その晩は昨夜までの寝苦しさを嘲笑うかのような、涼やかな初秋の風と湿度が幻想郷中を覆っていた。
まるで夏の緩やかな終わりを告げるかのようような、束の間の秋の訪れ。その心地良さに人々はひと時、喧騒を忘れて夏の終わりのぬるい空気へと微睡んでゆく。
空は憂いの色も残さないほどの黒。木製アンティークの時計は午後二時の半ばを指している。古今東西の概念が入り混じる幻想郷において、特に東欧の常識を起点としているこの紅魔館にこの時の刻み方はややそぐわない気もするのだが、しかして宵闇の気配は草木も眠る丑三つ時。
ぱたり。
熱を帯びた水滴の音、だった。
それは例えば閉め切ったはずの蛇口から垂れる不気味な流水の音などではなく。
「お嬢様……そろそろ、私めにお情けを頂戴させてはいただけませんか?」
あまりにも弱々しく、なおも甘く扇情的な声を上げる十六夜咲夜。切なさげにその声を絞り上げたのは、城主レミリア・スカーレットのベッドの上、日中の彼女からは想像出来ないほど弱々しく、薄紅色のシーツをきゅと掴むように歪めさせた瀟洒なる従者そのものであった。
埃の一つも無く掃除された城主の部屋のフローリングに滴った、咲夜の股座から垂れ落ちる、艶かしい粘度の体液。潤んだ瞳の先に居る従者レミリア・スカーレットは、後ろ手にベッドへと倒れ込んだ咲夜を眺めたまま、言葉一つとして発さない。
しかし、その口元は官能的に口角を歪め、おおよそ少女のものとは思えないほどに興奮で頬を朱色に染め上げていた。
やがてレミリアがベッドに仰向けとなった咲夜の頬を、まずは何度も口付けをしてやる。そして流れるように首筋を、その幼さの残るあどけない指先で、ゆっくりと焦らすように撫ぜ下ろしてゆく。無論、その細く柔らかな指先には、今か今かと快楽と絶頂への期待も混じって、月夜の如く白い肌に滲んだねっとりとした汗が絡む。
徐々に頬から高さを下げつつも、合間合間には汗ばんだ柔肌をくすぐっていくと咲夜は甘ったるい嬌声を上げ、だが、どこかその度咲夜は不満げに唇を尖らせて我が儘そうな声にならない声を漏らした。
……永遠に幼き月と瀟洒な従者の淫らな指遊びは続く。咲夜の喉筋をぬるりと通り過ぎ、咲夜の薄手の給仕服はすっかり脱ぎはだけられ、ついに鎖骨から下へとかかり──というところで、
「ひぃあ……ぅ?」
不意にそのふしだらなスキンシップに動きが止まる。
レミリアは、ふと悪魔のように口角を持ち上げる。かと思えば、彼女は仰向けに倒れる咲夜の耳元へと前のめりになり、いつもより吐息混じりで語りかけた。無論、鎖骨や胸元を這わせる五指の陵辱が止まる事は無い。
「ねえ咲夜、貴女そういえば──」
「っ──!」
びくん、と大きく跳ねたのは咲夜の体。
その軽い絶頂は、幼く淫らな指遣いが性感帯への刺激を強めたから、ではない。太腿がまだびく、びくと軽く脈打っている。整えようとする息がやたらと乱れていくのを感じ──。
「まだ質問の途中でしょう?」
そう言って咲夜を責め立てる息遣いのままに、レミリアが空いた手で指を伸ばしたのは、咲夜のもう片側の耳、右耳たぶのピアス部。
「っっ! そこは! おじょ、さ、まぁ」
「見ていたわよ、耳も敏感で可愛い咲夜。うふふ。貴女、今日はずうっと肌着を濡らしてしまっていたのね?」
指先を使ってちゃりちゃりとピアスをくすぐるように揶揄うかと思えば、今度はその丸く幼い指の腹でまるーくまるーく安らぐような触り方で弄る。しかしその間も目の前に無防備にも倒れる発情した従者の耳には、妖しくもいやらしき吐息混じりの声が悦楽に浸る事を休ませてはくれない。
「……は、い。お嬢っ、さま、に……」
と、そこまで言うとレミリアは可愛らしい従者の両耳を苛めてやるのをやめてやり、仰向けに倒れる咲夜に、幼くて小柄な少女の体を見事器用に動かして、レミリアは咲夜に軽く覆いかぶさって、そうして真っ直ぐに咲夜の瞳を見つめる。その笑みに不敵さは崩れない。
噎せ返るような色香と劣情の一瞬の中で、ふと従者と悪魔の時間が止まった。
それはヒトであった頃の夜明けと朝の狭間のような深い紺碧ではなく、それよりはややマゼンタに近付いた、黄昏の時間が始まりを告げるように僅かな紅混じりの、紛いもののディープブルー。
「人間であった私めの血を啜って頂き、私の躰に流れる赤を、もっとレミリアお嬢様の紅へと、塗り替えて欲しくて」
興奮からの息切れをなんとか整えつつ、咲夜が熱混じりに口にする。
──浮かべていたレミリアの妖しき笑みは風が凪ぐように消え失せた。
次の瞬間。
そんな言葉を紡いでいた咲夜の唇は、レミリアによって熱く熱く塞がれていた。先ほどまで静かに瞳を合わせていたとは思えぬほど、むしゃぶりつくような口付け。ベッドが二人分の体重に軋む音が止まない。
それでいて二人が浮かべているのは、時に苦悶の表情であったりだとか、時に激怒や憎悪の表情にも見える。それはめちゃくちゃなキスだった。
少なからず、あそこまで愛情と性愛に塗れた感情がなければ、あの唇全体や舌の奧根まで使っている様を口付けというのは正しくないだろう。幾度かの息継ぎを挟んでは、それでもまだ足りないと、愛情に留まらず劣情や性愛のすべてをも確認し合うかのような激しい激しいキス。
……互いに、激しい息切れ。
互いを掴む力が弱まっていく。脳髄と指先の痺れが、少しずつまともなものへと戻って行くのを感じる。
二人はまだ、何も言わない。ただ、呼吸をある程度整えると、想い人を眺めるように甘く笑い合った。
ふふ、と甘やかな笑い声が木霊しあって、すっかり給仕服がはだけてしまった咲夜の胸元に、すとんとレミリアが柔く倒れ込んだ。
「咲夜。あなたを眷属に迎え入れられて、私は本当に幸せよ」
咲夜は愛する従者のその言葉は、最早驚きもせず、ただただ優しい声で返した。
「私も貴女と居られて幸せですよ。レミリアお嬢様」
そう言っては二度ほどレミリアの頭を優しく撫でてやる。そして、今度は自分の体全体を下げ、レミリアの頭部を自分の左首筋へと誘導した。ふふ、と聴こえる悪戯そうな吐息混じりは、今度はレミリアの左耳へと囁かれるものだ。
「それとも私なんかの血じゃ満足いただけませんか?」
レミリアの左耳に冗談混じりのからかい。大人の挑発、のつもりなのだろうか。相変わらず私の従者はどこかズレている。可愛らしくはあるものの、どうにも苛立たしいこの小娘には、すこしお仕置きだ──。
──ぷすり。
レミリアの犬歯が、咲夜の血管を突き刺した音がした。
◆◆
「好き、好きです……」
すっかり吸血もその他の寝る支度もレミリア達が済ませる頃には、空はすっかり白じむというよりも青く染まっていた。
遮光式の分厚いカーテンを閉め切った寝室に二人。丸まって眠っているレミリアの横で、吸血による快楽が未だ抜け切れていない咲夜は、うわごとのように主に愛の言葉を綴っていた。
「はいはい。そんなに言わなくても分かってるわよ。ほら、こっち来なさい?」
レミリアはそう言って自分の隣に、まだ少し離れていたスペースを手のひらでぽんぽんと叩いてやった。咲夜はやや申し訳なさそうに、だけれどしっかりとその中に入り込んできた。
「未だに咲夜のことを後悔して涙を流す事もあるけれど、結局のところ貴女は貴女なのよね。これからもよろしく、咲夜」
「……もとより。私はどんな時もお嬢様にお仕えすると誓いましたもの。改めてよろしくお願いします、お嬢様」
どちらともなく繋がれる手は、今は二人ともヒトではないためまだ少し冷たい。
ヒトであることとヒトでなくなること。
どちらの選択が正しかったのかは、これから先の未来にしか分からない事だった。