3.1 ウィンター
久方ぶりの昼からの非番。年末に向けて忙しいものの、基本的に輪番を組んでのルーチンワークだ。勤務時間を終え、ロッカーで着替える。配属先の中央警察署から東京駅へ向けて電車を乗り継ぎ移動し始めた。
明日は週末だから地方の友人が私に会いに来てくれる予定だ。
折角、地方から来るのだからと昼過ぎに合流する予定だ。少しでも長く一緒に遊びたいから東京駅に迎えに来ている。
友人とメッセージアプリで連絡を取り合っているが、時計を見れば友人が着くまで後、一時間はある。外は寒空でほうと吐いた息は白く結晶化する。寒くない様にとコートを着てはいるが一時間、外で立って待つのに耐えられる程の防寒性能はない。
コーヒースタンドが目に入る。湯気が立っているコーヒー。ついでに今日は朝早くからの出勤だったことを思い出す。ふわあと欠伸を出す。寒いのに眠たい。何とも言えない状況だ。
とりあえず、この眠気だけはどうにかしよう。ついでに暖も取ろうとコーヒースタンドに入った。
金曜日、平日の日中帯だ。少し込み合ってはいるもののすぐにコーヒーを買えた。店の駅側に面した部分はガラス張りになっており、足の長いテーブルと椅子が設置されている。丁度空いていたその席に腰かけた。特にすることもない。人の観察でもしよう。
年度末の忙しい時期だ。例年は何かあるといけないからと非番でも体力温存に努めるが、今日の休みは友人が来るからと調整した取ったものだ。この休みを潰したくなくて何時もより気を張って仕事をしていた。
だからか。ぽっかりと空いたこの一時間を持て余してしまう。
忙しい時にぽっかり出来た暇を持て余す。普段は考えないことも考える。そういえば、私は何故、警察官になったのか。そう考えて近所のかっこ良いおじいさんを思い出す。私のヒーローで憧れだった。私はそのおじいさんが元警察官と知り、警察の仕事を志したのだ。
おじいさんはきっちりと背中が伸びた人で人当たりの良い。けれど不正を許さない。そんな人だった。
……そういえば、と警察学校時代に同じようにきっちりと背中が伸びている人が居たな。と思った。
確か、名前は降谷零だったか。成績は実技、筆記ともに優秀だった。純日本人と言うには褐色の肌。亜麻色の髪、青い瞳はとてもイレギュラーで、よく同級生から何かしらを言われていたか。
本人は、まだ若かったからか、律儀に言い返したりしていたように思う。
見た目も頭も良い。正義感もある。そんな青年だったか。
彼は警察学校時代、彼女はいないが、彼に惹かれて告白する相手にはすぐに断っていたと聞く。
授業に関することであればきちんと対応してくれた憶えがあるが、それも事務的でどこかとっつき難い印象があったのだが……。そういえばと思い出す。そんな印象の彼だったが、一度だけ、身近に感じたことがあったな。あれは何時そう、思ったのか。うーんと記憶を漁る。直ぐには出てこない。何て言っても卒業してから数年経っているのだ。致し方ないと思って欲しい。けっして老化ではないと自分を信じている。
問題児が多かったと言われている私達の代だが、同期の仲は悪くない。頻繁に連絡を取り合い、結婚式に出席したりもしているが、降谷零が結婚したとは聞かない。
ふっと東京駅の方を見る。私が降谷零のことを思い出したからなのか。目の前には私服姿の降谷が居た。
ああ、彼も非番なのか。配属先は人事情報を見ても出て来てはいないが、聞かないがこの時間に私服姿で一人居るのだ。大方非番と見て間違いないだろう。
きょろきょろと時折、視線を人込みに向かわせることからして、人と待ち合わせてもいるだし、おそらくあたっているだろう。
相変わらず、生真面目なのだろう。表情は隙がない。警察学校時代、その顔があまり得意ではなかったのだが……。
ふわり。一人の女の子を視界に入れてその表情が和らいだ。そこであっと思い出した。この表情は警察学校に居た時も一度みたものだ。ああいう表情もできるのだ。と当時は思ったものだが……。やはり顔の作りがいいからああいう表情をすると華やぐな。とテレビ越しに人を見るような感想を抱いた。
3.2 冬
年の瀬近づく今日。久しぶりの非番だ。
午前中に終業式以外は予定がないという新一を誘い、久しぶりに一緒に出掛ける。本当なら僕が車で出かけたかったけれど、目的地が目的地だからと東京駅で待ち合わせた。ここなら僕の職場からも近いから正直ありがたくはあった。
「零にーちゃん?」
「にーちゃんはやめて……」
「うん。零くん」
にっこり、嬉しそうに新一が笑った。
横に立つ新一の手を取ればひんやりとしている。
「新一? 今日、此処に来るまで何処かに居た?」
「うん。元太達がサッカーするっていうから少し付き合ってから来た。電車の中あったかいから大分温まったと思うけど、零くんの手のがあったかいや」
ぎゅうと新一が僕の右手を温かそうに握った。昔はとても小さかった手だが、今も僕に比べれば小さく頼りない。ゴツゴツとした僕の手よりずっと小さく、細く、すべすべとしている。その手の柔さに新一が小さな女の子から少女へ、そうして女性へと変わってきていることを理解して、一人罪悪感を憶えた。
「君ねえ。今日まで学校だっただろう?」
「早く終わったけどな」
「それで? スカートでサッカーをしたのか」
「小学生のサッカーぐらいなら大丈夫だって」
新一に口うるさく接することでその罪悪感を払拭しようとする。母親みたいだな。とは思うが、当の新一はまた、零にいちゃんが何か言っているなあ。くらいの気持ちなのだろう。苦笑いをするだけだ。
「あのねえ。ほら、頬を真っ赤にして」
「そら、外で走っていればこれぐらいは……」
まだ、赤いままの頬が気になった。そっと頬に手をやれば新一はふっと目元を緩めた。下がった眉に反して上がった口角。ここのところ、僕の知らない表情もするようになった。大人、になってきているのだろう。それは分かるが、僕の知らない新一になっていっているようで、僕の手の届かないものに変わって行っているようだ。怖い。感情が湧き上がる。何故その感情が出てくるのか。よくわからない。けれど確かに怖い。
「汗は……?」
「大丈夫だって、ちゃんとコートもジャケットも脱いで走ったから……」
また、僕は逃げる。新一の体調を気にして状態を確認すれば、より不安になる回答をもらう。それは外は暖かくしているかもしれないが、下着であったり、シャツ何かは汗に濡れているのかもしれない。
はあと溜息を一つ吐く。僕は首元に巻き付けたままだったマフラーを左手に取り、少し不格好だったが新一の首元に巻いてやる。
「だから、冷えているんだね」
「いやー、まあ?」
「こら、誤魔化さない」
そっぽを向く新一に兄として出来る最大限の苦言を零した。新一はバツが悪いのだろう。
するり。新一の両手は僕の右手を捕まえていた。そのうちの右手を離し、僕の巻いたマフラーを整え、ぎゅっと握った。
「怖い顔をしている零くんは嫌だなー?」
「そうやって……。コラっ」
さらに誤魔化そうとする新一を叱りながら、寒いのは確かなのだろう。制服のままだから、足は生足のままだ。此処でする話ではなかった。僕は一度この話題を切り上げることにする。新一の頬を撫でていた左手を新一の肩に回して、抱きよせてやれば僕で暖を取れるだろうか。
そう思いながらも左手を新一の肩に伸ばすことはできない。擬似的とはいえ、兄と妹と呼べる距離感ではないからだ。
「はあ……。新一、ほら行くよ」
「やったー」
新一の左手は僕の右手で暖を取っている。そのままその手を握り目的地に向けて歩き出した。
恋人同士ならば指と指を絡めて繋げるのだろうけれど、新一と僕は兄と妹のような関係だ。そうやって手を繋ぐには不自然だ。だから、幼い頃から変わらず、互いの手の平を握り合い、手を繋いだ。
新一の靴は良く磨かれた飴色で、その上には帝丹高校の制服を纏っている。まだ十七歳で、僕は二十九歳。新一は高校生で僕は警察官だ。
「そんなに楽しみだった?」
「もちろん! シャーロックホームズ展だぜ!」
「そうだね」
「今回は貸し衣装もあるみたいだし、それも絶対に着る!」
「写真は任せてね」
ほら、それに僕を見て笑う新一の顔もまだまだ子供だ。僕のことを兄と思ってくれているから、揺るがないのだ。ああ、可愛い。この笑顔を守りたい。その気持ちは僕が高校生の頃から変わらない。大切な気持ちだ。
警察になり、公安警察として配属されて納得して受けられる任務ばかりではなかった。そんな時、心のよりどころは新一だった。弱い。と自分でも分かっている。二十三歳だった自分は嫌なことがあれば十一歳の新一を思い出し、新一のために繋がると思い、いやな仕事も自分にとって価値のある仕事だと意識付けをして行ってきたのだ。仕事の意味を他人の、新一のためだと勝手に定義付けるのはよくないことだ。とはわかっている。仕事の意味を自分を軸にしないことは自分の軸がズレて酷く疲れる一因になる。それは分かっている。分かっていても、新一の許可なく軸にするほど、新一が大事で自分にとっての意味だった。
「零くん。また、ぼーっとしている」
「また、じゃないよ」
「きちんと休憩とか、休みとか、取れてるか?」
「これでも公務員だからね。それなりに」
にこりと笑って返す。嘘だ。もちろん休んではいるが、急を要する物であれば駆り出される。代休だったはずの日だって、休日出勤の扱いで時間をお金で買われるだけだ。物理的な休みはそうやって削り取られていく。
「うーん」
「ほら、そんなところに頭を使わなくて良いから、ほら行くよ。楽しみにしていただろう?」
変な気を使い始めた新一の脳みそを切り返させる。
「うー。まあ、そうなんだけど……」
「それに、折角の休みだ。仕事のことは思い出したくない。一人だと思い出してしまう」
「それで? 俺となら思い出さないって?」
「まあね。ほら、だから僕の息抜きに付き合ってくれるかな」
「うっ……。分かったよ。何かそういうとこ、ずるいんだよなあ」
「はいはい。ほら、行くよ」
「はーい」
時間的休みは確かに取れない。けれど、肉体的な疲れは精神的なものに引きずられる。体力作りを怠っていない。僕自身、体力は人よりある方だ。少しぐらいの無茶は問題ない。
体力の心配がないなら、後はメンタル面だけ。それも自分一人であればぐだぐだと色々考えてしまうが、この幼馴染が居ればそれもない。それに、横で屈託なく笑ったり、怒ったりする姿を見ればそれだけで僕の癒しになってくれる。年末の忙しい時期だからこそ、最高の栄養ドリンクとして働いてくれる。
3.3 ウィンター 2.2 サマー
目の前を通り過ぎていく同期を横目に私はコーヒーを口に含んだ。
ふと、同期をトリガーに学生時代のことを思い出す。警察学校の卒業式。今、思えば連帯責任やら、寮生活での点呼やら、どれも煩わしかった。けれど、近年稀に見る問題児ごとばかりを起こす期だったからか、退屈はしなかった。その筆頭が目の前を歩いていった降谷零だ。入学、卒業式共に総代を務めた降谷だが、金髪の髪、褐色の肌。人目を惹き、色合いだけで見るならば少しチャラそう。だとか、そういう印象を受けるが実際は違って、近寄りがたくもあった。
窮屈な生活の中で強烈な印象を与える人間だったが、退屈な生活の中で色恋のような噂話を提供することはなかった。そういった役割は萩原研二の役割だった。何時も降谷の表情はしかめっ面か、真顔が多かった。その表情が和らいだのを見たのは先ほど思い出した通り一度だけだ。
あれは、入学して少しか。突き抜けるような青い空。入道雲が浮かぶ。真夏日和だった。肌を焼く日差し、垂れる汗を袖口で拭うぐらいに暑かった。汗でくっついたシャツが気持ち悪くて決まった時間にしかシャワーを浴びられないのを呪ったものだ。涼を取ろうと木陰に避けて息を吸い込んだけれど、熱い空気が肺を焼くような感覚に絶望したものだ。なんたって当時、寮にはエアコンがついていなかったのだ。お陰で休日のその日、涼を取るために外出をしていたのだ。寮から出て少し喉の渇きに耐え切れず、そのまま公園に逸れて東屋のような作りのベンチの下に腰かけた。途中でペットボトルの飲み物を手に入れてごくごくと飲み下していた。
ふと視界の端、あまり見かけない色合いの人を見かけて、つい、凝視した。
褐色の肌。亜麻色の髪の降谷零。その人だった。外出だからだろう。スーツ姿……その時はクールビズはそこまで浸透していなかったからネクタイ抜きのジャケットを着ていた。太陽の日差しの下に立って、暑いだろうに暑さなんて少しも感じさせなかった。
一人とは珍しい。一人でもあの不愛想な表情なのか。と思ったが違った。ふっと眉を下げたのだ。
……!? 飲んでいたペットボトルから口を離しすぐにキャップをして、凝視をする。目の前のといっても降谷は五十メートル以上は離れた場所に居る。こちらは降谷より視界が上のところに居るから早々向こうからは分からないだろう。つい、そういった甘えを持って降谷の観察を続けた。
降谷の目の前には小学生高学年くらいか。子供が居た。女の子か。男の子か。じっと観察をする。首元で切りそろえられた髪。微かに膨らんだ胸。多分、女の子だ。それにとびっきり可愛い。そのあたりのティーンモデルも素足で逃げ出すレベルの。
陽の光の下、女の子は艶々の黒髪を揺らして降谷に近づいていく。ねえ、大丈夫? その人、警察官だけど何歳も年上よ。知っている人なの? と。脳内で警察官志望の私が変なおせっかいを始めた。
まあ、普段の降谷の行動から見ても大丈夫なのだろうけれど……。
その子供はにこにこと降谷に向けて笑顔を崩さない。対する降谷もふわりと柔らかく微笑んだ。
百九十近い男と百六十センチもないだろう少女が一緒にいるのは少し不思議だったが、少女の気を許した様子と降谷の優しい表情から近しい仲なのだと分かる。
降谷は嬉しそうにしている少女の頭を撫でて落ち着かせた後、子供を連れて何処かへ行ってしまった。
うーん。あの表情。写真にでも撮影してやればキャーキャー言ってる同期連中に売れたかな。だなんて思ったものの、スマホで撮ってもそう綺麗には撮れないから商売にはならないという冷静な突込みを脳内で入れた。
私もベンチから腰を上げて公園を後にした。目指すは近くの複合ショッピングモールだ。そこで涼を取るのだ。
1.0 夏
秋空を切り抜くドーム型の遊具の中、十五歳の降谷は居た。土曜日の昼間。越してきた東都には友人が居ない。遊ぶ友人もおらず、古ぼけた団地の家に一人、留守番する居心地が悪かった。かといって、近所の人間が居るだろう。近くの公園に一人で行く勇気はなかった。だから十五歳の自分が自電車に乗り、出来る限り遠くの公園を目指していきついたのがこの公園だった。此処まで走ってきたのは良いのだけど、季節は秋。降谷の家は決して裕福とは言えず、降谷に与えられた服は私服はどれも半袖半ズボンのものだった。中学生の降谷が着るには恥ずかしかったから、制服のズボンを穿き、上だけ半袖のTシャツを着て出かけていた。
遊び相手の居ない秋、日中帯と言えど木枯らしが吹けば寒い。寒さを凌ぐためにと降谷はドーム型の遊具の中に入っていた。
「おにいちゃん。だれ?」
お前こそ誰だ。突然聞こえてきた声に返答で生意気な返答をする。声は後ろの方からした。
「僕は……」
それでも律儀に振り返った。
「おにいちゃんは?」
「降谷零だ」
「ふりゅやれぇ?」
振り返った先に居たのは十五歳の降谷からしてみれば随分小さな子供だった。
黒髪。ピンク色に色づいたまろい頬。降谷のよりずっと青く大きな瞳。ピンク色の小さな唇。ぷにぷにの小さな手を遊具の入り口につけている。こちらに入ってくるつもりなのだろう。まだおぼつかない足を一生懸命、遊具の縁に引き上げている…が、話すことで足元に疎かになっているのだろう。
ふらり、倒れ込むようにしてこちらに傾いた子供を降谷は支えることで転ぶのを防止した。
「あいがと!」
「どういたしまして、危ないよ」
自分がこけそうだったのをきちんと分かっていたのだろう。子供は降谷にお礼を言った。
「あぶない?」
「うん。歩くのと話すのどちらか一つにしないと危ないよ」
降谷が何に対して危ないと言ったのか分かっていないのだろう。首を傾げた子供に分かるように降谷が危ないと思った部分を説明する。子供は降谷の言っていることを頭の中で反芻しているのか。むーっと少し考えた後、口を開いた。眉間には一丁前に皺まで寄せている。
「どっちか?」
「そう、どちらか」
どちらかしか駄目か。と聞く子供にどちらかにしておけ。の意味を込めて返せば子供はうーっと少し唸った。かと思うとうんうんと唸り、何かに閃いたらしい。パっと表情を明るくして降谷を見た。
「じゃあ、れーちゃんとあそぶー」
いきなりの零ちゃん呼び。まあ、でも見る限りこの子は小さな子供だ。怒ってはいけない。このぐらいの年齢であれば同世代をちゃん付けで呼んだりもするだろう。降谷はそう自分を納得させることにした。
「僕と遊ぶのか……。でも、君のお母さんはどうしたの?」
「かあしゃん……? いっしょにいる……よ」
と後ろを振り向いたところで後ろは子供が入って遊具の入り口だ。その先には公園の芝生が広がるばかりだ。人影などない。
「かあしゃん。いないー」
泣くか。そう思ったのだけど、予測に反して、子供はきょとんとしただけだった。不思議そうに入り口を見つめるばかりだ。
「そうか。僕は零だけど、君は?」
「うーん? くどうしんいちー」
「新一は何歳?」
「しんいちは三歳!」
得意気に突き出された指は二本しか立っていなかったけど、降谷は新一の自己申請の三歳を信用することにした。
「そっか。ほら、母さん? が一人だと心細いかもしれないから、探そうか」
よいしょと降谷は子供を抱いたまま、立ち上がる。こんな遊具の中に居たら新一の母親も新一を見つけられないだろう。ひとまず遊具の外に出て新一の母親を探すことにした。
遊具の外に出て、公園の時計を見て見れば時刻は二時になっていた。あのドームの中に入ってあまりたっていない。木枯らしは入る前と変わらず吹いているのだけれど、腕の中に居る子供の体温が温かいからか、そう苦ではなかった。それに今は寒い暑いよりも気になっていることがあある。新一の母親のことだ。降谷は新一の母親と会ったことがあるわけではない。周囲にはチラホラと新一の母親でもおかしくない年齢の女性が居るが、誰が母親かはわからない。
「母さんは居るか?」
「うーん。いないー」
きょろきょろと回りを見渡して新一に聞くが新一は頭を振るばかりだ。…降谷の背中にひやっとした汗が流れる。これは、正真正銘迷子のようだ。
「母さんの居る方向は分かるか?」
「うん! わかるー!」
この小さな新一が分かっているとは思えなかったけれど、聞いてみれば新一なりに覚えているのだろう。こくりと頷いた。
「そこまで案内できるか?」
「できるー!」
新一を地面に下ろした。新一は降谷が伸ばした手を握り締めた。
「じゃあ、案内して欲しいな」
「うん! 任せろー!」
そのまま、降谷の手をぐいぐいと引っ張り母親がいるらしい方向へ向けて歩き始めた。
「新ちゃーん」
程なくして母親だろう。新一を呼ぶ女性の声を聞き、降谷はほっとした。
「かあさーん?」
新一も母親が自分を呼んでいるのが分かったのだろう。呼び返している。
「あー! 居た! また一人で歩いて。危ないのよ」
「危ない?」
パタパタとこちらに走ってくる母親の言葉の一部を反芻して、新一は不思議そうにしている。きっとまだ危ないの意味がわからないのだ。
「そう、さっきもこけそうになっただろう?」
「うん」
なるほどと新一が頷いている。多分、新一の母親が言う危ないというのは別の意味合いもあるのだろう。けれどまだ幼い新一が正しく理解できるわけでもないだろう。これぐらいで丁度良いのだ。
「うちの新ちゃんがごめんなさい。お世話になったみたいで…」
「いえ」
新一の母親だろう。その人は新一の頭を一撫でして、降谷に礼を言った。降谷は特に何もしていない。したことと言えば遊具からここまで新一の手を繋いで歩いてきたぐらいだ。その新一は母親が近くに居ないことに気づいても泣かなかったし、子供特有の癇癪も、話しの通じないということもなかった。特に何も困ってはいない。
「新ちゃん。今日はもう帰ろうか」
「えー」
新一の母親は新一の前に身体をかがめ、新一に話しかけている。
新一は降谷の手をぎゅっと握り、イヤイヤと頭を左右に振っている。
「まだ、れいちゃんと遊んでない」
「れいちゃん? あっ、ごめんなさい。私は工藤有希子よ。貴方のお名前ね?」
「はい。降谷零と言います」
「零ちゃんね」
この親にして、この子あり。有希子さんも降谷をちゃん付で呼んだ。
「あの、男なので、ちゃん付はあまり……」
嬉しくない。という言葉はじーっと降谷を見る新一の視線に耐えかねて言い損ねた。
「れいちゃん?」
「れいちゃんで良いよ」
はあと溜息を吐いた降谷に有希子はにっこり笑った。
「うちの子がごめんなさい。零くんはこの後、予定があるかしら?」
「いえ……ないです」
「良ければこの子と遊んであげてくれないかしら、といってももう二時だから……近くの喫茶店にでも一緒に入らない?」
「喫茶店? いえ、僕はお金を持っていないので……」
「そんなの要らないわ。この子、すぐに何処かへ行っちゃって……。何時もならもっと大変で…。だから今日は本当に助かったの。お礼も兼ねさせて欲しいわ。新ちゃんも零くんと遊びたいわよね?」
「うん!」
「新ちゃんも喫茶店でも良いわね?」
「うん?」
「じゃあ、喫茶店に行きましょうー」
新一の返答が疑問形でしたけど大丈夫ですか。という言葉は飲み込んだ。話がややこしくなる気がしたからだ。まあ、今日の一度ぐらいだろう。降谷は今日は有希子の言葉に甘えることにして近くの喫茶店に入った。
それから、送っていくという有希子の申し出は丁重に断り、しばらくその公園には行かないでおいたのだけど、生活圏が微妙に被っているのか。
道端で、スーパーで、駅で、新一と有希子さんと会うことがあった。新一は降谷に懐いたのか。その度に嬉しそうに降谷に手を振ってくれた。降谷は東都に引っ越してきてからそうして自分に接してくれる人間が居なかった。だから、新一が降谷に会うたびにそうして接してくれるのが嬉しいと思うようになっていた。時間が許せば降谷と遊びたいとせがむ新一のお願いを聞き入れて公園で遊んでいったりした。
季節は一巡し、二巡していた。それでもまだ降谷の親は転居をしなかったから、降谷は東都に居て、何時しかその頃には週に一度程度新一に会うようになっていた。場合によって近くに親戚が居ないから新一を任せられる人もいないという有希子の言葉を聞いて家にあがり、新一の面倒を見たり、有希子に料理を教えてもらったりもした。新一は降谷のことを零にいちゃんと呼び、後ろをついて歩くようになっていた。ああ、妹が居たらこんな感じなのだろうか。降谷を信用しきって後ろをついて歩く新一が可愛くて仕方がなかった。新一に意地悪をする奴が居ると聞けば腹立たしく思った。(大抵、新一か。新一の幼馴染が仕返しをしていたので降谷が出る幕はなかった。)
五歳になった新一は絵本から普通の本に興味を持つようになっていた。降谷でさえ読むのが難しい本を手に持ってうんうんと唸る新一を膝の上に乗せて、新一の分からない漢字を読んでやったり、意味を教えてやったりし、そんな穏やかな時間を過ごしていた。降谷自身、勉強が嫌いではなかったし、そうやって新一が降谷に漢字の読み方、意味、物語に出てくる物が何か聞くから降谷も意識して本を読み、知識を蓄え新一に教えるようにした。だから、新一が本を読む横で降谷も工藤家の本を貸してもらい、読書に励んだ。
そうして知識を蓄えてからか。降谷は高校を出て、奨学金を借りて大学に進学することも出来た。その後の就職もだ。
2.1 夏
降谷は今、二十三歳だ。希望通り、警察官になり、今は警察学校に居る。警察学校では幼馴染のヒロが居て今までより幾分か過ごしやすかった。それでも……。あれから九年近く降谷の近くに居た新一に会えないのは少し寂しかった。警察学校の寮生活に慣れるまではと規制されていた休日の外出もゴールデンウィークを開ければ解禁になる。
僕は今時珍しいガラケーの電話帳から新一の電話番号を呼び出して、ショートメールを打ち込んだ。
新一は小学生だが、土曜、日曜は基本的に両日潰れることはない。どちらかは確保できるだろう。
僕の考えの通り、新一との約束を取り付けられ、最初の外出の日の土曜日に新一と会う予定をつけられた。
良く晴れた土曜日。今日は、今年初めて三十度を超えるらしい。長袖のスーツは熱い。だが、警察学校に居る関係でこの服を着ての外出を義務付けられており、着衣を替えてはいけない。暑いのを我慢する。小学生の新一を警察学校の近くまで一人で来させると言う選択肢はない。僕は米花町の最寄りの駅で新一と待ち合わせることにした。
「零ちゃん?」
「零ちゃんは流石にやめてくれ……」
「そっか。零にいちゃん?」
それはそれでどうなのか。という言葉はぐっと飲み込んだ。何がどう駄目なのか。新一に聞かれたら上手く答えられないからだ。僕はその呼び方に変わることを容認した。新一と僕とでは肌の色、髪の色と大分違いはあるが、瞳の色は少し近しいものがある。想像力が豊かな人間だったら従兄ぐらいに勘違いしてくれるかもしれない。
「零にいちゃん。お願いがあるんだけど?」
「何?」
「暑いからアイス買って良い?」
「もちろん」
じっと新一の目は僕の額にむいている。じわじわと皮膚の汗腺からにじみ出た汗が大きな塊になり、額から流れたことで僕自身が汗をかいていることを自覚する。この子は敏い子だ。僕が暑そうなのを悟ったのだろう。
「何が良い?」
「俺、コレ」
米花町の何時ものスーパー。新一が指さしたのはいつも通り、シンプルなコーヒーチョコのアイスだ。新一は僕にアイスを選ばないのか。とは聞かない。新一の選んだアイスがあるからだ。このアイスは一つのパッケージにチューブ型の容器が二本繋がるようにして入っている。何時も新一はその片一方を僕にくれるのだ。
「はいはい」
あの時、出会った公園。木の陰になったベンチに新一と僕が隣り合って座る。暑いからだろう。つかず離れずの距離を保ったままだ。ああ、いつも通りだ。
チラリ。新一を見る。いつも通り、暑いからだろう。襟ぐりの開いたシャツ。新一の額から伝った汗が頬、顎、首元を通り、胸元の中へ消えていく。じわりじわりと襟ぐりを濡らしていく。
「新一」
「なにー」
「それ食べたら、図書館に行こうか」
「んー」
ちゅうちゅうと頬を凹ませて吸い込まれていくアイスも残りわずかだ。新一がこくんと頷いた。いつも通り新一が隣に居て、十四歳のあの時から変わらない日常を感じる。ふと何時の間にか入れていたのか。肩の力が抜けたのを自覚した。
それからも新一は可愛い妹だった。小学生から中学生へ。二次成長を迎えたって新一はボーイッシュな格好を好んだからか。僕にとっては可愛い妹だった。
少し、胸が膨らみ始め、頬が女性らしいまろみを帯びていく、その一つ一つを見て、ああ、成長しているな。そう思うことはあった。けれど、何時まで経っても新一は僕にとって可愛い妹だ。
「零にいちゃん」
にこっと笑う新一は僕を全幅の信頼を寄せている。この笑顔を裏切ることが出来るだろうか。
3.5 秋
「零くん」
そう、新一に呼んでもらうようになってから、春が過ぎ、夏も過ぎ……。
あれ程まで暑かった。夏が終わることを知らせるように
あれから。どれだけ経ったか。僕が社会に出て歳を取るたびに新一も歳を重ねていった。