで矢口の説明を聞いていると、木下さんは意外にも「結構有名だよねー」と答えた。
「じゃあやっぱりあるんだな」
「私は信じてないけど、お姉ちゃんがよく言ってた。本当だったら怖いよねえ」
のほほんとした口調で、木下さんは説明を始めた。
「矢口くんの言った通りなんだけど、この動物園のどこかに、立ち入り禁止の柵があってね。そこを越えると、ふるーいトンネルが見てきて、そこを潜ると変な世界に着くんだってさ」
「こわっ」
「なにビビってんのよ。そんなのがあったらもっとニュースやらで取り沙汰されてるわよ」
「そうはならないみたい」
「どういうことだ?」
「迷子になる子はその日は見つからない。でも、次の日になると、みんな迷子のことを忘れてしまうの。だから誰にも気づかれずに、ニュースにもならない。そもそも最初からいなかったことになるから」
「そ、それおかしくない? だって、忘れるなんてある? みんながみんな迷子の存在を忘れたとしても、家に帰って、迷子の痕跡を見たらおかしいと思うでしょ」
僕が追求すると、木下さんは不敵に笑った。
「存在が消えるからね。不思議に思っても、なんて不思議なことが起きたんだろう。としか思わないんだよ」
「い、いやでもほら、戸籍とか学校とか、色々あるしさ。ねえ矢口。赤城さんもそう思うでしょ? ……どうしたの?」
気づけば矢口と赤城さんは俯いて肩を震わせていた。僕がさらに尋ねると、矢口が盛大に噴き出した。
「ヴゥアハハハ! おいおい、お前そんなにビビってどうすんだよ」
釣られて赤城さんも笑いだす。
「あははは! お腹いたい……」
「ふふふ」
見れば木下さんも笑っていた。どうやら僕の無様さが露呈したらしい。
「こういうやつがいるから、この手の話はなくならねえんだよなー」
矢口は馬鹿にしたようにゲラゲラと笑っていた。
「しょうがいないだろ! 誰にも苦手なものはあるんだよ!」
正直な話、僕はこの手の話題が苦手だ。ホラー映画もろくに見たことがないし、夏の心霊特番は絶対に見ないようにしている。怖いものは苦手なのである。
ひとしきり笑われた後で、木下さんは付け足した。
「でももし本当だったとしたら、噂を流した人は、そのトンネルから戻ってきたってことだよね」
僕はその一言が妙にリアリティを帯びている気がして、その後四人で園内を回っている間も、時折周囲を見渡したりしていた。
数十分後、最後に四人で写真を撮って、クラスに戻ることとなった。
「僕、ちょっとトイレ行ってくるよ」
「ついて行ってやろうか?」
「いらないよ!」
からかう矢口を突っぱねて、僕は隅の方に設置されているトイレへと向かった。
用を足して戻ってくると、先ほどの場所に、三人の姿はなかった。
なるほど読めた。これは僕をからかっているのだろう。そう簡単に騙されたりはしない。きっとどこかに隠れて、右往左往する僕を見てほくそ笑む算段だ。矢口か赤城さんあたりが言い出しそうなことだ。さてどこに隠れているのやら。
周囲を見渡すと、背後で「ふふふ」と木下さんの笑い声が聞こえた気がした。
振り返ると、通りの向こうでスカートが舞ったように見えた。急いで駆け付ける。
しかしそこに三人の姿はない。
すると今度はまた向こうの通りで、笑い声が聞こえた。
「おーい、いい加減に出てきてくれよ。もうからかってるのはわかってるから」
言いながら、声のしたほうへ近づいて行くと、そこはトンネルの前だった。
声はトンネルを反響して向こうから聞こえて来るみたいだ。
ここで怖気づけば、いい笑いものだ。おあつらえ向きのトンネルだが、現実的に考えてあんな話はあり得ない。
「ビビってないって証明してやるからな!」
啖呵を切って、僕はトンネルへと駆け出した。長いトンネルだった。とても長くて、心細かったけれど、ようやく光が見えてきて、陽の当たる場所に飛び出した。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの大草原だった。
一瞬何が起こったのかわからなかった。しばらく呆然としてしまっていたが、正気に戻って後ろを振り返った。
トンネルがなかった。
代りに、どこまでも続いていそうな、深い森があった。
背中にぞわぞわと悪寒が走る。
僕はどこに来てしまったんだ? ここはどこなんだ?
咄嗟に思いついたのは、知らない間に立ち入り禁止の区域に出てしまって、動物たちが飼育されている広い空間に出てしまったのかと思った。
みんなはどこにいったんだろう? もし飼育区域なら飼育委員に見つかる前に、みんなを連れて戻らなければならない。
そう思い、みんなを探し出そうと足を踏み出したときだった。
「おい! そこでなにやってるんだ!」
「すいません! 間違って迷ってしまったんです! すぐに出ていきます!」
後ろからの声に驚いて、土下座をする勢いで頭を下げる。みんなを見つける前に飼育委員に見つかってしまったようだ。
「ここは肉食動物の縄張りだ。突っ立っていたら格好の餌だぞ」
これは学校にも連絡がいくだろうな……諦めと共に頭を上げると、僕は絶叫してしまった。
その人物に、いや、人なのかわからない。とにかくそれを見た瞬間、腹の底から恐怖と共に声が漏れだしたのだ。
それは、頭に角を生やし、茶色い毛並みを纏い、黒くて丸い双眸を備えていた。まるで鹿のようだが、なによりも僕を恐怖させたのは、頭から下が人間のようだったことだ。蹄をむき出しにした二本足で立ち、ぼろ布の衣服を身にまとって、五指の手をこちらに差し出していた。
僕は膝をついて、崩れ落ちた。
「おい! 大丈夫か?」
「みんなは……みんなはどこに……」
「仲間がいたのか?」
「夢ですよね。鹿が喋るなんて」
「夢なものか。気をしっかり持て。獣人が言葉を話すのは当たり前だろう」
獣人? 言葉を話す? 僕の頭は完全に情報を遮断しようとしていた。言葉の意味を受け取ろうとしても、意味を解釈しようとしていない。意味がわからない。
「おい、なにがあった!」
向こうから別の声が聞こえてきて、僕はその声が矢口のような気がして顔を上げた。
しかしそこにいたのは、目の前の鹿と同じような姿をした、二人の人型の鹿だった。
目を覚ますと、木造の天井が目に付いた。どうやらベッドに寝かしつけられているようで、どことなく獣臭い毛布がかぶせられていた。
その臭いとともに記憶がフラッシュバックする。
鹿のような人間、通ってきたトンネル、矢口や赤城さんや木下さんたちは……。
「目が覚めたか」
ばっと振り向くと、眼鏡をかけた鹿が、足を組んで本を読んでいた。
「落ち着け。俺は敵じゃない」
「あなたは……誰なんですか……」
「俺はアガチ。ニホンジカ族の鹿人だよ」
「鹿、人……」
「お前は、ニンゲンだろう?」
「僕は……」
「白い肌に、黒い髪、黒い瞳、本に書いてある通りだ」
アガチと名乗った鹿人は手に持っていた本を開いて、僕に見せた。
そこには警察の人相書きのように、いびつな顔の人間がスケッチされてあった。
僕の頭はいまだ混乱の最中にあった。
「まあ聞け、ニンゲン。まずはお前の名前を教えろ」
「僕は、石原宗助、です」
「ソウスケ。ニンゲンは、みなそんな途切れ途切れに話すのか?」
「いえ、いまは頭が混乱していて」
そう言いつつもちゃんと受け答えができていた。僕は徐々に、これを現実と受け止め始めているのかもしれない。
「質問があります」
「待て、まずはこちらから質問させてもらいたい」
「……はい」
「もう一度確認するが、お前はニンゲンだな?」
「そう、ですね」
面と向かって人間か? と問われた経験はなかったので、改めて答えると歯切れが悪くなってしまった。
返事をすると、アガチはしばし顎に手を当てると、ずいと顔を寄せてきた。
「では、お前は洞窟を潜ってきたのか?」
「洞窟?」
「お前はどうやってここに来たんだ?」
もしかすると、僕が通ってきたあのトンネルのことだろうか。
僕が黙っていると、アガチは申し訳なさそうに頭を引っ込めた。僕が困っていると思ったのかもしれない。
「すまない。このあたりでニンゲンは珍しくてね」
珍しい。つまり少なくはあるが、この妙な場所、いや、妙な地域にも人間は存在のだろう。
「トンネルを抜けてきました」
アガチはとんねる? 首を傾げた。疑問を持たれると、僕も自信がなくなってくる。確かにトンネルを通ったはずなのに、後ろには森が広がっているだけだった。
「ここは、どこですか? 地球、ですよね? 日本の」
「地球は地球だが、ニホンとはなんだ? ニホンジカのニホンと発音が同じだが……」
「では、あなたたちはどういう種族なんですか? 人間じゃないですよね」
「我々は獣人だよ」
「僕のいた世界では、獣人はおとぎ話や幻想文学にしか出てこない架空の生物でした……」
僕はもう、現実を受け入れていた。ここは夢の世界なんかじゃない。悪い夢なら覚めてほしいが、この感触、臭い、じんわりと流れる汗がリアルだ。ではどうして僕はこんな世界に来てしまったのだろうか。
「ソウスケ。お前には、これを見てもらわなければならない」
アガチは立ち上がって、ベッドのわきにあったラックから一枚の古びた紙きれを取ってきた。
受け取ると、それは新聞の切り抜き記事だった。
「これって……」
僕は思わず言葉を失った。
記事の見出しには『戦争激化』の文字が躍っていた。しかも日付は僕が修学旅行へと旅立った日から、約二十年後のものだった。
なんだこれは……。
頭が混乱の境地に達していた。
「ソウスケ。我々の世界の歴史では、ニンゲンがバイオテクノロジーによって我々獣人を作り出したことになっているんだ。そのきっかけとなったのが、その紙に書かれている戦争だったという」
「そんな……」
では、現在はその戦争が収束を迎えて久しい時代なのか。いや、つまりここはファンタジーの世界でも何でもない、僕のいた時代から地続きの未来ということになるではないか。
「ちょっと待ってくださいよ。こちらの世界では、未来では人間が少ないって言いましたよね? じゃあ、なんですか、僕と同じように過去から来た人間がいるってことですよね?」
「そうなるな」
じゃあ、木下さんたちもこちらに迷い込んでしまった可能性だってある。
「ねえ、僕の他に、僕と同じような格好をした人間がいませんでしたか?」
一縷の望みをかけての質問だったが、結果は芳しくなかった。
アガチは首を横に振った。
「お前のように、過去からこの時代にやってくる人間は確かにいる。ただねソウスケ。この世界では各地で似たような事例が報告されているが、最後に人間が現れた記録は、新しくても今から二百年ほど前のことなんだよ」
「その人たちは、どうなったんですか」
「ある者は自害し、ある者はここで天寿を全うし、ある者は消えた」
「そんなバカな! だって、だって僕は、矢口や赤城さんや木下さんたちと一緒に……」
こんなことって……。
アガチは憐みの目を僕に向けると、そっと席を立った。
「いまは落ち着いたほうがいい。きみは魔女にかどわかされたんだ」
「……魔女?」
「記録では、こちらに来た人間はみな口をそろえて、少女の笑い声に付いてきたと言い残している」
「少女の笑い声なんてしなかった! 僕はただ……」
息をのむ。僕はただ、木下さんの声について行った。不敵に笑う、声に。
アガチは「休め」と僕をいたわり、部屋を出て行った。
扉が閉まると、僕は一人取り残された。
静かになった室内で、僕は虚空を見つめるほかなかった。
悪夢を見ているようだ。
どこで何を間違ったのだろう。
答えは出ていた。あのとき、矢口や赤城さんの挑発に乗らずに、列にとどまっていればよかったのだ。
自然と、目から涙がこぼれてくる。嗚咽が漏れて、顔をうずめた。
涙は、止まりそうになかった。