いもしない神様に許しを請うことが、幼いころから時折あった。たとえばそれは些細なこと。急いでいるときにかわってしまった信号を無視して走って渡ったときだとか、賞味期限を切らしてしまった食材をそうっとごみ箱に入れるときだとか、あるいは特に何もしていなくても腹痛でトイレにこもりながら神様に言う。ごめんなさい、神様。許してください。
明け方の海辺をひた走りながら、私はその言葉を頭の中でささやいた。
――ごめんなさい、神様。
神様がいるとしたら、私のことを許すだろうか。走馬灯のように過ぎっては消えていく記憶の波に苛まれながら、私はただ走る。
「帰れるんだって。よかったね」とフィガロはいつもの胡散臭い笑顔を浮かべてそう言った。なんの感傷も浮かばない、あまりに普段通りのフラットさに一瞬だけ私は傷ついて、――だからこんなことを言ってしまったのだ。
「はい。ずっと帰りたかったから、うれしいです」
フィガロは微笑んで「そうだよね」と言った。きみは本当に頑張ったよ。そんなことを言って頭を撫でて、その手はするりと離れていった。
次の日から、彼は魔法舎から姿を消した。まるで死期を悟った猫のように。ルチルもミチルも、アーサーもスノウもホワイトも、みんな手を尽くしても見つからなかった。オズですら彼がどこにいるのかわからないという事態に魔法舎は騒然となった。
(――私の、せい?)
ずっと帰りたかった。そんな言葉は決して本心じゃなかった。ここで時を重ねるうちに、私はずっとここにいたいと思うようになっていたから。まるで私がいてもいなくてもいいみたいな彼の言葉に傷ついて、だから言ってしまっただけ。意地悪に意地悪を返しただけ。
だけど、彼は傷ついたのだ。もう二度と私の顔を見ずにいようと決めてしまうくらいに。
「フィガロ、どこですか」
大声で呼ばわりながら海辺を走る。砂浜に足をとられて転んだ拍子に口の中に砂利が入って気持ち悪い。潮風と汗で額に髪が貼りついて最悪だ。だけど早く見つけなければ。早く。手遅れになってしまう前に。
(――神様、ごめんなさい)
私はずっと、規定ルートを外れない所謂『いい子』だったと思う。それなりに友達も多く、それなりに交友を深め、それなりに勉強してそれなりの大学に入り、自分ひとりで生きていけるくらいの仕事に就いた。就職で家を出たけど家族ともそれなりにうまくやっていて、初任給では美味しいものを食べに連れていったし、誕生日や母の日や父の日も、きちんと毎年こなしてる。私ひとり育てるために家族が費やしたすべてをいつか返せたらいいなと、あんまり言葉にはしなかったけど心の底から思っていた。異世界に来る、なんて想像だにしていなかったこんな状況でもそれは頭から離れてしまうことなく、帰るための理由のひとつだった。
(ああ、だけど)
神様がもしいるとしたら、私のことを許すだろうか。今まで育ててもらった恩を全部台無しにして、もう二度と会えないところで生きていくって私が決めたら、神様は許すだろうか。
どうしよう、と泣きそうな気持ちで私は走る。もうすぐ夜が明けてしまう。朝になる。それまでに見つけなければいけない気がした。理由はないけど、そんな気がした。
――果たして私は、その背中を見つけた。
「フィガロ!」
海の向こう、あまりにも遠い白衣の後ろ姿。枯れそうな声で叫んだ声が聞こえたのか、その後ろ姿はぴたりと止まった。まだ日の昇らない、けれど水平線の向こうから淡いオレンジに染まる空を背景に彼はゆっくりと振り返る。あまりにも遠いから表情を窺い知ることはできないけど、でもその口が「賢者様」と動いたような気がした。
靴を脱ぐとか、裾をまくるとか、ちらりと頭を掠めたけれどどうせ無駄だと結論付けてそのまま海へざぶざぶと入り込む。あっという間に水が浸み込んで重くて気持ち悪い。思うように進めずに、こけつまろびつしながら私は彼の方へと強引に歩みを進める。
「賢者様」と呼ぶ声が今度こそ聞こえた。明け方の空を背景に、彼はやわく微笑む。
「どうしたの。早くいかないと……」
言葉は最後まで発されなかった。勢いよく腰に抱きつくと、そのまま彼がバランスを崩したからだ。水の中、息ができないまま彼のことだけは離さないようにぎゅっと目を閉じる。泡の音がかぷかぷと聞こえる。冷たい水と、ずぶぬれの白衣。やるせなかった。だから、私はもう決めた。
(神様、私のことを許さなくていいです)
――私、恋をしました。
ざばっと水音とともに体が水面に持ち上げられて、飲み込んだ水を咳き込むように吐き出した。ぽたぽたと髪からも顎からも水が垂れて気持ち悪い。私を見下ろすフィガロの瞳が揺れているから、声がその喉から発される前に私は胸倉を掴んでいった。
「私、帰りません」
「えっ」
「帰りません!」
「でも、」
「何よりもあなたのことが大事で、大好きだから」
だから私、帰りません。
まるで挑むように、私はフィガロを睨みつける。ぽかんとしたように目を真ん丸に見開いてしばらく沈黙したあと、彼は相好を崩して言った。
「……それって胸倉掴みながら言うこと?」
「だってあなたがずっとそんな態度だから、喧嘩になるのもやむを得ないでしょう?」
「そうかなあ……そうでもないと思うな」
戸惑うような言葉を無視して、私は彼の胸倉からそっと手を放して白衣を掴む。彼の肩に頭を乗せながら言った。
「……私から、あなたの手は離さないから。だから、自分から手を離すようなこと、しないで。傷つきます」
「……ごめん」
「でも私も売り言葉に買い言葉したから、おあいこです」
かえりましょう。
そう言いながら伸ばした手を彼は握ってくれたので、私は笑った。