帝都。
華やかに賑わい、密やかにざわめき、その圧倒的な影響力でこの国の文化と政治の中心となる場所。中心街などは夜も外灯がまたたき、昼に負けぬ光を放って訪れる者を魅了する。
明るく、鮮やかで、希望に満ちた街。
この国に住む者ならば、誰もが憧れる、此処はそういう土地だ。
その土地の、中心から少し外れたところに、時計塔がある。帝都の警邏を一手に引き受ける警察署から歩いて半時というところ。鉄錆色のやや古びた煉瓦で出来ており、円筒型の建てものの周囲を螺旋状に這うように、黒い鉄の階段が取り付けられている。
階段の先には、大きな扉がある。これまた這うように彫りこまれた弦薔薇の意匠は、扉の中に住まうものを護っているようにも、閉じ込めているようにも、見える。
「半音ずれたね。今朝より幾分かはましになったけれど。もう一度だよ」
「んあ」
みかは譜面を持ち直し、背筋を伸ばした。小さく痩せた手のひらの中で、黄ばんだ紙がくしゃりと歪む。歌詞も、音程も、だいたい覚えているはずなのに、それを自らの喉を使って再現して見せることの何と難しいことか。今目の前で古びたアップライトピアノを弾きながら、手本を示してくれる彼にとっては、随分容易いことのように見えるというのに。
いつくしみふかき ともなる いえすは つみとがうれいを とりさりたもう
彼の声はあまく、低く、高く、柔らかく、硬く、不思議とやけに艶めいていて、いまいち意味のわからない歌詞でさえも、うっとりと聞き惚れてしまう。ほんとうはうっとりしている場合ではなく、あまく、艶っぽく、歌わなければならないのはみかなのだけれども。
いつくしみ ふか き と もなる いえす は
「……ふむ、音程は取れそうだね。あとはからだの使い方……」
ぶつぶつと呟きながら、彼は青い表紙の帳面に何ごとかを書きつけた。みかの歌の稽古が始まってからこちら、帳面は大活躍している。サァカスという名の見世物小屋出身の痩せっぽちの男の子は、彼曰く、踊りはともかく歌がなってない、このままゆくと早晩声を潰す、とのこと。それならば一から歌を教えてくれとみかが請うたのも自然ななりゆき。早速始まった稽古の存外な厳しさは、けれども厳しい分だけ成すものも大きい。
やっただけ、上手になるのは楽しいやんな。勝手にやれと放って置かれるより、ずうっとずうっといい。
ふいにうふふと込み上げてきた笑い声を、手のひらでくちを覆って抑える。
急ににこにこし始めた弟子に、彼が怪訝な顔をした。
そのとき。
「……お師さん、誰か来るで」
「……ああ、ほんとうだ、やかましい足音だね」
嫌な予感がするのだよ、と、彼がくちにするかしないか。外へと続く茨の扉が、どんどん、と叩かれた。
彼はアップライトピアノに、ゆっくりと蓋をする。みかを部屋の奥へゆくように促し、立ち上がった。同居人の細く小さい男の子が部屋の奥、寝台の天蓋の中に身を隠したのを確認した彼は、白いブラウスに覆われた、ほっそりと長い腕にステッキを携える。お洒落用にと普段から持ち歩いているそれが、存外に重たく冷たいことを、みかは知っている。
「誰かね」
表面上はいかにも落ち着き払った穏やかな声で、彼は扉の向こうへ向かって訊ねた。
扉の向こうの気配は、少しの間黙っていた。何だか戸惑っているようにも思える小さな沈黙の後。
「あー、『うごくしかばね新聞社』の、大神だ」
「乙狩だ」
彼は大きく、おおきくひとつため息をついて、みかを手招いた。姿を見せてもよいらしい。
「影片、お茶を。僕と君のものも合わせて四人分」
「わかったで!」
お茶を出してよい、ということはお客さまだ。みかが水場にすっとんでゆくと同時に、彼は扉を開けた。
春の緑を編みこんだ敷物の上に行儀よく革靴を並べて座っているのは、ふたり。
ひとりは銀色の髪に、鋭い目許。おおがみ、と名乗ったそのひとは、みかの彼とも面識があるらしい。彼のすこし久しいね、という言葉に、ぶっきらぼうだが穏やかにおう、と返していた。
もうひとりは深い深い紫色の髪に、柔らかくにじむ目許をした、大きなひと。異国の血が混じっているものか、ここいらではあまり見ない顔つきをしている。
「こいつ、最近入った新入社員」
「乙狩アドニスだ。よろしく」
「……奇特な子もいるんだねえ」
「……云いてえことはわかるが、云わねえでやってくれ」
あんたも見ない内に同居人が増えてるじゃねえか。大神が、その鋭いひとみをこちらに向ける。彼の横にちんまりと座ってお茶を飲もうとしていたみかは、思わずひゃっと飛び上がった。
「ああ、うちの奇特な子、影片だよ」
「影片みかです!」
「思ったより元気だな!」
「元気なことはいいことだ」
乙狩が深く頷いたところで、彼は咳払いをして背筋を伸ばした。それで、君たちはいったい何の用事だね。
銀色の髪を僅かに揺らし、大神が少しだけ、うつむいた。ひどくよくないことが起こっていて、くちにしたらまるでそのことがいよいよ現実になってしまう、とでも云うような。
たっぷりと迷った後、銀髪の男は重々しくくちを開いた。吸血鬼野郎が、いなくなった。
「……それは出張で地球の裏側に行ったとか、そういうのではなく、」
「それならそうと俺たちには云う筈だろ、あれでもいちおう社長だぜ」
「急に消えてしまった。置手紙だけあった」
「ならばそう心配することでもあるまい、と、僕は思うのだけれど」
「いや、心配はしてねえんだよ、実は」
してないんかい、と、喉まで出かかった台詞を、みかはお茶で流し込む。隣りの彼は、くちにこそ出さなかったものの、してないんかい、という顔でやはりお茶を飲み込んでいる。
乙狩があくまで真面目な顔を崩すことなく、これは朔間先輩、社長の伝言なんだ、と説明を続ける。携えていた鞄から、真っ赤な封筒を取り出し、彼に手渡した。
受け取り、中の便箋を開いた彼の細い眉が、みるみる急な角度に吊り上がる。みかは横から便箋を覗き込んだ。
『ちょっと故郷に帰ってくるぞい。七日経っても帰って来なかったら日々樹くんか深海くんか斎宮くんにお願いして探しにきて貰っておくれ。お主らだけで来てはいかんぞい。』
「名指しやん」
「勿論、渉や奏汰に連絡は取ったのだろうね」
「日々樹とかいうお祭り野郎は今『皇帝陛下』の外遊のお供で日本にいねえ」
「帰国はひと月後だそうだ」
「もうひとりとは連絡がつかねえ」
「……いや、うん、奏汰からは三日前に捕鯨船に同船していると手紙が来ていたね」
彼は大きく、大きく肩を落とした。どう足掻いても己が出張る以外に選択肢が用意されていないことに早々に気付いたらしい。それで、零が出かけて今日で何日目だい。
「八日目」
「丸七日は過ぎているわけだね」
お茶の水面に目を落としていた乙狩が、低く柔らかな声でぽつりと呟いた。俺は朔間先輩が心配だ。
「よくない予感がする。あのひとの故郷は、」
鬼の眠る島、と云われている。
みかは黙って、そうっと彼の腕に身を寄せた。
彼の薄い皮膚の下、血のめぐる音がごうごう、ごうごうと響いてきた。
切りがよいので本日ここまでにします。
ご視聴ありがとうございました!!