黎明の風がふきぬける。緞帳のような遮光カーテンがわれて、レースのカーテンがひるがえる。ユリノキが甘く香る。おもむろに鯉登は立ちあがり、窓辺にたたずむ。
 白々しい街灯が消えたいま、街は暗いブルーアワーに沈んでいる。はずむかいのアパートは窓のブラインドがさがっている。そのベランダの室外機はたえまなくファンが回転している。夜の残滓が鯉登をつつむ。目に見えぬほど希薄な水蒸気が四肢にまとわりついて、肌は冷えていくのに体の深部に熱がこもる。
 兄が我が子を望んだ。離別の理由を鯉登はそのまま信じた。それだけの根拠が鯉登にはある。
 傍目には、兄は鯉登をかわいがっていたように見えていたことだろう。それは一面、事実である。しかし、兄は巧妙に、鯉登がうけとるはずだったものを自分のほうに来るようにしむけていた。あふれんばかりの持ち物のうちで手放して惜しくないものだけを鯉登に渡していた。
 兄は愛を喰う。
 渡米する前日に兄はこう言っていた。
「家族がふえるのが、たのしみだ」
 たったひとりの恋人から受けとれるものは、たといそれがどんな性質のものであれ、ひとり分にすぎない。家族がふえれば、それだけ兄に贈与する人数がふえる。
 兄の倨傲は鯉登しか知らない。
 否。
 月島がいる。
 むしょうに笑いたくなった。褐色の素足はかろやかに床をすべり、鯉登は重力のままにベッドへたおれこむ。
 鯉登をとりかこむアイテムは、たしかに兄の所有物だ。けれども、ひとたびそれと気づいたが最後、これらは月島が狡猾にマーキングをほどこした呪物としか感じられない。
 瞳をとじて鯉登は思いえがく――月島がひとり兄の私物を整理するところを。
 最初は必要にかられてはじめたのかもしれない。部屋の主が使えないものがあっても仕方ない。断捨離におあつらえむきの昨今だ。まとめてゴミに出せばよかろうものを、月島はそうしかねた。月島は何事も粗末にできない。物惜しみするともいえる。
 あるいは、心の空虚さを埋めたかったのかもしれない。不条理な別離の不可抗力性に押しとどめられた月島には、二度と戻らぬ人を追いかけることもできず、感情のやり場がそこにしかなかったのかもしれない。月島は情がこまやかだ。もしくは執念深い。
 月島はいつ、あんな『危険物』をしこむことを思いついたのか。復讐にしてはおそまつだ。むしろ悪あがきだ。誰が受けとると考えていたのか。何を思わせ、疑わせたかったのか。献身的でありそうな月島のegoismの標的は、どこにあったのか。
 兄はひどい。だが、月島もひどい。そして、鯉登も。
 二人の歴史の内実は鯉登にも知りようがない。ただ、その遺物から推測できるものはある。兄は一時的とはいえ、たしかに月島に満足したのだ。そんな兄を容(い)れるほど、月島はそのこわい感情の共感者を求めていたのだ。そんなことに思いいたるほど、鯉登もまた敏感なのだ。
 兄が愛に餓えたものであることに世界でただひとり気づくほどには、鯉登も愛に餓えている。
 まともな登場人物は皆無だ。陳腐でチープな三文芝居。いまや、舞台には二人きり。
 睡魔が鯉登をおそう。強烈な目眩(めまい)のような渦流に鯉登はのまれる。無限に落ちてゆく。自由落下ではない。暗号というには不明瞭で、符牒というには不整合で、シニフィエというには不可視すぎる月島の愛が、鯉登を奈落へひきずりこむ。
 夜明け前のつかのま鯉登は夢を見た。それは夢にしては短く、ほとんど幻覚に近かった。機械的な記憶の処理に、それらしい解釈をつけくわえただけのものだ。雑なコラージュの紙芝居は一言でいえば淫夢だった。
 月島はあのポロシャツを着ていた。プラスでもマイナスでもない、さめたまなざしで鯉登を見おろしていた。月島は、鯉登の脚のあいだにいた。鯉登は裸で横たわっていた。月島にむかって股をひらいていた。鯉登はセックスを情報でしか知らない。どこかをつかまれた感覚はなく、どこかがふれた感触もなく、鯉登は月島に犯された。その瞬間、鯉登のまたぐらに異物感が生じた。鯉登の肉体は他者に侵入したこともなければ、侵入されたこともないというのに!
 心臓がぶたれたように拍動する。胸を突きあげた衝撃に鯉登は覚醒する。鯉登の深い瞳は天井にむけられていたが、焦点を結んでいなかった。あつい。熱い。血肉が融解したように何も感じられない。実感がない。思考がない。しかし、鯉登は確信していた。運命などというものを信じるほど鯉登はもう素直ではない。乱暴なほど率直にたしかめることを鯉登は厭わない。
 夢の次元からおりてきた自覚もなく鯉登は起きあがり、ベッドをおりる。部屋を飛びだし、階段をかけおりる。小路をななめに横切り、エントランスにはいり、階段をかけあがる。その部屋のドアを、鯉登は三度叩いた。
ご視聴ありがとうございました
カット
Latest / 92:51
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
retake: I know his brother will
初公開日: 2020年07月01日
最終更新日: 2020年07月01日
ブックマーク
スキ!
コメント
七転八倒生中継