冷たい夜は、レナートが歌を歌ってくれる。まるで囁くように、摺れた声でおれの知らない歌を口ずさむ。ベッドの縁に腰掛けて、手を握って、おれの長い髪を梳きながら、赤子でもあやすみたいに。
 レナートは知っているんだ。冷たいことがあった夜、おれが眠れなくなることを。そんなこと、誰も知らないはずなのに。まるで誰かに教えてもらったみたいに。
 おれの中にある失いたくないものを、レナートは守ってくれているみたいだ。正しいことも間違いもおれには分からない。それすらもレナートは、ゆるしてくれる。
 窓の外には冷たい空気がある。雪が、降っている。
 耳に触れる知らない音。知らない言葉が紡ぐメロディ。知らないそれを、おれは子守唄にして眠る。
 レナートは、あたたかい。
「……レナート」
 レナートの書斎は壁一面が本棚になっていて、その全てが書物で埋め尽くされている。ついでに、床も収まりきらなかった書物で埋め尽くされている。
 なんでも出来て、なんでも知っている。一見完璧に見えるレナートだけれど、片付けだけはからっきし。戦闘と片付け。この二つに限っては、おれの方が得意だ。
「眼鏡、また歪むぞ」
「修理に出せばいい……」
 地を這うような声が、地べたから聞こえてくる。書類と書物の山の中から、その声は聞こえていた。
 書斎の隣の部屋で眠っていたおれは、雪崩の音で目を覚ました。跳ね起きて書斎の扉を開けると、異国語の本と極秘の印が押された書類の隙間から銀の尾が覗いていた。よくある光景に、いつものように溜め息をついた。
「だから定期的に片付けようって言ってるんだ」
「何処に何があるかは分かっているから困らない」
「崩れたら、分かったもんじゃないだろ」
「大体は、分かる……」
 肩口の埃を払いながら、レナートは少し不満そうな顔をした。雪崩が起こると片付けの時間だ。きっとそれが嫌なんだろう。
「おれも手伝う。このままじゃ、ろくに朝食も食えやしない」
「別に朝食はここでなくたって」
「レナート」
「……分かってる」
 なんでも許して受け入れるレナートが、片付けを前にしたときだけ駄々をこねる子供のようになる。このときばかりはこの世界でただひとり、おれだけが彼をゆるしてやれるような気がして、きっとこれはレナートの欠点のはずなのに直してほしくないと思ってしまうんだ。
「立てるか」
「ん……ありがとう、ダニー」
 手を差し伸べる。レナートは少し困ったように笑いながらおれの手をとった。
 部屋の惨状を見るに、デスクの横の本の山が倒壊したらしい。それがデスクに広がっていた書類を巻き込んだようだ。重要な書類からレナートに拾ってもらって、おれは散らばった本を集める。おれにこれらの本のタイトルが読めるだけの学があれば、ジャンルごとに分類してやれて、普段からもっと整頓された書斎にすることが出来るのに。ないものねだりをしながら、せめてもの足掻きとして文庫本、新書本、ハードカバー、雑誌と散らばっているそれらを規格別に本棚の側へと積み上げてゆく。
 レナートの動きは非常に遅いが、普段の片付けからの逃避っぷりからすれば奇跡のようなものだ。書類を任せたのも良かったのかもしれない。彼に本の整理を頼むと、そのまま紙上の世界に入り込んでしまうから。レナートは時折目を擦りながら、紙の上下や裏表を全く気にすることなく書類を机上に積み上げてゆく。彼もきっと寝起きだったのだろう。
 そういえば目を覚ましたとき、シーツは未だあたたかかった。
 分厚いハードカバーの書籍。かろうじて読めはするけれど意味がよく分からないタイトルの文庫本。ファッション誌には栞代わりに学術雑誌が挟んである。目印のページをちらりと見てみると、とんでもない桁の数字が並んでいた。また無駄遣いしようとしている。
 それらを分類しつつ床を目指していると、表紙の摩りきれた本が一冊出てきた。一見辞書のようにも見えるがそれはハードカバーであり、辞書とは少し違うように見える。
 角が捲れた表紙を、そっと開く。
「……これは」
「ダニー、他人の私物をあまりじろじろ見ないでくれ」
 タイトル、数字、そして異国の言葉。その先にはおたまじゃくしが続く。おたまじゃくしには詩が添えられている。
「レナート、これは何の本だ?」
「聞いているのか……ああ」
 小言を漏らしながら、レナートがおれのほうへと向き直る。振り向いた瞬間は眉根を寄せていたのに、おれの手の中のものを認めた瞬間に何故だか悲しそうな、それでいて懐かしそうな顔をした。
「讃美歌だよ」
「さん、びか」
 さんびか、讃美歌。
 あれだ。おれの認識が間違っていなければ、教会とかで歌われるやつ。レナートが信じるものに捧げる歌。
 おれの想像が間違っていなければ、レナートが歌ってくれる子守唄だ。
「聞いたことあるだろう。君も、一度くらいは」
 いつの間にか、レナートは書類の山へと帰っていた。紙束の向こうから声だけが聞こえている。
「……レナートがそういうなら、そうなんだろうな」
「ああ」
 それ以上は何も言わなかった。何も言わず、ただ黙々と部屋の片付けを続けた。朝食にありつけたのはそれから何時間も後で、その頃にはもう朝とも昼とも言えない時間になっていた。これからはちゃんと片付けをするようにとレナートを叱ると、彼は自分のモーニングプレートの上のナゲットをひとつ、おれの皿に載せた。食べ物なんかで釣られないからなと言い返すと、彼はばつの悪そうな顔をした。
 そんな顔をしたって無駄だ。おれはもう騙されない。その表情にも、譲ってくれるおかずにも。
――――
 その日の夜も眠れなかった。おれが眠れないと、まるでそれを分かっているみたいにレナートがおれの部屋へとやってくる。
 家なんてものがなかったおれに宛がわれた、築百年はくだらないアパルトマンの一室。遠くない昔、薄暗い地べたから見上げていた世界の一部。そこには硬いマットレスの敷かれた古い木製のベッドと、戸を開く度にぎしぎしと音を立てるクローゼット、そして、出窓に花瓶が置かれているだけ。その出窓はオリエル窓なんて呼ばれるのだと教えてくれたのは、当然レナートだ。
 小さなノックがひとつだけあった。応えずとも扉は開いた。起きているか否かなんて、気配で分かっているからだ。何かをふたつほど置いた、ことりという音がして、そして彼はベッドで眠ろうとあがいている可哀想なおれの隣に腰を下ろした。
「最近、特に寝つきが悪いようだが」
「……よく見てるんだな、おれのこと」
「当然だ」
「照れるな」
「な……っ、そういう意味じゃない……」
 まるで照れ隠しみたいに、ばらばらに解れて散らばった髪の毛をレナートの指が梳かしてゆく。想像よりもその指先がずっと温かいということは、身を以て知っている。おれが一番知っている、というのは驕りだろうか。もし驕りだとしても、そうあってほしいと思う。
 外は冷たい。雪が積もっている。おれの冷えきった身体は、もっとつめたい。
「飲むか」
「……ん」
 レナートの手がおれの頭をかき回す。それをやんわりとどけながら、身体を起こした。
 ときどきレナートはおれのことを酷く子供扱いしてくる。歳なんて大して変わらない筈なのに。もっとも、年齢なんて個人情報をおれは知る由もないのだけれど。
 出窓の傍に置かれていたのは、ふたつのマグカップだった。それは湯気を立てていて、きっとホットミルクが注がれているのだろうと想像がつく。この前もホットミルクを入れてくれた。きっとレナートの好みで蜂蜜が混ぜてあって、ほんのりと甘いのだろう。
 カップに息を吹きかけて冷ましているレナートの隣へと腰掛ける。彼は猫舌だった。
 窓際の、夜と白に照らされてぼんやりとしたマグカップを持ち上げる。温かいミルクがカップの半分くらいまで注がれていた。そっと口をつけてひとくち含む。甘い。いくらなんでもこれは蜂蜜の入れ過ぎだ。
「……甘い」
「蜂蜜を先に入れたら、ミルクが足りなかったんだ」
 レナートは未だ自分のカップを冷ましている。
「じゃあ、明日買いに行こう。一緒に」
「そうだな」
 やっとレナートもカップへと口をつけた。ひとくち飲んで、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せる。流石の彼にも甘過ぎたらしい。お互い、ふたくち目にはなかなか手が出なかった。
「捨てるのも、勿体ないよな」
「そうだな。……フランスパンがあったはずだ。それを浸して、フレンチトーストにしよう」
 レナートは少し考えて、そう言った。二つのマグカップに半分ずつしか入っていないのだから大した量はないけれど、使うのにはちょうどいいかもしれない。
「おお……」
「ふっ……なんだ、その間抜けな顔は」
「間抜けじゃない……ただ、いい発想だなって思っただけだ」
「昔読んだレシピ本に載っていたのを思い出しただけだよ」
「レシピ本……」
 床よりも紙束の山の方が面積の広い書斎を思い浮かべる。あの中にはレシピ本もあるのだろうか。本が多過ぎて、見掛けた記憶はない。
「もうすぐクリスマスだし、ターキーのレシピでも探しておくか」
「……あの中にあるのか?」
「ある」
「誰が探すんだ」
「大体の場所は覚えている。……多分」
 これが、うちのリーダー様だ。溜め息を吐くと白い水面に波が立った。
 そうか。クリスマスが近いのか。最近の寝つきの悪さと曇った窓ガラスに、ようやく合点がいったような気がする。この時期はいつもこうなのだった。忘れていた。
「……クリスマスが近付くと、眠れなくなるんだ」
「そうだったのか」
 甘すぎるミルクのカップを窓際に戻したレナートは、大袈裟に表情を変えるようなこともなくただ静かに相槌を打った。
「昔のことだからあまり覚えていないが、何か嫌なことがあったからだった気がする」
「……そうか」
 レナートはおれのほうへちらりと視線を向けて、それから軽く頭を撫でていった。
「だが、明日は早いからな。ミルクを買いに行かないといけなくなった」
 だから早く眠ったほうがいい。そう言って彼はおれを再びベッドへと押し込んだ。
「君が眠るまで、僕が傍に居てやるから」
 雪より白く、おれよりもあたたかい手で頬を撫でながら、酷くやさしい微笑みを浮かべて。
 不思議なことに、その体温に触れていると遥か遠くに置いてきてしまったような気すらしていた眠気にふっと襲われるのだ。どうしてだろう。レナートも寝たほうがいいんじゃないのか、とか、声を掛けてやりたいのに。思考に反して瞼はどんどん重くなってゆく。
 瞼がすっかり閉じきってしまった頃、意識の遠くで歌が聞こえた。
――
 追われている。あれは確か、ストリートの花屋の隣にある釣具屋の店主と、その向かいのバルの店主。二人に共通しているのは、自分の店の仕事以外に警察職員の肩書も持っているということくらいだ。アイツらはスラムに住むおれたちみたいなののことを毛嫌いしていることで有名だから、じめじめした路地裏の世界ではそこそこの常識だ。異常に正義感が強くて、その正義感で痛い目を見るのはおれたち。大抵のヤツは何も悪いことなんかしていないのに追われただとか捕まっただとか、そんな話だ。そんな奴らにおれは追われている。もちろん追われる理由なんて、心当たりはない。
 心当たりはないけれど、見当はついている。昨日積もった雪の残る石畳を踏み締める度にがさがさと音を立てる、腕の中の紙袋。それからは袋に収まりきらなかった棒状のそれの先端が飛び出していた。やきたてのフランスパンだった。
 彼らは何も知らない。何も知らずに、スラムのガキが焼き立てのフランスパンなんて持っているのはおかしいと、追いかけてきているのだ。迷惑この上ない話だ。
 これは街よりもスラム寄りに店を構えるパン屋のおかみさんがくれたものだ。ほかでもない、おれのために。
 彼女は元々スラムの出で、そのパン屋に嫁いでいった人。だからときどき内緒で、おれたちに売れ残ったパンを分けてくれていた。そして誕生日には特別だと言って、焼き立てをくれるのだ。
 今日はおれの誕生日らしかった。らしい、というのはおれにはとっくに親なんていないからで、昔誰かがそう教えてくれたからだった。だから本当かどうかなんてわからない。お前の誕生日はクリスマスの四日前だぞ、と言われたのを勝手に信じているだけだから。当然、何歳になったのかだって分からない。エディは十歳くらいなんじゃないかって言ってた。エディがそう言うのなら、そんなものなんだろうと思う。
 本当の誕生日かもわからない今日を善意で祝ってもらって、謂れのない罪で追いかけ回されている。どうして逃げているんだろう。冷たくなりつつあるフランスパンを虚しさを一緒に抱き潰しながら、おれは凍りかけの石畳を蹴り続けていた。
 諦めればいいのに、たかがフランスパンひとつ。パン屋に確認を取ったわけでもないくせに。何が彼らをあそこまで駆り立てるのだろうか。余計なことばかり考えながら走っていたから、いつの間にかスラムとは真逆の方向へと来てしまっていた。この辺のことは全く分からない。背の高い建物の並ぶ街の方とも、その陰に隠れた薄暗いスラムとも違う、独特の空気が漂っている。
 古い建物が視界に入って、自然と足が止まった。決して背の高いとは言えない建物。今にも崩れそうにすら見えてしまう。だんだんと足音が近付いてくるのが聞こえているのに、なぜだか身動きが取れない。
 そこから、何かが聞こえている。
「うた…?」
 冷たい空気に混じって音がする。それは扉の先から聞こえている。近付いてくる怒号も足音もどうでもよくなる音だった。おれの足は、自然とその建物へと引き寄せられていた。
 煤けた扉は開いている。音を立てないようにそうっと入り口をくぐる。
 そこにあったのは、光だった。
 奥の壁一面を、色のついたガラスが埋め尽くしていた。太陽の光をそれが全部吸収して建物の中を照らしている。何列にも並べられたベンチを、女の人の形をした像を、そして、ちいさなひとりの人を。
 ひとがいた。いくつか並んだベンチの後ろ。うたを歌っていた。おれと同じくらいの、こどもだった。
 そのひとはガラスを吸い込んだ赤の、緑の、黄色のひかりを全身に浴びて、歌っている。光を浴びた長い髪の毛はおそらく銀色で、その光とおんなじくらいきらきらと輝いている。後ろ姿じゃ表情なんかは見えないけれど、ふわふわのコートから覗く雪より白い手が胸のあたりで組まれているのは分かった。
 うたの歌詞の意味はよく分からなかった。たぶん異国語なんだと思う。
 上手か下手か、分かりようもなかった。だけど、高い音になると時々擦れるその歌声がすきだと、直感的に感じていた。
 おれは、扉の前で立ち尽くしていた。
「追いついたぞ! スラムのガキが調子に乗りやがって……」
「自分から逃げ場のない場所に逃げ込んでいくたぁな。所詮は掃き溜めぐらしってところか」
 歌が止んだ。ただっ広い空間には、ふたりの男の声だけが響いた。全然綺麗じゃなかった。
 後ろ姿だったひとが振り返った。金色の瞳はおれを見て、それから入り口の男二人を見据えた。きらきらしている。窓のガラスなんかよりもずっとずっと、煌めいている。おれはかみさまとかてんしとか、そういうものはなにひとつとして信じていないけれど、もしも本当にそういうものがいるんだとしたら、きっとこんな見た目をしているんだろう。
 綺麗だと思った。綺麗じゃない世界に住んでいるおれがそう思うんだから、きっと誰だってそう思うはずだ。
「……何?」
 その子が口を開く。歌声とおんなじだけど、それより少し低い声。刺すような声だった
「君は……このガキのお友達、ってわけじゃあなさそうだな。悪いな、邪魔をして」
「俺たちはそいつを捕まえに来たんだ。すぐに帰るから気にしないでくれ」
 男たちはその子を見定める。ふわふわのコート、よく手入れされた髪の毛。スラムの者ではないと判断したんだろう。至って普通の、気前のいい釣具屋の、あるいはバルの店主として声を掛ける。人あたりのよさそうな微笑みを浮かべながら。だけど、その子は男たちへの視線を緩めようとはしない。
「彼は、何?」
 その視線は、次におれを射抜いた。息が詰まる。金色の光は、ガラス越しの太陽よりもまぶしい。
「そいつか? 見たらわかるだろう、パンを盗んだんだよ。それもふわふわの焼き立てをだ」
「っ、おれは、盗んでなんか――」
「口答えするんじゃねえ! テメェみたいなカビの生えた路地裏に転がってる連中が、そんなもの持ってるわけがないんだ!」
 男二人がぎろりとおれを睨む。この場にある瞳がすべておれのほうに向けられていて、その圧に思わず紙袋を強く抱きしめる。
「……盗んでなんか、いない」
 金色だけを見つめて、そう零した。それから数秒間があって、金色はすうっと和らいだ。
「もしかしたら不躾なことを言うかもしれませんが……」
 その子は男たちの方へと近付いてゆく。歩く度にこつこつと靴が床を叩く音がする。よく磨かれた、革の靴だ。
「あの子は本当に、盗みなど働いていないと思いますよ」
 やがてその子は二人の前で立ち止まり、そう言った。決して臆することなく、真っ直ぐに二人を見据えたまま。
「……君みたいないいとこ育ちの子には分からないかもしれないが、世の中には自分のことしか考えずに平気で盗みを働くような子供もいるんだよ。そういう子がそのまま大人になったらどうなると思う? 何をしでかすか分かったもんじゃない。だから今のうちに、ろくでもない大人にならないよう『教育』が必要なんだよ」
 ろくでもない大人はどっちだと言ってやりたい。だけどおれには、そいつらを睨みつけることしか出来ない。
「ろくでもない大人はどっちだ。どうせ、ろくに確認だってとっていないんだろう? 大方、こんな薄汚れた少年が焼き立てのパンを持っているのはおかしい、盗んだに決まっている! という短絡的な思考で追いかけてきたんだろう。街から、こんな外れの教会まで」
 大人たちは、ぽかーんとしていた。おれもきっと呆けた顔をしている。それもそうだ。その子はまるで、おれの気持ちを読み取ったかのような言葉を発したから。二人の大人はきっと、目の前の子供が思いもしなかったことを口走り始めて混乱しているのだろう。
「なっ……」 
「僕は彼が盗みを働いていないことを証明できる。お前たちには出来るのか? 彼が盗みを働いた、という証明が。出来るなら聞かせてくれよ」
 大人たちは押し黙ってしまった。それもそうだろう。おれは本当に盗みを働いていないのだから、証明なんてしようがない。
「だ、だが……」
「今、お前が語ろうとしているのは事実か? 妄想か? もし後者ならば、聞く価値はない」
「この……黙って聞いてやってると思えば調子に乗りやがって……だったらやってみろよ、その『証明』とやらを」
 引き攣った顔と上ずった声で、釣具屋の店主はそう言う。その子は怯まない。
「紙袋」
「あぁ…?」
「紙袋に入っているだろう、あのパンは。もしもあれが盗んだものだというのならば、それが店の紙袋に入っているのはおかしいとは思わなかったのか?」
「……あ」
「それに、今日の日付が記されたシールも張られている。改竄の痕跡もない。そもそもベーカリーには確認を取ったのか? 確認を取れば必ずいるはずだ。彼に焼き立てのパンを包んだ店員が、必ず」
 とうとう二人はうんともすんとも言えなくなってしまった。釣具屋の店主は顔を真っ青にして、バルの店主は顔を真っ赤にして。対するその子は、きゅっと目を細めて笑っている。
「そういう訳だ。……お引き取り願えませんか? モーリス釣具店のご主人に、バル・マロニエのオーナー、ルロワさん」
「な、なんで俺たちの名前を……」
「父が贔屓にしているんですよ、お二人のお店。名前を言えば分かります? 父の名前は――」
 その名前を聞いた途端、こんな街はずれまで追いかけ回してきた執念はなんだったのかというくらいの潔さで二人は踵を返して出て行ってしまった。そこはあっという間に静かになった。
「父親の名前なんて、本当は使いたくないんだけどな」
「……きみは」
 男たちの背中を見送ったその子は、おれの方を見て微笑んだ。
「怪我とかしてないか? 最低限の治療くらいなら心得ているが……」
「きみは、かみさまのこども?」
 きらきらの金色が、まんまるに見開かれた。ぱちぱちとまばたきをして、そして今度は声をあげて笑った。
「僕はかみさまなんかじゃないよ。ただの子供。ただの、人だ」
 こつこつと靴の音が近付いてきて、その子はおれの目の前に立った。
 雪より白い手がおれの頬を撫でる。勝手につめたいと思っていたそれはとてもあたたかくて、少しだけ驚いた。 
「ただの人だから、こうして歌っているんだ」
 その手はすぐに離れていった。どうしてだろう。それが惜しいと思った。
なんで、おれの味方なんかしてくれたんだ」
「それは……さっきも言った通り、君が盗みを働いてなどいないのは明白だったからだ。それに……自分自身の正義に陶酔しているようなやつには何も守れやしないから」
「……むずかしい」
「ふっ……悪い。簡単に言うならば、まっすぐな目をした君を守りたかった。ただそれだけだよ」
 その子は笑う。走り回ってぐしゃぐしゃになってしまったおれの髪の毛に指を通しながら。
 不思議だった。今まで自分の目で見て聞いてきた上の世界の人間たちは、みんなおれたちのことなんてゴミのようにしか見ていなかったのに。その子の手はあたたかくて、そして優しかった。
「このパン、誕生日プレゼントだったんだ。スラムの近くのパン屋、知ってるか? あそこの女将さん、誕生日だって知ると誰だってかまわず焼き立てのパンをプレゼントしてくれるんだ」
「そういうことだったのか」
 白い手が離れてゆく。触れられていたところだけが妙に温かくて、おれ自身はかなしいくらいにつめたい。心地のいい温かさだった。
 知りたくなかったなぁ、と思う。おれにはきっとこれを手に入れることは出来ない。何も知らないおれにだって、分かってしまう。手放さないといけないのに、手放したくないと思ってしまう。
 ここには罪を赦してもらうための場所でもあると、聞いたことがある。もし手放さなくて溺れてしまいそうになったときは許しを請おう。信じても居ない、かみさまに。
 手が離れて、その子は遠ざかってゆく。元々遥か遠くの存在だ。もとに戻るだけ。
「な、なぁ!」
「……うん?」
「これ、一緒に食わないか…? 助けてもらったお礼……にもならないかもしれないけど……」
 わかっているけれど、今だけは。
「いいのか? 君へのプレゼントだろう、それは」
「誰かと食べた方が、うまい」
「……そうだな。じゃあ、一緒にいただこう」
 離れていった手が伸ばされる。おれはそっと、その手を取った。
 フランスパンはすっかり固くなってしまっていて、ちぎるのにもなかなか苦労した、それでもなんとか少しずつちぎって、ふたりで食べた。すっかり冷えていたけれど、とてもあたたかくておいしかった。
「なあ、さっき歌っていた曲」
「ん? ああ、聞いていたのか」
「ドア、開いてたから……」
 その子は見た目に反して、と居たら少し失礼かもしれないけれど、案外ひとくちが大きかった。頑張ってフランスパンをちぎっても、ひとくちで消えていってしまう。次のかけらをちぎろうとしながら、おれは聞きかったことを口にした。
「讃美歌だよ」
「さん、びか」
「あれはクリスマスキャロルだ。クリスマスの前に歌うんだ。僕はあんまり歌がうまくないから、一人で居残りさ」
 ようやくちぎれたパンの欠片を渡すと、その子は眉毛を下げて困ったように笑う。
「下手なのか? おれはきみの歌、すごく好きだけど」
「……ありがとう」
 おれのほうを向いていたきらきらの金色がふっとそっぽを向いてしまう。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。あわてて話題を変えてみる。
「さっきのうたの名前、なんていうんだ?」
 あまり変わっていない。もっと頭の回転が速ければ。でもその子はまたおれの方を見てくれて、なんだかほっとする。
「さっきの曲か? あれは……」
 その子はベンチに置いていた本をぱらぱらとめくり出す。綺麗な表紙の、辞書みたいな本。ぱらぱらと過ぎていくページにはたくさんの文字とおたまじゃくしが並んでいる。さんびか、の本なのだろうか。
「これだよ」
 やがて、目当てのページを見つけたようで白い指が一つの文字列を指さした。太字で書かれたそれが、きっと曲のタイトルなんだろう。
「……おれは字が読めないんだ」
「そうか……悪い。これは……」
 透き通った声が、その曲の名前を紡いだ。
――
「……クリスマスキャロル」
 目を覚ますと、昼前だった。寝る前にミルクを買いに行かないとと言っていた当人も、隣ですやすやと寝息を立てている。ふたり仲良く寝坊だった。
 懐かしい夢を見た気がする。幼い頃の、まだスラムにいた頃の、まだ、『テオ』だった頃の。どうして今更突然、こんな夢を。
 夢の中で聞いた懐かしいうたは、懐かしいのに温かさを失っていなくて、手を伸ばせば触れられそうな気がした。もう何時の事かもわからないというのに。
「レナート」
 隣の人は起きない。存外寝起きが悪いのだと知ったのは、最近の話だ。
「レナート」
 雪より白い頬をそっと撫でる。温かい。
「……レナート」
 長い銀色を掬って、そっと口づけを落とした。それは窓から差し込む太陽の光できらきらと輝いている。
「んん……」
「おはよう、昼だぞ」
「ん……」
「買い物に行くんじゃないのか」
「……いく」
「じゃあ起きてくれ」
「んー…」
 任務がないのをいいことに、これはきっと二度寝コースだ。こうなったらもう、強硬手段で起こすしかない。
「レナート」
「ん……んんーっ! ンッ!? ん……っ、ダニー!」
「起きたか」
「永遠の眠りにつくかと思ったよ……」
 鼻を摘まんで唇を塞いでしまえば、酸素を求める身体は一瞬で覚醒した。唇を拭いながら、のろのろとレナートは起き上がる。
「おはよう。レナート」
「……おはよう、ダニー」
 金色の瞳がおれを睨んでいる。眼鏡をはずして視界が悪いからか、一層人相が悪い。
「そんな顔するな。綺麗な顔が台無しだ」
「絆されないからな」
「そんなつもりじゃない」
 おれを睨みつけてくる彼に、ご所望であろう眼鏡を手渡す。それを掛ければ、少しはましな人相になった。
「買い物、飯食ってからでもいいか? フランスパンのフレンチトースト、食べよう。おれが焼くから、身支度をしてきてくれ」
「……絆されないからな」
「くれぐれも書斎の本の山、倒すなよ」
「分かってる!」
 ふらふらと立ち上がったレナートは、おれの部屋を出ていく。おれも窓際に置きっぱなしになっていた二つのマグカップをもってその背中を追いかける。その足取りはなんだか軽かった。
 それはきっと、ふたりでわけあうフランスパンは美味しいということをおれが知っているからだろう。
出来上がりました!!!!ありがとうございました!!!!!!!
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雲雀
「かみさまとかてんしとか、」の平仮名表記が好きです…全体が丁寧に書かれていてすごく綺麗で死にました…
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きりひら
わ~ありがとうございます!全然気付いていなかった…ありがとうございます…!
253:52
雲雀
四時間も…!持久力が凄いですね…(?)
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雲雀
でも凄く進んでいるので凄いと思います…(?)
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雲雀
とても好きです…語彙力が失われるくらい好きです…綺麗な表現なのにくどくなくて読みやすいのすごい…
407:04
雲雀
最高に良かったです!!!!!!お疲れ様です!!!!!!
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二次創作は鮮度が命
初公開日: 2020年08月22日
最終更新日: 2020年08月22日
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WEBプチで頒布したいダニレナを書いています 今日中に終わらなくてもいずれはどこかにあがります