「あ〜つまんねっ」
 フロイドは一番座り心地のいい皮張りのソファにゴロリと寝転がったかと思えばすぐに飛び起きて、忙しなく調度品の間を歩き回った。鑑賞用に設えた透き通るガラスの向こうで夜の海が黒々と渦を巻く。閉店後のモストロ・ラウンジには穏やかなジャズミュージックもなく、さっきまでフロイドの口の中で噛み砕かれる哀れな棒付きキャンディのうめきが聞こえていたのだが、ジェイドがパスタを食べ終わる頃にはキャンディの白い骨が刺々しい歯に噛まれて上下に揺すぶられていた。
「ねぇジェイド、今日のイソギンチャクモドキなんだよ、あれ。抵抗って言葉知らねーのかな」
「存外聞き分けのいい方でしたね。フロイドにはわざわざ出勤していただいたのに、僕の見込み違いでした」
 キッチンで洗い物をしながらジェイドは双子の片割れにそれとなく詫びた。
 「全然話が違ぇじゃん! あいつがアズールと契約すれば楽しいことになるからってジェイドが言うから、めんどくせー小細工仕掛けて俺が契約まで持ってったのに!」 
 いつものように高くて甘い声で駄々をこねているだけなら可愛いものだが、「っざけんなよ」と低く吐き捨てる矢印をジェイドに突き刺してくるのは少々いただけない。間違いなく、手脚の出る喧嘩になりそうだ。
「あちらがあっさりユニーク魔法を手放したのは想定外でしたが、フロイドもいけません。あんな脅しをかけたら、凶暴な鮫だって背鰭を差し出してしまいたくもなりますよ」
「はぁっ!? 俺のせいってわけ?」
「僕が『話し合い」を続けようとすれば相手はのぼせ上がって手を出してくるから、それまでは黙って控えていなさいとアズールにも言われたでしょう。最初から喧嘩腰でどうします。楽しくするための段取りを崩したのはフロイドですよ」
 キュッと水道の栓を閉める音にダンッと鈍い音が重なった。フロイドが地団駄を踏んだ衝撃で真横のガラステーブルがキリキリと小さく軋みを訴える。
「あんな脅し文句その辺の雑魚でも言うじゃん! その程度で腰抜かす奴を見つけてきたジェイドの見る目がなかったんじゃねーの!?」
「先週、『そんなにピアノが大事ならお前の歯もピアノの鍵盤とお揃いにしてあげる』とペンチで契約者の歯を抜いてさしあげたことは忘れてしまいましたか」
「ちゃんと魔法薬で元に戻してやったじゃん!」
「そういう話ではありませんよ。さぁフロイド、遅くなりましたから部屋に戻りましょう。今日は店じまいです」
 ジェイドがマジカルペンを振れば照明が落ちる。「今日はここで寝る」とヘソを曲げるかと思いきや、フロイドは大人しくジェイドの後についてラウンジを出た。
 物理的に錠を落とした扉へさらに魔法を重ねがけすれば、青い電流がぢりりと扉の表面を這った。ラウンジのVIPルームには金庫を初め、大切なものが所狭しと置かれている。金、宝石、魔導書、契約書。これを狙って良からぬことを企む輩が扉に攻撃を加えるとちょっと痛いお仕置きを受ける仕掛けだ。もっとも青い電気はそうした輩への威嚇と一般生徒を扉に近づけないためのホログラムで、これはラウンジオーナーのアズールが可哀想なイグニハイド寮長からチェスの賭け勝負に勝って巻き上げてきたらしい。
「お疲れ様でした、フロイド」
 返事の代わりにフロイドは口に加えていたキャンディの骨を吐き捨てた。ジェイドはそれをつまみ上げてポケットにしまい、部屋への道を歩き出す。自室に戻るには下級生の部屋前を通らなくてはいけなくて、殺気立つフロイドを見かけて来た道を引き返す後輩もちらほら。もう消灯時間間際とあって廊下を出歩く人影自体少ないが、「ヒッ」と声を上げて用務室へ続く廊下を曲がった小魚にフロイドは大きな舌打ちを響かせ、ジェイドは小さくため息をついた。
「どいつもこいつも弱くてビクビクして……てめぇら絞め甲斐ねぇな! おい!」
 誰もいなくなった廊下に向かって吼えるフロイドに、ジェイドは今度こそ聞こえよがしにため息をついて振り返った。
「フロイド、そんなに言うなら僕がお相手して差し上げます」
「は、どういう風の吹き回し〜? めったに手ぇ出さねぇのに、溜まってんの?」
「部屋のテラリウムを割られては困りますので。談話室ならそのうちストップもかかるでしょう」
「セコンドなんていらなくね。死ぬまでやろ? 俺そーいう気分だから」
 少し歩けば談話室。可哀想な寮生がうっかりソファで寝落ちていないことを祈るしかない。ジェイドが向かう脚を早めれば、フロイドの靴音もついてくる。急き立てるような歩調にだんだんと背後の息遣いが荒くなる。
 それが一瞬、消えた。
 ジェイドは談話室に滑り込むと壁際に張り付くように大きく右に飛んだ。残像に突き刺さるフロイドの飛び蹴り。勢いを殺すように小さくホップしたフロイドのまなじりがジェイドを捉えてとろりと下がった。
「あは、さすがジェイド。ジェイドが相手してくれんなら少しは楽しめそうじゃん。ねぇ、本気でぎゅーって絞めてもいいよね?
だめって言ってもやるけど。今日のお楽しみ、ジェイドのせいで台無しだったし」
「それはこちらの台詞です。この1週間考えた台本を台無しにされて、僕もフラストレーションが溜まっているんです。だから、骨の一本や二本折れちゃっても許してくださいね」
「あ〜、だからあれは俺のせいじゃねぇって、いってんじゃん!!」
 フロイドが右の拳を振り上げる。遊びに誘う一撃だ。ジェイドはその誘いに乗った。
 鏡映しのように左足を大きく一歩、右の拳を振り上げて殴りかかる。体を右にスリッピングさせると見せかけ、膝を撓め腕をかいくぐり懐へ。素早く半歩前に出した右足に重心乗せて左に反転。勢いを乗せた左肘がフロイドの鳩尾を抉った。
「ぅおげっ!」
 フロイドの頭から帽子が落ちるより速く、回転に任せたジェイドの右拳はフロイドの膝頭を殴って、サイドステップ。背後を取る。低い体勢のまま、踏みとどまろうとしたフロイドの腿裏へ右肘の一撃。たまらず膝が折れて低くなった後頭部に畳み掛けるように狙った掌底突きは、しかし、横に転がって躱された。
 この辺りまではジェイドの想定内だ。もっともフロイドにとっても想定の範囲内だろうが。
「いまの首が折れるやつじゃね?」
「兄弟ですからね。あまり苦しませたくありませんので」
「殺る気あっていいじゃん♡ もっと楽しもうよぉ」
 肩からストールを剥ぎ取り、寮服のジャケットから腕を抜いたフロイドは、ノールックでそのジャケット投げた。ジェイドに向かって。
 広がったジャケットは蛸が墨を噴くように、一瞬、ジェイドの視界を奪った。バックステップが間に合わない。軽く浮いた両脚がものすごい勢いで刈られて平衡感覚が狂う。左肩に衝撃。叩きつけられた反動で側頭部を打ちつけてくらくらした視界に喜色満面のフロイドが拳を構えた。防御反射が間に合わず頬骨に二発、鋭いパンチを喰らう。鼻先を狙わないのはまだ遊んでいる証拠だ。腹の一番柔らかいところに遠慮なく尻を落とされて、さっき食べたパスタが戻って来そうになるのを気合で飲み込んだ。 
 遊びのうちに終わればいいんですが。
 三打目を躱し、膝を立てる。馬乗りになっているがマウントの固め方が甘い。四打目を左手で外にいなしつつ腕を引っ張る。がら空きのまま近づいてきた首を掴んで、そのまま膂力に任せて一気に床に組み伏せた。
「ぉわっ!?」
 重心の高い体はあっけなくひっくり返ったが、そのまま寝技に持ち込もうとしたジェイドの肋骨が嫌な音を立てた。
「はは、ストライクいけっかも〜!」
 フロイドの鉄板入りの靴の踵が肋骨の角を引っ掛けて思い切り蹴り上げた。まずい。長い脚で跳ね飛ばされてジェイドは壁際まで吹き飛ぶ。長躯の直撃を免れた観葉植物たちがざわりと葉を震わせた。
「あはははは、はずれー。そんな簡単に乗らせねぇよ?ここベッドじゃねぇし」
「っ、野外ではあんなに乗り気なのに。わがままですね」
 立ち上がりざまジェイドがファイティングポーズを構えれば、だらりと腕を落としたままだったフロイドも軽く構えた。間合いを測りながらだらだらとジェイドを取り巻くフロイドに対して、ジェイドは重心を低く、体の正面でフロイドをとらえる。飛んでくる右ストレートを軽くいなして半歩前へ入るとこめかみへ一撃。脳を揺らす。ぐらついたように見せて間合いを取り戻しにいったフロイドから風を纏った蹴りが飛ぶ。腕で防いでも体ごと持っていかれる重さはジェイドよりも速く泳ぐ長い尾鰭を思い出させる。打撃を受けた腕は痺れて使い物にならない。ジェイドは下段への小さな蹴りを繰り返し、フロイドの意識が下に向いた隙をついて顔目掛けて右脚を大鎌のように蹴り出した。
「んな大振り当たるかよ!」
 力任せに掴まれた脚が嫌な方向へ捻られる。そのまま振り回すつもりだ。蹴りの勢いが死ぬ前に腹に力を込めてジェイドはフロイドに引きずられるより速く脚を振り抜いた。無理やり腕を地面に持っていかれるフロイドは狂った重心を取り戻そうと咄嗟に脚を踏み出す。その足の着地点にジェイドは鉄の入った踵を思いっきり踏み下ろす。
「いっでぇぇぇ!!」
  談話室に絶叫が響く。首を狙った手刀はフロイドの石頭に当たって痛みわけ。当たりどころが悪くて小指がじぃんと痺れた。
「ってぇぇ〜! クソッ」
「はっ、……ふっ」
 半分解けていたボウタイを放った。手袋も邪魔だ。ジャケットも。
 こういう喧嘩の時、パンチはできる限り受け止めたほうがいい。肉に伝わる衝撃でフロイドが満足すればそれでいいのだから。
 だが、体はフロイドの拳を、蹴りを尽く逸らせて無力化する。フロイドはまるで自分のユニーク魔法にかかってしまったみたいに思っているはずだ。通らない攻撃に苛立ちを隠そうともせず牙を剥き出しに唸る。利き手ばかりで繰り出してくるパンチを右手で逸らし、左手で何度も何度もこめかみを揺らす。爪の掠った感触がして、フロイドの目尻から血の涙が一筋流れて行った。舌打ちが一つ。脳を揺らされて覚束なくなった足元から繰り出されるパンチが大きな隙を見せた。
 ここだ。
 右ストレートをいなして掴み、ステップでフロイドの背後を取りつつ、顎下を左手でぐっと掴んだ。
「ぅげ、じぇ、ジェイド!」
 右腕を背中の方で捻り上げながら顎を掴む。そのまま後ろへ引きずられればどんな男でもよほどの力がなければこの拘束から逃れることはできない。横倒しに引き倒すついで、暴れる左腕に膝を乗せ、軽く手首の方を持ち上げてやった。
「ぃいだいいだい!!ジェイド、折れる!」
「どうします。これ以上やるなら右肩は外して、左腕は折りますが」
 腕に乗せた膝頭に少し体重を乗せるとフロイドの肩がぴくりと震えた。
「ゃだ、やだ。痛い、いたいっつってんじゃん! やだ!!! 離せクソジェイド!」
 力の限り叫ぶフロイドの本気の拒絶。ジェイドは口の端がつい持ち上がってしまうのを感じた。
 あぁ、もう少しだけ虐めても罰は当たりませんよね。
「なにやってんだ! おまえたちは!!!」
 さらに重みをかけようとした動きは馬鹿でかい声に阻まれた。
「アズール! 助けて! ジェイドに腕もがれるぅぅ!!」
 バタバタと子供みたいに脚をばたつかせて助けを乞うフロイドの頭を、履いていたスリッパでアズールはバシッと引っ叩いた。パジャマ姿で威厳もへったくれもない格好をしているが、オクタヴィネル寮長、アズール・アーシェングロットの登場となれば、この「喧嘩」はここでおしまいである。
「あぁ、せっかく興が乗ってきたところでしたのに」
「なに言ってんですか!」
 パシン!と非力なビンタで頬を張飛ばされた。
「これ以上やるなら寮の外でどうぞ。その場合、無断外泊でお前たちを1週間寮の掃除係にしてやりますよ。さぁ選んでください。僕に灰かぶりのようにこき使われるのと、ホットミルクでも飲んでゆっくり眠るの、どっちがいいですか」
「おや、この件は不問にしてくださると?」
「お前はこの寮の副寮長でしょうが〜誰と連帯責任かお分かりですか〜?」
 低いところから胸ぐらを掴む拳が容赦なく肋骨を叩く。すこし遠慮してほしい、今だけでいいから。ジェイドは痛む脇腹にそっと手をやり、「そうでした」と少ししおらしげにして見せた。こうすればたいていアズールの手は離れる。
「フロイドがあんまりにも『つまらない』『ジェイドのせいで楽しみが台無し』というものですから、僕もついカッとなってしまって」
「お前に『つい』なんて可愛げあるわけないでしょう。ほら、フロイドは立って先に部屋に戻りなさい」
「はいはーい。ジェイド、お説教がんばって♡ んじゃ、おやすみアズール」
「はいはい、おやすみなさい」
「先に寝ていてくださいね」
 殺気は抜け切ってしまったのか、ふらふらと一人で廊下の向こうに消えたフロイドを見送ったアズールは深い深いため息を落とした。
「まったくお前の意地の悪さは僕にも真似ができませんよ」
「なんのことです」
「わざわざフロイドに契約を唆かせて何をしたいかと思えば、兄弟喧嘩でしたか」
「そんな、まさか。僕はほんとうに二人で楽しむつもりだったんですよ、商談を」
「何が商談ですか。恐喝の間違いでしょう。あっさり対価を回収してきたので何かあると思えば、はぁ〜冗談じゃありませんよ。肝が冷えました」
「あぁ、アズール。心配してくださったんですか」
「副寮長が暴力沙汰で退学なんて、僕の監督責任が問われる事案ですよ! 黙ってみてろと? それこそ冗談じゃない。いいですかジェイド」
 アズールは腰に手を当て、低いところからジェイドを思い切り見下げる。
「暴力は僕の目が届くところでなさい。管理外であれこれされては揉み消せるものも消せませんので」
「かしこまりました。善処します」
「それと明日のシフトはキッチンに入りなさい。左頬の痣もすごいですが、ちょっと切れてますよ。そんなところまでフロイドとお揃いにしなくてもいいでしょうに」
 アズールがジェイドの頬を擦ると、乾いた血の欠片が指先にこびりついていた。
「それなりに手酷く蹴る殴るの暴行を受けましたからね。肋骨はヒビが入っているかもしれません」
「それは重畳。フロイドも珍しく本気の喧嘩ができて喜んでいるでしょう」
「ふふ、そうですね。兄弟喧嘩も悪くありません。僕もフロイドに恥じらいというものがあると知れてすこし嬉しかったですし」
「は?」
「押し倒されるのはベッドじゃなきゃ嫌だと」
「お前、明日ラウンジのガラス全部拭きあげてもらえます?」
 自室に戻るアズールを見送って、ジェイドは床に散らばったストールや帽子や手袋たちを拾い上げた。
 じんじんと痛む頬と脇腹と腕。いなす戦法を取った代償がこれならば、真っ向勝負、フロイドと同じく殴り合いになったならば一体どれほどの手傷を負うのだろう。片割れと己の垂れ流す血の匂いが交ざってきっと、理性など保てなくなる。
「楽しみですね、フロイド」
 あぁ、興奮冷めやらぬ血が部屋で寝ている片割れに意地悪をしないといいのだけれど。
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向き
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昨日のジェイフロのお直し
初公開日: 2020年08月02日
最終更新日: 2020年08月02日
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コメント
昨日書いてたジェイフロ小説のお直ししている。
誤字が多すぎやばい。