オメラスの青い鳥
とある山奥に、とても小さな集落があった。
集落へ続く道は舗装された一車線だけであるが、車同士がすれ違うことはまずなかった。村を出る者も、村の外から来る者も稀であった。
しかしそんな閉鎖的な集落だからこそ、と言うべきなのか。どこからこの村の噂を聞きつけてきたのかはわからないが、ならず者がぽつり、ぽつりと住みついた。
”ならず者”と村人たちが呼称した理由は、彼らの様子がどうも世間に後ろめたいことでもあるかのように見えたからだ。挨拶などもちろん返ってこない。余所者を珍しがってか村人が声を掛けようものなら、さっと背を向け急ぎ足でその場を去ってしまう。
それだけならまだよかったのだが、食い扶持に困った”ならず者”は、盗みを繰り返すようになった。盗みを咎められれば暴力を振るう始末だ。彼らも生きるために必死だから仕方がないと、温情を与える者にまで、”ならず者”たちは容赦しなかった。
集落で”ならず者”の存在が問題視された頃、事件が起きた。
ある青年が畑から野菜を盗もうとしていた男を、顔の形がわからなくなるまで打ちのめしたのだ。幸い、といってよいのかわからないが、盗人は命までは奪われずにすんだ。
それから納屋に侵入した男も、両足の骨が折れた状態で納屋の持ち主に発見された。
それらの被害者はどちらも集落の外から来た”ならず者”だった。彼らに暴力という手段で制裁と他の”ならず者”への牽制を行ったのは、杉元佐一、この集落で生まれ育った青年だった。
杉元は二年前に両親を相次いで亡くした。集落には診療所すらもなかったため原因も病名も診断できる者はおらず、そうこうしているうちに症状は悪化していった。そして、父親、次いで母親と立て続けに肉親を失った。元々母親は身体が丈夫ではなかったので、杉元には後にも先にも兄弟と呼べる存在はいなかった。二十代前半にして、天涯孤独の身となってしまった。
しかし杉元を取り巻いた不運はそれだけではなかった。
集落で一番学があるとされる人物が「あの症状は感染症に違いない」と、はっきりと言い放ったのだ。実際にはただの風邪だったのかもしれない。それだって感染症には変わりはないが、いっこうに治まらない発熱、集落の風習である民間療法を試しても効果がまったくなかったことから、博識者は強力な感染症だと判断してしまった。
それならば一刻も早く集落の外に出て病院を受診すべきだ。杉元は集落の相談役に両親を病院に連れて行くための車を出して欲しいと頼んだ。だが相談役の男は渋い顔をした。
「もし私の車に乗せたら、私にも感染するのではないか。集落を守るためだ。ご両親にもあんたにも酷なこととは思うが、家から出さないでくれないだろうか。もちろん感染の可能性もあるあんたもだ」
杉元は冗談かと思った。これまで良心的だった相談役から杉元に向けられていた目は、冗談どころか警戒と畏怖の色をしていた。
杉元はこれまで暮らしてきた集落の、狭いながらもお互いが助け合って生きてきた、家族同然のような親近感に与えられた優しさは、こんなにもあっさり見限られてしまうのかと絶望した。
この集落では自分たちはもはや集落の膿なのだ。病に伏せた両親に対し、治療を施す知恵も手段も与えられず、なかったものとして狭い家の中での隔離された生活を強いられた。おなじ村人が、病気で苦しんでいるというのに、感染を蔓延させぬために家の中で病原菌と共に死を待てというのか。
村人へ感染が広まるのは大変危険だ。しかし、病気の原因や治療方法がわかれば恐れる問題ではない。それすらも封じこまねばならないのか。いったい、何に怯えているのだこの集落は。そもそも、感染症だとの確証だってない。ただ博識というだけで、医学に精通している者でもない人物の意見を鵜呑みにして、可能性に怯えた結果、もっとも適切な判断にたどり着かない。
この、両親を隔離し治療から遠ざけた結果、症状が悪化し亡くなった。
杉元も感染の疑いがあるとされ、ほかの村人は症状のない杉元に対してもよそよそしく振舞うようになった。
こうして杉元は孤独になった。狭い集落の中で否応無しに耳に入ってくる真意が定かではない噂話や批判、時にはこれみよがしに聞かせるための罵詈雑言。杉元を取り巻く環境が劇的に変化してから約二年。”ならず者”との事件が起きたのだ。
世間に後ろめたさを感じて、外部との交流がほとんどない閉鎖的な集落に身を寄せた"ならず者"たち。彼らは元受刑者であった。
もちろん元受刑者であることを自ら口にした"ならず者"はいなかったが、一度法に背いた彼らのやり方、数人の村人の制止を振り切ることのできる慣れた暴力、粗暴な立ち振る舞いは、それを想起させるには充分であった。そんな彼らに村人は太刀打ちする術もなく頭を抱えた。
村内が暗澹たる空気に包まれていく中で、杉元は誰に頼まれたわけでもなく"ならず者"に二度とこの集落で罪を重ねる気が起きぬぐらいの制裁を与えた。
村人たちは手のひらを返し、杉元を祭り上げた。自分たち家族を虐げてきた村民から、杉元は感謝の言葉を浴びた。無視され続け、心ない言葉を囁いていた村民が、杉元を集落を救ってくれたヒーローかのように目を輝かせて賞賛している。涙を流しながら拝む老婆さえいた。
それからは杉元は集落を闊歩した。今まで人を避け、こそこそと必要最低限に出歩いていたが、もう杉元を「謎の感染症に罹患しているかもしれない人物」と疎ましく思う者はいない。
ならず者を見つけては己の体術を駆使して泣き言を漏らすまで叩きのめした。充分な治療を受けられぬ集落において、満身創痍にされたならず者たちは、やがて集落から姿を消した。逃げ出したのか、文字通り"姿を消した"ないし"消された"かは定かではない。だがおおかたは、山から降りてきた動物の餌としてこの世から消えたと皆、口にはしなかったがそう思っていた。
しかし、"ならず者"か村から消え去っても杉元の制裁は止まらなかった。
少しでも己の倫理から外れた行動をとる村民があれば、ならず者と同じように暴力によって粛清した。彼は正しさに取り憑かれた。正義の免罪符として、類まれなる強靭さで不正を正すことが使命だとさえ思い込みはじめていた。
誰がための正義か。
正しさは流動的で、誰かにとっての都合の良い解釈と安寧の元に位置づけられているだろう。
ならず者たちが村を去ってからしばらくして、また村の外からやってきた者がいた。
今度は粗野な風貌ではなく、聞けば猟師だと明かしてくれた。
男の名は、尾形。山々を渡り歩き、また隣接する村にしばし滞在しながら狩猟をしているとのことだった。
村民は最初こそ、くだんのならず者の件もあり尾形を警戒していたが、尾形が盗みや暴力とは無縁であるとわかると、村民のひとりがある提案を持ち出した。
「村に、手のつけられない凶暴な男がいる。そいつを仕留めてほしい」
猟師の尾形に仕留めてほしいとは、すなわち銃殺を意味する。
「俺は殺人犯になりに、この村に来たわけではない」
尾形の言うことはもっともだった。村民は余所者の尾形に、杉元を始末する罪を擦り付けようとしているのだ。この狭い集落の倫理は、世間一般を基準としておらず、村にとって安心であるかどうか、村民が穏やかに生活するためなら、ひとりの命を奪うことすらささやかであると疑う者はいないのだ。
まるでオメラスの理想郷ではないか。尾形は呆れて、この村からは早々に立ち去ろうと決意した。
オメラスの理想郷。
とある作家が書き記した短編小説に登場するオメラスという村。そこではだれもが笑顔で幸福を謳歌していた。だが人々はその満ち足りた幸福が、地下牢に捕らえられている一人の子どもの上に成り立っていることを知ってしまう。
人々は困惑した。一人の子どもについて悲しみ、助けてあげられないものかと議論した。しかし何千、何万もの人々が一切の苦痛なく暮らせる平穏と、たった一人の犠牲を天秤にかけた時、おのずと前者に天秤が傾いた。
次第に人々は地下牢に繋がれた犠牲者について考えることも、心を痛めることもなくなった。見えないふりをしていれば、これまでの安寧の日々が保たれると、誰もが無意識の中に子どもを閉じ込め蓋をした。自らの幸福を守るために、真実を記憶の奥底へと追いやって、厳重に鍵をかけ、自分が立つ地面から湧き出る安泰を揺るがすものを閉じ込めた。
この集落は、自分らの安全で安心な生活のためならば、たったひとりの犠牲などに胸を痛めることはないのだろう。
尾形はこの集落のことについては何も知らない。どの程度の歴史があり、その中でどんな出来事があったのかもわからない。だが、この集落は地形からいっても長らく閉鎖的であったことは窺える。ここがひとつの小さな世界であり、その小さな世界独自のルールが確固として村民に根付いているのだ。
尾形は集落の秩序を守るために、排除という犠牲を仰せつかった、杉元という男に興味を抱いた。
尾形に仕留めてくれと懇願してきた、集落の相談役は、杉元は粗暴で手がつけられず、手当り次第に村民に暴力をふるい、さらには死に至る感染症に罹患している。と言った。
このまま野放しにしておけば、暴力ないし感染症で死人がでる恐れもある。猟師のあなたなら、彼に近づくことなく仕留められる。暴力や感染の危険に曝されることはないはずだ。
尾形はその話を聞かされた時は、なるほど。と頷きはした。だがそれは了承の合図ではなく、集落側の杉元に対しての見解として受け取っただけであった。
暴力ならば多勢に無勢、いくら杉元という男が粗暴であろうが、村民男性全員でかかればなんてことはない。寝込みを襲うことだってできる。感染症の疑いがあるのなら、集落の外の医者に連れていくなり、医者を呼ぶなりすればいい。
しかしこの集落の人間は、誰ひとりとしてそれらを行おうとはしない。一致団結して、杉元を排除する方が正しい決断だと皆が口を揃えている。
聞けば杉元という男は尾形が集落を訪れる少し前に、姿を消したと言う。
その日、集落で家屋が一件、全焼する火事があった。火災は明け方、村民がそろそろ布団から顔を出すか、西の山から太陽が顔を出すかどうか、という時間帯に起きた。
きな臭さが鼻をつき、村民が異常に気づいた時にはすでに家屋は全焼していた。本来ならそれでも、家屋の中に救護者がいる可能性もある。消防団が慌てて消火活動に励む光景が目に浮かぶものなのだが……。
燃えていたのが杉元の家でなかったのなら。
村民は、願わくば杉元の不始末で火事が起き、運悪く逃げ遅れてくれれば、と願ってしまったのだ。
白む空に歪な線を描く黒煙と、朝日が霞むような一日の終わりに見る太陽に似た炎を、村民は内に秘めた残酷な祈りと共に見上げていた。不吉なものを予感させる朝焼けのような赤に、まがいものの幸福の予兆だと錯覚した。
しかし、鎮火した家屋からは誰の遺体も見つからなかった。
村民の偽りの幸福は、消し炭から昇る細く頼りない煙のように消えた。短い間の安寧だった。
杉元佐一はまだ死んではいない。
杉元は自ら家に火をつけ、どこかに姿を消したのだ。集落から出ていったのかもしれない。だが、杉元を畏れ、虐げてきたという意識が村民にある限り、この世のどこかで杉元が生きているという事実は、村民に安眠を許すことはないのだ。保たれてきた偽りの平和の真実が、外に露見することも、村民は多大に恐れていたのだ。
「おまえが杉元佐一か?」
尾形は山の中腹から自前のライフルのスコープで、杉元の隠れ家を確認してから山を下り、木々を分け行って斜面との間にある僅かな平地に出た。
山から伐採した木と集落から持ち込んだ有り合わせのもので作られた、簡素な住居…と、言えるのかも怪しいものだったが、雨風は凌げるようだ。おそらく急拵えの寝床としての用途で造ったのだろう。食事はまるで原始時代にでも遡ったか、あるいはズブの素人が映画にでも影響を受けたか。一晩そこで過ごすためのお粗末な野営を思わせる。木の枝で焚き火をした跡があり、野生動物の毛が散乱し、乱暴に投げ捨てられた内蔵にすでに蝿が集っている。
尾形が粗末な小屋に向かって投げた呼びかけは、近くにいた鳥が羽ばたいていっただけだった。どうやら今、杉元佐一はこの場所にはいないようだ。武器も持たず狩りにでも行っているのだろうか。耳をすませば微かに水音が聞こえるので、水汲みにでも行っているのかもしれない。
尾形はどのみちここに戻ってくると確信し、粗末な小屋の前に腰を下ろして杉元を待つことにした。
集落の村民が言っていたことが全て事実ではないにせよ、なんらかの理由があって暴力をふるい、感染症と疑われる症状に見舞われている可能性はある。けれどそれらは尾形にとって警戒に値するものでもなかった。
実際に死に至る感染症を発症しているのなら、あの狭い集落で暴力沙汰が起きたのなら、少なくとも一人には感染しているだろう。そしてすぐに集落中に伝播しているはずだ。
なんにせよ噂の真相を確かめなければいけない。…という、正義感のようなものは尾形にはない。尾形にあるのは、単なる興味だ。集落の安寧の犠牲者として選ばれてしまった人物に、強い興味を抱いてしまったのだ。
その時、小枝が折れる乾いた音が聞こえた。
それ以前に、近づいてくる人の気配に尾形は気づいていたが、敢えて獲物が自分を認識しながらも警戒心より好奇心が上回るのを待っていた。自分の縄張りに居座っている者に恐怖を抱くか。それとも怒りを覚えるか。または興味が湧くか。
誰からも存在を認識されぬことを望んで得た居場所を見つけられた気分はどうだ。
尾形は音よりも以前に感じた気配が、徐々に近づいてくることに、なるほど、と頷いた。
この男は、杉元佐一という男は、自分の縄張りに立ち入った人物に対し、攻撃的な対応という選択肢はないらしい。つまり、尾形への怒りは持っていないようだ。尾形が小屋の前で待ち伏せているのを発見しだい、獰猛な動物のように襲いかかってこないところを見ると、興味か、好奇心か、それとも久方ぶりの人間との対峙に戸惑っているのか。
尾形が集落の差し金で杉元を仕留めに来たことは、もちろん杉元は知らない。だが可能性としては充分に想像がつくはずだ。集落から畏れられ、ついぞ居場所を失くしたと、自らこんな山奥に潜んだのだから。味方ではないと思う方が自然であろう。
「そんなに怯えるな。俺はおまえを殺しに来たわけじゃない。集落の連中からおまえの話は聞いている。だが今のおまえの様子を見て、俺は興醒めしている」
尾形は杉元がいるであろう方向には目も向けず、だがはっきりと杉元に対して言葉を放った。
それでも杉元からの返事はない。足を踏み出した音も聞こえない。おそらく木の陰から様子を窺っている。じっと尾形に視線を向けてはいる。それだけはレーザーポインターのように、視線に色がついているかのようにまっすぐに尾形に伸びている。刺さるような目つき。だが痛みは感じない。ひどく警戒し、尾形を値踏みしている目だ。
尾形が集落の人間たちから聞いた杉元の人物像とはかけ離れているように感じていた。手のつけられない獣のような人物を想像するに容易い、村民の畏怖。尾形はそんな化物のような男がほんとうに存在しているのか、確かめたくもあった。だから舗装された道もない山奥にまで足を進めたのだ。
きっとあの男ならば、集落から逃げ出したりはしない。いくらでも隠れようがある山奥にひっそりと暮らし、復讐する機会を待つだろう。
そう踏んだ尾形は、集落の周りを囲む山々を散策していた。集落を孤立させるほどの深い山々の中から、たった一人の人間を見つけ出すことは、ほとんど不可能だ。だが杉元は獣ではない。人間だ。人間の習性を考えるならば、どこかに住家を建てる必要がある。自分なら、どのあたりに定住場所を設けるだろうか。そんな予測の元に、尾形はより高い木に登り、ライフルのスコープを覗いた。
見晴かす限りの木々の中に、あきらかに動物のそれとは別の生活の痕跡を探した。