「眠れないのか。」
鉄格子の隙間から漏れ入る月夜に照らされた髪は青く光り、灯りのない部屋の中の充分な光源となっていた。眠れないのか、そう問われれば答えは是(イエス)だが、輝く髪で目が冴えたわけではない。薬によって強制的に与えられる日中のまどろみのせい、とも考えられたが、辛気臭い顔をした看護婦から飲むように命令されて口に含んだはずの薬は、どうしてか問いかけてきた青い髪の男の手の中にあるのだ。どうやら昼も夜も低下する意識の海を揺蕩っていたそれは、自分が言われるがまま飲んでいた毒とも薬ともつかない粉薬(を包んだオブラートのようなもの)のせいだったと気がついたのは、誰もいない独房に似た病室のベッドに胴体を縛り付けられて3日経った晩のことだった。
「うん、なんだか眠るのが勿体なくて。」
「夜は寝るものだろう?ここで夜更かししてたのがバレたら、また薬を増やされるぞ。」
強制的な仰向けの姿勢は背骨が伸びて腰が痛む。安いベッドには申し訳程度のスプリングが敷かれ、薄い尻に堪えた。体の水分量の多い青年ならばまだしも干からびた老人であればあっという間に床擦れが出来て死ぬだろう。窓には鉄格子が嵌められ、体はベッドに括り付けられているから逃げ出すことも叶わないが、溶接された鉄の扉には目視できる限り3つの鍵が付いているし、覗き窓にすらご丁寧に鉄格子が付けられている。そんな厳重な作りに反して、土を固めて作られた壁は所々穴が開いていて、長いこと見つめていれば鼻を揺するネズミがか細い声を上げながら通って行った。
「せっかく君が隣にいてくれて、私が私でいられる時間なんだ。」
「お仕置き部屋」、パスタが入ったままの鍋を頭に被った男や、拘束着をなぜか着崩した少女は、この部屋のことをそう呼んでいた。昼間の談話室で声の出ない女性も首肯していたから、此処に収容された者たちの共通した呼び名なのだろう。実際のところ、男は仕置きを受けるようなことをした記憶は一切ないのだが、同じく今日の昼間の記憶もないのだから、自分の知らぬところで何かやってしまったのかもしれない。
「皆んなは此処を嫌がるけれど、私はそこまで嫌いじゃあないよ。」
「体縛られてて小便にも行けないのに、か?」
「うーん、確かにそれは困るけれど。でも、元の部屋はこの部屋と同じ大きさで、8人も寝ているんだよ。」
寝返りを打ったらキスしてしまう!体を揺すりながら笑う仰向けの男の目には、何から護つもりなのか革製のアイマスクが付けられている。揺れる頭とボロボロのシーツとの摩擦でわずかにそれがずれるのに気がつくと、青い髪の男は、両の掌で優しく押し戻した。男にしては柔らかな感触が心地よく、されるがままの男はまたくふくふと喉を鳴らした。
「君の手、好きだよ。」
「ん、そうか?俺は時々困ってるんだ。こんな手じゃ、タイプライターで手紙も打てやしない。」
そう言いながらも、青い髪の男は、仰向けの男の頬を、今度は手の甲でするりと撫ぜた。ふわり。貴族の毛皮のコートのような、ベルベットのような (いずれにせよ男の人生経験の中でそれらに触れたことがないことを、特記しておく) 感触に、自然とすり寄ってしまう。暖かい、柔らかい、優しい。それらは、男が此処に放り込まれてから、暫く忘れていた感覚だった。
「私は此処が好きだよ。」
「黴臭くて、ネズミがそこらで死んでいるのに?」
「うん、それでも私は此処が好きだよ。」
「こんなベッドに寝ているのに?」
青い髪の男は問答しながら、人よりも大きな口を引き上げる。ナイフで切ったような三日月にも似たそこからは、どのように咀嚼しているのか生態が不明な歯が覗いた。
「うん、だって、此処なら君がいるもの。君と、誰にも邪魔されずに話せるもの。」
仰向けの男は、唯一見える口をゆっくりと動かし応える。大きな目で瞬きを繰り返した青い髪の男は、数秒の硬直を経て堰を切ったように笑い出す。あはは、あははは、ポツリポツリと囁いていた会話から一転した笑い声は壁を反響し部屋中に響き渡ったが、それを咎めるものは誰もいなかった。
「うん、うん、そうだな。俺もお前とオハナシ出来て楽しいよ。けどな、楽しみはまた明日に取っておこうぜ。そのために、お前は今眠るべきだ。」
よっこいせ。仰向けの男が寝るベッドの横に、掛け声とともに寝そべる。男は体を拘束されており、ベッドをスペースを貸し渡すことはできなかったが、全く問題はなかった。青い髪の男は宙に浮いていた。
「側にいてくれる?」
「おうとも。太陽が昇るまで、お前の隣にいるとするさ。なんなら、子守唄でも歌ってやろうか?」
男の口は相変わらず月のように歪んだままだったが、投げられる言葉の音はどこまでも優しい。クスクスと笑う仰向けの男の額をひと撫でし、ゆっくりと歌い出した。
「スキダマリンカディンカディン、スキダマリンカドゥ、アイラブユー」
「何それ、呪文?」
赤子を寝かしつけるように腹を叩かれ、その拍子に合わせて紡がれる歌は異国の言葉のようで。思わず笑うと、歌った本人は至って真剣に「こら、寝ろって言ったろ?」と嗜める。
「『朝も昼も夜も、お前を愛している』、そんな意味だよ。」
ゆっくりと、ゆっくりと青い髪の男は言葉を紡ぎ続ける。静かな呼吸音とともに腹が上下するのを認めると、そっと歌を止めた。
「お前が望めば、こんなところから連れ出してやれるのに。」
右手で男の手を、左手で頬を撫でながら、同じく青く光る尾で、柔らかく腹を叩いたまま、そっと額にキスを送った。
「おやすみ、俺のアリス。朝も昼も夜も、お前を愛している。」
「すきだまりんかでぃんかでぃん、すきだまりんかどぅ!」
「おっはよイライ。なんかごきげん?」
相変わらず頭に鍋を被った男が、たどたどしく歩く男をイライ、と呼び止める。
「おはよおノートンくん、ごきげん?」
鸚鵡返しに小首を傾げて返せば、パスタ鍋を被った男、ノートンが上体を大きく揺さぶりながら笑い転げる。遠心力に任せて鍋からトマトソースが溢れ、イライの白い服を汚した。
「あははははははは、ごきげんだよお!きょうもせんせからこれ、わけてもらったからね!せかいがきらきら、ほうせきみたい!」
ノートンは空中に手を伸ばし、何かを掴みそのまま口に運ぶ。飲み込んだ様子は見られず、次々と何かを掴んでは飲み込んでいった。
「あははははは!ほうせき!おれの!おれの!だれにもあげない!」
「だいじょうぶ、だーれもとらないよ。」
体を左右に揺らしながら、イライはノートンの行動を理解しているのかしていないのか、どこか上の空なまま言葉を返した。
宝石の所有権が己にあることを証言されたパスタ鍋もといノートンは、ぎらぎらと瞳を輝かせたまま、イライを力任せに抱きしめた。
「いらい、やさしい!すき、あいしてる!」
「すきだまりんかでぃんかでぃん、だねー。」
腕の中にされるがまま収まっていたイライは繰り返し歌い出す。ノートンの眉が訝しげに跳ね上がると、嬉しげにハグをした彼の機嫌が急降下した。
「……なにそれ、たからのあんごう?おれがほうせきをいっぱいもってるって、だれかにおしえてるんでしょ。」
「んーん、うただよ。」
ハグから拘束に変わったその中でも、イライには痛覚などないようにへらりと笑う。
「うた?ここにうたをおしえるようなやつなんか、いないだろ。」
「んー、だれかな、あ、ねこさん。」
「ねこ?なに?あんごう?おまえやっぱりほうせきをねらってるんだろ!」
馬鹿力のノートンに前後もなくガクガクと揺さぶられ、そのまま談話室の机にぶつかった。音に怯えた他の住人の叫び声が重なる。騒ぎを聞きつけた者らがそれぞれを捻り上げ、ノートンの口に何かを入れると、鼻息荒く暴れまわっていたノートンが途端に大人しくなった。
「すきだまりんかでぃんかでぃん、すきだまりんかどぅ、えーと、なんだっけ。」
イライの呟きは誰にも拾われることはなかった。
おしまい!