三雲と感動の――とするには暴力的な再会を果たした香取は、会議室を後にしていた。三雲が行方不明になって数年、その間積もり積もっていた鬱憤をさっさと晴らした彼女は、もうあの部屋に用は無い。今から行われるのは、聞き取り調査という名目の三雲の尻拭いの対策会議である。香取は部屋を出る自分と入れ替わるようにして入室した、上層部の面々に同情の念を抱いた。三雲のどうしようもない性根とそのエゴによってもたらされた結果など、本音を言えば誰も聞きたくは無いのだ。しかし、この世界のことを考えるならそのパンドラの箱は閉じたままにしておけない。かつての隊員だけならまだしも、こちらが感知していない未知のフネを駆って現れた、『三雲修』の歩んだ軌跡。『玉狛のメガネ』としてあの男が存在を認知されてからのことを考えれば、数年にも及ぶその記録は上層部の表情を殺し尽くすに余りあるだろう。
一抜けして良かった、と香取は真っ直ぐに伸びた廊下にヒールの音を響かせながら思った。ボーダーという組織において何の役職も持っていないからこそ、彼女はこんなに無責任を気取っていられる。それもこれも、周りが忌避している中、率先してあの男の手綱を握ってやったからだ。三雲が行方不明になってから行われた上層部の再編人事において、『三雲修の恋人』というポジションは無類の強さを発揮した。ボーダーに籍を残した同期たちが次々と囲い込まれ責任を背負わされていく中で、いつ帰って来るやもしれぬあの男のことを思えば、誰も彼女にそれ以上の重責を負わせようとはしなかった。
廊下の途中、自販機と共にベンチが備え付けられた、簡易的な休憩スペースに差し掛かったところだった。香取は観葉植物の影に隠れるようにして蹲る背中を見つけた。香取よりも頭一つ分は小さそうな体躯に、丸いシルエットのボブカット。隊長の失踪によって実質的に解散となった、三雲隊の花浅葱色の隊服を今なお身に纏い続けているのはボーダーにおいてただ一人しかいない。それはあの日、香取へ涙ながらに三雲の最後を告げた――雨取千佳だった。
「雨取」
正面に立った香取の呼びかけに、雨取はその細い肩を大きく震わせた。大きな丸い瞳が、垂れた前髪の隙間から覗き見るように彼女を見上げる。
「……香取、さん」
「そんなとこで何してんの」
「っ、」
問うた言葉に返答は無かった。ただ代わりに色の変わるほどに強く唇を噛み締めて俯く。成長期を終えても小柄なままであった身体をなお小さく丸めて、祈るようにして組んだ手のひらは膝の上で震えている。感じ取れる感情は、怯え、だろうか。しかしそれにしては、衝動を堪えるような印象があった。
「雨取。あんた、」
あいつには会ったの、と続けようとして。随分な愚問だったと言葉を切る。三雲の幼馴染であり、長らく隊を組んで時間を共にしていた彼女が、会ってないはずが無いのだ。むしろ本人確認のため、真っ先に面通しに呼ばれているに違いなかった。
となれば、雨取の怯えは突如帰還した三雲の存在に因るものではなく。
「――あいつに、何言われたの」
その言動にこそ、原因があるはずだった。
確信を持って落とされた香取の問いに、雨取は目を見開いて弾かれたように顔を上げた。酷い顔だ。言葉を失ってはくはくと喘ぐ、噛み痕の目立つ唇に、真っ白に血の気の失せた顔色。涙の無い瞳が愛らしい顔立ちと相俟って痛々しさを演出する。
香取の視線を受け止めた雨取は、その小さな唇を開こうとして、音を紡ぐ直前で引き結ぶように口を噤んだ。うろうろと視線を彷徨わせ、逡巡する。再び、地に落ちて行こうとするその小さく形の良い頭を引き留めるように、香取はもう一度強く彼女の名を呼んだ。
「雨取」
「ッ!」
雨取の表情が、苦し気に歪む。それに合わせて柔らかな黒髪がふわりと揺れた。三雲が遠征艇を降りたあの日から、時を止めたように同じ長さに保たれている髪が無事を祈る願掛けであると、気付かぬ者は少ない。あの男を相手にそこまで、と誰もが思いながらも口にしなかったのは、偏に彼女の人徳に因るものだった。
目の前の小さな肩は、全力疾走をしたように大きく喘いでいた。薄い酸素を取り込もうと、肺を膨らませる。引き結ばれていた唇の端が、僅かに引き攣った。ぎゅう、と険しく寄せられた眉根。ようやく涙の滲み始めた瞳を潤ませて、雨取は絞り出すようにしてその言葉を口にした。
「――――『帰って、きたよ』」
音ではなく、血を吐くような声音だった。
「……帰ってきたよ、って。言ったの。修くん――帰ってきたよ、って」
ぎりぎりで堪えていた涙が、愛らしい丸みを持つ頬をぼろりと辿った。一つ跡を付ければ後は決壊するように、溢れた感情は次から次へとまろい頬を濡らしていく。それと同時、彼女の中で渦巻いていた激情も、言葉に姿を変えて口を衝いた。
「わたし…っ、わた、し、そんなにダメかなぁ…っ?逃げるのを、やめて。戦うって決めて…っ。ちゃんと…撃てるようにも、なってっ!修くんと一緒に…何度も、何度も、遠征にだって行ったのに…っ!それでもっ、そんな、そんなに…っ、置いてく、ことも!待たせることも出来ないって!ずっとずっと、思われてたのかなぁ…ッ!」
――張り手ではなく、拳を使っておくべきだったかと、香取は今更な後悔を抱いた。誰にどう否定されようと自身の正しさしか選ぶことの無い三雲を相手に意味の無い選択肢だが、それでも雨取のため、あのスカした面をもう一度くらいは歪めておくべきだったかもしれない。
心の内に有ったものを吐き出してもなお、雨取の表情が晴れることは無かった。むしろ逆に、その苦しみは増しているように見える。
香取はそこで、雨取が耐えていた衝動の本当の正体を知った。それはきっと、怒りだ。自らを侮る三雲へ、向けられたものが一つ。そしてもう一つ――手と手を握り合って生きてきた幼馴染の生還を喜んでやれない、雨取自身へと向けられた。
情動に関係なく、不快なものはあっさりと切り捨てがちな香取でさえも憐れに思えるほどの、優しさに塗れた甘さだった。そうでなければあの男の隊員はおろか幼馴染などやってはいなかっただろうが、それでも、要らぬ苦しみを背負うだけの甘さだ。香取が思った通りに、あのスカした面を殴ったところで、誰も攻めやしない。部隊を解散し、拠り所を失くしてもたった一人でずっとその帰りを待ち望んでいた彼女ならば況やである。どこまでも真っ当な怒りにすら自己嫌悪を抱く雨取の様子は、一応は恋人という立場にある香取よりも余程恋人らしい。誰もがクソ野郎と割り切って見下げ果てた自分を健気に待ち続けた彼女へ、三雲はよりにもよって最低な言葉を投げかけた。
「…ね。香取、さん」
泣き濡れた表情で、雨取は香取に縋った。仕方ないな、で流せる地点はとうの昔に過ぎ去ったあの男の礼儀知らずを正面からちゃんと抱え込んで、救いを探していた。
「どうしたら、いいのかなぁ。帰り“たい”、じゃなくて、帰る“べき”だと思われた人間の惨めさ。香取さんは、分かってくれる?」
「――分かんないわよ。だってアタシ、言われてないもの」
寄る辺を探す迷子のように伸ばされた手のひらを払い除けながら、香取はつくづくクソみたいな男だと三雲を断じた。本当に。本当に。あのクソ野郎はロクでもない。
「でも、あんたがやるべきことは分かる」
向けられた拒絶に怯んだ雨取の手を、今度は香取から掴んだ。そのまま上に引き上げて、ベンチから立ち上がらせる。
「もう一回、あいつに会いに行くのよ。それで、今度こそ『おかえり』って言うの」
「でも、」
「何勘違いしてるかは分かるけど、あいつのためじゃないわ。これはあんたのために言ってんのよ」
俯きがちな雨取の顔を、顎を掴むことで持ち上げて。香取は、いい?と前置きする。
「あいつは帰って来たの。アタシたちがどれだけ腸煮え繰り返らせて歯軋りしてようが、あいつは帰って来ちゃったの。しかも、考え得る限り最悪なことに自力でね」
三雲が帰還を告げたあの瞬間、本部に居た者たちは皆揃って頭を抱えた。『三雲修』が帰って来たからだけではない。あの男が、こちらが救出する前に自力で帰還したことも問題だった。
「今のあいつはね、無敵なのよ。仲間のために一人殿を請け負って、危険な戦地を彷徨い歩いた挙句に自助努力で無事帰還。その内実がどうあれ、やったことだけ見ればヒーローと見做されても可笑しくない」
本当にクソみたいな状況よね、と香取は続ける。
「その上で帰還を歓迎されないなんてことになったら、その頭に『悲劇の』って付くのよ。そうなったら最悪も最悪。誰もあいつを否定出来なくなる」
だから。
「だから、例え嘘でも。例えあの顔にアイビス撃ち込んでやりたくなるくらい腹の底から怒り狂ってても。あんたはあいつに『おかえり』って言ってやんなさい。それさえ言っておけば、どんな扱いしようが義務を果たしたこっちのモンなのよ」
「――――」
「言ってやりたかったんでしょ。あいつに、『おかえり』って」
「……んっ、うん…!」
再び溢れ出した涙に声を詰まらせながら、雨取は何度も頷いた。答える代わり、ぎゅう、と力の込められた手のひらを引いて、香取は元来た廊下を歩き出す。雨取は、促されるでもなく自らの足でその後に続いた。
「……香取さん」
「葉子。名前でいいわ。アタシも千佳って呼ぶ」
「葉子、さん」
「なに?」
「葉子さんも、おかえりって言ったの?」
雨取の問いに、三雲の頬を張った手のひらがじんと疼いた。それを握り潰すことで無いものとして、香取は答える。
「――言うわけないじゃない」
あのクソ野郎に、そんな勿体ないことをしてやるつもりはさらさら無かった。
終わり。
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修香前提千佳ちゃん
初公開日: 2020年05月03日
最終更新日: 2020年05月04日
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クソ野郎帰還編その2