【三題噺-ラグ、笹、傷】
包丁を握る彼女の手はいつも傷だらけだ。
「君もよくやるねぇ」
床に敷かれたラグの端っこに足を引っ掛けてすっ転んだ彼女は、ぶちまけられた笹掻きのゴボウを拾い集めながら「うるさい」と答えた。
「なんでそんな料理にこだわるのさ」
「うるさい」
「苦手ならさっさと白状してしまった方が、」
「うるさいってば!」
──あ、言いすぎた。
「君には関係ないでしょう、どうしていつも余計なことばっかり言うの!」
堪忍袋の尾が切れた、と言わんばかりに僕を怒鳴りつける彼女の目には、涙がたっぷりと蓄えられている。
床にぺたんと座り込んだままの彼女の姿はそれはそれは哀れで、僕は「あまりにも無様だから」という言葉を引っ込めた。
「……なんとなく、かな」
「ああそう、ならもう帰ってよ!」
決壊。
大粒の涙がぼたぼたと床に落っこちた。
「いいの、帰っちゃっても?」
「いい、いいに決まってる、帰って、もう二度と顔も見たくないよ!」
「…………はぁい」
僕はゆっくりと立ち上がって玄関へ向かう。
わざとらしくのんびり靴紐を結び直してから、彼女のアパートを出た。
「じゃあねぇ」
最後に、部屋の中へ声を投げた。当然ながら、返事はない。
──二度と顔も見たくないよ、かぁ。
彼女と出会ってちょうど十年。その言葉を聞いたのは何回目だっけ。
毎回翌朝には笑顔で「おはよう!」って挨拶してくるのにな。
茜色の空の下。足取りは軽やか。
今日彼女の部屋に行ったのは、彼女が「料理教えて!」と言い出したから。
そう、彼女は好きな男ができるたび、僕に料理の教えを乞うのだ。
累計六回くらい教えているけど、まともに身についたことはなかったっけ。
家庭的な女の子になりたい、という彼女の希望はわからないでもないけれど(何せ彼女は背が低くて黒髪が綺麗で、確かに家で夕飯作って待ってるのが似合いそうな風貌なのだ)、それはそれとして向き不向きはあると思う。
毎回それを伝えるけれど、彼女は毎回、決まって「でも、誰々君は私の手料理食べたいって」とかなんとか言うのだ。
たっぷり時間をかけて説明して、手本を見せて、横で手伝って、最終的には九割五分は僕が作る羽目になる。
彼女の恋人たちは、ほぼ僕が作った手料理を彼女の手料理として食べている。いいのか、それで。そもそも彼氏を呼ぶ前日に別の男を家に呼んでるのはどうなの。
「はーあ」
それに気づいていながら付き合っている僕も僕だって、わかってるんですけどね。
彼女の料理の成功を願いつつ、僕はアパートの駐輪場でチャリに乗った。
料理なんかできなくたって、君は十分素敵なのにな。
ああ、でも、好きな人のために苦手なことに立ち向かう姿は美しいかもしれない。その姿を見せる相手を間違えているのだけが致命的な失敗だけど。
──僕ばっかり彼女のことを好きになっていく。
それがあまりに腹立たしいから、明日の朝の第一声は、「二度と顔も見たくないんじゃなかったの」に決めた。
〈了〉