『静かの海』(黒縁)
「寂しい」「冷たい」「月見」
    見上げれば、そこに赤い天満月が浮かんでいた。
     宵闇の天井に禍々しく輝きを放つそれを見上げていると、頬を冷たいものが伝っていく。ぶらりと体の横でぶら下がっている手には、おぞましく変じた日輪刀が握られていた。ポタ…ポタ…と鮮血が刃をつたい滴り落ちる。
「…………?」
ーーなぜ、血が刃についているのか。
    ぼんやりとする思考の中で、はたと血で汚れる己の刀を見る。赤い月夜から徐々に意識が戻っていき、自分の足元に視線をやる。そこには、無残にも斬り捨てられた、醜く嗄れた老剣士が打ち捨てられている。
「(……私は、この老人を斬ったのか)」
     己の剣技を高めるため、更に磨きをかけるために、【青い彼岸花】を探しながら各地の剣豪や使い手達を手にかけてきた。そして、斬った者達の血肉を喰うことによって、よりいっそう己の力へと変えていく。ーーなれば、この老剣士もその内の一人なのだろう。残念なことだ。せっかく刃を交えたというのに、ひどく記憶が朧気なままだ。
「(顛末なこと……野犬どもが来る前に、喰ろうてしまおう)」
    その老剣士の亡骸を喰らうため、ゆるゆると気怠い足を半歩踏み出した。ピチャリと赤い血溜まりに草履が濡れる。ああ、勿体ない。こんなに血が流れてきているのか。また半歩、崩れ落ちる老剣士の腕に手を伸ばし、上半身を持ち上げる。カクリと首が動き、俯いていた顔が顕になった。白髪の総髪な老剣士。額を彩る、己によく似た痣。…………己に、よく似た、痣…………
「ーーは、」
それは、老耄た双子の弟ーー縁壱の亡骸だった。
「……は、ぁ、」
   冷たくなった弟の身体から手が入る離れ、ドチャリと音を立て血溜まりに落ちる。ふらりと一歩後ろへ下がる。カシャリと手から刀が離れ、また一歩後退った。己の口元を抑えるようにあてがわれた手は、無様にもカタカタと震えていた。
「(俺が、縁壱を殺したのか。あの、弟を、この手で)」
それで良かったはずだ。憎くて仕方がなかった弟、殺してやりたいと思った肉の片割れを、ついに手にかけることができたのだ。喜ばしいはずだ。精々としているはずだ。ーーそれなのに、この胸にあるのは。
「…………っ」
    ポタリと頬を伝う熱いそれが不愉快で、乱暴に手で拭う。しかし、拭っても拭っても溢れてくるそれの出処を確かめるために、指で触ってみれば己の人間だった頃の両目からだった。そこでやっと、私は自分が泣いていることに気がついた。
「(悼んでいるとでもいうのか、弟の死を)」
    そんな自分が信じられず、馬鹿げた考えを笑い飛ばそうとした。そのとき、チラリと視界に巾着ごと真っ二つに斬られた笛が、コロリと地面に落ちていた。それを目にした瞬間、ぐぁっと目頭が熱くなり、ぐつぐつと煮えた湯を飲み込んだかのように喉を焼いた。
「(もうやめろ。私はお前が嫌いだ)」
   お前の声を聞くだけで顬が軋み、その顔や姿を見ただけで吐き気がする。昔から目障りで妬ましくて仕方がなかった。私よりも遥かに優れた剣技をもち、人格者となっていたお前が、心底厭っていた。私は、俺は、お前に【兄】として慕われるような人間ではないのだ。それなのに、ああ、それなのにーー
「(そんなガラクタ、さっさと捨ててしまえばよかったのだ。そんなもの、お前には必要ないはずだ。必要なかったはずなのに、ずっと、ずっと、持っていたのか)」
   じわりと視界が涙で滲む。そんな資格さえ、私にはないというのに。バラバラになった弟の亡骸を見下ろしながら、己の中で荒れ狂う感情に翻弄されていた。赤い月夜の月光が、弟の亡骸を照らす。
「(此奴を、弟を、野に晒すのか)」
そうして、野犬に喰われるのを見過ごすのか。雨風に晒されて朽ちていくのを待つのか。あの神々に寵愛を一身に受けた男を、唯一無二のような男を、俺のたった一人の弟をーー。
「ーーなぜ、できぬのだろうなぁ」
お前を弔ってやるのが正しいのだろう。荼毘に付し、極楽へ送ってやるべきなのだ。それが、【兄】としての正しき在り方なのだろうよ。けれど、それもまたーー。
「なぜ、できぬのだろうなぁ、縁壱」
   お前が嫌いだった。妬ましかった。けれど、お前は知らないのだろう。俺が、お前の姿を思って何度も自身を慰めていたことなど。歪んだ思慕を抱いていたことなども、お前はちっとも知らないのだろうよ。
「(お前の血肉が私の一部になる。そう考えて、歓喜した男など【兄】でもなんでもない)」
愉悦に満ちた口が歪に上がる。おもむろに手を伸ばし、弟の腕を持ち上げた。皺だらけのそれでも筋肉のついたそれを手に取り、グチャリと血肉に
歯を立てる。
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