吾輩は諏訪である。立方体ではない。
 諏訪洸太郎という男にとって、三雲修にまつわる出来事は全て他人事に等しかった。それは立場上、三雲と面と向かって対立することが少なかったからであるし、諏訪自身、わざわざ三雲に近付こうともしなかったからだった。
 ボーダー内である意味怪談のように恐れられている『三雲修』という男は、それそのものの名が警告として扱われるほどの、いっとう危険な男である。実際体験したことのない諏訪では最後に、らしい、と付けざるを得ないのだが、運悪く、はたまた浅慮に手を出した人間の反応を観察していれば、その危険性は自ずと知れた。
 仮に例えるとするならば、麻薬のような男だ。
 自分は無力な人間ですよ、という顔をして、取るに足りない存在ぶってはその足元に潜り込む。誰も、足元の蟻に注意は払えど敵意まで向けることは少ない。そうして手温い対応でなあなあになっている内に、その蟻は気付けば懐近くまで這い上がっている。念のために警戒している、と認識していた中で、近しい人間の口からふと吐き出される三雲の名を聞くのはどんな気持ちだろう。きっと下手な伝奇小説よりもずっと、背筋を凍らせるに違いない。
 三雲の性質が悪いところは、主義思想含めて全てが実際に「無力」であることだ。貧弱なトリオン量、恵まれぬ身体能力、世渡りを覚えど使わぬ不器用な性格、三雲自身にしか影響を及ぼさない、頑迷にすら見える信条。どれを取っても、他者を脅かすには力不足が否めない。
 だから、麻薬なのだ。
 自分は大丈夫だと自負していたところで、一度でも三雲に手を出せば何のことはない、築き上げた全てはご破算になる。たった一度の使用で既遂と未遂の境界が分かたれるように、誰にも言えぬ恥を抱え、それをどうにか誤魔化すことに腐心するしかなくなる。
 つまり、三雲修が「害する」のではなく、三雲修で「身を持ち崩す」。
 まとめてしまえば、そういうことだ。
 なので諏訪は、三雲の噂を耳にした時から可能な限り距離を取り続けてきた。心理的にも、物理的にも、あるいは人脈的にも。誰もが警戒した『三雲修』を、視界の端を掠める程度の端役とする。決して興味を抱かず、同時にこちらにも興味を抱かせない。紙面の文字を追うように、『三雲修』という存在を眺められる位置を保つ。
 それは偏に諏訪が自身の自制心を低く見積もっていたからだし、自らを凡人の括りに入れていたからだ。三雲に関わって身を持ち崩した者たちは、皆口を揃えて「判断を間違った」と言った。ならば凡人である諏訪は「冷静な判断力を持てる」距離を保たねば、すぐさま堕落するに違いなかった。
 未知を恐れる心が無かったとは言わない。事実、三雲に近付いた者たちの中には、既知の安堵を求めた者もいるだろう。しかし諏訪はその恐怖を意図して飲み込み、そうして適切な距離を取り続けた。結果、諏訪は三雲という台風の目に巻き込まれることなく今に至る。三雲にまつわる出来事において、およそ十年近くもの間、蚊帳の外に立ち続けることが出来たのだ。余波はあれど被害は無い。一言二言、愚痴混じりの文句を言えば満足してしまえる程度の、なんとも凡人らしい平穏だった。
「――――」
 齢三十を目前に控えた、二十九歳の誕生日の翌日だった。諏訪は、暁闇の中で目を覚ました。
 寝起きの一服をしようとして、枕元の配置が変わっていることに気付いた。いつも寝る前には置いておくはずの煙草が無い。慣れた形といえども、薄暗い中手探りで見付けるには限界があって、諏訪は読書用のライトスタンドのスイッチを探した。しかしこれまた目算が外れて、いつもなら一発で触れるそれが捉えられない。目は閉じたままでも、すでに微睡みは脱し頭の中は覚醒していた。自然だったはずの目覚めが、不快に塗り潰されていく。損をした気分だった。苛立ち混じりの勢いと共に右往左往する手のひらが、ヘッドボードを叩く。その指先に、不意につるりと滑らかな曲面が触れた。次いで響いた音に、諏訪は怯えたように手を引く。かちゃん。わざと余裕を持たせた部品同士が擦れた軽い音。片手が余る程度の大きさのそれは、繊細な機構を持った道具のようだった。
 例えばそう、諏訪も最近使うようになった――眼鏡、だとか。
 そこに至ってようやく、諏訪は最大の違和に思い至った。ばちんっ、と音のしそうな勢いで目蓋を開ける。引っ越すタイミングを逃し続け、惰性で住み続けているアパートの天井が開けた視界を埋めた。長く住み過ぎて、好きにしていいよ、と市外に引っ越した大家から半ば譲り受けたようなその部屋は、そこかしこに諏訪の吸う煙草のヤニが染み着いている。半年に一度大掃除をしても間に合わず、うっすらと黄みがかった壁紙や天井に描かれたカラメル色の濃淡は、今いるそこが確かに自室であると諏訪に知らせていた。
 だがしかし、毎朝目にする景色と微妙に位置がズレている。約、人間五割分。シングルベッドの半分を誰かに譲り渡せば、ちょうどそれくらいになるだろう。その仮説を証明するように、独り寝の長いベッドには諏訪以外の体温があった。
 諏訪は、そろりと上半身を起き上がらせた。突如として湧いて出たベッドの隣人は、諏訪に背を向けている。まだ湿り気の残る髪の下、草臥れた綿枕に律儀にタオルを敷いて頭を預けている黒髪の男。顔を覗き込もうとする前に、開け放しだった窓から晨風が入り込む。八月といえども、朝方の空気は冷えを纏う。ひやり、と剥き出しの肌の表面を撫でられ、諏訪は身震いした。隣人も、風に曝された背を庇うように微かな唸りと共に身を返す。図らずも顔を見ることが叶った相手のことを、諏訪はそれなりに知っていた。
 ――三雲修、であった。
 突如として訪れた異状に、諏訪は、ぽかん、と口を開けた。冷静さを求めて、指先が唇の前を彷徨う。そうだ、煙草が見付からなかったのだった。見渡した部屋の中、目当てのアメスピはベッド下に脱ぎ散らかされたジーンズの尻ポケットに収まったままだった。手に取るには隣の男を越えねばならず、諦めに溜息を吐く。つん、と鼻腔に刺さる刺激臭。分解しきれぬアルコールの名残がそこにあった。
 ――一体、何が起こっている?
 煙草を唇から離す代わり、がしがしと頭を掻いた。三雲同様に諏訪の髪も湿っており、ワックスの固い感触は無い。そろそろ落ち着いた色味に変えるべきかと考えている金髪は、朝焼けの光を受けてちらちらと視界を飾っている。氾濫し、明滅する光の粒がもたらす視神経の痺れに、諏訪は既視感を抱いていた。揺れる光。白く虫食いになる光景に誘われるように、意識が記憶へと潜行する。
 昨日は、諏訪の二十九歳の誕生日だった。
 誕生日とはいえ、二十九ともなれば訪れるそれに喜びは少ない。端末が気を利かせて飾り立てた待ち受け画面によって、ようやくその存在を意識する程度のものだ。今年も来たのか、と頭の中で生まれ年を差し引けば、いつの間にやら三十路にあと一歩のところまで迫ってきていた。
 切っていた通知を戻すと、律儀な友人や後輩たちからのメッセージに端末が癇癪を起こす。慌てて通知音をミュートにして、濁流が落ち着くのを待った。次から次に流れてくるのは見知ったアイコンばかりで、長く居座り続けただけにしろ、ボーダーで出来た知人の多さに感慨を抱かせる。もちろんその中には、諏訪の端末にアイコンだけを残し連絡を絶った者たちも存在した。それぞれの事情ゆえに仕方の無いことであるが、先程とは逆の意味で、時の流れを実感したのを覚えている。
 その日初めて三雲と顔を合わせたのは、同期を中心として開かれた諏訪のお誕生会――という体の、仲間内での飲み会だった。
 馴染みの居酒屋に雪崩れ込んだ、ボーダーでも古株に数えられるメンバーの内の誰かが呼び出したのだ。雰囲気の良い割高のバーでほろ酔いになり、一足早く雀荘で騒ぎ、そうして屋台で引っ掛けつつべろべろに酔っ払っての三軒目。諏訪も含めてまともな思考を保っている人間は居なかった。だからメンバーの誰か――恐らく木崎だ――が「修を呼ぶ」と言っても誰も止めなかったし、逆に翌朝誰が一緒に目覚めるものかと、他人事めかして煽ってすらいたのだ。
 果たして、先輩の呼び出しに素直に応じた後輩は、酔っ払い共の餌食となった。やれ三雲修が来ただの食われちゃうだの騒ぐアラサー共の相手を、三雲は慣れた手付きで淡々とこなしていった。日本酒片手に木崎の泣き上戸に付き合い、注がれるウイスキーを零れないよう腹に収めながら風間の支離滅裂な説教を聞き、懐に潜り込んだ迅とカップルストローでカクテルを飲む。そんな地獄の有り様を、諏訪は用意された上座で爆笑しながら眺めていた。祝いの席の無礼講で誰もがタガを外していたし、三雲も随分と飲まされて、怜悧な目元に僅かばかり朱を差していた。
 飲み会がお開きになる段になって、慌てたのは酔っ払いの方だ。冷や水で乾杯して、最低限金の勘定が出来る程度に冷静さを取り戻した男たちは、自らの置かれた状況に冷や汗を掻いた。べろべろハッピーセットで頭のネジを取っ払った状態で、自分たちが酒を飲ませた三雲と夜道を帰る。冗談でも何でもなく、諏訪を除く全員が揃って尻の心配をし始めた。鴨葱というよりは鴨の押し売り訪問販売。送り狼ではなく送られ狼。高揚した気分に流されるまま、いつ自分が三雲に「抱け」と迫ってしまうものかと、大の男たちが雁首揃えて戦々恐々としていたのだ。
 居酒屋の前に屯して、大人と男と、ついでに責任ある立場の面子を掛けた熾烈な攻防戦が水面下で繰り広げられ――誰もが敵前逃亡の恥を選んだ結果が、夜道を歩く三雲と、その三雲に支えられている諏訪だった。
 飲み会の主役として、懐の心配も翌日の仕事の心配も無く心行くまでタダ酒を楽しんだ諏訪の足は、生まれたての子馬に勝る頼りなさだった。パワハラついでに、三雲に居酒屋の近くにあるアパートの部屋まで送らせる。ひょろりと縦に伸びた長身は、柳のような印象に反して体幹は揺るぎない。長年、微に入り細に入り三雲の面倒を見てきた師匠たちの指導の賜物だろう。それが無遠慮にもたれかかるにはちょうど良くて、三雲の肩に腕を回した諏訪は、焦る同期たちの顔を思い出しては一人笑いを噛み潰していた。
「楽しそうですね」
「まぁな」
 機嫌の良いままに、三雲を見上げる。重く垂れ込めるような深い藍色の夜空に浮いた月の光が、その輪郭を照らしていた。真っ直ぐにこちらを見る鶸萌黄に薄い光が回り込み、ぬらりと夜闇に輝かせる。
 美しい、と感じるにはどこか生々しさのある生命の色だった。しかしそこにはち切れんばかりに詰まった『三雲修』の全てを思えば、関心の薄い諏訪にすらある種の欲求を抱かせる。オキュロフィリア、と言葉に形を変えて頭を巡る、理不尽な性愛と暴力のカタチ。咥内にじわりと浮いた唾液は酒の名残だと飲み下して、諏訪はあえて気分を下げる話題を口にした。
「なぁ三雲」
「はい」
「――後方勤務ってのは、どんな気分だ」
「……」
 三雲の視線が、重さを増した。なんとも分かりやすい。質量をまとったかのように、温度すら感じられる視線が、前方へ顔を背けた諏訪の頬をじりじりと炙っている。
「突然ですね」
「そうでもねぇだろ。今日は俺の誕生日だぜ。否が応にも歳の話ばっかだっての」
 件のこれも、祝いの言葉と共に根付からもたらされたものだった。
 そろそろ、後方勤務を考えてはみませんか――と。
 日常がそれ一色で染まるほどに、諏訪はボーダーに長く籍を置き続けている。朝方通知欄を埋めた知り合いは皆、ボーダーを通じてのものばかり。今いる立場も公務員と呼ぶには我が強く、会社員とするには殺伐としたものだ。警戒区域の内側で、日常に一線を引いた日々を送る。分かり切ったそれを将来の選択肢として選んだのは自分であり、後悔はしていないし、ボーダーに骨を埋める覚悟はとうの昔に決めていた。
 だからまぁ、そろそろそんな話が来るだろうとは分かっていたのだ。
 表舞台に出てから十年の節目を迎えようとしているボーダーは今、過渡期の最中にある。入隊当初から居た、諏訪のよく知る上層部はそれぞれ言い訳のきかない歳になりつつあり、自身の後任探しと育成に手を付け始めた。しかしボーダー隊員は、募集時期にはそれに憧れた多くが入隊するものの、親の転勤や進学など、様々な事情によってやめていく者もまた多い。皮肉にも、戦場臭さを消すため演出した通りに、現状のボーダーは期間限定のヒーローごっこよろしく部活感覚の非日常と化していた。そんな中で、ボーダーに籍を置き続けることを選択した諏訪を始めとした古株たちは、いの一番に囲い込みにかかられている。旧ボーダーと、表舞台に立ってから入隊した隊員たちの間にぽっかりと空いた継承の空白。それを埋めるため、未だ終結の兆しの見えぬ侵略戦争の中で、二度の玄界侵攻を経験した隊員を自由に泳がせておく余裕はこの組織のどこにもないのだった。
 人は、当たり前に歳を取る。トリオンの特性上、どうしても未成年が多くなってしまう隊員たちへ滅私を求められぬがゆえに、彼らを支える人員の不足はこれからも上層部の頭を悩ませ続けることになるのだろう。
「俺ももう、二十九だしな」
 言い添えるように年齢を数えた口ぶりは、自分で聞いても白々しかった。
 別に、まるっきり仕事が変わる訳ではない。事務処理の割合が増えて、むしろ今まで手伝いで手を出していた仕事を、正しく割り振り直されるだけだ。恐らくトリオン体に換装して戦闘を行う機会はあるだろうし、責任を負うべき内容も分かりきっているために不安も感じていなかった。
 それでもどこか、心の底にしこりのようなものがある。触れても痛みは無いのに、少し押されると不快感が生まれる青痣のような。そういう、十分に無視できる感傷だ。
「諏訪さんは、嫌なんですか」
 諏訪よりも一足早く後方に身を退いた三雲が、そう問うた。それに「嫌なんじゃねぇよ」と否を返す。
 そうだ。嫌なのではない。ただの自己認識の問題だ。高校を卒業してすぐの頃、何の気なしに興味を持って入隊したボーダー。試行錯誤の末にスタイルを決め、隊員を率いてB級の上位にも食い込み、二度の侵攻も経験した。実際に人のカタチをした近界民すら相手取った戦いの日々の中、諏訪の中には先鋒役としての自負が育っていた。自分が敵を押し留めるのだと、役割を持ったつもりだったのだ。なので後方に移れと言われた時、足元が急に細く頼りなくなったような気がした。今までずっと戦ってばかりでいたのだから、これからもずっと戦い続けるのだろうとそう漠然と思っていただけに、自身の存在意義を否定された心地だった。自分が居なくとも戦えてしまうのかと、そう、不安になったのだ。
 何のことはない。諏訪は喉奥を震わせて自嘲した。結局自分は、過渡期だ変化だと講釈ぶっておきながらその実、自身に訪れる変化を何も考えていやしなかったのだ。
「染め直さなきゃならねぇかなぁ」
 道端の街灯と月の光を受けてちらちらと瞬く金髪が、今日はやけに目に付いた。心中では、犯人を追い詰める推理のように、もっともらしい理由たちが諏訪の退路を塞ぎ続けている。
 そうしなくては、ならない。
 怒りを生むためどれだけ酒を流し込もうと、反発より先に納得が先に来る。周囲に見せる顔とは真逆な自分の弱気っぷりに、がしがしと頭を掻く。セットが崩れ、ぐちゃぐちゃに髪を乱した諏訪に、三雲が拍子の抜けた顔をした。
「なんだよ」
「いえ。髪、染められるんですか?」
「そりゃな。制服着るならいつまでも派手な頭してらんねぇだろ」
「…そうですね」
「だからなんだよ」
「何でもないですよ」
「何でもなくねぇ面しといて言うなよ。言えよ」
「本当に何でもないんです。ただ――金髪じゃない諏訪さんが、想像つかなかっただけで」
 そう言った三雲は、緩やかに目を細めて薄い笑みを浮かべていた。生々しく思った瞳が、僅かにでも陰りを得ると途端に驚くほどに深みを増した。先程目にした輝きは、どこに消え失せたのか。頭上を走り抜けた流れ星を追いかけるように、諏訪はその瞳の奥へと吸い寄せられて。
 それはきっと、癇癪すら起こせない自分への、鬱屈とした気分のせいで。
 あるいは定期検査のトリオン数値が、前回よりも下がっていたことへの、失望かもしれなかった。
「――――」
 人通りの少ない、裏通り。蛍光灯の切れかけた街灯の不規則に瞬く光の下で、諏訪は三雲と唇を重ねていた。
 表面だけを触れ合わせるような淡い口付け。唾液すら触れぬそれは、互いの温い体温だけを掠め取る。
 じんわりと、熱を移した唇を離しても互いの表情は変わらなかった。ただそこに在ったから触れただけ。そんな、必然を許容する顔をしていた。
 ふ、と一瞬だけ止めた息が吐き出される。これ幸いにと腹に収めた高い酒たちは、胃の中で攪拌されて安酒と変わらぬ匂いをさせていた。対面の三雲の吐息からも、混ざった酒の匂いがする。
「――お前も酒臭くなるんだな」
 そう笑った諏訪に、三雲は「皆さんそう言われるんですよね」と肩を竦めた。
 諏訪にはそう言いたくなる気持ちがよく分かった。コイツ――三雲に匂いが付くだなんて、そんな当たり前のことに想像がつかないのだ。言うなれば、諏訪の好む推理小説における『密室』。独自性を担保したまま普遍化した、唯一無二の概念と呼ばれるもの。人間に向けるには随分な印象だが、諏訪は三雲にそういう概念染みたところがあると思っていた。まあ諏訪だけの話ではなく、ボーダーの一部であれば『三雲修』の一言で話が通じてしまうのだから、そこまで異常と呼ぶほどではないかもしれないのだが。
「なぁ、三雲。今何時だ?」
 顔を至近距離に置いたまま、諏訪は小さく囁いた。遠慮なくもたれかかる諏訪の腰を支えながら、三雲はポケットから取り出した端末を視線だけで確認する。
「……十二時半を回ったところですね」
「そーかよ。お前、帰りの足あるのか?」
「いえ。電車で来たので。終電は終わってます」
「車で来てりゃ飲まされずに済んだのになぁ」
「それでも逃げられそうにありませんでしたけど」
「言えてんな」
 きし、と歯を見せて笑って、諏訪は「巻き込んで悪かったな」と続ける。
「迷惑かけた詫びに泊めてやるから許せよ。どうせホテルもまだ探してねぇんだろ?」
「それはありがたいですが、いいんですか?」
「俺から言い出してんだから構わねぇっての。ただ――、」
 そうして諏訪は、明日の朝食の心配をするような気軽さで言った。
「ベッドは一つしかねぇけどな」
(……何やってんだ俺は)
 思い出した一連の出来事に、諏訪はベッドの上で頭を抱えた。物理的にも、精神的にも頭が痛い。ついでにあらぬところもひりひりしている気がする。目覚めの驚愕が喉元を過ぎて、押しやられていた体の不調が三十路間近の身体に襲い掛かっていた。
 ちらり、隣の男を見遣る。深く眠りに落ちているのか、呼吸に合わせて規則正しく胸が上下していた。成人した男二人が寝るには狭いベッドのせいで、触れ合ったままの足には諏訪よりも幾分高い体温がある。
 昨晩、ブラックホールのように諏訪を惹き付けた瞳は、当たり前だが目蓋の下に隠されていた。その代わり、寝乱れた黒髪が、普段己が身で隠している額の傷跡を曝け出している。
 ――傷の多い、身体だった。
 トリオン体に換装する都合上、ボーダー隊員の身体に傷が残ることは無い。身体能力がそのまま戦闘力に直結するため誰もがそれなりに鍛えてはいるが、一目見て堅気ではないと分かるような、物騒な傷は誰も抱えてはいなかった。
 それでも、三雲の身体は傷だらけだった。大小様々、かつて作戦室で見せられた宙の地図のように、白く変色した皮膚が全身に散らばっている。
 不意に、三雲が近界からの生還者であったことを諏訪は思い出した。否、三雲の来歴を記した文字列として認識はしていたのだが、帰還後も本人や周囲の扱いがまるで変わらないために、実感を抱いていなかったのだ。
 誰もがトリオン体という自らのアバターを用いる中で、我が身に傷を刻まねば生き抜けぬほどの地獄。それを生き抜いた男の瞳に移る景色は、どんなものなのだろう。
 上掛けから覗く脇腹には、いっとう大きな傷がある。真円の、針に刺し貫かれたような古い傷跡。この傷を受けた時、三雲はボーダーに入った時の諏訪よりも年下だった。この先もずっとボーダーとして戦い続けるのだと、覚悟を決めた歳と比べればずっとずっと年下だった。今より十歳近くも若い、まだ義務教育すら負えぬ身で、成人した諏訪よりもずっと固く覚悟を決めていたかつての少年。
 ――金髪じゃない諏訪さんが、想像つかなかっただけで。
 そんな男からもたらされたあの一言は、諏訪の心の奥深くを的確に抉り抜いた。ああ、認めよう。あの言葉を告げられた時、諏訪は歓喜したのだ。『そうしなければならない』に抗おうとした自分を肯定された気になった。だから散々遠巻きに観察していた対象へ、自ら手を伸ばしてしまったのだ。
 三雲と関係を持った同期たちを、諏訪はもう笑えなかった。ああこういうことなのか、と。納得と妙な連帯を抱いてしまう。
 弱り目に祟り目。泣きっ面に三雲修。思い悩んでいる時に自らのエゴを肯定される感覚は、煙草がもたらす快楽や、何ならセックスに溺れる悦楽よりも余程諏訪の気分を高揚させた。今だって、三雲に抱かれた後悔が微塵も湧いていなかった。普段、煙草の苦みで誤魔化している頭がすっきりと澄み渡り、あと二、三年はこの『我儘』を通しても許されるだろうだなんて思っている。
(やっぱヤベーなコイツ)
 明るさを増していく室内で、眠り続ける三雲を隣に諏訪は乾いた笑いを吐き出した。現実逃避代わりに、この男を麻薬と例えた自分を天才だと褒め称えてやりたかった。
 それでも、やらねばならないことはある。
 諏訪は枕元に見付けた三雲の端末を拾って、見知った番号に電話を掛けた。数コール、時間もあって普段より長く待たされた後に、低く掠れた声で応えがあった。
『…………こんな時間にどうした。諏訪に手を出して追い出されでもしたか』
「そこまで人の心がねぇことはしねぇよ」
『――諏訪か』
「おう。俺だよ」
 掛けた相手は風間だった。諏訪だと分かった途端に、声音から少しだけ警戒が取れたことを感じ取る。こいつどれだけ三雲が怖いんだよ、と思ったが、自分もその恐ろしさを体感したばかりであるので大人しく口を噤んだ。
『どうしたんだ。それよりも何故お前が三雲の端末から掛けてきている』
「そりゃ、泊めたからな。三雲はまだ寝てる」
『……』
「ちょうど手元に近かったんだよ」
 自分たちが押し付けたくせ、反応に困っている風間を放って、諏訪はさっさと用件を伝えることにした。
「掛けたのはあれだよ、あれ。番号教えてくれよ。お前なら知ってんだろ」
『…………何の番号だ』
「えーと、そう、あれだ。『緊急回線』」
『――――』
 電話口で、風間の呼吸が途切れた気配がした。こいつがここまで驚くのは珍しい。まあ、それも無理は無い。三雲に人生を狂わされた男たちが愚痴り合ってる『緊急回線』の番号なんて、諏訪には一生縁遠いものだと思われていたのだから。
『何があった』
 聞きたくもない現実に立ち向かおうとする、硬い声だった。ここまで来たら言ったも同然だろうに、本当に嫌そうに尋ねるものだから諏訪は笑いを堪え切れなかった。くつくつと喉が震える。
 これから諏訪が告げるのは、解決すべき事件ではない。むしろ事件はこれから始まる。ゆえに探偵を探す必要も無く、ノックスに示された開示すべき情報としてその事実は詳らかにされる。
 諏訪は、自分でも驚くほどに気負わぬ声でそれを告げた。
「三雲と寝た」
 かくして、舞台の幕は切って落とされた。
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修諏訪
初公開日: 2020年05月29日
最終更新日: 2020年06月01日
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クソ野郎軸修諏訪