本拠地ナポリから離れたカオルレの別荘でアバッキオが二人分のハーブティーを淹れるのは、自分とブチャラティのため――ではない。落ち切った砂時計を遠ざけ、透明のポットの中で開いた葉を捨てる。
給仕人ではないから、アバッキオはトレイを用いずふたつのカップを手に持って庭に出た。白いガーデンテーブルで、黒髪の恋人と中年女性が向かい合わせに談笑している。
「アバッキオ」
いち早くこちらに気付いたブチャラティが、アバッキオを示しながら女性に笑いかける。
「こいつの淹れるお茶は美味いんですよ。コーヒーでもワインでも、なんでも上手に飲ませてくれる」
「まあ、素敵」
髪を緩くまとめた中年女性は、濃紺の花びらが浮いたハーブティーに瞳を輝かせた。いかにも生まれついてのお嬢様といった素直さの垣間見える表情だ。
「でも、カップがふたつだわ。あなたの分は?」
「いや、俺は……部屋で本を読むんで」
「照れ屋なんだ。気にしないで」
ブチャラティが愛想よく微笑むと、女性はそうなの、とやはり素直に言葉のままを受け入れた。庭から室内へ戻り、上がった先のロフトでクッションに座り込む。
ブチャラティとアフタヌーンを楽しむ上品な女性は、三軒先の別荘に宿泊する社長夫人である。アバッキオやブチャラティと同様、夫婦で避暑に来ているのだが、夫のことで相談があると言って先ほど訪問してきた。以前近所の揉め事を解決してやってからというもの、この辺りの住人や別荘所有者は困りごとが起こるとブチャラティにその話を持ち込んでくる。
たまのバカンスぐらい仕事から離れても●この町ではふたりがパッショーネのギャングだということは伏せているのだが、そんなことはまるでブローノ・ブチャラティという男の人間性の前にはまるで無意味な工夫だったらしい。
(ナポリにいるときとやってることが同じじゃねえか)
嘆息こそすれ、呆れるというほどの意外性はない。彼にとって、他人の面倒を見るというのは、仕事の一環というより趣味に近いのかもしれない。もっと正確にいえば、性分なのだろう。
その性分によって救われた過去のあるアバッキオとしては文句も言えず、別に読みたくもない本を1冊手に取って読み始めた。読書というのは口実だったが、実際それぐらいしかやることがない。
そうして小一時間もしたころ、階下から「アバッキオ」と名を呼ばれた。本を放り出し、ロフトから顔を出す。
「降りてこい」
「客は?」
「帰った。ピクルスを瓶ごともらったからなにか作ってくれないか」
恋人そっちのけで趣味に没頭していたくせに、今度はなにか作れと来た。この男は、アバッキオにはどこまでも我儘を言ってもいいと思っているらしい。
アバッキオはほとんど反射的に答えた。
「分かった」
なるほど、確かに、どこまでも我儘を言われても許してしまっている。
ピクルスと豚肉をトマトソースで煮込んだものをテーブルに出し、パンを並べてついでにワインも開けてやると、ブチャラティは嬉しそうに目を細めた。
「注文しなくても酒と料理が出てくる。リストランテに行くより楽だな」
ワイングラスを傾けるブチャラティの首筋を眺めてアバッキオは口角を上げた。
「店より高くつくぜ」
テーブルの下で靴を脱ぎ、ズボンの裾へ指を潜り込ませる。ブチャラティの表情は変わらないが、彼の持つワインの湖面がわずかに跳ねるのをアバッキオは見逃さない。
「まだ……夕方だぞ」
「夕方だな。でも他にすることがあるか? 食事を終えたらシャワーを浴びて、ベッドに入って……」
足を持ち上げ、さらに裾をめくる。ブチャラティは食事を続けようと一見平気な顔でカトラリーを手にしたが、アバッキオの言葉を否定しない。
とっとと夕食を終わらせようとアバッキオもまたフォークに指をつけた、そのときだった。
リビングで音楽が鳴り始めた。アバッキオの動きがぴたりと止まる。
「この曲は……着信音か?」
ブチャラティの眉が顰められる。
「お前の携帯だろうアバッキオ。出なくていいのか」
「いい」
「いいったって……」
音楽は一分ほどサビを繰り返して、やがて静かになった。そして鳴り止んでから三十秒ほどでまた同じ着信音を流し始める。
「おい、誰からか知らないが出た方がいいんじゃないのか」
「無視しろ」
ピクルスと豚肉を交互に口に運びながら、アバッキオはすげなく言い放った。その様子にピンと来て、ブチャラティは「お前」と呆れ声を出す。
「さてはジョルノからの電話だな。ボスの着信音を地獄の黙示録なんかにする奴があるか。すぐに出ろ。緊急かもしれないだろう」
「俺があんたといることは知ってるんだから、本当に緊急ならあんたの携帯にかけてくる」
それもそうだと納得しつつ、鳴り続ける携帯がどうにも落ち着かない。ブチャラティは溜め息とともに席を立ち、ガラステーブルの携帯を耳に当てた。
「ジョルノか? 俺だ。どうかしたのか。ああ……うん……うん? アバッキオ、ジョルノがUSBメモリの中身がどうたらとか言ってるが」
「ああ!?」
ようやくこちらに顔を向け、大股でずかずかと歩いてきたアバッキオが携帯を奪い取る。
「てめえ、ジョルノ、データはフーゴのラップトップに移したって言っただろうが! パスワードなんて俺が知るか、フーゴがやったんだからフーゴに訊け! いいか、次俺の休暇を邪魔したら貴様の……切りやがったクソガキ!!」
忌々し気に携帯を手放したアバッキオが舌打ちを響かせる。携帯を叩き付ける先が床ではなくソファだったので、まだ判断力は残っているらしい。
「別にちょっと電話されたぐらいで怒ることはないだろう」
ダイニングキッチンに戻り、食事を続けながらブチャラティは恋人を窘めた。
アバッキオはなぜか初対面の頃からジョルノのことを嫌っていて、事あるごとに反発しては苦々しげに『生意気なクソガキ』と面罵する。流石にジョルノがボスに就任してからは人前でそういうことはしなくなったが、昔馴染みだけの集まりとなると途端に大人げなく突っかかっていくし、●。
とはいえ、アバッキオはジョルノのことを嫌っていても信頼していないわけではないというのが周囲の評価であり、何事にも率直なナランチャなどはそのふたつの感情が両立することをたびたび不思議がるが、その矛盾こそがアバッキオという男の深みだとブチャラティは思っている。電話を取るのを散々渋っていたくせに、向こうから切られたら切られたで怒りだすところなど、まったく理不尽で飽きが来ない。
「なんのためにわざわざカオルレくんだりまで来てると思ってんだ。俺はあんたと違ってワーカホリックじゃあない。ジョルノに限らず、仕事の話なんてナポリに帰るまで一秒たりとも耳に入れたかねえよ」
空の皿にフォークを置いたアバッキオが、グラスにワインを注ぐ。
「次別荘を買うなら電波の届かないド田舎にしようぜ。半径五キロ以内に誰も住んでない野っ原ならなおのこといい」
「ふ……そうしよう」
現実的でない提案に同意して、ブチャラティは庭へ繋がる大きなフランス窓から外を見る。夕焼けがゆっくりと夜に居住権を引き渡すところだった。
引き上げた皿をとグラスを流しに置くアバッキオの背中にそっと張り付き、耳元で悪戯っぽく囁きかける。
「ふたりきりしか入れないほど小さな……あばら家に住むのも悪くはないな」