寝静まった邸宅の中をルイスは足音を忍ばせて歩んでいた。手には銀のトレイ。その上に載っているのはほかほかと湯気を立てるホットミルクが二つ。兄に所望されて彼の部屋へと運んでいる途中であったが「ルイスの分も一緒に」と言われたのが、些か不思議に思われた。また彼がホットミルクを欲しがることも珍しいように思って、何か形用しがたいものをルイスは感じていた。
ウィリアムの部屋の前に立ってドアを控えめにノックする。と、中からくぐもった声が答えて「失礼します」ルイスは礼儀正しくドアを開けて室内に足を踏み入れた。
「ホットミルクをお持ち致しました」
「ああ、ありがとう、ルイス」
長椅子に寛いだ様子で腰掛けていたウィリアムは手にした紙片から顔を上げてにこやかに弟を労う。既に寝支度を済ませた彼はガウンを纏い、室内の明かりは落とされて洋灯の柔らかな光だけが灯されていた。
こっちにおいで――ドアの前で所在なく立ち尽くしているルイスを手招きしてウィリアムは紙片を放って姿勢を正した。ルイスは言われるままに兄に歩み寄り、ローテーブルにトレイを置くと向かいの椅子に腰を落ち着ける。カップを「どうぞ」と兄に差し出せば、ウィリアムは両手でそれを受け取り、頂きます――仄かな甘さを漂わせる温かい飲み物に口を付けた。
「美味しい」
ふっと笑むとルイスも僅かに頬を緩めて自分の分のホットミルクに手を付ける。ふたりは暫くの間、無言だったがその沈黙は心地良いものであった。静寂に雨音が落ちるような、眠気を誘うような甘やかな沈黙。
「何だかルイスとこうして過ごすのは久しぶりのような気がするよ」
「ええ、本当に」
ウィリアムは大学で教鞭を執っているためにダラムとロンドンを忙しなく行き来しているし、ルイスも二つの邸宅の管理や細々とした執務に忙殺されている。“犯罪卿”としての任務のために顔を合わす機会は決して少なくはないが、しかしそれは“仕事”であるから、寛いだ雰囲気とは程遠い。兄弟水入らずとして過ごせる時間ははほとんどないのが実情だった。
「――それで。彼にはもう返事はしたの?」
出し抜けに問われてルイスは手にしていたカップを取り落としそうになった。俄かに耳が熱くなる。彼とはモランのことである。
「兄さん、どうしてそれを――」
誰にも明かしていなかったのに――居たたまれなくなって俯く。するとウィリアムは小さく笑って「少し前に彼がぼやいていてね。どんなゲームより難しいって」そんなこと言う。
「兄さん、僕は――」
「ルイス。君が彼を望むなら、そうしたら良い。誰の赦しも要らない」
只彼との関係は秘匿する必要はあるけれどね――眉尻を下げてウィリアムは微笑む。
「僕はね、君には幸せになって欲しいんだ」
出来ることならその手を汚して欲しくはなかった。
この手で作り上げた美しい世界に生きて、見届けて欲しかった。
ルイスにとって酷な望みだと知っていても、尚。
何よりも、誰よりも、大切で、愛しい存在であったから。
ウィリアムは立ち上がるとルイスの傍らに座る。
「僕はこの世界が嫌いだ。だからこの世界を蝕む呪いを打ち砕こうと思った。全ての悪魔に鉄鎚を下し、醜悪な世界を焼き払おうと思った。そしてそれを今、僕達は実行をしている訳だけれど――僕がこの計画を立てて遂行している理由はね、只この世を憎み、嫌悪しているからだけじゃない」
ウィリアムはじっとルイスを見詰め、火傷の痕が残る頬をそっと撫ぜる。優しく、愛おしむように。慈しみの眼差しを弟に注ぎながら言葉を継ぐ。
「それはね、ルイス。君がいたからだよ」
君がいたから僕は独りじゃなかった――ルイスを抱き締める。ルイスは目を見開いて兄の言葉を聞いた。初めて明かされた彼の真情に驚きながら、兄の心を想った。其処にある孤独の影を感じ取った。大学では良き指導者として生徒達に囲まれ、“犯罪卿”として計画の中心にいて仲間から敬意を以って慕われている彼であっても、その胸の裡は誰も触れられず、踏み込むことも敵わない。只ひとりを除いて。
「……兄さん」
ルイスは恐々とウィリアムを抱き返す。
「兄さんは、僕が幸せになれば、幸せになれますか?」
「勿論だよ」
「それなら……、兄さんも幸せになってください。僕のために」
兄さんの幸せが僕の幸せだから――ルイスは体を離して真剣な眼差しでウィリアムを見詰める。
ミルヴァ―トンの別邸から戻る際に、馬車の中で聞いた兄の言葉。
今、思い返しても止めてくれと叫び出しそうになってしまう。
でも、きっとそれは口にしてはいけない望みだろうから。
「……うん。そうだね」
淡く微笑してウィリアムは頷く。紅い瞳が寂し気に細められる。
「ルイス。君が僕の弟で良かった」
ほとんど独り言のように呟かれた言葉はまるで別れを告げるような気色を含んでルイスの胸に突き刺さった。不意に泣きたいよう気持ちになって鼻の奥がつんと痛くなる。だけれども、ルイスは無理に笑みを作った。
「僕はずっと兄さんの弟です。僕も、兄さんが僕の兄さんで、幸せです」
「ふふ、ありがとう」
ウィリアムはルイスの頭を優しく撫でて、もう一度抱き締めた。
兄の柔い腕の中で薄く目を伏せながら、今夜のことはずっと忘れないでいようとルイスは思うのだった。