【 デ・コイ 】
(とあるバーにて)
 あのう。
 あれです。
 失恋したんです。
 友人が。
 私じゃないですよ。
 友人が、失恋したんです。
 違いますよ。
 友人の話っていっておきながら、自分の話をするやつ。
 そういうのじゃなくて。
 マスターが証言してくださるでしょう。
 友人は失恋の常連で、ふられたら自棄酒するんで。
 いやあ、昨晩じゃなくてよかったです。
 ゆうべはすごい飲んじゃって。
 酔えなかったんです。
 たぶん、かなり、こわい思いをしたからなんですけど。
 暴力沙汰とかじゃなくて。
 こう、心とか精神とかが傷ついたってわけでもなくて。
 あてられた、というべきかなあ。
 それが、おもしろかった。
 今夜の肴にしています。
 友人の不しあわせをあてに飲むっていうのも、あれですけど。
 世の中って、おもしろいものですね……
 すみません。
 あの、一服しても?
 シガーで。
 恐縮です。
 ……あー、うまい。
 友人は院生なんですよ、そこの大学の。
 で、友人をふってくれたヤツも院生。
 いま、こんなご時世じゃないですか。
 学生はいいですよ。
 学生ですから。
 院生はそうもいかない。
 発表とかの予定がふっとんだり何だったりで。
 友人は、この一か月ぐらいソイツと、あれです、濃厚接触。
 たかがそれしきで惚れてりゃ世話ァない。
 やー、たしかに惚れっぽいんですけどね、私の友人は。
 あー……
 中学からのつきあいでね。
 同い年ですよ、友人と私。
 そろそろアラサーなんていうのも恥ずかしい三十路。
 それで、むこうはストレートの二十代前半。
 世間から見ればおわらいぐさでしょう。
 いい歳こいた女が、一回りも年下の男の子に入れこむなんて。
 別に、私は彼女の友人ですから。 
 世間と同じ見方なんてしませんよ。
 それに友人にも友人なりの事情ってものがあったし。
 そうなってしまうのも仕方がないかなと、そう思える部分もありましたし。
 とても気持いい青年なんだそうです。
 むしろ、ドライというか、ふだんはとっつきにくいぐらいで。
 無駄口はたたかない。
 つまらない冗談も言わない。
 必要最低限だけの会話しかなくて。
 それで、仕事はちゃんちゃんとやって。
 自分の分が終わったら、友人のも手伝って。
 それで恩着せがましいところも別になくって。
 私の友人は、なんというか、男運がない人生を送っていまして。
 男運どころか、対人関係においては運がなくて。
 真面目な性格につけこまれて、だいぶつらい思いをすることが多かった。
 あっ、私も彼女によく助けてもらっていますけど、私たちはそんな不健全な関係じゃないですよ。
 同郷の人間相手にそんな悪どいことをするものですか。
 まあ、そんなこんなで、彼女はふつうの、まともな男性に免疫がないんです。
 彼は一個も悪いところなんてありませんよ。
 友人が、ただ、彼を好きになっただけで。
 まあ、私は友人の身内ですから?
 よくぞふってくれたもんだなとは、少しは思いますけど。
 結果的におもしろい話が聞けたんだから、全然うらんじゃいません。
 うん。
 わかくて荒いスコッチだけど、美味しい。
 ふう……。
 彼と友人は、学内の片づけを済ませたあと、食事に行ったんだそうです。
 夜だったからディナー。
 特に約束していたとか、そういうのじゃなくて。
 たんに、そういう時間だったから。
 この近所ですよ。
 ここの通りをちょっとくだったところのバルで。
 ただ、まあ、友人は彼にお礼をしたかったらしくて。
 小さなプレゼントと手紙を用意していたそうで。
 いつぞやねえ、入れ知恵してやったんですよ、私。
 印象的な、ドラマティックな場所で、そういうものは渡せって。
 二つ先の交差点。
 あそこ五差路になってるでしょう。
 そこから駅におりる道、わかります?
 あ、お近くにお住まいで。
 あそこの下り坂、桜並木でしょう。
 ああ。
 片側は八重桜です。
 ソメイヨシノとは一緒に咲きません。
 二週間ぐらいずれるかな。
 だから、今時分が見頃ですよ。
 大きな樹だから、街灯が枝にだきこまれていて。
 みっしりと花をつけた紅い梢が妖艶に、ぼんやりと光るんです。
 その坂のまんなかで、友人は告白したそうです。
 即時玉砕。
 常識にとらわれず、自分に正直に、よくやったと思います。
 そのあとに、友人はプレゼントを渡そうとしたんですが、固辞されて。
 当然のことをしたまでだからって。
 好青年ですよね。
 さっぱりしていて、ほんとうに気持ちがいい。
 だから、私は彼にも一抹の同情をおぼえるんです。
 友人は、お礼の手紙もあるから受けとってほしいとくいさがりました。
 手紙こそ受けとれないと、彼は言ったそうです。
 どうしてと、思うじゃないですか。
 どうしてと、友人も聞いたそうです。
 嫉妬深い恋人がいるんですって。
 そこで引きさがればよかったんですけどね。
 けっしてやましいものじゃない、お礼しか書いてないって、まだくいさがって。
 彼は無表情になって、シャツのボタンをはずして。
 ばっと胸をはだけてみせた。
 大きな歯形があったそうです。
 噛み痕ですよね、大きな口の。
 ……女性じゃないと思いますよ、私は。
 いやまあ、男だの女だのってことは、こと愛のことについてはさしたることじゃないですよ。
 私はそう考えるから、こうして笑っているんですけれど。
 友人はたいそう驚いてしまって。
 呆然と立ちつくす友人をそのままに、彼はずんずんと坂をおりていったそうです。
 この目で見てみたかったなあ……。
 友人の立場になって、彼に横恋慕する役回りを演じたいって意味じゃありませんよ。
 こんな状況だからこの街にしては珍しく、静かで闇ばかりが深い夜に、満開の八重桜の下で、一見ふつうの青年の若い肌に、どこかの嫉妬深い男が残した噛み痕があって……。
 でも、実際に目にすることがなくてよかったかな。
 え?
 いや、ねえ。
 こわくないですか。
 ちょっと考えてみてもくださいよ。
 人間の人生に、そこまで誰かを所有したり、誰かに所有されたりすることが必要でしょうか。
 おかしいですよ。
 彼と、彼の所有者は、おかしい。
 かかわりあいには、なりたくないですね。
 こういうおもしろいできごとっていうのは、また聞きぐらいでいるのが一番です。
 あ!
 マスター、お帰りなさい。
 駅まで行きました?
 駅まで行って、引き返して、そこのセブンにいた?
 あっはは、おつかれさまです。
 スマホはねえ、ないと困りますからねえ……
 汗ばんだ肢体を横たえていた鯉登は、月島に抱きよせられてもされるがままでいた。
 悦楽にくすぶる褐色の肌はいまだに熱い。
 月島は、なめらかな胸乳をまさぐる。そこには二つの噛み痕がある。色を濃くしたものと、色の鮮やかなものの、いずれも赤い歯形だ。
 八重桜の花の色が何色か、月島は考える。
 すくなくとも、この瑞々しい肌の色は想像できないだろう。
 ふふふ、と、鯉登が吐息で笑う。
 月島を見あげる漆黒の瞳は、この不気味な世の中の不自然に静謐な夜よりも暗い。
「おかしい、らしいですよ」
「おかしい?」
「ええ。それで、おもしろいと」
「おもしろい?」
 クーラーがこわれて、氷も切れるなんて。
 マスターは厄日ですかねえ。
 まあ、こんな夜もありますよ。
 社会のあれそれが解禁されたからって、何もかもいつもどおりとはいかないでしょう。
 はい?
 私?
 ええ、学生時代から通っているから、かれこれ十年と少々。
 はじめていらっしゃいましたか。
 へえ、恋人のご紹介で。
 このバーのおもしろい話を聞いた?
 ……友人の不しあわせで酒を飲む女?
 ちょっとお聞かせくださいませんか。
 とても、おもしろそうだ。
おわり ご閲覧感謝感激雨霰
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