この街は海と山に挟まれている。
海は比較的年中穏やかだ。泳ごうと思えば泳げるが、手放しできれいな水とは云いがたい。山は広葉樹が豊かに茂っているものの、山というより、丘と呼びたいほどの低山である。
町の規模は大きくない。中心街の賑わいはそこそこ。可もなく、不可もない。そこそこ治安が悪く、かと云って厳重警戒するほどでもない。夜道のひとり歩きに多少注意すべしというところ。
そんな何もかもがそこそこの街の、そこそこ駅近くのそこそこ古ぼけたビル。煉瓦造りであるところが、辛うじて「古い」を「レトロ」に見せている。
そのビルの、薄暗い玄関を入って正面、一基しかないエレベータで、二階へ。エレベータを下りると、もう到着だ。
その部屋のドアは、磨きたてられた木製。丁度大人の顔辺りの高さに四角い曇り硝子がはまっており、何故か毛筆書体でこう書いてある。
「紅月心霊探偵事務所」
あかつきしんれいたんていじむしょ。
その名の通り、心霊に関わる事件を「ばったばったと解決」する、此処はそういう事務所である。
真昼の太陽が僅かながらに落ちかけた、八つどき。
鬼龍紅郎は畳の上で胡坐をかき、刺繍に勤しんでいた。名の表す通り紅色の髪を緩やかに逆立て、真剣になればなるほど眉間の皺の数は増え、それをまるで鬼の形相と云う者もおり、ただ普通にしていれば滅多と見ない男ぶりの彼の特技は裁縫全般だ。今も骨ばった長い指を器用に動かし、白い布巾の上に針を刺している。
事務所の中はエアコンディショナーがほどよく効き、気持ちのよい涼しさを保っていた。
この事務所のつくりは少し変わっており、入って正面にソファセット。その後ろ、窓を背にして重厚なデスク。左手には小さな台所。右手は少し段差があり、畳敷きの茶室のようなしつらえがある。床の間らしきものまでつくられ、掛け軸にはでかでかと「悪霊退散」。
その悪霊退散を背にして裁縫をするのが、紅郎の習慣であった。
布巾には着々と、うつくしい幾何学模様が刺繍されてゆく。これは依頼人が来たときなどに出すお茶の盆の上にさりげなくかけておく、花瓶の下に敷く、等あれこれと使い道がある。この事務所にはそんな紅郎の作品が其処此処に配置されていた。
「鬼龍殿、少し休まれよ。我、おやつをこしらえたのである」
柔らかな声音におもてを上げると、神崎颯馬が台所から顔を出していた。頭の後ろでくくったつやつやと蒼く光る長い髪に、幼さを残す愛らしい表情。紅郎より僅かに年下の弟分である彼は、料理が得意だ。紅郎が裁縫に勤しむ間、食事やらおやつやらをせっせと作ってくれる。
まるいお盆をソファセットのテエブルに置いた颯馬は、こころ持ち胸を張り云った。
「今日は変わり種の羊羹をつくった。なかなかよくできたと思う」
「お、いいねえ」
紅郎は針やら糸やらを裁縫箱に丁寧にしまってから、いそいそとソファに座った。涼やかな硝子の皿に乗せられた羊羹は、下半分が茶色がかった黒、上半分がとうめいで、透明の部分に紅と白の金魚が泳いでいる。老舗和菓子屋の夏の新作、というような趣だ。これを客ではなく身内に嬉々として出してしまうところが、弟分のあいらしいところのひとつである。
「綺麗なもんだ。食っちまうのがちょっと勿体ねえな」
「ふふ。味も良いはずなので、食べてほしい」
湯飲みにお茶を注ぎながら、颯馬は嬉しそうに笑う。と思うと、長い髪を馬の尾のように揺らして扉を振り仰いだ。どうやらお帰りのようであるな。耳を澄ますと、僅かに足音が聞こえるような気もする。「お帰り」になるあの男は、何故か頑なにエレベータを使わない。たかだか二階ごとき、階段を使えということらしい。
「相変わらず忠犬みたいな奴だぜ」
「鬼龍殿の足音もわかるのである」
「……そうなのか」
そう云っている間に、足音の主が扉を開ける。深い緑色の髪、涼しく整った顔の上に、それを更に涼し気にする眼鏡を乗せた男の名は蓮巳敬人。この探偵事務所の所長であり、つまるところ紅郎と颯馬の上司、雇い主であった。
雇い主は夏だというのに汗のひとつもかいていない。その繊細そうな喉から出るとは思えぬような、低く深い響きで帰還を告げる。
「今、戻った」
「蓮巳殿、無事のご帰還、何よりである」
朗らかに応える颯馬の横で、紅郎は思わずうええ、と嘔吐いた。眼鏡の上司は、眼鏡を光らせその場で立ち止まる。細長い腕をゆっくりと組み、目で促してきた。幾度か深呼吸をするも、返って胸の悪くなるような気配がからだに入り込んできてしまったような気がする。
「……おう旦那、よく生きて帰って来たな取りあえずちょっとそこで止まっていてくれ」
「……矢張りか、矢張りなのか、いや絶対に『ついてきている』と思っていたが」
「……よく生きて帰ってきたな」
「二度も云うか!」
紅郎はむかむかとする胃の辺りを擦りながら、それでもよくよく目を凝らした。ここで己がどれだけ耐えてより正確な情報を得ることが出来るかに、この後のすべてがかかっている。
敬人の背後から、薄い左肩の上に、真っ赤なものがぶら下がっている。
だらりと長く、細く、先で五又に割れている。要するに、真っ赤な、べったりと、あかあかとした、手。
こいつぁ、駄目だ。だめだめだ。駄目すぎて、具合が悪くなければ今すぐ目の前の細い男の胸倉を引っ掴んでどこで拾ってきたこの野郎と恫喝したいほどだ。残念ながらと云うべきか、幸いなことにと云うべきか、今の紅郎にその力はない。
代わりに、敬人と、紅郎の顔を見比べている、すこしだけ年下の男に指示を出す。
「……ええっと、旦那の左肩、紅い腕だけ、レベルはそうだな、この間の小学校のトイレに出没してやがった『トイレの花子さん』を百とすると五百七十五」
「ごひゃくななじゅうご、であるか!」
「なんだその中途半端な数字は」
「気合入れろよ神崎、失敗するとたぶん旦那は死ぬし俺も巻き添えをくう。俺が見えているってことはそいつ、わかってるだろうからな」
「うむ。では参る!」
「気合の入れ方が気軽だぞ神崎!」
颯馬がどこからか、日本刀を取り出す。しゃらり、鞘から抜き取った鋼の、清らかで白々とした輝き。それだけで
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初公開日: 2020年08月02日
最終更新日: 2020年08月02日
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