星空が美しくないと感じるようになったのは、わたしがかつて比べようもないほどに美しいものを見たからだ。残業終わりの暗い夜、空を見上げながらわたしはもう戻れない秘密基地のことについて考えて、そしてその益のなさに乾いた笑い声を洩らした。
 もう戻れないものについて考えることは無駄だって、そんなことはわかっている。だけどどうしようもなくもどりたくて、慕わしくて、だからわたしは忘れられない。数えるほどしか星のない都会の空は、ただひたすらに群青だ。
 目を閉じる。あの日の空を思いだす。群青なんて見えないほどに星の溢れるまぶしい夜空を思い出す。
 もう戻れない、あの日の記憶。
「ようやく見つけました」とアーサーは明るい声で言った。元の世界に戻れる方法が見つかった、弾んだ声で告げられたその言葉を聞いて思わず沈黙したわたしを、彼は形のいい眉を下げて「喜ばしくないのでしょうか」と気づかわしげに言ったので、待ち望んでいたはずの帰郷が思いのほか胸の奥に鉛のようにのしかかったその理由といよいよ向き合わなければいけないのだと覚悟した。
 出立を遅らせましょう、と提案する彼に、いいえ、明日に、とわたしは首を振った。いつまでもここにいたって後ろ髪をひかれる思いはどうせ消えてなくなりはしないのだから、早いうちに道を断ってしまった方が良い。
(わたしはわかっていたはずだ)
 いつまでもここにいることはできないって。
 いつか、わたしの居場所へかえらなければいけないんだって。
 わかっていながらいつまでもここにいることを望んでしまっていた理由はたったひとつだけ。目を逸らし続けた恋心。どうしても認められなくて、蓋をしていた思い。
 わたしはオーエンに、恋をしていた。
 魔法者を囲む森を少し歩いて澄んだ水の流れる小川を辿っていくと、やがて小さな湧き水に行き当たる。そこは名前も知らない白くて可憐な花が季節を問わずいつでも咲いている、木の葉の擦れる風の音や湧き水のこんこんと静かにあふれる音が聞こえるだけの静かな場所で、そこを初めて訪れたとき、まるで宝物を見つけたような気分だった。日常の生活のなか、なんだか息苦しさを感じるとわたしはいつもそこを訪れて、賢者の書を読んだりルチルの貸してくれた絵本を眺めたりと気ままな時間を過ごしていたのだけど、ある日うたたねから目を覚ますと隣にオーエンがすうすうと眠っていたので驚いた。まさか、と思ったけれど身動ぎひとつしないので、本当に眠っているんだ、とその顔を眺める。
(……顔がいいな……)
 改めてそんなばかみたいな感想を思う。木漏れ日が白い肌に形作る薄いグレーの陰影も、睫毛が風にふるりと揺れるほど繊細で長いことも、薄い唇が淡い桜色に色づいていることも、なんだか新鮮な気分だった。こんなにまじまじと人の寝顔を見たことなんてないもんな。ぼうっとそんなことを思っていても、オーエンは目を覚ます気配がない。
(…………あ、)
 髪に白い綿毛がついていた。日に透かすとほわほわと透明にひかるような、小さな綿毛。取ってあげよう、と手を伸ばしかけて、目を覚ましたら可哀想だなとひっこめた。ほとんど風なんてないように感じられるのに、睫毛と綿毛はそれらにふわふわ動くので、なんだかかわいいなと目を細める。
 木々の揺れるかすかな音。湧き水の流れる音。小鳥のさえずり。静かな世界はそのぶん音に満ちていて、わたしはページをそうっと繰った。すうすうとかすかで穏やかな寝息。ぱらり、とできるだけ抑えたページをめくる音。なんでもない、そえでいて薄氷に触れるような緊張感のある空間だった。この緊張感をこわしてしまいたくないのに破ってみたい、そんなあべこべの感情が薄氷の中からわずかな期待の眼差しでじいっとこちらを見つめているような。
 結局その日はどうしたのだったか覚えていない。だけどその日からふたりでその場所にいることが増えた。ふたりとも口に出さなかったけど、多分あれは、わたしたちの秘密基地だった。
 そんないつかの日をその場所で思い出していると、彼が音もなくやってきた。
「……ここにいたの」
 そうささやいてすぐとなりに腰を下ろす。はいともいいえともつかないような曖昧な返事をわたしがすると、変な声、と笑う。笑ってくれるんだ、と、ほっとしたような傷ついたような、そんなあべこべな感情が今日も薄氷の中から興味深そうにわたしたちをじいっと見つめている。今日だけはこわしてもいいかな、なんて気持ちと、さいごだからこそこわしたくないな、という自己矛盾がぐるぐる頭をめぐるから、ぽつりとわたしは呟いた。
「この場所、あなたにあげます」
「…………」
「ひみつですよ」
「……ばかみたい」
 はあ、とため息。あはは、とわたしは笑った。オーエンの言うとおりだ。ばかみたい。だってここはわたしの場所じゃない。この世界にわたしが持っているものなんてひとつもなくて、何もかも賢者という役割のために仮初に与えられただけの誰かのものだ。この土地は中央の国のもので、だからわたしに所有権を譲り渡す権利なんてないのに、それでも。
「へんな顔」
「……そうかもしれません」
 たぶん、とても変な顔をしていただろう。泣き出しそうだったから。
「冬眠明けの熊がうっかり高いところから足を踏み外してごろごろ転がったあとみたいな顔だった」
「…………」
 予想外にしっかりとへんな顔だった。
 ワンテンポ遅れて笑い出しそうになったわたしの口を、彼が塞ぐ。え、と戸惑った瞬間、遠くの方から声が聞こえた。賢者様。呼ばわる声は、あれはアーサーだろうか。いくつかの声が何度もわたしを呼んでいるのをききながら、手で口を覆われたままわたしはじっと彼を見た。しい、と口が動いて人差し指を唇に当てる。わたしがこくこくと頷くと、ようやく手が離れていった。
 遠くに聞こえる声を聞こえないふりをしながら、わたしたちは互いの瞳に互いが映るほどすぐ近くで見つめあった。赤と黄色の瞳が揺れる。まっすぐに見つめあうことを拒みながら、それでもわたしの瞳を見つめる。そして互いに瞳に映る瞳の中を見つめながら、わたしたちは当然のようにキスをした。ほんのすこし触れるだけのキスをして、そしてそのまま離れゆく。
 いつでも触れ合える距離で、彼は「何その顔」と顔をしかめた。
「……もっと嫌がってよ」
 平淡で、それでいて切実な声。わたしは彼の額にこつんと自分の額を重ねて、嫌じゃないから嫌がれないです、といった。
「何をしたら嫌がるか、もっと試してみませんか」
「……ばかみたい」
 わたしを映してさみしげに揺れた瞳を隠すみたいに目を閉じて、彼はわたしの腕を掴んでもう一度キスをした。こたえるみたいにわたしも彼の背中に腕を回す。は、と近くで吐息が鳴って、わたしは声をころしてわらう。笑わないで、と不機嫌そうに唇が笑い声ごと奪っていく。やわらかな下草、あたたかな体温、ほんの少し体温の低い唇と、ささやきかわすふたりの言葉。
 彼の後ろに夜空を見上げながら、この空をいつまでも覚えておこう、とわたしは思った。
 ただそれだけで、いつまでも生きていけると思った。
(ここからR18をかきたかったけど酔っぱらいました)
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おーあき
初公開日: 2020年06月12日
最終更新日: 2020年06月12日
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まえかいてたやつの加筆修正
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篠畑