朝の満員電車にうんざりする日々。職場までの30分、帰りよりも行きの方がやけに長く感じる通勤時間に今日もまたため息をついた。右も左も、何処を見やっても仕事に憔悴しきったサラリーマンやOLで溢れている。毎日毎日同じ時間の電車に乗り、同じ道を歩いて職場に向かう。同じことしか繰り返さない、平凡だけれども何の変哲も無いつまらない日々。今乗っている電車だって、ただのつまらない方舟のようだ。相変わらず身動きの取れない車内、背中を痛いくらいに押されながら何度目か分からないため息を付きながら窓ガラスに頭を寄せた。目にかかった前髪が妙に鬱陶しく感じて鞄の持ってない手で軽く整えるように手櫛をかけた。電車のスピードが、どんどん景色を後ろにへと追いやっていく。瞬間瞬間をあっという間に過去にしていくように。俺の事を決してひとこころには留まらせてくれないのだ。自分にとって大事な物に目を凝らして見つめる事も出来ず、淡々と機械のようにこなすだけのようなつまらない毎日が。それが果たして大人になったということなのだろうか、だなんて変わりゆく外の景色を見ながらふと思った。俺は、いつからこんな風になってしまったのだろうか。車内のアナウンスが流れ、次が職場の最寄り駅だということに気づく。駅のホームを出て真っ直ぐ進めば橋がある。その橋を越えれば、眼下は並木道が見えてきて。俺が__いや、俺たちが通った高校の通学路。少し蕾を開かせた桜の木を見れば、もうすぐ満開になるだろうと知らせてくれる。それだけで心が温かくなった気がして、それでも同時に襲ってきたのはほんの少しの胸の痛み。そういえば、とスーツの胸ポケットから取り出したのはまだ新しい名刺入れ。それをそっと開いて奥底から取り出したのは、少し色褪せた一枚の写真。そこには古ぼけたアパートの軒下に佇む制服姿の可愛らしい男の子が少し気恥ずかしそうに笑っていた。
彼に出会ったあの日はとても晴れた、天気の良い日だったことを今でもよく覚えている。
学校をめがけて桜並木の道を全力で走っていた。よりによって、今日は入学式の日。昨日あれ程起きれなくなるからと言っていたのにも関わらず結局眠りについたのはとうに丑三つ時を超えていた。案の定、寝坊をし慌てて時計を見れば式の始まる少し前だったというわけだ。ああなんてついていないのだろう。いやはや、己が100パーセント悪いのは確実なのだけれども。朝ごはんもろくに食べずにひたすらに走ったものだから身体は既に悲鳴を上げ始めている。やっと遠くに校門が見えてきたのをいいことに、ようやく走ることを辞め、ゆっくりと息を整えるように歩き始めた。
「わっ…、」
音と共に突風のように吹き抜けていった風。地面に落ちてしまった桜の花びらが風に煽られ無数に舞い上がり、思わず腕で目を覆う。少し風が弱まり、薄っすらと目を開けると満開を迎えた桜の花びらが紙吹雪のようにゆらゆらと舞い上がっていた。
その光景が空全体を淡い桜色に染めあげて。ひらひらと花びらが舞っては落ち、舞っては落ちる。そんな情景を目で追っていると。花びらが落ちていくその先に。そいつは一人、佇んでいた。無造作に開けっ放しだったブレザーのネクタイが、風で揺れる。乱れた髪が目にかかるのを少し手で払い、眉間に皺を寄せた。ビー玉のような、涼し気なチョコレート色の瞳が、ゆっくりと花びらを追って、そして、俺を捉えた。薄桃色の絨毯の上に佇むそいつは、人間なのかと疑うくらいに、綺麗な顔をしていた。透き通っていて何もかも見透かしてしまいそうなその瞳は未だ俺を真っ直ぐに捉えたまま、そいつは桜色の唇の両端をゆっくりとあげた。自分でも戸惑ってしまう程に心臓が早鐘を打っていた。身体も、瞳も。一瞬にして名前も知らない彼に魅了され、力を奪われてしまったように動かない。その形の良い唇から洩れる声色はどんなだろう、だなんて無意識に考えてしまう。
所詮、一目惚れだったのだ。
「…新入生?」
その声に、ようやく固まっていた身体が動く。カランコロンと鈴を転がせたような心地の良い声色だった。
「えっと、っあの…!」
何か言わなければと頭では思っているが、妙にあがってしまって声も上擦りどうも言葉になってくれない。俺があたふたとしていれば、そいつは徐に胸ポケットから黒縁眼鏡を取り出しながら呆れたように微笑んだ。
「こんなところで口なんかあけて何やってるの?もう始まるよ、入学式」
「えっ…君もその、新入生?」
「そうだよ」
「な、なんだよ、じゃあお前もじゃん!」
「僕はいいの。パス」
何処か遠くを見ながらそう呟いたあと、ゆっくりと此方に歩いてきて俺の横を通り過ぎようとしたときだった。
「名前。なんて言うの」
「テヒョン。キム、テヒョン」
「そ。チョンジョングク。よろしくね」
そう言って、今度こそ手をひらひらと此方に振りながら学校がある方とは反対側にそいつは消えてった。
あの日入学式で出会った俺らは、偶然にも同じクラスだった。なんとなく自然とつるむようになったのもきっと時間の問題だったのだろう。昼休み、屋上で共にご飯を食べるのが日課になりつつあった。けれどもジョングクは単位ギリギリで、ろくに学校に来やしなかった。ようやく来たと思えば授業中ずっと寝ていたり、時には来て早々に早退していたり。そんな繰り返しだった。だからというもの、寝たきりのお袋の面倒を見ているんだとか、いや親父がヤクザなんだとか、はたまたホストで稼ぎまくっているんだとか。本人が居ないところでいいたい放題に囁かれる噂の数々。それは良い意味でも悪い意味でも、ジョングクが一際目立っている存在だということを如実に表していた。今日は珍しく朝から来て、何日かぶりの一緒にとる昼食。隣でパックのいちごみるくを飲んでいるジョングクの顔をまじまじと見つめる。こうしていれば、彼も他の奴らとなんの変りも無い普通の高校生で。何故あの日、あんな気持ちになってしまったのか不思議で堪らなかった。黙っていればその均整のとれた顔のせいで何処かミステリアスな儚げな印象を与えるけれど、いざ口を開けば見た目からは想像がつかないほど饒舌で明るい性格で。でも結局のところ、ジョングクの素性を知っている奴は一人も居なかった。それは、俺も含めて。
「なあ、なんで学校来ないの?」
「…忙しくてさ」
俺が何となしに尋ねればつまらなそうにゴロンと横になる。
「おまえ、飯食った?ほら食えよ、余ってっから、パン」
ゴソゴソと鞄からパンを取り出せば、チラリと向けられる視線。
「別にいらないよ」
「だって俺こんなに食えねえし」
「したらなんで買うの」
「食うまでわかんなかったんだよ」
そう言えば、その整った顔をくしゃくしゃにして笑い出したジョングク。うん、彼には真顔なんてつまらないものよりやっぱり笑った顔が一番似合っている。
「何、馬鹿なの?テヒョン頭良いのに」
「悪かったな、馬鹿で」
ひーひーとお腹を抱えて笑い続ける彼をもっと笑わせてやりたくてふざけてパンなんてそっちのけで、寝転がっているその脇腹をくすぐった。じゃれあいながら、抵抗するけれど細くて華奢なジョングクの腕を押さえつけることなんて簡単で、馬乗りになって掴んだ両手首を笑いながらそのまま地面に押し付けた。きっとこいつも笑ってるだろうだなんて思いながら顔を見たとき、あまりにも想像とかけ離れていたその表情に、焦りと同時に酷く心が乱されてしまった。真っ赤になって瞳を濡らすその表情に、不意に高鳴る心臓。そんな表情をしているだなんて思うはずがなくて、ジョングクのこんな表情を見るのは当たり前に初めてで。全てに動揺した自分がいた。俺を見上げる、ゆらゆらと揺れる濡れた鳶色の瞳。薄く開いた桃色の唇からチラリと紅い舌が見えたような気がした。無意識だった。吸い寄せられるように唇を寄せた刹那、俺の名前を呼ぶ低い声。
「っ、テヒョン」
ジョングクのその声にふと我に返り慌てて馬乗りになったままだったジョングクから逃げるように離れた。自分のしようとしたことに驚いて、混乱して。彼にどう説明したら良いのかまるでわからなくて。身体を起こし、じっと俺のことを見つめるジョングクの瞳を見ることが出来なかった。
「…パン、貰ってくね。ありがと」
少しの沈黙のあと、ジョングクが背中越しにそう呟いて。屋上から出ていった。ジョングクが出ていった後のドアの重々しい音だけが俺だけしかいない屋上に響き渡っていた。
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